第38話 司祭の狙い
翌朝、わたしとノワはまだ外が暗いうちに宿を出た。
日課である水底の気配の確認にはまだ早い時間だったけど、教会が来る前に鈴だけでもリコの家に隠しておこうと思い、それならばと早めに出発したわけだ。鈴はいつも通り布に包んで服の奥に隠し、ノワには念のため釣った魚を運ぶときに使う籠に入ってもらっている。
「なぜ吾輩が、またこのようなところに入らねばならぬのである……」
「フードの中よりは怪しまれにくいかと思って。少しだけ我慢してね」
「……よいか、娘。もし何かあったとしても、急に走り出したりするでないぞ。普通の旅人が、旅先で調達した荷を運び出しているだけ――そのように振る舞うことを忘れぬようにな」
「う……そんな風に言われると、かえって緊張するんだけど」
――けどそれからすぐ、わたしはノワの忠告に心底感謝することになる。
舟屋へ向かう途中、いつもの橋まで来たところで、わたしは思わず足を止めそうになってしまった。
白い外套に身を包んだ――ヴァルド司祭が、橋の上にいたのだ。
彼は橋の欄干のそばに立ち、集まってきた小鳥へ、ちぎったパンを少しずつ投げている。
どうする……引き返すべき? でも、ここで急に向きを変えたら、間違いなく目立つ。
……わたしは帽子を少し深くかぶり直すと、そのまま橋を渡ることにした。
わたしはただの旅人――できればただの町娘だと思ってもらえると、もっといい。
とにかく、いつも通りを装って、橋を進んでいき――。
「おや、おはようございます。ずいぶんと早起きですね」
橋の半ばまで来たところで、ヴァルドが声をかけてきた。
思わず足が止まる。その拍子に、籠の中のノワが少し揺れてしまった。
「……おはようございます」
言い淀むことなく、なんとか普通の声色で答えることができた。
「こんな時間に荷運び――もしかして旅の方ですか?」
「――はい、そうです。今日は忙しくなりそうなんで、今のうちに運んでしまおうと思って」
「それはそれは。朝早くからお疲れ様です」
何気ない会話だけど、わたしの内心はすでにもういっぱいいっぱいだった。
一方のヴァルドは、変わらず小鳥にパンを与えながら、穏やかな口調で続ける。
「どうですか、このリーメは。良い町でしょう?」
「……はい、とても」
「私も、朝はよくここへ来るのですよ。この橋からなら、湖がよく見えますから」
それは、本当に何気ない世間話のような言葉だった。
でもわたしは、一瞬にして背筋が凍り付くのを感じた。
私……も? どういうこと? もしかしてこの人は……わたしが毎朝ここに来ていることを、知っていたってこと?
いや……考えすぎかもしれない。本当に毎朝のように、ただなんとなく湖を眺めに来ているだけだと言いたかったのかもしれない。
……わからない。いつかラギが言っていたみたいに、このヴァルドという人の考えが、まったく読めない。
「もうすぐ湖の水抜きが始まりますね」
「……はい。聞いてます」
「珍しい催しですから、見てみたいと思う方も多いでしょう。ですが――」
ヴァルドはこちらへ向き直ると、丁寧に頭を下げてきた。
「その日は、できれば水辺には近づかないほうがよいでしょう。何が起こるかわかりませんから」
どうして――とは、聞けなかった。
どうしてわたしにわざわざそんなことを言うのか――なんて、もちろん聞けるはずもない。
わたしは小さく頭を下げると、それきり何も言わず、そのまま歩き出した。
今は少しでも早く、この男から離れなければ。
灰と香の匂いが、少しずつ遠ざかっていく。
もう少しだ、大丈夫、このまま橋を渡り切ってしまえば――。
そう思ったところで、後ろから声がした。
「ああ、それから――」
再び、足が止まる。
「鈴は、大事になさい」
息が止まりそうになった。
同じような言葉を、以前にも確かに聞いた。
それは旅に出て間もないころ、別の町でヴァルドに初めて会ったときのことだ。
あのとき、わたしがつまずいて鈴を鳴らしてしまった際、彼に鈴のことを聞かれたので、おばあちゃんの形見だと正直に答えると、彼はこう言った。
――それは、それは。大事になさい。
偶然とは思えなかった。
ヴァルドはあのときからこの鈴に目をつけていて、今もこうしてわたしの動向を追っている……もしかしたら、鈴だけでなくわたし自身についても何か知っているのかもしれない。
それでも、彼から何かを聞いてくる様子は、今のところない。わたしを捕まえようという素振りもまったくない。
なので、わたしのほうから彼に何か働きかけるわけにもいかず……彼への恐怖だけが、膨れ上がっていく一方だった。
……何も言えないまま立ち尽くすこと、しばらく。
それきり声がかけられることはなく、おそるおそる振り返ってみると、ヴァルドはもう橋からいなくなっていた。
その代わり――欄干のそばに、小さな紙包みが置かれていた。
中には、飴が入っていた。
彼がいつも子供に配っていたものと、同じ飴だった。
たぶん、ただの飴なのだとは思うけど、わたしは拾う気にはなれなかった。
食べ物を粗末にすることの罪悪感まで背負うことになり、わたしは重い足取りでリコの家に向かう羽目になった。
◇◇◇
舟屋へ着いて事情を話すと、リコのおじいさんがすぐに鈴を人目につかない場所へ隠してくれた。
「ミオ、顔真っ青じゃん。また何かあった?」
「えっと……うん、まぁ、いろいろと……ごめん、あとでちゃんと話すね」
リコは心配そうにしながら白湯を出してくれた。それを両手で受け取っても、前のように指先はなかなかあたたかくなってはくれなかった。
それからリコとおじいさんが一旦席を外したため、わたしは白湯を飲んで気持ちを落ち着かせつつ、床に座っていたノワに改めて話を聞いてみることにした。
「ねえ、ノワ。あの教会の人……やっぱり、わたしのことに気づいてるよね」
「そのようだな」
「でも、だったらどうして……何もしてこなかったんだろう」
ノワは、しばらく考えてから言った。
「娘よ。おそらく、あの男の目的がお前であることは間違いないのであろうが、お前を捕まえるつもりはないのかもしれぬ」
「じゃあ、なんのために教会は、わたしを探してるっていうの?」
「あくまで想像の域を出ぬが……仮にお前を捕まえずとも、少なくとも祠である神殿を完全に封じてしまえば、猫の目覚めを阻止することはできる、ということなのかもしれんな」
「……教会の目的はあくまで猫を起こさないことで、猫を起こすわたしを止めたいからわたしを探してるけど、そもそも祠を完全に封印してどうやっても起こせないようにできるなら、無理にわたしを狙う必要もない……ってこと?」
「たぶんな」
ノワはしっぽを足元に巻きつけた。
「そう考えれば、あの男が少しも慌てることなく、お前を見逃し続けていることにも合点がいく」
わたしは、橋で見たヴァルドの姿を思い出していた。
小鳥にパンを与えていたときの優しげな顔。わたしと何気ない会話をしていたときの穏やかな顔。
それらが、彼の優しさからきているのではなく、あくまで余裕の表れでしかないのだとしたら。
ヴァルドという男に対する恐怖が、一段と増した気がした。




