第40話 決行前夜
それから二日間、わたしたちは少しでも教会より早く神殿に向かえるよう、最後の準備を進めた。
本当はもっと早く動ければ良かったんだけど、結局ギリギリ水抜きの当日までかかってしまいそうだった。
幸い、教会の見廻りはまだこの宿まで及んでいなかったけど、順番が回ってくるのは時間の問題だったので、宿はもう引き払ってしまうことにした。以降はリコの家――舟屋の二階にある、網や道具が置かれた物置部屋の隅で寝泊まりすることになった。
ノワは物置部屋に積んであった帆布の山をしばらく物色したあと、そのいちばん上に腰を落ち着けることにしたようだ。
「うむ。見晴らしも風通しもよい。悪くないのである」
「ノワって割とどこでもそんなこと言ってるよね」
「どこでもいいというわけではない。吾輩はいつもちゃんと王に相応しい場所を見定めているのである」
寝泊まりする場所だけでなく、水底の猫の様子を確かめるのもこれからは舟屋の桟橋にて行うことにした。気配をさっと確認するだけならほとんど力を消耗せずにどこでもできるし、何より――いつもの橋だとまたヴァルド司祭に出くわすかもしれないからだ。
そうして時間は瞬く間に過ぎていき――。
水抜きの日まで、とうとうあと一日となった。
その日の晩、湖の水門が閉じるところを見ようと、大勢の町の人たちが集まっていた。古い石造りの水門の周りには松明が並び、その明かりの中で作業をする人たちが動き回っている。
わたしは人だかりの後ろで帽子を深くかぶり、隣ではリコが背伸びをしながら、ふたり一緒に作業を眺めていた。
「見て、始まるよ。あ――あの大きな門って、人の力で下ろすんだ……」
「リコも見るのは初めてなんだ?」
「そりゃそうだよ。最後に湖の水抜きをやったのって、四十年前だもん。あたい、まだ生まれてないし」
やがて太鼓が鳴り、何人もの男たちが太い綱を引き始めた。掛け声に合わせて仕掛けが動き、大きな水門が少しずつ下がっていく。
松明の明かりが揺れて、水門のとある箇所が照らされ――。
一瞬、歯車と月の模様が見えた気がした。
これまで猫が眠っていた祠――その扉に必ず描かれていた紋様……と、似ていたような……。
もっとちゃんと確かめてみたかったけど、明かりは間もなく離れていってしまい、その模様らしきものはまた暗闇の中へ消えてしまった。
それから程なくして、大きな音を立てて水門が完全に閉じた。
周りから歓声が上がる。
なにせ四十年ぶりの水抜きなのだ。ほとんどの人にとって、それは初めて見る光景だったに違いない。
――これからこの広い湖の水が少しずつ減っていって、明日には、〈水底の町〉が姿を現すことになる。
あまりに事が壮大すぎて、わたしにはその光景がうまく想像できなかった。
「ミオ、緊張してる?」
「……ちょっとだけ」
「そっか。でも大丈夫だよ。明日は必ず、ミオを神殿まで連れて行ってあげるから」
「っ、うん! 頼りにしてるね、船頭さん」
「まっかせなさい」
わたしたちはどちらからともなく、おかしそうに笑う。
周りの人たちは、明日にはついに〈水底の町〉が見られるのだと、楽しみにしているようだった。
人だかりの端には、灰色の外套を着た教会の人たちが立っている。何かを記録しながら、水門の様子を確認しているようだ。
そんな非日常な光景を見て、いよいよ明日なんだなと、わたしは改めて気を引き締めた。
◇◇◇
リコの家へ帰る途中、わたしたちは以前雨が降った日に出ていた屋台――〈雨やどり〉の前を通った。
今は雨が降っていないのでもちろん屋台は閉まっていたけど、外には屋台のおかみさんが立っていて、わたしを見つけると手招きをしてきた。
「あんたたち、ちょうどいいところに来てくれたね。これ、持っていきな」
渡されたのは、温かい汁物の入った筒だった。前にこの屋台で出された、白身魚や貝の入った〈雨やどり汁〉だ。
「あれ? 今日はお店やってないですよね?」
「そりゃ雨は降ってないからね。前にも言っただろ? うちはいつ雨が降っても屋台を出せるように備えてるんだよ。これは今日作っていた分の余りさ」
「そうなんですね。あ、お代は……」
「いらないよ。余りもんで金なんて取ったら、死んだばあちゃんに叱られちまう。さ、それ飲んであったまっていきな」
「あ、ありがとうございます!」
おかみさんは姿が見えなくなるまでずっと、笑いながらわたしたちを見送ってくれた。
◇◇◇
リコの家に戻ると、帆布の山の上で寝ていたノワが顔を上げた。
「この匂い――以前屋台でお前たちが食っていた、あの汁であるな」
「そうだよ。もちろんノワにはあげられないからね」
「……わかっておる」
ノワがすごく残念そうな顔をしていると、しばらくしてラギが焼き魚を持ってきてノワに差し出した。
「ノワ様、こちらをどうぞ!」
「う……うむ! 大義であるぞ」
本当に凄まじい準備の良さだ……帰ってきたわたしが〈雨やどり汁〉を持っているのを見て、こうなることを予見してすぐに用意し始めたに違いない。今後ますますラギには頭が上がらなくなっていくんじゃないだろうか……そんな気がした。
◇◇◇
その夜、みんなが寝る準備を始めたころになって、リコのおじいさんが床板の一枚を外した。
「嬢ちゃん。隠しておいた鈴、今から返すぞ」
「あ、ありがとうございます」
床下から、布に包まれた鈴が取り出された。
包みを開くと、鈴が灯りを受けて、静かに光った。
「明日、神殿で使うんだろう。今のうちにきれいにしておくといい」
「はい、そうします」
わたしは布で鈴を磨き始めた。元々そんなに曇っているわけでもない。それでも、明日を迎える前に少しでもきれいにしておきたかった。
磨いているうちに、おばあちゃんのことをちょっとずつ思い出してきた。
子供のころ、おばあちゃんは祠の掃除を終えると、よくこうして鈴を磨いていた。
いつだったか、どうしてそんなに丁寧に磨くのかと聞いたことがある。
おばあちゃんは鈴を日にかざしながら、こう答えた。
――猫と人が、お互いを必要とする日が、いつか来る。だから、いつその日が来てもいいように、準備しておくんだよ。
あのころは、その言葉の意味をよくわかっていなかった。
でも、今はわかる。
おばあちゃん、今が――「その日」なんだよね。
それからしばらく念入りに鈴を磨いていると、すでに毛布にくるまっていたリコが、眠そうな声で言った。
「ミオ、もう寝なよ。明日はついに本番なんだから、しっかり体を休めておかなくちゃ」
「うん、そうだね。もう少ししたら寝るから、リコは先に寝てて」
「わかった。おやすみ、ミオ。明日は……がんばろう……ね……」
すぐにリコの寝息が聞こえてきた。
わたしも鈴を布で包み直し、胸元に置いて横になった。
眠る前にふと窓のほうを見ると、ノワがそこに座っていた。
いつものように偉そうにしたり、毛づくろいをしたりすることもなく、ただじっと湖のほうを見つめていた。
きっと、ノワも考えているのだ。三百年ぶりに会うことになる、水底の猫のことを。
わたしは声をかけずにそのまま目を閉じ、程なくして眠りについた。
◇◇◇
目を覚ますと、外は夜明けを迎えていた。
低く大きな水音が、町の中まで響いている。
「……始まった」
窓へ駆け寄る。
閉じられた水門によって流れが変わったことで、ゆうべは違いがよくわからなかったものの、今は湖の水位が目に見えて下がっていた。
桟橋に出て大運河のほうを見ると、教会堂の船着き場から何隻もの舟が出てきている。
どの舟にも大量の鉛板が積まれているためか、舟の縁が水面近くまで沈んでいた。
――教会が、ついに動き始めた。




