第32話 じいちゃんの決意
ヴァルド司祭がリーメにやって来た日の、翌日のことだった。
「ミオ! 教会の人がこっちに来るよ!」
外の様子を見に行っていたリコが、慌てて舟屋へ戻ってきた。
「灰色の人がまっすぐこっちに向かってきてる!」
わたしは水瓶に顔をつけ、息を止める練習をしていたところだったので、びっくりしておぼれそうになってしまった。
「すぐ地図をしまわないと! ノワ様も隠れて!」
ラギが急いで湖底の地図を片づける。わたしはなんとか水瓶から顔を出すと、すぐに濡れた顔を拭きつつ鈴を懐の奥へしまい、帽子を深くかぶった。
ノワにはどこに隠れてもらおうかと迷っていたところ、ラギが近くにあった大きな籠を持ち上げてみせた。
「ノワ様、ちょっとだけ我慢してください」
「よせ、なぜ吾輩が籠に入らねばならぬのであるっ」
「お願いノワ。静かにしてて」
わたしの言葉にノワが黙ったタイミングを見計らって、ラギが籠を素早くノワに被せた。
直後、舟屋の戸口を叩く音がする。
やって来たのは、年配の修道士だった。
「こちらは、トバ殿のお住まいでお間違いありませんか? 水底の神殿を代々守ってこられた方と伺っております」
「わしがトバじゃが」
リコのおじいさんは、普段となんら変わらない様子で答えた。
「教会堂より、お渡しするものがございます」
修道士は一通の手紙を取り出すと、それをおじいさんに渡そうとして――途中、わたしとラギをチラリと覗き見てきた。
一瞬ドキッとしたものの、すぐにおじいさんが助け舟を出してくれた。
「この人たちはうちの舟の客じゃ。気にしなさんな」
「そうでしたか。失礼いたしました」
修道士はそれ以上気にする様子もなく、手紙をおじいさんへ差し出した。
おじいさんは受け取った手紙を開き、しばらく眺めてから言った。
「悪いが、読んでもらえるか。細かい字は見づらくてな」
「承知いたしました」
修道士はおじいさんから手紙を受け取ると、丁寧に読み上げた。
「水抜きの三日間、南の湖において案内役をお願いしたいとのことです。沈んだ町と神殿までの道をご存じの方は、今ではトバ殿しかおられないと伺っております。もちろん、相応のお礼もご用意いたします」
読み終えると、修道士は手紙をたたみ、改めておじいさんに手渡した。
「お返事は明日までにいただければ結構です。教会としてもぜひお力をお借りしたいので、どうかよろしくお願いいたします」
そう言って深く頭を下げると、修道士は舟屋をあとにした。
「……もう行ったか?」
籠の中からノワの声がした。
他のみんなにはただの鳴き声にしか聞こえないものの、そのかわいらしい鳴き声のおかげで、みんなようやく安堵の息を吐くことができた。
それから、最初に声を上げたのはリコだった。
「じいちゃん、当然断るよね!? なんでじいちゃんが教会の手伝いなんかしなきゃいけないんだっての! ね、ミオもそう思うでしょ?」
わたしは……その言葉にうなずくことができなかった。
黙り込んだわたしの心中を察したのか、ラギがリコをなだめるように言った。
「断ったら、教会はトバさんが何か企んでるんじゃないかって警戒しちゃうんじゃないかな」
「え……じゃあ、引き受けたほうがいいっていうの!?」
「警戒されちゃうと、教会に見張られることになるかもしれない。もしそうなっちゃったら、僕たちも湖へはかえって近づきにくくなるかもね」
リコは言葉を失った。
おじいさんはしばらく黙って煙管をふかしていたが、やがて静かに言った。
「……ま、引き受けるしかなかろうな」
「じ、じいちゃん!?」
「まぁ聞け。わしが案内役になれば、教会が通る水路をこちらの思い通りに決められるじゃろう。じゃから、昔からの決まりじゃと言ってできるだけ遠回りになるように案内すれば、教会の到着を遅らせることができるということじゃ」
おじいさんの提案を聞いて、リコは唇を噛んだ。
「で、でも……もしわざと遠回りしてるって、教会に気づかれたらどうするの? そんなことになったら、じいちゃんが捕まっちゃう……」
「嘘をつくつもりはない」
おじいさんは落ち着いた声で答えた。
「昔に一度でも使った水路であれば、どこを通ろうが『昔ながらの通り道』と言えるからな。ほれ、嘘ではないじゃろう?」
「そんなの……ただの屁理屈じゃんか」
すると、おじいさんはこれまで見せたことのないような優しい眼差しで、リコの頭をぽんぽんと叩いた。
「まさかお前がそこまでわしのことを思ってくれるとはな。なに、心配することはない。わしはお前の、自慢のじいちゃんなんじゃからな」
リコはもう、何も言えなかった。
◇◇◇
その日の夜、わたしは、舟屋の玄関先で膝を抱えてうずくまっているリコの隣に腰を下ろした。
リコは、何も言わずに水路をただじっと見つめている。薄暗闇の中でも、その目元がほんの少し赤くなっているのがわかった。
「……あたいには、じいちゃんしかいないんだ」
「うん」
「ばあちゃんも、父ちゃんも母ちゃんも、もういない。じいちゃんだけなんだ」
わたしは少し考えてから、リコのほうを向いた。
「だったら、絶対に教会より先に神殿へ行かなきゃね。教会が、おじいさんを怪しむ前に、必ず」
「……うん」
「わたしたちの用事が早く済んじゃえば、おじいさんも無理をする必要はなくなるしね。わたしたちも頑張らないと!」
「……そーだね。うん、頑張ろう!」
リコは手の甲で目元をこすると、少しだけいつもの調子を取り戻してそう言った。
わたしの隣に座っていたノワが、リコの膝の上へと移動する。
「うわっ、クロちゃん! どしたの?」
「ふむ、たまにはこの膝も悪くないのである」
たぶん、ノワなりにリコを慰めてる……のかな?
でもリコにはノワの言葉は聞こえていないわけで、リコにとっては「クロちゃん」がかわいらしく鳴きながら膝の上に乗ってきたようにしか見えず……リコは歓喜のあまり、ノワを早速あちこち撫でまわしはじめ、ノワは早々に「しまった……」という顔をしていた。
◇◇◇
その晩、寝る前になって、ラギがおじいさんから借りていた手紙に目を通していた。
「……ミオちゃん。ちょっとここ見て。最後に、気になることが書いてある」
ラギのおだやかじゃない様子が気になり、わたしもすぐ隣から手紙をのぞき込む。
そこには、水抜きの日に教会が運び込む荷について書かれていた。
――神殿を覆うため、十分な量の鉛を運び入れる予定である。
「神殿を……覆う?」
これまでわたしは、鉛で封じるのは神殿の扉か入口なのかと思っていた。今までの祠もそうだったから。
でも、どうやらそうではないらしい。
教会は、神殿そのものを丸ごと覆えるほどの、大量の鉛を用意するつもりなのだ。
教会の計画が想像をはるかに上回る規模であったことを知り、わたしもラギも、胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。




