第46話 水の都に祝福を
気がつくと、わたしの体はゆっくりと揺れていた。
体の前半分があたたかい感触に包まれている。これは……誰かに背負われているのかな……そう思ってぼんやり目を開けると、見覚えのある後頭部が視界を覆いつくす。この頭は――ラギだ。
周囲の音も次第に耳へと届きはじめる。近くでは舟のきしむ音とリコの声がして、遠くからは町のざわめきらしき音が聞こえてきた。
そのまま目を開けてみんなに声をかけたかったけど、まぶたが重くてすぐに閉じてしまい、再び意識がまどろんでいく。
そんな中、近くからまだあまり聞き慣れていない声がした。
「……それで、王さまは――」
それは、あの銀灰色の猫――雨の神さまの声だった。
「三百年ものあいだ、どこで何をしていたの?」
しばらく返事はなかった。
「…………」
「ふうん。言うつもりはない、と」
……あれ? ノワって、トト村の祠でずっと眠ってたよね? じゃあ、今の雨の神さまの質問は、いったいどういうことなんだろう……。
一気に疑問が頭の中に湧いてきたけれど、思考は長くは続かなかった。意識はすぐにまた遠くなっていき、ついにはそのまま眠りに落ちてしまった。
◇◇◇
次に目を開けると、天井から下がった漁の網が視界に映り込んだ。
ということは、ここはどうやら、リコの家らしい。
窓から差し込む光の具合からすると、今はもう昼過ぎ頃か。
「あ、起きた!」
リコの顔が、すぐ目の前に飛び込んできた。
「ミオ! 昨日神殿で倒れてから、ずーっと寝てたんだよ! 顔色はだんだん戻ってはきてたけど、全然起きる気配がないし……ほんとに心配したんだからね!」
「……ごめん。おはよう、リコ」
「よし、あたいのこともちゃんと見えてるみたいだから、もう大丈夫そうだね! じいちゃーん、ミオが起きたよー! 雑炊の準備おねがーい!」
わたしは体を起こそうとしたが、すぐに諦めた。
全身が鉛みたいに重くて、全然力が入らない。《猫語り》の力を限界まで使うと、こんなに疲れちゃうんだ……。
改めて枕に頭を遠慮なく沈めていると、枕元で黒い塊が動くのが見えた。
「ふむ、起きたか」
ノワが、わたしの顔をじっと見つめていた。
そしてわたしと目が合うなり、ふん、と鼻を鳴らした。
「娘よ、《猫語り》の力は当分使うな」
「……え?」
「そうだな……これより十日のあいだ、猫の気配を探るのも、離れた猫に呼びかけるのも禁止だ。今のお前は力をほぼ使い切ってしまったゆえ、回復にはそれだけ時間を要するということである」
「十日……十日も?」
「うむ、十日である」
そう言うノワの目は、まったく笑っていなかった。
「……うん、わかった」
ノワの本気が伝わってきた以上、わたしには何も言い返すことができなかった。
◇◇◇
しばらくすると、リコのおじいさんが雑炊を持ってきてくれて、リコがわたしの体を支えながら食べさせてくれた。ほぐした白身魚の身がたっぷり入っていて、おいしさと温かさが同時にお腹に染みていく。
雑炊をきれいに食べきった後、少しでも外の空気を吸うといいよと言って、リコが窓を大きく開けてくれた。
食事中、窓の外から何やら騒がしい音が聞こえてきていたけど、窓を開けるとそれらの音が部屋の中まで一気に押し寄せてくる。
「はは、見てみなよ、ミオ。町じゅう、お祭り騒ぎだよ」
引き続きリコに体を支えてもらいながら、窓の外を見やる。
水路には花を積んだ小舟が行き交い、どこかから笛の音が聞こえてくる。道には大勢の人がいて、みんな湖の方角へ向かっていた。
「雨の神さまが目を覚ましたって話がすでに町じゅうに広がっててさ。朝から見物の舟がずっと出てるんだよ。ほら、〈雨やどり〉って屋台があったじゃん。あそこなんて、お昼前に例の〈雨やどり汁〉が売り切れたってさ」
そっか。昨日、雨が降ったんだっけ……雨が降ったってことは、あの屋台も当然出てるはずで。
降ったのはほんの短いあいだではあったけど、それでも、町全体が一気に明るくなったように見える。
ああ……あれはまだ本格的な雨とは言えないかもしれないけれど。
町の人にとっては紛れもなく……恵みの雨だったんだ。
◇◇◇
その日の夕方、わたしはあの猫にどうしても会いに行きたくなったので、リコに頼み込んで舟を出してもらった。
湖は夕焼けを映して赤く染まっている。昼間までたくさんいた見物の舟も今はほとんど見られず、広い水面に残っていたのは――。
一匹の、猫だけだった。
銀灰色の大きな猫が、こちらへ顔を向ける。
「あら」
青い瞳が、少し細くなった。
「もう起きて大丈夫なの? って、まだ顔色が悪いじゃない。あと三日くらいゆっくり寝てなさいよ」
「えっと……昨日は『おはよう』しか言えなかったから、ちゃんと挨拶しておかなきゃと思って。改めまして、わたし、ミオって言います」
「律儀な子ねえ」
その猫――雨の神さまは、少し楽しそうにヒゲを動かした。
「まぁいいわ。よろしくね――声結びさん」
「こ、こえむすび……?」
「あら不満? 今回、あなたは町のみんなの声を束ねてわたしに届けてくれたじゃない? そんなあなたにピッタリだと思うのだけれど」
「う、ううん、不満だなんてとんでもない……その、猫からこんなふうに呼び名をつけてもらったの、初めてだったので」
わたしはなんだかうれしくなって、つい笑みがこぼれてしまう。
すると、隣からノワが口を挟んできた。
「吾輩もずっと呼び名で呼んでおるではないか」
「えー……『娘』はなんか違わない?」
「ワケがわからん。いったい何が違うというのである」
そんないつも通りのやり取りを交わしていると、雨の神さまが、くすりと笑った。
「えっと、雨の神さま……朝からずっと見物の舟が来てたみたいだけど、その、大丈夫だった?」
「ふふ、わたしはかつて姫と呼ばれた猫だもの。見られるのには慣れているわ」
そう言いながら長い毛を前足で撫でつける姿は、少し得意そうに見えた。
「ただ、お姫さまに向かって『でっかい猫だ』はないと思うの。今日だけで三回も言われたわ」
「大きいのは事実であろう」
「まぁずぶ濡れでしょぼしょぼになった王さまに比べたら確かに大きいわね」
「~~っ! 猫は濡れたら誰だってああなるであろうが!」
ノワがぷりぷり怒っていると、舟の後ろで見ていたリコがくすくす笑った。
「猫って、ほんとにかわいいねえ」
わたしもリコと一緒になって笑った。
しばらくして、ノワを存分にからかって満足した雨の神さまが、改めてわたしを見た。
「……声結びさん。体の調子はどう?」
「うーん、自分で動くのはまだしんどいけど、二、三日すれば普通に動けるようになると思う」
「そう、それはよかった」
そう言って彼女は、ゆっくりまばたきをした。
「さあ、もう帰りなさい。今はとにかく休まなきゃだめよ」
「うん、わかった。……あのね、明日、みんなで来てもいい? ほら、話したいことがたまってるって言ってたから、わたしたちでよければ話し相手になれないかなって」
「もちろんいいわよ。本当に三百年分あるから、覚悟しておきなさい」
「ふふ、それは楽しみかも」
「果たして明日になっても同じことが言えるかしらね」
それから、雨の神さまにお別れを告げ、リコが舟を岸へと向ける。
と、そのとき、「ああ、そうだ」と呼び止める声がした。
「ねえ、声結びさん。ひとつお願いしてもいい?」
「え、なに?」
「その鈴、鳴らしてみて」
言われて、わたしは胸元から鈴を取り出し、その場でそっと振った。
チリン、と澄んだ音が夕方の湖に響き渡る。
雨の神さまは目を閉じ、耳をこちらへ向けたまま、じっとその音を聞いていた。
やがて、ゆっくり目を開く。
「……やっぱり」
「やっぱりって?」
雨の神さまは、その問いに答えることはなく、ただわたしの鈴と顔を交互に眺めて、どこか懐かしそうに目を細めるだけだった。




