第29話 教会の善意
翌日、市場では昨日の雨についてあちこちで意見が分かれていた。
「恵みの雨に決まってるだろ。あの〈雨やどり〉の屋台まで出たんだぞ」
「でも、教会の言うことだって無視はできないだろう?」
八百屋の店主と塩売りの女が、通路を挟んで言い合っている。
昨日より、少しだけ町の空気が重くなっている気がした。
橋のそばにある〈雨やどり〉の屋台は、今日は閉まっていた。雨の日にしか開かない店なのだから当然だ。
それでも、昨日の屋台をひと目見ようと、足を止める人が何人かいた。
さっさと目的を果たしてしまおうと思い、わたしは帽子を深くかぶり直す。今日はわたしが買い出しの係になっていて、ラギは例によって薬屋へ、リコは舟の仕事へ出ていた。
ええと、干し魚と、道具の補修に使う樹脂、それから防水用の蜜蝋、と。
「娘よ。あまり辛気くさい顔で歩くでない」
「え、そんな顔してた?」
「うむ、いかにも難しいことを考えてそうな顔をしておった」
「むぅ……仕方ないじゃん、実際、いろいろ考えないといけないんだし。ノワもさっきから干し魚の店ばっかり見てないで、ちょっとは考えてよ」
「考えておるとも。ただ、考え過ぎてもしょうがない。今はそんなことよりも、お前が魚を買い忘れぬかのほうが心配でな。ゆえにこうして見張っておるのである」
「買い忘れたりなんてしないってば」
呆れて小さくため息を漏らしつつ、籠を抱え直した、そのときだった。
通りの角から、ガシャン、と大きな音がした。
音のほうに目を向けると、灰色の外套を着た男の人が、ひっくり返った木箱の前にしゃがみ込んでいた。そのまわりには、文字でびっしり埋め尽くされた何枚もの紙と、小さな秤、そして封蝋が石畳の上に散らばっている。
「大丈夫ですか? はい、これどうぞ」
わたしは反射的に男の人のもとへ駆け寄ると、すぐに散らばったものを拾い集め、彼に差し出す。
そして、顔を上げたその男の人と目が合った瞬間――。
息が、止まった。
彼は、ウルカの岩屋や、リーメへ渡る大橋の検問で見かけた若い修道士――ギド、だった。
ノワも男の正体がギドだとわかるや、フードの中でぴたりと動かなくなる。
「ありがとうございます。助かりました」
こちらの緊張など露知らず、ギドはただ丁寧に頭を下げた。
……とりあえず、気づかれてはいないようだ。
手配書に書かれていた内容を思い出す。栗色の髪と鈴を持った旅の娘。栗色の髪は帽子の中に収納してあるし、鈴も布に包んで服の奥に隠してある。
大丈夫……大丈夫のはずだ――そう、何度も自分に言い聞かせた。
「えっと、紙とか足りなくなってるものはありませんか? あ、あと、その秤、壊れてませんか?」
「そうですね……ええ、大丈夫です。お恥ずかしいところをお見せしました」
ギドは、わたしから受け取った荷物を手早く箱へ戻していく。
今のうちだ、すぐ離れたほうがいい――そう思った直後、ギドが悪意など微塵も感じられない笑顔で話しかけてきた。
「その恰好は、ひょっとして旅の方ですか?」
「え……あ、はい。えっと、親戚を訪ねに来まして……」
「なるほど。ということは、道中で北のほうもご覧になりましたよね?」
心臓が、ドキンと跳ねた。
「なんでも、ウルカの流行り病がつい先日、無事に治まったとか」
「……はい、わたしが立ち寄ったときにはすでに……おかげで舟も出してもらうことができて、こうしてリーメを訪れることができました」
「それはよかった。ウルカの件では、私は薬を送ることくらいしかできず……不甲斐ないです。今はもう、町の人たちは元気になられたのですね。それを聞いて安心しました」
ギドは、ウルカの力になれなかったことを本気で悔やんでいるようであり、また、ウルカの人たちが元気になったことを心の底から喜んでいるようでもあった。
「……わたしもそう思います。ウルカが元に戻ってよかったです」
「ええ。本当に」
ギドは、本当に嬉しそうに笑った。
そんなギドを前にして、わたしは胸が苦しくなる。
やっぱり、この人は悪い人じゃない。病気の町に薬を送り、困っている人のことを心から心配するような、根っからの「善人」なんだろう。この人にだったら、ウルカの件の真相を伝えてもいいんじゃないか――つい、そんなことを思ってしまう。
でも――この人は、教会の一員なのだ。
当然、この人もわたしのことを捜しているひとりであり、教会が行おうとしている水抜き――湖の底に向かうという計画にも関わっているのは間違いない。
わたしは、苦しい感情を表に出さないよう、笑顔で誤魔化すだけで精いっぱいだった。
「あはは……それにしても、ずいぶん荷物が多いんですね」
「ええ。近いうちに教会のお偉い方がおいでになりますし、水抜きの準備もありますから」
「水抜き……ああ、南の湖の水位を下げる、とかなんとか」
「そうです。そのあと、湖の底で大きな儀式を行う予定なんです。その準備のため、教会堂は今大忙しですよ」
大きな儀式……やはり教会はラギの推測通り、湖の底に眠る猫を鉛で封印するつもりなんだ。
思わず体に力が入ってしまい、拳をギュッと握ってしまう。
と、そのとき、フードの奥のノワが、爪でわたしの首筋あたりをツンツンと突っついてきた。
娘よ、もう離れるのである――おそらくそんなことを伝えたいのだろう。
わかってる。確かにこれ以上ここにいるのは危ない。
「――よし、これで全部ですね。いやはや、この度は本当にありがとうございました」
ギドが箱を抱え上げたところで、通りの向こうから声が飛んできた。
「ギドさま! 船着き場に次の荷が届きました!」
「わかりました! 今行きます! すみません、バタバタしてしまって。では、私はこれにて失礼いたします。旅の際は、どうかお気をつけて」
ギドがもう一度わたしに礼をし、わたしも頭を下げて応える。
――そのとき、服の奥で、かすかに音がした。鈴を包んでいた布が緩んでしまっていたらしい。
それはあまりに小さな音で、わたしとノワにしか聞こえていなかった……はず。
……はずなんだけれど――。
◇◇◇
旅の娘と別れたギドは、数歩進んだところで、ふと足を止めた。
今、何かが聞こえた気がする。
背後を振り返るが、そこには、店の呼び声、荷車の音、水路を進む舟の音――いつもどおり賑わっている市場があるのみだった。
さっきの旅の娘は、人混みに紛れてしまったのか、もう姿は見えない。
ギドは、外套の胸元に触れた。そこには、何度も読み返した手配書が入っている。
栗色の髪。
鈴を持った旅の娘。
「……気のせいか」
意識しすぎるあまり、なんでもない音まで鈴に聞こえるようになっているようだ。
ギドは小さく息を吐き、今度こそ船着き場へ足を進めた。
――念のため、そのあとさらに二度、後ろを振り返ってみたが、やはりそこには市場以外何もなかった。




