第41話 水底の町、現る
湖の水は、昼前にはほとんど抜けきっていた。
朝のうちはまだ大きな水たまりのようだった湖が、昼の鐘が鳴る頃には、ところどころに泥が光る広い窪地へ変わっていた。
そして、その底から――町が、現れた。
「……うわ、あ」
リコは驚きのあまり、声が途切れ途切れになっていた。
泥の中から、いくつもの屋根が並んで突き出していた。壁にはびっしりと貝が張りつき、軒からは長い水草が垂れている。細い路地には緑色の水草が筋のように残り、大通りだった場所では、浅い水の中で取り残された小魚が跳ねていた。
その真ん中に立っているのが、鐘楼だった。いつもは先端しか水面に出ていなかった塔が、今日は土台の近くまで姿を見せている。
「すごい……すごいよ、ミオ。町だ……ほんとに、町がまるごと……」
「……うん。ほんとに……すごい光景……」
三百年前に、水底に沈んだ町。
まさか、おとぎ話に出てくるような町をこの目で見ることになるなんて、思ってもみなかった。
湖は杭と縄によって立ち入り禁止となっていたため、湖の周りの土手には、見物に集まった人たちがところせましと押し掛けていた。あちこちから驚きの声が上がり、泣いている人もいれば、手を組んで祈っている人もいる。
「ばあさんが言ってた通りの町だ……」
「母さん、見てよ。鐘楼の下まではっきり見える」
リーメの町に住まう多くの人たちが、自分たちの先祖が暮らしていた町を、初めて目の当たりにしていた。
やがて太鼓が鳴り、教会の作業隊が表側の水路から水底へ下り始める。
先頭を歩いているのは、リコのおじいさんだった。
「あれ、神殿の守り手がつける白い帯だ。じいちゃん、いちばん大事なやつを出してきたんだ」
土手の陰から様子を見ていたリコが、目を細める。
「……じいちゃん、ほんとはさ。この日が来るのをずっと待ってたんだよ」
「うん……ずっと、心残りみたいだったもんね」
おじいさんは杖で泥の深さを確かめながら、ゆっくりと進んでいった。その後ろに、教会の人たちが長い列を作って続いている。
けれど、列は神殿へまっすぐ向かうことはなかった。途中で右へ曲がり、昔から決められているという清めの順路へ入っていく。神殿へ行くだけなら必要のない、大きく遠回りする道だ。
湖の荷揚げ場からは、時々言い争うような声が聞こえてきた。荷の重さを量り直せとか、記録に書かれている数と合わないとか……どうやら、ラギの時間稼ぎ作戦がすでに始まっているらしい。
「じゃあ、そろそろあたいたちの番だね」
わたしたちは裏の細い水路の入口へ移り、そこで手早く腹ごしらえをした。わたしはリコと固焼きパンを半分こしつつ、ノワの白身魚を取り出そうとしていたところ――。
「吾輩もいただくのである」
すでに自分用の小舟に乗り込んでいたノワが、首を伸ばしてわたしの指から白身魚を素早くかっさらっていった。お行儀が悪いなぁと思いつつも、ノワにもこれからがんばってもらわなきゃいけないので、今回だけは見逃してあげることにした。
ノワがあっという間に白身魚を平らげ、続いてわたしとリコがほぼ同時に食べ終えたところで、リコが手をパンパンと払いながら言った。
「よし、じゃあ……行こうか」
わたしたちが使う裏の水路は、リコの舟がかろうじて通れるほどの幅しかなかった。
水はわずかに残っているだけで、舟底がときどき泥をこすった。そのためリコは舟をこがず、両側の壁に手をつきながら、少しずつ舟を前へ進めていく。
頭上には、家と家の間に渡された棒や、崩れかけた梁が何本も突き出していた。わたしはできるだけ身を低くしながら、ノワの小舟がぶつからないように押さえてあげる。
「揺らすでないぞ、娘。王の舟は大切に扱うのである」
「しー……ほら、ノワ。梁の下を通るから、頭下げて」
「王に頭を下げろというのか?」
「む……おでこがぶつかってもいいならお好きにどうぞ」
「…………頭を下げるのである」
ノワはとても不満そうな顔をしながらも、器用に首をすくめた。
そのまま水路を進んでいると、途中で二度、見張りの声が近くから聞こえてきた。そのたびにリコは舟を建物の陰へ寄せ、しー、と口の前で人差し指を立てる。
「――おーい、そっちの水路はどうだ」
「泥ばっかりだよ。こんなところに来るやつなんていないだろ」
すぐ向こうの通りから聞こえていた声が、少しずつ遠ざかっていく。
「……行った?」
「ううん、まだ…………よし、今だ」
わたしはすでに緊張でいっぱいいっぱいだったけど、リコはどこまでも冷静に周囲の様子に注意を払ってくれていた。
そんな頼りになりすぎる友達のおかげで、移動は今のところ順調だった。教会が杭や札を立てて見張っている表側とは違い、この細い水路には人がいないため、ほとんど見張りの目が向いていないというのもわたしたちの助けになっていた。
しばらく進むと、水路が少し広くなり、わたしたちはついに〈水底の町〉の路地へ出た。
泥と貝の匂いが漂う、浅く残った水の上を、舟はゆっくり進んでいく。
すぐ横にあった家の窓辺には、小さな食器のようなものがひとつ、伏せたまま残されていた。三百年前、誰かがそこに置きっぱなしにしたものなのかもしれない。
「ミオもクロちゃんも、家のものには触っちゃだめだからね。……全部、昔ここに住んでた人たちのものだから」
そう言ったリコの声は、いつもの明るい調子とはまるで違っていた。
「……娘よ」
ノワが、自分の小舟から屋根の並びを見上げ、静かに言った。
「ここは、とても良い町であったぞ」
「……ノワはこの町のこと、知ってるの?」
「……屋根と路地の並びを見ればわかる。猫が歩きやすいよう、配慮が行き届いておる。町が猫にとって過ごしやすくなっているということは、その町に住まう人間の心がそれだけ豊かだったという証なのである」
そう言われて、改めて町並みを見渡してみると、三百年前の町の光景が、ありありと脳裏に浮かんできた。
そこの路地を歩いている猫。あの屋根に登ろうとする猫。あそこの家の隙間を通ろうとする猫。
そんなあったかい光景を想像して、鼻の奥がツンとなった。
――そうやって、ここにはいない猫に想いを馳せていたからだろうか。
ふと、ノワ以外の猫の気配を感じた。
……間違いない。水底の猫の気配だ。しかも、今朝確認したときよりも、ずっとはっきりしている。
「――娘よ、あやつを感じるか?」
「うん……すぐそこに、確かにいるよ」
ノワはそれ以上何も聞かず、神殿の方角へ耳を向けた。
と、そのとき、先を確認していたリコが舟から降り、路地の角まで進んで先をのぞき込んだ。
「あれえ……この先の路地を抜ければ、神殿の裏に出るはずなんだけど……」
わたしもリコのあとを追い、その後ろから顔を出した。
――道が、崩れた家で塞がれていた。
両側の建物が倒れ込み、路地いっぱいに瓦礫が積み重なっている。舟はもちろん、人ひとりが通れそうな隙間さえ見つからない。
「うそ、なんで……。じいちゃんに教わった道じゃ、ここがいちばんの近道なのに」
「べ、別の道はないの?」
リコは唇を噛み、周囲の道を確かめるように見回した。
それからしばらく黙ったあと、とても言いにくそうに答えた。
「あるにはある……んだけど――」
リコは、瓦礫の向こう側を指差して言った。
その先には、灰色の外套を着た教会の作業隊の姿が見える。
「その道って、じいちゃんが案内してる清めの順路と途中でぶつかっちゃうんだよね……」




