第28話 三百年ぶりの、雨やどり汁
雨はほんの短いあいだ、わずかに降っていただけだった。
それでも昼になるころには、町じゅうがその話でもちきりになっていた。
「南の湖で雨が降ったんだってね」
「あたしも聞いたよ。見れなくて残念だったわぁ」
「この三百年間、ずっと降ってなかったのに。湖で何かあったのかしら」
ノワ、ラギと一緒に市場を歩いていたのだが、聞こえてくるのは雨の話ばかりだった。
なんだか落ち着かない……雨が降ったのは、たぶんわたしが水底の猫に呼びかけたからだろうから。
「……猫が雨を降らせたのだと、今すぐにでも言いふらしたいという顔をしておる」
「そ、そんな顔してないよ」
「わかっておると思うが、お前は教会に手配されておる身だということを忘れるでないぞ」
「だから、わかってるってば」
と、そのとき、水路の向こうから声がした。振り返ってみると、舟に乗ったリコが大きく手を振っているのが見えた。
「ミオ! ラギ! 大ニュース! ほんとに出てたよ、雨の日しか出ないっていう屋台が!」
リコに案内されて向かうと、その屋台は南の水路沿いにある古い橋のそばに出ていた。
年季の入った木の屋台には、〈雨やどり〉と書かれた白い暖簾が掛かり、その前には長い行列ができている。
「見てよミオちゃん、〈雨やどり〉だって。変わった名前だなぁ、どういう意味なんだろう――ってそんなことより並ばないと。なんだかすごくいい匂いがする……」
「わぁ、ほんとだ」
ラギに急かされて、わたしたちも列の最後尾に並んだ。
並んで待っているあいだもリコは興奮しっぱなしで、前の人と楽しそうに話し込んでいた。
「あたい、今朝は南の湖に出ててさ。だからあの雨を思いっきり浴びて濡れちゃった!」
「へえ。そいつは運がいい。しかしなんだって朝っぱらからあんなとこに?」
「それはねぇ、このミオと一緒に――」
「か、観光で! わたしたち、旅をしてて、朝はあの湖がきれいだって噂を聞いて――ね、リコ!」
「え? う、うん」
危ない危ない。リコが勢いに押し切られてくれてよかった。
リコにはただの雨乞いだとしか言っていなかったけど、こんな人の多い場所じゃそれすら口にしないほうがいいだろうと、わたしの直感が言っていた。
その後もリコが口を滑らせないか気を張っていると、やがてわたしたちの順番が回ってきた。
暖簾をくぐると、早速大きな鍋が目に入る。鍋の中では、貝や白身魚、葱の入った汁が湯気を立てていた。
「はいよ、〈雨やどり汁〉! 熱いから気をつけてね!」
店のおかみさんは、笑顔が印象的な明るい人だった。
けれど、その目元が少し赤くなっているのに気づく。
お椀を受け取りながら、わたしはおかみさんにそっと尋ねてみた。
「あの……この屋台って、雨の日にしか出ないって聞いたんですけど、本当なんですか?」
「ああ、本当だよ。ずっと昔から決まってることなんだ」
おかみさんは鍋をかき混ぜながら笑った。
「あたしのばあちゃんから何度も聞かされたよ、『うちの店は、雨の日に開けて、濡れた人を温めてやるためにあるんだ』ってね。だから、いつ雨が降っても屋台を出せるように、常に備えてきたってわけさ」
「じゃあ、これまでずっと……?」
「そう、あたしが生まれるずっと昔からさ。あたしも店を継いで四十年になるけど、これまで一度も出すことはなかったし、このまま出すことなく一生を終えるのかなぁと思っていたのに……」
そう言うおかみさんの声は、少しだけ震えていた。
「引きこもりの屋台だなんて笑われることもあったね。それがまさか、あたしの代で、こうして汁を振る舞うことになるなんてさ。やっと店を出せたよって、ばあちゃんに報告しなくっちゃね」
目元をぬぐうと、そこにはもう涙はなく、また元の笑顔に戻る。
そんなおかみさんを見て、わたしまで目の奥が熱くなってきた。
そのせいか、〈雨やどり汁〉は、信じられないくらいおいしく感じた。貝のだしがきいた熱い汁に、やわらかな白身魚。冷えていた体が、おなかの内側からぽかぽかに温まっていく。
「ふおお……生き返る……」
「ラギ、ほっぺたに葱ついてるよ」
ラギと顔を見合わせて笑っていると、外套の中で、もぞもぞと動くものがあった。
直後、フードからノワの鼻先がのぞき、すんすんと汁の匂いを嗅ぎはじめる。
「だ、だめだよ」
わたしは小声で言って、鼻先をフードの奥へ押し戻した。
「見つかっちゃうってば。そもそも、貝も葱も食べちゃだめってハクに言われたでしょ」
「では吾輩は、何のためにここまで来たのである……」
「ノワ様ノワ様。ほら、こっちです」
ラギが、わたしのフードの奥へスッと手を突っ込み、別の屋台で買ってきた炙り魚をノワに差し出した。
ノワは喜びのあまり、わたしの体に爪を立てた。痛い……けど、我慢しないと……。
「うむ。さすがラギである。気が利くではないか。おい娘よ、そなたも見習うのである。次に雨が降るまでに、吾輩も汁を食べられるよう何か方法を考えておくのだ、よいな」
「猫用の〈雨やどり汁〉かぁ。具を変えるか取り除くかすればいいのかな……」
そんなわたしたちのやり取りを見ていたおかみさんが、おかしそうに笑った。
「あんたたち仲がいいねえ。見たところ、兄妹か何かかい? この辺じゃ見かけない顔だけど、兄妹で旅でもしてるとか?」
「え、わ、わたしたちは――」
「そうなんですよー。妹と行商の旅をしていましてねー。いやぁまさかちょうど立ち寄ったタイミングでこんな奇跡に立ち会えるなんて、僕たちは幸せな兄妹だなー」
……なんとなく釈然としなかったけど、変に怪しまれるわけにもいかないのでここは我慢しよう。さいわい、ノワには気づかれなかったみたいだし。
おかみさんはまた楽しそうに笑い、それから――少しだけ、空を見上げた。
「……また降るかねえ。雨」
わたしもつられて空にチラリと目を向けつつ、お椀に残った汁を飲み干した。
今はまだ、すべてを話すことはできない。
けれど――。
「降りますよ、きっと」
わたしは、はっきりとそう答えた。
「また降りますよ。今度は、もっとたくさん」
「はは、そうかい」
おかみさんは、うれしそうに笑った。
「そうなるといいねえ」
食べ終わったお椀を返し、わたしも笑顔を返す。
「ごちそうさまでした!」
「あいよ。また雨が降ったらおいで」
また雨が降ったら、か。
きっとすぐにその日はやってくるんじゃないかな……そんな気がした。
◇◇◇
帰り道、広場の前まで来たところで、わたしたちは足を止めた。
また、教会の人の声が聞こえてきたのだ。
「――皆さま。今朝の雨を、喜んではなりません」
灰色の外套を着たその男の人は、集まった人々へ静かに語りかけている。
「三百年ものあいだ、この地に雨なぞ降ることはありませんでした。今まで平和だったこの町に降った、突然の雨――水底に眠るという、災いが動き始めた兆しかもしれません」
わたしは広場を見渡した。
昼間まで雨の話ではしゃいでいた人たちが、今は不安そうに演説を聞いている。
「……なんだよ、それ」
わたしの隣で、リコが小さくつぶやいた。
「せっかく雨が降ったのに」
その言葉に、誰も答えなかった。
雨を喜んでいた町に、今度は雨を恐れる空気が広がり始めていた。




