第44話 猫の王、水に潜る
「だめ……!」
わたしは考えるより先に声が出ていた。
でもノワはそれに応えることなく、小舟の縁に四本の足をそろえて、流れの強くなった水面をじっと見ている。
「ノワ、だめだよ! こんなに流れが強いんだよ! わたしたち人間でさえ危ないっていうのに、ノワみたいな小さな体じゃ耐えられるわけないよ! そ、それに、えっと……そうだ、ノワ、水が嫌いでしょ!」
「騒ぐでない」
ノワがようやく振り向いてくれた。
「水嫌いならば、たった今なおった」
「な……なおったって」
「何百年も生きていれば、嫌いなものの一つくらい、ある日突然なおることだってあるだろうて」
「そ、そんな都合のいいこと、あるわけないじゃない!」
「そんなことはない。なにせ、吾輩は王なのであるからな」
リコが舟を押さえながら叫んだ。
「クロちゃん、あんた泳げるの!?」
「王にできぬことなどない。まあたぶん……泳げるであろう」
手短にノワの言葉をリコに伝えると、すぐさま「そもそも泳いだことないんじゃん!」というツッコミが飛んできた。
強い流れで小舟が揺れている。ノワは爪を立てて縁に足をギュッと固定しながら、相変わらず水面から目をそらそうとはしなかった。
ノワの黒い毛が、小さく震えている。それは空気に吹かれて揺れているだけなのか、それとも――恐怖で本当に体が震えているのか。ノワの表情はあくまでいつも通りであり、その内心までは読めなかった。
「ノワ……」
「心配いらぬ。ちょっと行ってすぐ戻ってくるだけである。お前は吾輩を信じて待っていればよい」
「で、でも……!」
すると、ノワは真に迫った眼差しをわたしに向けてきた。
「――猫の言葉を信じるのも、《猫語り》の務めであるぞ」
ノワのそんな目は初めて見る気がして、わたしはそれきり、何も言えなくなった。
「――ミオ」
ノワの言葉に、息が止まった。
「鈴を構えよ」
旅を始めてから、今まで一度もわたしの名前を呼ぶことなんてなかったのに。
わたしは、熱くなった胸を押さえつけるように、懐の鈴をギュッと握りしめる。
そして、意を決して鈴を取り出し、包んでいた布を外した。
「……わかった!」
ノワはわたしの決意を確かめると、一瞬、ニッと口角を持ち上げ、それからすぐに水へと飛び込んだ。
黒い体が、水の中へと沈んでいった。
◇◇◇
「……十、二十……」
リコが舟を押さえながら数を数え始めた。水に潜った人が、水の中にいられる残り時間を確かめるための数え方だ。
わたしは水の中へ意識を集中し、ノワの気配を追った。
ノワは水の中を下へと進んでいっている。途中、流れに何度も横へ押されながら、それでも神殿の扉のほうへと向かっていた。
「――流れが強い……! リコ、今何秒?」
「今三十秒くらい! クロちゃんはまだ大丈夫そう?」
「うん、なんとか」
水の流れに持っていかれそうになる小舟を、リコは数を数えながらも必死に押さえてくれていた。
「五十……五十五……六十……。クロちゃん、まだなの? このままじゃ……」
リコの声が、ついに震え始めた。
わたしの中でも一気に不安が増していき、ノワの気配をいっそう必死に追い続けた。
――大丈夫、ノワはまだ動いている。ノワ……がんば――。
直後、唐突にノワの気配が、神殿の扉の前で大きく動いた。
同時に、扉の向こうに感じていた猫の気配が、変化した。
「……封印が……解けた」
そうだ、すべての鉛が、扉から剥がれたのだ。
だから、猫の気配が急にはっきりと感じられるようになったのだ。
「リコ! 封印が解けたみたい! あとは――」
ノワ、はやく戻ってきて……お願いだから!
そう強く願った次の瞬間。
水面から、黒い頭がバシャッと勢いよく飛び出してきた。
「クロちゃん!」
リコが手を伸ばし、わたしも一緒になって、ずぶ濡れのノワを小舟へ引き上げた。
耳は完全にぺたんと伏せってしまい、黒い毛はべったりと体に張りついている。どうやら今までのノワの体は、全身の毛がふんわりと起きていたおかげで大きく見えていただけで、実際はずっと小さな体だったらしい。これは大きな発見だ、と一瞬驚きはしたものの、今はそれどころではないとすぐにノワの身を案じる。
けれども、その目だけは、今でもしっかりと開いていた。
「み、水とは……こんなにも冷たいものであったか……だが、吾輩の爪でついに最後の鉛を剥がしてやったのである」
ノワは震えながらも胸を張ろうとしたもののうまくいかず、諦めてそのままわたしに向かって叫んだ。
「な……鳴らせ……!」
「っ、うん!」
濡れたノワの体を拭くのはリコに任せ、わたしは握っていた鈴を持ち上げた。
今こそ、《猫語り》としての使命を果たすときだ。
大きく息を吸い、水底の気配を探る――すぐそこに、猫がいる。
わたしは、鈴を鳴らした。
チリン、と澄んだ音が耳元で響く。
その音そのものは、水の中を通ることはできない。
だから、わたしが届けるのだ。
鈴の音と、猫への想いを、《猫語り》の力で水底へと向ける。
「――おはようっ!」
前から決めていた最初の言葉を、声に出して言う。
「朝じゃなくてごめん! でも、みんなあなたが起きるのを待ってるよ!」
リコのおじいさんが四十年ものあいだ抱いていた雨の神さまへの想いも、リコのおばあさんがかつて鈴に込めていた猫への想いも、町の人たちがずっと待ち望んでいた雨への想いも。
すべての想いを鈴の音に乗せて、もう一度、猫に呼びかける。
「起きて! お願い……起きて!」
瞬間、頭の中が真っ白になり、膝から力が抜けた。
「ミオ!」
リコがすぐに体を支えてくれる。おかげで鈴は手離さずに済んだが、すでに意識はかなり朦朧としている。
それでも残った力を振り絞り、さらにもう一度、チリンと鳴らして、その音を想いと共に水底へ届ける。
でも、やはり返事はなく、それなら何度だって繰り返してやると覚悟した、そのときだった。
周囲の水の流れが、急に弱くなった気がした。
「……え?」
リコが水面を見やる。
さっきまで神殿の扉に激しくぶつかって大きな音を立てていた水が、次第に静かになっていく。
そして、水の底で淡い光が見えた。
「……ミオ……何か来る」
リコの声が震えた。
泡がひとつ、またひとつと浮かび上がってくる。
光は少しずつ強くなっていき、猫の気配も、ゆっくりと近づいてくるのがわかった。




