第45話 水底の姫のお目覚め
目の前で水面が、大きく盛り上がった。
それは波によるものではなかった。
内側から押し上げられるように水が丸く膨らみ、その中心から淡い光と霧が広がっていく。
小舟の上で、ノワが体を起こしてその膨らみを見つめる。
やがて水の勢いが落ち着き、辺りが霧に包まれると共に静寂が訪れ――。
盛り上がった水の中から、一匹の猫が現れた。
銀灰色の長い毛をした、とても大きな猫だった。毛は水に濡れておらず、淡い光をまとっている。大きな体で水面の上に座り、閉じていた目をゆっくりと開いた。
そこには、澄んだ空のような、青い瞳があった。
そして銀灰色の猫――もとい、雨の神さまは、大きなあくびをひとつする。
「……ふぁ…………いい鈴の音」
青い瞳が、リコに支えられているわたしのほうへと向く。
「ふふ、悪くない目覚めだわ」
その顔は、笑っているように見えた。
だからわたしも、笑顔で改めて「おはよう」と言いたかった……でも《猫語り》の力を使いすぎた反動か、唇を動かすのがやっとだった。
雨の神さまは、そんなわたしを見て、すべてわかっていると言いたげにヒゲを動かした。
どうやらさっきわたしが届けた言葉は、ちゃんと聞こえていたらしい。
わたしがかろうじて笑みを浮かべると、彼女はゆっくりと伸びをした。
すると、周囲に広がっていた霧が細かな水滴に変わり、空から落ちてきた。
それは――雨、だった。
細かい雨が、水底から現れた町の屋根や石畳を濡らし、乾きかけていた泥を再び濃い色に変えていく。
「雨だ……」
リコが空を見上げながら言った。その目からは、ぽろぽろと涙がこぼれている。
「ミオ……これが、ばあちゃんが言ってた雨……なんだね」
雨の神さまは、そんなリコを見て満足そうな顔をしていたが、ふと何かに気づいたように視線を動かし――全身がずぶ濡れになったノワの姿を見つけた。
「――あら」
さっきまでの眠そうな声が、少しだけ引き締まったような気がした。
「ずいぶん、みすぼらしくなったわね。王さま」
「…………皆の者、帰るのである」
ノワは、ぷいっとお尻を向けた。
濡れた毛が全身にぺったり張りつき、いつもより半分ほど体が縮んでいるように見える。どれだけ王らしく振る舞おうとしても、今だけはあまり格好がつかなかった。
「三百年ぶりの挨拶が、それなの?」
「うるさい。三百年も寝坊したやつに言われたくないのである」
「起こし方が乱暴なのよ。扉を爪で引っかいたりして」
ノワの濡れた耳が、ピクリと後ろへ倒れた。
「礼のひとつも言えぬのか、そなたは!」
「あら、さっき言ったでしょう。悪くない目覚めだったって」
「それは娘に言った言葉であろう」
「あらあら、そんなにわたしの感謝の言葉が聞きたいだなんて。かわいい王さまだこと」
「か、かわいいだと!? 貴様、王に向かって不遜であるぞ!」
ノワが怒ってしっぽを小舟の底へ叩きつける。
その光景を見て、リコが泣きながら盛大に笑った。言葉が通じていないため、ただ猫たちがかわいらしくじゃれ合っているようにしか見えなかったのだろう。
とはいえ、言葉がわかっているわたしも、なんだかおかしいやらあったかいやら……とにかくとてもいい気分だった。
三百年ぶりに会ったというのに、昨日までずっと一緒にいたみたいな雰囲気で喧嘩している。
――本当にこのふたりって、昔からの知り合いなんだ。
わたしとリコはしばらくのあいだ、二匹の猫のやり取りをあたたかく見守っていた。
◇◇◇
雨は〈水底の町〉だけではなく、土手のほうにも届いていた。
見物に集まっていた人たちの誰もが、手のひらを空へ向けて伸ばしている。全身が雨に濡れて楽しそうに笑っている人もいれば、感極まって泣いている人もいて、中にはその場で膝を落として天に祈りを捧げている人もいた。
泥だらけになったリコの祖父は、全身で雨を受け止めたあと、神殿のある方角へ手を合わせた。
「……雨の神よ、遅くなってしまいましたな。これからはまたわしが、神殿をきれいにさせていただきますぞ」
その頃、町のほうでは、〈雨やどり〉のおかみさんも空を見上げていた。
手には小さな鈴が握られており、音を鳴らすことなく胸元に寄せてギュッと抱きしめている。教会に渡さず、ずっと隠し持っていた鈴だった。
さらに荷揚げ場では、ラギが雨に濡れるのも気にせず、空を見上げて笑っていた。
「いやあ、見事に降ったねえ。僕も苦労した甲斐があったってもんだ」
そして――少し離れたところに、ギドが立っていた。
手に持った紙が雨に濡れているのにも気づかず、手のひらに落ちる雨粒を見つめている。
几帳面で真面目とまわりから評されている彼が、今はただ、降ってくる雨を見上げるばかりだった。
◇◇◇
ついに降った本格的な雨――と思ったのも束の間。
その雨は長くは続かず、すぐにやんでしまった。
「え、もう終わりなの……?」
リコが戸惑いの声を上げると、雨の神さまは前足をひとなめして、平然と答えた。
「三百年も寝ていたのよ。起きてすぐに、そんなにたくさん降らせられるわけないでしょう」
残念そうなリコとは対照的に、彼女は特に怒った様子もなく、むしろどこか楽しそうに見えた。
「でもそうね。もしこれ以上の雨を降らせたいなら――」
青い瞳が、スッと細くなった。
「ここからは、あなたたちにも働いてもらうわよ」
そう言いながら、雨の神さまは水の上を歩くようにして、わたしたちのそばまで来た。
近くで見ると、やはり大きい。体そのものも確かにノワよりひと回りほど大きかったが、それ以上に、気配の強さが今まで出会った猫とは違っていた。こうしてそばにいるだけで、わざわざ力を使って探ろうとしなくてもその濃い気配が伝わってくる。
「わたしを起こしたからには、覚悟なさい。三百年分、話したいことがたまってるんだから。それから――」
彼女は、町の向こうにある教会堂へ目を向けた。
「人間の子たちが本当に水の底に沈めたかったのは何なのか――あなたたち、まだ知らないでしょう?」
それは、予想外の問いだった。
すぐに考えを巡らせようとしたけど……うまく頭が回らない。素直に質問してみようにも、声だってろくに出ない状態だ。
雨の神さまは、そんなわたしの顔を見て、少し笑った。
「ふふ、まずは体を休めることね。安心なさい。あとでちゃんと教えてあげるから」
よかった……じゃあ、お言葉に甘えて、休ませてもらおうかな……そろそろ本当に限界だったし。
あ、でも……最後にひとつだけ――。
わたしは、残っている力をすべて振り絞って、息を吸った。
そして、《猫語り》の力ではなく、ちゃんとわたし自身の声で、その言葉を伝える。
「……お、はよう」
すると、雨の神さまは青い瞳を目いっぱい丸く見開き、それから――やわらかく笑いかける。
「ええ――おはよう」
◇◇◇
雨の神が目覚めたちょうどそのとき、ヴァルド司祭は、教会堂の高い窓辺に立っていた。
差し出した手のひらに、ぽつり、ぽつりと、弱々しい雨が落ちる。
ヴァルドはそれをしばらく見つめてから、静かに言った。
「……では、次に移りましょうか」




