第34話 鉛の棺
水底の猫は、いったいなぜ起きようとしないのか。何を待っているというのか。ノワは教えてくれなかったので、眠りにつくまでずっと自分で考えてみたけど、結局ひと晩たっても答えはわからなかった。
翌朝も、水底の気配に触れてみたけど、猫は相変わらず深く眠っているようで、昨日のように寝言が聞こえることもなかった。それ以上の変化もないようだったので、少し疲れたところで引き上げることにした。
気になることは多い。でも、教会も水抜きを待ってはくれない。
その日の昼、ラギが薬屋から急いで戻ってくると、息を切らしながら懐から一枚の紙を取り出した。
「教会堂に運び込まれた荷物の詳細がわかったよ。これはその記録の写しさ」
ラギが舟屋の床に紙を広げてみんなに見せる。
「川から荷を降ろすときは、荷揚げの料金を決めるために問屋が種類と量を記録するんだ。教会堂の荷物も例外じゃない」
「すごい……よくそんな記録が手に入ったね」
「清め薬の取引で、問屋のご主人にもずいぶん利益を回したからね。今回はその貸しを返してもらったんだよ」
わたしが驚きを口にすると、ラギは少し得意そうにそう言った。
紙には、日付と荷物の種類――それぞれの数が細かな字で並んでいる。リコがそれを上から順に読み上げていく。
「灰、香油、ろうそく……鉛板。あ、ここにも鉛板……って、その下にもまた鉛?」
「そう。ほとんど鉛なんだ。それで、問題はその量なんだけど……」
ラギが続きを説明しようとしたところで、ノワがのそのそと歩いてきて、紙の真ん中に座った。
「ちょっとノワ様!? そこ、いちばん大事なことが書いてあるんですけど!」
「ふむ、ここは暖かくてちょうどよいのである」
「クロちゃん、ちょっとどいて!」
リコに抱き上げられたノワは、心底不満そうな顔をしつつ床に下ろされた。
「こほん――それでね、全部足してみたんだけど……鉛板だけで千二百枚ある。しかも、荷物を積んだ船はまだ出入りし続けてるみたいだから、これからもっと増えると思う」
「千二百枚……」
わたしは、ウルカで見た祠の封印を思い出した。あのとき封印されていたのは扉だけだったので、使われていた鉛板はそれほど多くはなかった。それでも、祠ひとつをしっかり封じるには十分だったというのに……。
「確か教会からの手紙には『神殿を覆うため』ってあったけど……神殿を覆うためだけに、千二百枚も要るものなのかな……?」
わたしのその問いに答えたのは、囲炉裏のそばにいたリコのおじいさんだった。
「水底の神殿は、この舟屋が三つ入るくらい大きい。それでも、入口を塞ぐだけならもちろんそんな量は要らんし、神殿全体を鉛板で囲うにしても、ちと数が多すぎるのは確かじゃ」
「じゃあ……」
「壁も屋根も――つまり、神殿のあちこちに鉛を念入りに貼り付けて密閉するつもりなんじゃなかろうか。もう誰にも簡単には剥がせないくらい、何重にもな」
おじいさんは煙管の灰を落とし、低い声で続けた。
「もし本当にそうなら、もはや封印というより――雨の神の、棺だな」
その言葉に、舟屋にいる全員がごくりと息を呑んだ。
雨の神さまの……棺。
猫をただ眠らせておくのではなく、誰も近づけず、《猫語り》の声さえ届かないように、神殿ごと閉じ込める――それが教会の真の目的で、そのために鉛板が千二百枚も用意されたのだとしたら……。
「なんだよ、それ……」
リコが紙をにらみつけた。
「雨の神さまは、この町に雨を降らせてくれてたんじゃないの? それを棺桶に閉じ込めようっていうの? なんでそんなこと……」
「教会にとっては、自分たちの崇める神ではないんじゃろう。むしろ、鎮めるべき災いだと考えとる」
おじいさんの声は、どこまでも静かだった。それだけに、わたしたちにはずっと重い言葉に聞こえた。
ノワが再び紙のそばへ歩いてきた。今度は上に乗らず、並んだ数字をじっと見つめる。
「ハルガでもウルカでも、封印は人の手で解ける程度のものであった。おそらく吾輩たちの手によって封印が解かれていることを知った教会は、もう二度と誰にも解かれぬよう、早急に対策を講じてきたのであろうな」
ノワのしっぽの先が、ぴたりと宙で止まった。
「真っ先にこのリーメで動き出したということは、教会も知っておるのだろうな――あの姫が、どれほどの力を持っているのかを」
「ねえ、ノワ。湖の底で眠っている猫って、そんなにすごい力があるの?」
「起こしてみればわかる」
それ以上、ノワは何も言わなかった。
教会がそれほど恐れている猫を、わたしたちは目覚めさせようとしている。そのことを考えると、わたしは少しだけ怖くなった。
本当ならすぐにノワの言葉をみんなに伝えるべきなんだろうけど、わたしは口が震えてしまってしばらく何も話すことができなかった。
◇◇◇
問題は、大量の鉛だけではなかった。
夕方、買い出しに出ていたリコが舟屋へ戻るなり、慌てた様子で言った。
「ねえ、まずいかも。市場で、潜水の仕事をしてる人たちに会ったんだけど、教会に雇われたんだって」
「雇われた?」
「水抜きの三日間、水路の見張りと荷運びをするんだって。日当は銀貨一枚。町の他の潜り手も、もう半分くらい教会に取られてるって話だよ」
それだけ高い日当がもらえるとなると、断る人はまずいないだろう。
教会には大量の鉛だけでなく、舟も人手も集まり始めている。
「……せっかくじいちゃんが教会の人たちを遠回りさせても、これじゃあ……」
いつも元気なリコが、珍しく不安そうな声を漏らした。
潜り手が増えれば、湖の見張りも増える。人目につかない水路から先回りするつもりだったわたしたちも、それだけ見つかりやすくなる。
絶対に教会より先に神殿へ着くと、リコには約束した。でも、教会の準備が進むたびに、その約束を果たすのが難しくなっていく。
わたしは床に広げられた荷物の記録を見つめた。
水抜きの日まで、あと六日。
残された時間は、もうあまりなかった。




