第1話 誰も猫のことを知らない世界で
かつてこの世界が『地球』と呼ばれていた頃、人間は猫という動物と生活を共にしていたという。
――おばあちゃんが遺した口伝の、いちばん最初の一節だ。
そして今、この口伝を本気で信じているのは、たぶんこのトト村ではわたしひとりだけだと思う。
「ミオ姉、今日も祠の掃除かよ。祠バカ!」
「バカって言うほうがバカなんだよ、テオのバカ!」
村はずれの丘の上。わたしは今朝も、三つも年下の悪ガキにムキになりながら、苔むした石の祠を磨いている。いけないいけない……わたしももう十五なんだ、お姉さんらしくしなくちゃ。
わたしが動くたび、腰に下げたおばあちゃんの形見の鈴がチリチリと小さく鳴った。祠に来るときは必ず着けること――おばあちゃんの言いつけだった。
この古い祠は、膝くらいの高さで、丸い扉がついていた。扉には歯車と月を組み合わせたような、不思議な紋が彫られている。
誰がいつ建てたのか、村の年寄りですら知らない。大人たちは「昔の道祖神さまだろう」と興味なさげに言うばかりだ。
この祠を毎朝磨くことが、祠守りだったおばあちゃんからわたしが受け継いだ仕事だった。おばあちゃんは、父さんと母さんを流行り病で早くに亡くしたわたしを、あの小さな家で育ててくれた人であり、わたしの家族の話は、それで全部だ。
ただ、おばあちゃんは言っていた。これは猫の祠で、世界でいちばん大事なものの家なんだよ、と。
「なあ、猫なんて、ほんとにいたのかよ」
悪態をつきながらも、テオはいつも掃除が終わるまでそばにいる。そして、癖っ毛の頭をふらふらさせながら、祠の紋を指でつつく。
「いたよ。三角の耳で、ひげが生えてて、気まぐれで。ご機嫌なときはね、喉をごろごろって鳴らすの」
「ごろごろ? 腹の音かよ」
「違うよ。歌みたいなものなの。聞いた人はみんな幸せになるんだって」
「なんでそんなこと分かるんだよ。見たことあんのかよ」
「……見たことは……ないけど」
そう。誰も見たことがない。
三百年前の『大喪失』の日、猫はこの世界から一斉に消えたのだという。絵本に描かれた猫は、どれも姿かたちがあやふやな想像上の獣ばかりだった。
それでもおばあちゃんは、猫の話をするときだけ、少女みたいな顔で笑った。
「ミオ。猫はね、《福》を運ぶ獣なんだよ。猫が幸せそうに暮らしている土地は、豊かになるんだ。だからね……猫がいなくなってから、この世界は少しずつ寒くなっていっているんだよ」
二年前に死んだおばあちゃんの言葉を、わたしはまだ鮮明に覚えている。
わたしが「猫はどこへ行ったの?」と聞くたびに返ってきた答えも、一言一句正確に思い出せる。
「――遠いところで眠っているのさ。起こしてくれる誰かを、ずうっと待ってるんだよ」
◇◇◇
世界が今も寒くなっているという事実を、わたしは昼過ぎに目の当たりにすることになった。
「――来てしもうたか」
麦畑のまんなかでドマ村長がうめいた。集まった村人の輪の中心に、それはあった。
灰色の斑点。
青いはずの麦の一角が、根元から色を抜かれたように白茶けている。触れた途端、穂はさらさらと灰になって崩れて、手のひらには何も残らなかった。
「《白蝕》だ……」
「東のミルデ村は、去年これで畑を全部やられたって」
「祈祷師を呼ぶか? それとも灰の教会に使いを出すか……」
「騒ぐな。刈り取って燃やす……今はそれしかない」
ドマ村長は灰色の穂を睨んで、それから丘のほうをちらりと見た。祠守りの婆さまが生きていれば何か言ったろうか――そんな顔だった。
村人のざわめきが、冷たい水みたいに広がっていく。
テオがわたしの袖を後ろから引いた。
「なあ、ミオ姉。うちの畑、駄目になんのか?」
珍しく声を抑えて不安を口にする。わたしが何も言えずにいると、パン屋のハンナおばさんがわたしたちの肩をまとめて抱いた。
「ならないよ、大丈夫……ほら、あんたたちは帰った帰った! 心配したって麦は戻りゃしないよ」
いつも笑ってばかりの人だが、その手は少しだけ震えていた。
◇◇◇
夕暮れ、わたしは気づけば丘に戻っていた。
困ったとき、ここに来るのはおばあちゃん譲りの癖だ。祠の前にしゃがんで、丸い扉に話しかける。
「ねえ、聞いてよ。畑にね、《白蝕》が来たの」
当然、返事はない。
「テオのとこの畑、危ないかもしれない。ハンナおばさんの麦も。みんな口には出さないけど……すごく怖がってる」
石の扉は相変わらずうんともすんとも言わない。
「おばあちゃんが言ってた通りなら、猫がいれば世界は元に戻るんだよね。ねえ……猫って、ほんとはまだどこかにいたりしないのかな……」
我ながら祠バカと呼ばれるだけのことはある。十五にもなって石の扉とおしゃべりだなんて。
ふと、胸の内でおばあちゃんの声がよみがえった。
『いいかい、ミオ。その鈴はね、猫とお話しするための鈴だよ。いつかひとりでに鳴る日が来たら――それは、猫のほうがお前を呼んでるってことなんだ』
いつかっていつ? 呼ばれたらどうすればいいの?
何度聞き返しても、おばあちゃんは笑うだけで教えてくれなかったけれど。
苦笑いしながら立ち上がろうとした――そのときだった。
チリン。
澄んだ音が、ひとつ。
腰に下げたおばあちゃんの形見の鈴が鳴った。
風はない。わたしは動いていない。なのに鈴は誰かに呼ばれて返事をするみたいに、もう一度鳴った。
チリン。
そのとき、祠の紋――歯車と月の彫りが、夕闇の中で淡く光った気がした。
まさか……。
息を止めて丸い扉を見つめる。三百年、誰も開けたことのないその扉を。
その奥から、低くて不機嫌そうな声がした。
「――娘。飯はまだか」




