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第2話 吾輩は猫である。名前はまだ、教えてやらん

「――娘。飯はまだか」


 声とともに、三百年間ずっと沈黙していた丸い扉が、音もなく横に開いていく。


 祠の奥の暗がりで、月のような色の瞳がゆっくりと瞬きをするのが見えた。


 そして――『それ』は、のっそりと表に出てきた。


 四本の足。煤色の毛並み。ぴんと立った三角の耳は左の先っぽだけ欠けている。長いしっぽが不機嫌そうに地面を打った。


 絵本のあやふやな絵とはぜんぜん違う。なのに、ひと目でわかった。


「ね……」


「ね?」


「猫だーーっ!!」


「うわっ、寄るな! 抱きつくな! 初対面で首元に顔をうずめようとするな! 礼儀を知らんのか、近頃の人間は!」


 ひらりとかわされて、わたしは苔の上に顔から突っ込んだ。


 痛い。でもそれどころじゃない。いる。本物が。おばあちゃんの言ってた通りの生き物が、目の前で毛づくろいなんかしている。


「しゃべった……猫がしゃべった……」


「しゃべってなどおらん」


 猫は前足を舐めながら、こともなげに言った。


「吾輩はただ鳴いておるだけである。それがお前には言葉として聞こえるだけだ。《猫語り》――猫の声を解する人間。数百年に一度、この世に現れるという酔狂な血よ」


「ねこ……がたり……」


「その腰の鈴に吾輩は呼ばれたのだ。懐かしい音だ。おかげで三百年ぶりに目が覚めた。で、だ」


 猫は毛づくろいをやめて、わたしをじっと見上げた。


「飯はまだか。三百年ぶりの飯は」


◇◇◇


 猫は、お供え用にいつも腰の袋へ入れている干し魚三本を、あっという間に平らげた。


「うむ。及第点といったところか」


「あの、あなたは……えっと、猫さま?」


「うむ、良い呼び方だ。だが正確を期すなら――」


 猫はひげをぴんと張り、胸をそらした。


「吾輩は猫である。が、ただの猫ではない。猫の王である。敬いたまえ」


「王さま!? えっ、じゃあ他にも猫がいるってこと? どこ!?」


「……質問の順番がおかしいであろう。普通、そこは『王とは何か』と聞くところであろう」


「だって、猫がいっぱいいるってことのほうが大事だもん」


 猫の王さまは、なぜかちょっと悔しそうにひげを揺らした。


「名前は? 名前を教えてよ。わたしは祠守りのミオ」


「名か」


 猫は目を細めた。月色の瞳が、値踏みするようにわたしを見る。


「猫が真の名を明かすのは心を許した相手だけである。ゆえに――まだ、教えてやらん」


「えー、ケチー!」


「何を言う! 極めて重要なことである!」


 じゃあこっちで勝手に呼ぶもんねと、わたしは考えた。煤色の……夜みたいに黒い毛色……。


「……決めた! ノワ。あなたは今日から、ノワだよ」


「勝手に決めるな。ノワ……ノワか……ふん、まあ、悪くない響きである」


 まんざらでもなさそうにしっぽが揺れた。猫の王さまって、ひょっとしてチョロいのでは。


「時に娘よ」


 ノワは口の周りをひと舐めして、不意に真顔になった。


「カヤは……鈴の持ち主は息災か」


「え? おばあちゃんを知ってるの?」


「扉越しに、な。アレは五十年ものあいだ、吾輩に話しかけてきておった。吾輩は眠りながらずっとその声を聞いておったのだ」


 ドキン、と心臓が跳ねた。


「じゃ、じゃあ……わたしが祠に向かってしゃべってたのも……」


「全部聞いておったわ。お前は飯の話と猫の話ばかりしておったな」


「わーっ! わーっ!! ぜんぶ忘れて!」


「断る。眠っておるあいだはずっと退屈だったからな。良い暇つぶしになったわ」


 顔から火が出そうになりつつも……とりあえず聞かれたことにはちゃんと答えることにした。


「えっと……おばあちゃんはね。二年前に死んじゃったんだ」


「――そうか」


 ノワはそれだけ言って目を伏せた。


「薄々わかってはおった。鈴の持ち主がいつの間にか替わっておったのだからな」


 長いしっぽが、地面の上でゆっくりと丸まっていった。


「アレは良い声をしておった。しかしそうか……道理でこの頃、鈴の音が湿っておったわけだ」


 それはたぶん、鈴が湿っていたわけじゃなくて、わたし自身が……。


 と、そのとき、丘の下の茂みで夜鳥がけたたましく羽ばたいた。


「おわっ!?」


 ノワが跳び上がって、わたしの背中に隠れた。


「……王さまって、結構怖がりさん?」


「そ、そんなわけなかろう。吾輩はただ……そう、いつでもお前を守れるように備えたのだ」


「ふふ、ふふふ」


「笑うな!」


 だめだ、かわいい。世界のどこを探しても、こんなにかわいい生き物はいないんじゃなかろうか。


◇◇◇


 笑いすぎて涙のにじんだ目で、わたしは何気なくノワの視線の先を追った。


 ノワはすっかり落ち着いた様子で、丘の下をじっと見つめている。その先には、月明かりに照らされた麦畑があった。昼間に村じゅうを不安にさせたあの灰色の斑点が、ここからでもよく見える。


「……娘よ。ああなったのはいつからだ」


 さっきまでとは違い、低くて硬い声だった。


「今日の昼に、気づいたらああなってたの。《白蝕》っていうんだって。東の村はあれで畑がぜんぶ――」


 ノワの背中の毛がゆっくりと逆立っていく。


 三百年ぶりに姿を現したときとも、干し魚を食べたときとも、明らかに様子が違う。


 夜風が止んで、丘の草花たちがしんと静まりかえった。月に薄い雲がかかり、畑の灰色は闇の中でぼんやりと白く浮いて見える。まるでそこだけ、世界から捨てられたみたいだった。


 ノワの欠けた左耳がぴくりと伏せられた。


「……マズいな」


「え?」


「あれはマズい。娘……よく聞け」


 月色の瞳がわたしをまっすぐ見据えた。


「これ以上《白蝕》が進めば、あの村は死んでしまうぞ」

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