第36話 その鈴、どこで拾ったの
リコも神殿まで一緒に行く――その話を聞いたリコのおじいさんは、しばらく黙って煙管をふかしていた。
万が一に備えるよりも、わたしが少しでも湖の中でうまく移動できるよう手助けしたほうがいいはずだ、とリコは矢継ぎ早に力説していたが、それでもおじいさんはなかなか口を開かなかった。
やがて、大きなため息とともに煙を吐き出すと、おじいさんはリコの目をじっと見つめながら言った。
「……ありゃ、リコの舟だ。お前の好きにしな」
てっきり怒られるかと思って身構えていたリコは、とてもうれしそうに胸を張った。
そして翌朝。わたしはリコと一緒に、明け方の橋へ来ていた。
「ミオ、あと四日だね」
「うん……そうだね」
「なんかさ、祭りの前みたい。眠れなくて、ちょっと怖いけど、少し楽しみでもあるっていうか」
「……わかる。わたしもそんな感じ」
しばらく二人で、まだ暗い水面を眺めた。
「じいちゃんったらね……昨日の夜、あたいの舟の綱を全部結び直してくれてたんだ」
「そう、なんだ」
「行くなとも、気をつけろとも言わずにさ。古くなってた綱だけ、全部新しくしてくれたの。ああいうの……なんか、ズルいよね」
そういうリコの顔は、なんだかうれしそうだった。
「ミオ、寒くない? はいこれ、白湯。あったまるよ」
ありがたく水筒を受け取って中の白湯をひと口飲むと、冷えていた体が本当にぽかぽかしてきた。
「ねえ、ミオはさ、《猫語り》の力で、寝ている猫の気配がわかるんだよね? 雨の神さまがまだ起きたくないって駄々をこねてるって聞いたときは思わず笑っちゃったけど、他の猫もそんな感じなの?」
水底の猫の寝言については、ノワの言った通り、すでにそのままみんなに話してあった。意外なことに、リコにもおじいさんにも、おかしそうに笑われてしまった。厳格な神さまというよりは、気まぐれな困ったさんというまさに猫のようなイメージが昔からすでにあったようで、ふたりともあっさり納得してしまい、なんだか拍子抜けだった。
そのときの気まずさを記憶の外に追いやりつつ、わたしはこれまで出会った猫たちのことを思い出してみる。
「うーん……今まで会った猫は、ぽかぽかな陽気に包まれてるような気持ちいい感じだったり、優しく看病されている感じだったり……猫によっていろいろだったかなぁ」
「へえ。なんか、癒されそうだね。いいなぁ、あたいも癒されてみたい。雨の神さまの気配だけなら、あたいでもそのうち感じれるようにならないかな?」
「……リコは、怖くないの?」
「え、何が?」
「雨の神さまだよ。教会があれだけ躍起になって封印しようとしている猫なんだよ? いくらノワのおかげで猫に慣れてるからって、同じようなただのかわいい猫じゃないかもしれないんだよ?」
わたしがおそるおそる聞いてみると、リコは白湯をひと口飲み、少しだけ考え込んでから言った。
「全然怖くなんてないよ。だって、ばあちゃんが毎日鈴を鳴らして呼びかけてたんだよ? 悪い子なわけないじゃない。それにさ――」
「それに?」
「どれだけ起こそうとしても、『まだ』なんて言って起きようとしないとか……なんか、うちのじいちゃんみたいでさ。とても他人とは思えないよ――って人じゃなくて猫だったか」
わたしは思わず吹き出してしまった。だめだ、想像上の猫が、一気におじいさんみたいな風貌に塗り替えられてしまう。
わたしが落ち着くのを見守ってから、リコは優しく笑って言った。
「じゃ、そろそろ始めなよ。あたい、周りを見ててあげるから」
「うん。お願い」
リコに水筒を返すと、わたしは欄干に手を置いて目を閉じ、湖の底に眠る猫へ意識を向けていく。
――すぐに、いつもと違うことに気づいた。
近い。
猫の気配が、いつもよりずっと近くに感じられる。今までも明け方だけは眠りが浅くなっていたけれど、今日は浅いなんてものではなく、今にも眠りから覚めそうな、そんな感じがした。
湖の水抜きが近づいていることと、何か関係があるのかな。
もしかすると、今ならもっと声が届けられたかもしれないけど、今はやめておいた。もしここでわたしの声に反応して、前みたいに雨が降ったりしたら、教会が予定より早く動き出すかもしれないからだ。まだわたしたちの準備が万全じゃない今、余計な変化を起こすわけにはいかない。
今日は様子を確かめるだけで、何もしない――そのつもりだったのに。
突然、水底の気配が、こちらへ向いた。
『――その鈴』
心臓が、大きく跳ねた。
前に聞いた寝言とは違う。今度ははっきりと、わたしに向けられた声だった。少し眠そうではあるけれど、落ち着いた女の人のような声が、わたしの頭の中に響いてくる。
『その鈴――どこで拾ったの?』
どうしよう……今日は呼びかけるつもりなんてまったくなかったから、心の準備は何もできていない。
でも……向こうから話しかけてきた以上、無視するわけにもいかない。
ほんの少しだけ迷ったすえ、わたしは正直に質問に答えることにした。
『拾ったんじゃないよ。これは……おばあちゃんにもらったの』
声に出したわけではなく、《猫語り》の力によって、遠くにいる声の主に、わたしの思いを送る。
――そういえば、と。今さらになって、ふと気づいた。
この鈴は、わたしが物心ついたころにはもう、おばあちゃんがすでに持っていたものだ。じゃあ……そもそもおばあちゃんは、この鈴をどこで手に入れたんだろう。わたしはおばあちゃんのことならなんでも知っているようで、実は、何も知らないんじゃないだろうか。
わたしがおばあちゃんのことを考えはじめた、そのときだった。
水底の気配が、かつてないくらいに大きく揺れた。
「……っ!」
急に力が抜け、わたしは慌てて欄干につかまった。
「ミオ!?」
リコがすぐに駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫だよ、リコ」
「大丈夫じゃないよ! 顔、真っ白じゃないか!」
「……猫が、話を聞いてくれるみたい。ここでやめるわけにはいかないの……だから、お願い」
リコは何か言いかけたものの、すぐに言葉を呑んでわたしの背中を支えてくれた。
「少しでもおかしくなったら、すぐやめさせるからね」
「……うん、ありがとう」
息が苦しく、視界も少しかすんできた。それでも、猫の気配はまだ感じられた。
「ミオ……湖の様子が……」
「うん、わかってる」
風もないのに、湖の水面に小さな波紋が広がっていた。それは程なくして消えたけれど、猫が何かに反応しているのは間違いなかった。
それから、水底の気配にまた意識を向けてみたけれど、しばらくは何も聞こえなかった。
少しずつ、猫の気配が遠ざかっていく。いつもの深い眠りへ戻ろうとしているのだ。
今すぐ引き止めたかった。でも、それじゃだめだと、わたしの直感が告げていた。わたしは何も言わず、ただ最後まで耳を澄ませた。
そして、完全に気配が遠ざかる、直前のことだった。
『……カヤは、元気?』
思わず、息が止まった。
わたしは、おばあちゃんの名前なんて一度も口にしてないのに。
伝えたのは、この鈴をおばあちゃんからもらったということだけだ。
それなのに、この猫は――その名前を知っていた。
カヤ。
雨の神さまであるこの猫は、わたしのおばあちゃんのことを、知っているようだった。




