第48話 本当の雨に必要なもの
次の日の朝、わたしたちは水門へと向かった。
雨を呼ぶ鐘が沈んでいるという〈深流域〉を、この目で確かめるためだ。リコとわたし、そしてノワを乗せた舟が先行し、その後ろにリコのおじいさんとラギを乗せた舟が続く。そして雨の神さまも、水の上を歩くようについてきていた。
土手には今日もたくさんの見物人が押し掛けており、雨の神さまの姿を見るなり歓喜の声を上げていた。
その賑やかな様子は土手だけにとどまらず、町のほうでも大勢の人が雨の神さまへ祈りを捧げているようだ。
雨の神さまは、そんな町の人たちをどこかうれしそうに眺めていた。
「見られるのは慣れてるって言ってなかった?」
「あら、いじわるなこと言うのね、声結びさん。慣れていても、うれしいものはうれしいのよ」
――そんな賑やかな光景は徐々に遠くなっていき、やがて水門が見えてくる。
水門へと近づくにつれて、水の様子が変わっていくのがわかった。
緑がかった明るい湖の水が、水門の周辺だけ暗く濃い色になっている。古い石組みのそばでは水面がゆっくりと渦を巻き、その中央では水がわずかに沈んでいた。低い音が水面の下から響き、舟にまで伝わってくる。
水面だけを見れば、それほど激しい流れには見えない。
けれど少しでも下に潜れば、たちまち激しい流れに体を持っていかれるに違いない。
「これ以上は近づけないよ」
リコが舟を止めて言う。その声からはいつもの勢いは感じられなかった。
「ここが〈深流域〉。じいちゃんに舟の乗り方を教わったとき、最初に近づくなって言われた場所」
リコが説明しているあいだに、おじいさんの舟が横へと並ぶ。
おじいさんは、杖の先で暗い水面を示しながら言った。
「水門が開いていようが閉まっていようが、ここらの水底には常に激しい水流が渦巻いている。湖の水を抜いたときでさえ、ここにだけは水が残り続ける。昔から、決して誰も近づいてはならないとされた場所じゃ」
「鐘は……この底に沈んでるってこと?」
わたしが聞くと、雨の神さまは目を細めた。
「ええ。ここからでもほんの少しだけ音が聞こえるわ。あの鐘はまだ、自分の音を失ってはいないようね。と言っても、水の音が激しくてあなたたち人間には聞こえないでしょうけど」
わたしがその言葉をみんなに伝えると、おじいさんが小さくつぶやいた。
「――雨を呼ぶ鐘が眠った日、町は歌を忘れた……か」
「なにそれ?」
リコがきょとんと首をかしげる。
「昔から我が家に代々伝わってる言葉じゃ。わしも子供のころに聞かされた。意味はよくわからなかったが……そうか。歌というのは、鐘の音のことじゃったのか」
三百年も経てば、どれだけ大事なことであっても、次第に忘れられていってしまうのも仕方のないことなんだろう。
それでも、全部が消えたわけではなかった。町の人たちが戸口に掛けた鈴も、雨が降るとみんなを温めてくれる屋台〈雨やどり〉も、神殿をきれいに掃除する習慣も、ちゃんと町に残り続けていた。
そのおかげで、わたしたちは雨の神さまを起こしてあげることができた。
――あれ、でも……それならどうして……。
「……どうして教会は、鐘を湖に沈めたんだろう? 本当に鐘を消したかったなら、壊してしまえばよかったのに。神殿だって、壊すわけじゃなく、あくまで封印するだけだったし。教会の人たちの本当の目的って……いったいなんなのかな?」
わたしがふと口にした疑問に、雨の神さまは何も答えず、ただじっと〈深流域〉の水面を見つめるだけだった。
◇◇◇
とりあえず水門の様子を確かめることができたので、わたしたちはひとまず町に戻ることにした。
そしてその帰り道、雨の神さまが湖の中央でふと立ち止まった。
「――本当の雨を取り戻すために必要なもの、教えてあげる」
わたしは聞いた言葉を、そのままリコたちへ伝えていく。
「必要なものは三つ。まず一つ目は、わたしの力」
雨の神さまが、しっぽで水面を軽く叩いた。
「まだ起きたばかりでほとんど空っぽだから、今すぐには使えないけどね。でもそのうち回復するから、そこは大丈夫よ」
言われてみると、雨の神さまは起きたばかりのころより、毛並みに艶が戻っているように見える。
「回復って……寝て体を休めるとか? あ、でも今までもずっと寝てたんだし、それで力がなくなってたんだから違うか。じゃあ……あ、わかった、食事だ」
「ふふ、ご名答。でも力を回復させるには、普通の食事じゃだめなの。そこでわたしが食べているのが――音よ」
雨の神さまが、土手へ顔を向けながら言った。
ちょうどどこかで、チリンと鈴の音が聞こえてくる。
「雨を願う人たちが、その想いを乗せて鳴らした鈴の音――それがわたしの力になるの。封印されていたころは鐘楼からの音を聞くのがやっとだったけど、今はありがたいことに、町からも少しずつ届くようになったわ」
「それってなんだか……すごく、幸せなことだよね」
「ふふ、本当にね。というわけでこれが必要なもの一つ目。そして二つ目は――雨を呼ぶ鐘よ。あれがなければ、本当の雨を呼ぶことはできない。祭りの日までには〈深流域〉から引き上げておいてほしいわね」
「え、祭り?」
リコが首をかしげると、おじいさんが答えた。
「昔、この町には雨の神を迎える祭りがあったらしい。雨を呼ぶ鐘がなくなってから、やらなくなったと聞いている」
おじいさん自身も、昔話として教わっただけだという。
ということは、雨の神さまは、さっそくその祭りを復活させようとしているんだろうか。
「まぁ祭りについてはおいおいね。鐘が戻ってこないことには何も始められないし。それより次は三つ目、最後に必要なもの、それは――町の人たちの想いを乗せた、鈴の音よ。祭りの日に鐘を鳴らすんだけど、そのときに町じゅうの人が、鈴を鳴らす必要があるの」
それを聞いて、わたしはつい「あっ」と声を上げてしまった。
だって町の鈴は――今もそのほとんどが、教会堂に預けられたままなのだ。
「わたしの力、雨を呼ぶ鐘、そして町じゅうの戸口に掛けられた鈴。この三つをそろえて、祭りを行う――どう? できそう?」
雨の神さまが、わたしたちを見回しながら問いかけた。
わたしがその言葉を伝えてもなお、すぐに答えられた人はいなかった。
ラギだけは、答えがわからないなりに、とりあえず必要そうな人手や道具について考え始めてるみたいだったけど。
「……できるかどうかじゃなくて、絶対やらなきゃ、だよね」
そう口火を切ったのは、リコだった。
その答えを聞いて、雨の神さまは満足そうに目を細める。
「そういうこと。物わかりのいい子は好きよ」
その言葉をわたしから聞かされて、リコは照れたように鼻の下を指でこすった。
◇◇◇
その日の夕方、わたしたちはリコの家へと続く水路を舟で進んでいた。
そして橋の下をくぐったところで、広場の方から大きな声が聞こえてくる。
それは、教会の演説だった。
「――我々が水抜きを止め、湖に水を還したことで、三百年続いた災いは鎮められました」
舟をこぐリコの手が、ピタリと止まった。
「そして皆さま。天は、再びこの町に雨をお返しくださったのです」
わたしたちは思わず顔を見合わせた。
――今、なんて言った?
教会は水抜きを途中で打ち切り、湖に水を戻した。
そして、その直後に雨が降った。
何も知らない人が聞くと、教会が雨を取り戻したとしか思えないんじゃないか。
広場からぱらぱらと拍手が聞こえてきて、わたしは頭を抱えるしかなかった。




