第31話 白の司祭
ノワ専用の小舟の進水式を無事終えた、次の日の朝――。
「ミオ! 起きてる!? 教会の船が来たよ!」
宿の窓の下から、リコの声が聞こえた。
「灰色の輪の旗が立ってるから間違いないよ! とにかくすっごく大きい船が大運河を上ってきてる!」
わたしたちは急いで大運河へ向かった。
橋の上には、すでに大勢の人が集まっていた。リーメでは水路を通りやすい平たい舟をよく見かけるけれど、近づいてくる船は縦にも横にもそれらよりずっと大きい。黒い船体の船首には灰色の輪を描いた旗が掲げられ、甲板には灰色の外套を着た修道士たちが並んでいた。
その中央に、ひとりだけ白い外套の人物が立っている。
「へえ……あの人、なんだかずいぶん偉そうだね。ひとりだけ真っ白だ」
「リコ、あんまり身を乗り出さないで」
わたしは帽子を深くかぶり直しながら、白い外套の人物を見た。
距離があるから顔まではよく見えない。それなのに、なぜか胸がざわついた。
白い外套。落ち着いた立ち姿。
この旅で最初に立ち寄った、ハルガの町でのある出来事が頭に浮かぶ。
町を発つ直前にすれ違った、白い外套の男の人。彼はわたしの鈴の音を聞いて、こう言った。
――それは、それは。大事になさい。
そのときの声を思い出した瞬間、指先が冷たくなった。
「……ミオちゃん?」
隣のラギが、小さな声で呼びかけてくる。
うまく返事ができないでいると、フードの中からノワの低い声が聞こえてきた。
「……この灰と香の匂い――ハルガでかいだ匂いと同じである。あやつは、ハルガで遭遇した教会幹部で間違いあるまい」
いつになく警戒した声だった。
「ミオ、どうしたの? 急に黙り込んじゃって……もしかして、あの白い人のこと知ってる、とか?」
リコに聞かれたものの、確信を持てずにいたわたしは、ひとまず曖昧にうなずくしかなかった。
「……あとで話すね」
今は声が震えてしまってうまく話せそうになかった。
やがて船は教会堂の船着き場に着いた。わたしたちも場所を移し、人だかりの後ろから様子をうかがう。
白い外套の人物が桟橋へ降りると、出迎えた修道士たちが一斉に頭を下げた。その中には、見覚えのある若い修道士――ギドの姿もあった。
そのとき、教会堂まで見物に来ていた子供が、木のコマを落とした。コマは地面を転がっていき、白い外套の人物の足元で止まる。
彼は護衛が拾うよりも先に自らその場に屈むと、コマを拾い上げ、土埃を軽く払ってから子供に返した。さらに続けて、懐から小さな紙包みを取り出して、子供に手渡す。
――やっぱり、彼はハルガですれ違った白い外套の人と同一人物なんだと、わたしはようやく確信する。だってあの紙包みは……ハルガの町で子供たちに配っていた飴と、まったく同じものだったから……。
その光景に、周りの人たちの表情が和らいでいった。
「まあ、なんてお優しいお方……」
「あの方はいったい、どこのどなたなの?」
「ヴァルドさまだよ。都でも名の知れた、偉い司祭さまさ」
ヴァルド……そういえば名前は初めて聞いた気がする。
司祭ということは、ノワの言ってた通り本当に教会の偉い人だったんだ……。
コマを拾ってくれたり飴を配ってくれたり……彼が優しい人物なのは間違いないのだろう。でもその一方で、水底の神殿を鉛で封じようともしている――そんな二面性が、わたしの目にはどこか恐ろしく映った。
ヴァルドは改めて船着き場の前に立つと、集まった町の人たちへ挨拶を始めた。
「お出迎えいただき、ありがとうございます。この町の水は、長いあいだ人々の暮らしを支えてきました。このたびの湖の水抜きも、その営みを守るためのものに他なりません」
大声を出しているわけでもないのに、その声は不思議なくらいよく通った。町の人たちはただただ静かに耳を傾けている。
「どうか皆さまは、いつも通りお過ごしください。荷を運び、水を汲み、それぞれの日々をお送りください。水抜きにつきましては、私ども教会が責任をもって遂行いたします」
ヴァルドが深く頭を下げると、周りの人々もつられるように頭を下げた。
その様子を見て、わたしはゾッとしてしまった。
これまで見てきた教会の人の演説は、その言葉を聞いて反発する人、喜ぶ人、不安になる人……人によって反応は様々だった。
けれどヴァルドの演説は、誰かを責めることも、声を荒らげることもせず、ただ穏やかに話しているだけなのに、聞いている誰もが一様に安心したような顔になっていく。
彼の言葉には間違いなど一片もなく、思わず安心して身を委ねたくなる……そんな話し方だった。
――その後、宿へ戻ってから、わたしはリコにヴァルドのことを話した。旅の初めに一度だけ会ったこと。リーメに向かうと話したこと。そして、鈴を大切にするよう言われたこと。
「あの司祭さまはミオの顔を見たことがあって、行き先もわかっていたから、追いかけてきたってこと?」
「……うーん、元々今回の水抜きで、教会の偉い人が来ることにはなってたみたいだから、関係ないと思いたいところだけど……」
「そっか。ま、どっちにしろ、絶対に気づかれないようにしないとね。ちょっとでも顔を見られたら、すぐ捕まっちゃいそう」
リコは自分事のようにぶるっと肩を震わせてから、少し首をかしげて言った。
「でも、なんか怖いね。あの人」
「……リコもそう思うの?」
「うん。だって、何されてもニコニコ笑ってそうで、絶対に怒鳴ったり怖い顔したりしなさそうじゃん。そういう人って、心の中では何考えてるのかさっぱりわかんなくて、逆に怖いよ」
「リコちゃん、意外と鋭いこと言うね」
ラギが苦笑しつつ、うんうんうなずきながら言った。
「わかりやすく偉そうにしてる人なら、とりあえず近づかないようにすればどうにかなるもんだけどさ。でもああいう人は、いつどこで何をしてくるのかまったく読めないから、ほんと怖いんだよねぇ」
「うぅ……」
わたしは怖くなってきて、床に座っていたノワへ助けを求めるように視線を向けた。
「確かに警戒する必要はあるが、今のうちから気にしすぎていると事を起こす前に心が参ってしまうのである。今はお前のやるべきことに集中するがよい」
ノワはそう言うと、前足を舐め始めた。
「しかしあの灰と香の匂いはなんとかならぬのか。毛に匂いがついてたまらんのである」
「そ、それは大変だね。じゃあ、わたしもいっぱい撫でてお手伝いしてあげるね」
「なぜそうなるのである」
ノワと話していると、なんだか気が楽になってきた。そのお礼がしたくて、ついついノワをわしゃわしゃ撫でまわしてしまうのだ。許してほしい。
そんな呑気なことをしていると、ラギが軽く手を叩いて場を引き締めた。
「とにかく、教会のお偉いさんも来ちゃったことだし、これまで以上に教会の目に注意しながら予定どおり準備を続けていこう」
――教会による水抜きまで、あと九日。
◇◇◇
その日の夕方。
船着き場では、教会の荷物が次々と運び込まれていた。
一通りの指示を終えたヴァルドは、桟橋の端で足を止め、南の湖へ目を向けた。
「ヴァルドさま。そろそろ教会堂へ。長旅でお疲れでしょう」
お供の修道士が声をかける。
ヴァルドはすぐには答えず、風に運ばれてくる水の匂いをゆっくりと吸い込んだ。
「……良い水の匂いですね」
そう言って、わずかに目を細める。
「では、始めましょうか」




