第33話 まだ起こさないで
教会からの手紙の内容が気になって、その日の夜はなかなか寝付けなかった。
おかげで翌日の明け方にはすんなり起きられたけど……眠気がなくなったわけではないので、つらいことには変わりなかった。
「ふあ……ミオも毎朝よくやるよね」
「ありがとう、送ってくれて。ごめんね、リコの寝る時間がなくなっちゃって……」
「ふふん、なめてもらっちゃ困るなぁ。あたいはじいちゃんの孫だよ? 朝には強いんだから」
声こそハッキリしているリコだったけど、目はまだ半分しか開いていなかった。やっぱり眠そうだ。
「ねえ、ミオは《猫語り》の力で雨の神さま――湖の猫さまの気配がわかるんだよね? それってどんな感じなの?」
「うーん……すごく大きい何かの中の、とても深いところにいるような感じ? わたしは海って見たことないんだけど、たぶんこんな感じなのかなーって」
「うーん、海の底に沈んでるようなイメージかなぁ……なんだか怖くない?」
「ううん、怖くはないよ。ただ……なんだかすごく遠くて、全然手が届かなくて……さびしい感じ?」
毎朝こうして意識を向けてはいるけど、一向に水底の猫との距離が縮まった気はしない。明け方だけ眠りが少し浅くなるとはいえ、あの通り雨以来、返事らしきものが返ってくることは一度もなかった。
今日もわたしはいつも通り、橋の欄干に手を置き、目を閉じて湖のほうへ意識を向けた。
いつもと変わらず、水底に大きな気配が感じられる。やっぱり、少しだけ眠りが浅くなっているようだ。
今朝も変化はなさそうかな――そう思って、意識を元に戻そうとした、次の瞬間。
水底の気配が、かすかに揺れた。
『……まだ、よ』
わたしはハッとして、思わず目を開ける。
ひょっとして今の声は……水底から聞こえてきた?
不思議なことに、その声がわたしに向けられたものではないことは、すぐにわかった。向こうはこちらに気づいたわけではなく、ただ眠ったまま、ぽつりと寝言をこぼした……そんな声に聞こえた。
――まだ、よ。
まだって、何が?
もう一度目を閉じ、水底に向かって問いかけてみても、答えが返ってくることはなかった。気配はすでに遠く、いつも通り深い眠りへと戻っていく。
気がつくと、わたしは欄干を強く握っていた。ほとんど力を使っていないつもりだったのに、いつの間にか少し足が震えている。必死になるあまり、無意識のうちに集中しすぎていたみたいだ。
「ミオ、大丈夫? 顔、白くなってるじゃん」
「……リコ、一旦戻ろう。ノワに話したいことがあるんだ」
◇◇◇
宿へ戻ると、ノワは朝日の当たる出窓で丸くなっていた。
わたしはノワが起き上がるのも待たず、すぐに橋で聞いた声のことを話した。
「――寝言、であるか」
「うん。『まだ、よ』って言ってた」
わたしはようやく少し気持ちが落ち着いてきたので、出窓のそばにそっと腰を下ろした。
「今までわたしは、三百年も眠らされてるなんて猫がかわいそうだって思ってた。だから早く起こしてあげなきゃって頑張ってきたけど……でも、もし……必ずしもそうじゃない、って猫がいたとしたら……わたしはどうすればいいのかな」
「ふむ……起こす必要がない猫もいる、と?」
「うん……少なくとも水底の猫は、起きられないんじゃなくて……まだ起きるつもりはないって、言ってるみたいに聞こえたんだ」
ノワはしばらく何も言わなかった。しっぽの先だけが、ゆっくりと動いている。
「……あやつは、昔から意地っ張りなのである」
「意地っ張り?」
「せっかくお前が《猫語り》として成長し、こうして向こうの声を拾えるまでになったというのに、聞こえてきたのが言うに事欠いて『まだ』とはな。三百年経っても変わらぬとは、まさに筋金入りの意地っ張りである」
こうして悪くは言っているけれど、不思議とその声には刺々しさがなく、いつもの悪態とは少し違って聞こえた。
「もしかして、ノワは知ってるの? 水底の猫が、どうして自分から起きようとしないのか」
「……さあな」
それ以上は話したくないらしく、ノワはそれきり目を閉じて、前足を舐め始めた。
こうなるとノワは意地でも何も教えてくれないので、すぐに気持ちを切り替えることにする。まったく、意地っ張りなのはどっちなんだか……。
「うーん、みんなにはどう話そう。雨の神さまは起きたくないみたい、なんて言われても、みんな困っちゃうよね」
「そのまま話せばよかろう」
ノワは毛づくろいを続けながら答えた。
「そして、あやつがまだ起きたくないと言うなら、起きたくなるまで呼び続けるまでのことよ」
「……そっか」
「意地っ張りに根気よく付き合うのも、《猫語り》の立派な仕事であるぞ」
わたしは思わずノワを凝視してしまう。そして、なるほどなー! と強く納得するしかなかった。
◇◇◇
その日の昼、リコのおじいさんは教会堂へ向かい、正式に案内役を引き受ける旨を伝えた。
おじいさんの帰宅後、わたしたちはリコの舟で湖の偵察に出かけた。
湖の入口付近まで来たところで、灰色の外套を着た修道士たちが何本もの杭を打ち、その間に縄を張っている様子が目に入ってきた。そばには新しい告示板も立てられている。
――水抜きの期間中、南の湖への立ち入りを禁ずる。
「……湖は町のみんなのものなのに」
リコは不満そうに言いながら、舟を進める手に力を込めた。
教会は、着実に準備を進めているようだ。
わたしたちも、止まってはいられない。
◇◇◇
その夜、わたしは寝る前に、ふと思ったことをノワに聞いてみた。
「ねえ、ノワ。無理矢理起こそうとしたら、猫に怒られないかな……向こうはまだ起きないって言ってるのに」
「怒るであろうな」
ノワはあっさり答えた。
「昔から、怒るとすぐ手が出る猫である。吾輩の耳がまた傷つくやもしれぬ」
「え、そんなに……?」
「まぁ、安心するがよい。要はあやつを怒らせなければよいのである。とにかく起こしてすぐが肝心なのであるが……そのときはそのときである」
「全然安心できないんだけど……」
おかしくなってつい笑ってしまったあと、わたしはもう一つだけ聞いた。
「じゃあ、その猫は、何を待ってるんだと思う?」
ノワは答えなかった。
前足に顎を載せ、目を閉じたまま動かなくなる。
「……ノワ?」
返事はない。
どうやら寝たふりをしているらしい。
「……やっぱりダメかー」
さりげなく聞いてみればぽろっとしゃべってくれるんじゃないかと期待したけど、今回も急に黙ってしまった。
まぁ、ノワが何かを知っているのは、もう間違いないわけで。
それでもあえて黙っているのは、きっとノワなりの考えがあってのことなんだろう。
だったら、今はただ、ノワを信じて待つだけだ。




