第43話 あと、ちょっとなのに
扉につけられた爪痕が気になりつつも、わたしは立ち上がり、扉に向かって手を合わせた。
「ごめんなさい。あなたを……起こしに来たよ」
果たしてその謝罪は、神殿の奥で眠っている猫に対してか……それとも、この扉を封印した何者かに対してか……自分でも、よくわからなかった。
「娘よ。あまり時間はないぞ。皆がどれだけ教会を足止めしようとも、もって半日と思え」
「うん、わかってる――じゃあ、やるよ」
祠の鉛を剥がすのは、これで三度目だ。ただ、今回はラギがいないため、わたし自身の手で剥がさないといけない。
鉛に布を当てて音を抑え、端から少しずつ浮かせていく。大丈夫、これまでラギがやっているのを目の前で見てたから、やり方はちゃんと覚えてる。手が、迷わず動いてくれる。慎重に、そして確実に鉛を次々に剥がしていく。そのついでに外した当て布については捨てず、一枚ずつ畳んで仕舞っていった。
「ノワ、教会のほうはどう?」
ノワは周囲の石段の高いところに座り、神殿へ続く道へ耳を向けていた。
「……声が遠い……本隊の到着にはまだ時間がかかりそうだ。娘よ、気にせずそのまま続けるがよい」
「わかった。ありがとう、ノワ」
教会のことはノワに任せ、わたしは再び作業に集中する。
「……ねえミオ、この剥がした布……捨てないの?」
「うん。ほら、なんか大事な想いが詰まってそうで、なんとなく捨てちゃいけない気がして」
リコは少し不思議そうな顔をしてから笑った。
「ミオって、なんだかじいちゃんと似てるかも。こういう、モノに込められた想いを大事にするとことか」
「……そうかな?」
「そうだよ。だから、じいちゃんも今回のことはミオに任せることにしたんじゃないかな」
それなら、リコのおじいさんの名に恥じないように、しっかり仕事をやり遂げなきゃ……。
決意を新たにして慎重に鉛を剥がしていき、三分の一ほど剥がれたところで、扉の向こうから急にはっきりと気配が感じられるようになった。
もう、集中して気配を探る必要もない。すぐ向こうから、猫の鼓動が伝わってくる。
「……ねえ、ノワ。この子、なんだか楽しそう。夢でも見てるのかな」
「三百年も眠っておれば、呑気に夢を見ることもあろうよ」
つまり、ノワも祠で眠っているときは、いろんな夢を見ていたってことなのかな。
聞いてみたいけど、ノワはきっと照れて教えてくれないんだろうな……まあいいや。
猫さん、もうすぐだからね……起きたら、きっと楽しいことが待ってるよ。
◇◇◇
教会堂の塔の上から、ヴァルドは水の引いた湖を見下ろしていた。
その視線が、〈水底の町〉の中央で止まる。
神殿の周りに、妙な違和感がある……根拠などなく、単なる直感でしかなかったが、ヴァルドはそれを無視することはできなかった。
「……司祭さま。まだ荷の確認が終わっておりません。鉛を運び出すには、もう少し――」
後ろに立っていた修道士が、おそるおそる声をかけてくる。
だが、ヴァルドは振り向こうとはしなかった。
「――作業はここまでです」
「は……?」
「全員を水底から引き上げさせてください。これから、水門を開けます」
「で、ですが、水抜きは三日間の予定では……。神殿を鎮める作業も、まだ終わっては――」
ヴァルドは神殿を見つめたまま、静かに答えた。
「鉛で神殿を塞ぐことなど、いつでもできます」
その声に、焦りは欠片もなかった。
「今は水を戻して、何者もあの神殿に近づけないようにすること――それが最優先です」
◇◇◇
また鐘が鳴った――が、いつもと様子が違った。
その鳴り方は、単なる集合を知らせるものではないようだった。短い音が何度も続き、〈水底の町〉のあちこちから声が上がる。
「全員、上に戻れ! 水門が開くぞ!」
「急げ! 土手まで戻れ!」
わたしたちのところにもその声は届いていた。
リコが、信じられないという表情を浮かべる。
「な、なんで? まだ初日だよ!?」
水抜きは三日間の予定のはずだ。それなのに、教会の一行が作業をやめ、次々と土手へ向かっていくのが遠目に見える。人の流れは止まる気配がなく、どうやらリコのおじいさんにも、そしてラギにも、もはや止められないようだった。
やがて、遠くから重い音が響いてきた。
水門が、開いたのだ。
「――っ、急ごう! あと少しだから!」
わたしは扉に向き直り、残った鉛を剥がす作業に取り掛かった。
焦りからか、手が震える。落ち着け……落ち着け、わたし!
遠くの水路から水が流れ込んできて、徐々に町の中へ広がっていくのが見えた。
やがて水はわたしたちの足元にも達し、冷たい感触がわたしの足を包み込む。
「ミオ、水が来ちゃったよ!」
水位はみるみるうちに上がっていく。くるぶしから、すね、膝へと迫ってくる。
残っている鉛は、あとわずか。すぐそばには、さっきも見た三本の爪痕。
だが、鉛を剥がすよりも先に、水が鉛を包み込んでしまった。
まだだ、水に潜ればまだ作業は続けられる。
そう思って膝を曲げた瞬間、リコに腕を強くつかまれた。
「だめ!」
「離して! あとちょっとだから! 息なら五十数えるまでなら――」
「息の長さの問題じゃない!」
リコの指が、痛いほど腕に食い込む。
「じいちゃんが言ってた! 水門を開けたあとの水には潜っちゃだめなの! じいちゃんたちも、絶対にやらないって……流れが一気に強くなって、巻き込まれたら戻れなくなるって!」
その言葉の通り、足元の水が急に横へ引っぱられ始めた。
立っているだけでも足を取られそうになる。
「ミオ! はやく舟に戻るよ!」
水はいつの間にか腰の高さにまで迫っていた。
わたしはリコに引っ張られながら水の上を泳ぎ、なんとか舟の上に戻ってきた。
すでに神殿の扉の下半分が、もう水の中に沈んでいた。
「そんな……あとちょっとだったのに」
わずかに残った鉛の封印が、水の中で揺れている。
すぐそこに、猫がいるっていうのに。
リコも、リコのおじいさんも、そしてラギも、ここまで力を貸してくれたっていうのに。
あと……ちょっとなのに……。
わたしは、服の上から懐の鈴を握りしめた。
と、そのとき――すぐ横を、黒い影が通り過ぎた。
「……ノワ?」
影を追って振り返る。
そこには、ノワ専用の小舟が水に浮かんでいて――その縁に、ノワが立っていた。
ノワは何も言わず、ただ、勢いを増していく水面をまっすぐ見つめていた。




