第27話 三百年ぶりの通り雨
教会が水底の「災い」を鎮めると演説した夜、わたしは決めた。
半月後まで待ってはいられない。
明け方、水底の猫の眠りが浅くなる時間に、少しでもわたしにできることを試してみたかった。
「こんな朝早くに鐘楼で雨乞い? 別に構わないけど、なんでまた?」
夜明け前の水路を、リコの舟が進んでいく。
「あ、雨乞いって、毎日地道に続けたほうがいいって、昔おばあちゃんが言ってたからさ」
「へー。ま、舟賃がもらえるならいつでも舟出してあげるから、気軽に声かけてよ」
リコはわたしが嘘をついているとは欠片も思っていないようで、それが嬉しいと同時に、とても心苦しかった。
でも、まだ《猫語り》としての使命を話すわけにはいかないからしょうがない。ノワも特にわたしをとがめることなく、フードの中で大人しくしている。
ちなみにラギは今回も一緒ではない。リーメの薬屋に卸すための清め薬の準備のため、宿でお留守番だ。
『いいかい? 何かあったら、無茶をしないですぐに戻ること。湖のど真ん中でウルカのときみたいに倒れちゃったら大変だからね』
昨夜、そんな風に念を押されてしまったことを思い出して、わたしは小さく息を吐いた。
――舟はやがて水路を抜け、湖へ出た。
空が少しずつ明るくなり始めている。
リコが鐘楼のそばに舟を停めると、わたしは《猫語り》の力で水底の気配を探った。
「……いた」
今朝もやはり水底のお姫さまの眠りは浅いようで、気配をずっと近くに感じる。
フードから出てきたノワが、鐘楼の石段に座った。
「さて娘よ、これからどうする?」
「……考えてみたんだけど」
わたしは包んでいた鈴を取り出した。
「普通に鳴らしても、音は水の底まで届かない。届いていたとしても、ノワが言ってたみたいに向こうが気に留めてくれなかったら意味がない。なら――《猫語り》の力で、鈴の音にわたしの言葉を込められないかなって」
「ほう?」
ノワが少しだけ目を見開いた。
「ほら、猫の気配自体は感じられるわけでしょ? つまり、《猫語り》の力でわたしと水底の猫は、目に見えない『道』みたいなものでつながってるってことじゃない? なら、その『道』を通して、鈴の音と一緒にわたしの言葉を届けられないかなって思って」
「ふむ……」
「えっと……どう、かな?」
「少し前まではただのぽやっとした田舎娘でしかなかったというのに、なかなかどうして、人間というのは成長が早い生き物であるな。よし、試してみよ」
「う、うん!」
何か余計なことまで言われた気がしたけど、ノワなりに励ましてくれているらしいことは伝わってきた。
早速わたしは目を閉じ、水底の猫へ意識を向け――鈴を、一度だけ鳴らしてみる。
チリン。
耳で聞こえた音が、そのまま消えてしまわないように意識する。
その音に、わたしの願いを乗せて、水底の猫の気配へそっと送り出すことをイメージする。
――お願い、起きて……わたしの声に、応えて。
一度目は、途中で感覚が途切れてしまった。二度目もすぐに音を見失って、うまくいかなかった。
次第に息が上がり、額に汗がにじんできた。
「急ぐでない」
ノワが静かに言った。
「音を己の意識に閉じ込めようとするな。流れる音を、そばで感じるだけでよいのだ」
「……わかった」
そして、三度目。
今度は力を抜くために、お願いではなく、わたしの純粋な想いだけを鈴の音に乗せた。
――あなたに、会いに来たよ。
次の瞬間、水底の猫の気配が、かすかに揺れたのを、はっきりと感じた。
「……!」
揺れたのはほんの少しだけ。それでも、今までにはなかった反応だった。
「届いた……?」
そう思った途端、足から力が抜けてしまった。
「ミオ!?」
リコが咄嗟に肩を支えてくれる。
視界が白くかすみ、耳の奥がキーンと鳴っていた。
鈴の音に声を乗せて届けるのは、思っていた以上に体力を使うらしい。
「だ、大丈夫。ちょっと立ちくらみがしただけ」
「全然大丈夫そうに見えないよ! 顔が真っ白――」
そこで、リコが言葉を止め、手のひらを上に向けた。
「あれ?」
わたしも顔を上げ、周囲の変化に気づいた。
「……冷たい」
いつの間にか、鐘楼のまわりに薄い霧が広がっている。
そして、その中から小さな水滴が落ちてきた。
「……雨?」
わたしの頬で、水滴がひと粒跳ねる。
これは――雨だ。
「雨だ!」
リコが、空に向かって両手を伸ばした。
「ほんとに雨だ! ミオ、見て!」
はしゃぐリコをよそに、わたしは辺り一帯を見渡してみる。
周囲の水面にはぽたぽたと水滴が跳ねているが、少し離れたところの水は依然として凪いだまま……つまり、雨が降っているのは、湖のこの辺りだけということになる。
しかも、ほんの弱い雨だ。これでは自然にほとんど影響を与えることはないだろう。
それでもリコは、舟の上で小躍りしながら、手のひらに落ちた雨粒を眺めていた。
「これが……雨なんだ……!」
その言葉を聞いて、わたしはようやくリコがなんでそんなにはしゃいでいるのかを理解した。
ずっと昔、リーメには雨が降らなくなったと、リコのおじいさんは言っていた。
つまり十四歳のリコは、生まれてから一度も雨を見たことがなかったのだ。
「……うん。これが雨だよ」
なんだか胸がいっぱいになってきて、目頭が熱くなってきた、そのときだった。
「にゃっ」
かわいい声に思わず振り返ると、ノワの鼻先に雨粒が当たっていた。
「ノワ、いま『にゃっ』って言った?」
「言っておらぬ」
「えー、絶対言ってたよ」
「王がそんな間の抜けた声をあげるはずがあるまい!」
「じゃあ、ほんとは今、なんて言ったの?」
「…………雨だ! と言ったのである」
にゃっ。雨だ。にゃっ、あめだ。にゃっ、にゃめだ……うーん、苦しい。
わたしのジトっとした視線から逃げるようにして、ノワはぷいっと顔をそむけ、そのままフードの中へ戻っていった。
そんなノワが愛おしくて、つい頬がゆるみそうになったけど……そのまま素直に笑うことは、できなかった。
ノワ、わたし、見ちゃったよ。ノワが……少しだけ懐かしそうに、雨を見上げていたのを。
程なくして、雨はすぐにやんだ。
確かに、ほんの短い雨だった。それでも、確かに雨は降ったのだ。
「……ねえ、ミオ」
リコが、濡れた手のひらを見ながら言った。
「昔、雨の日にしか出ない屋台があったって、ばあちゃんから聞いたことがあるんだ」
「雨の日にしか出ない……屋台?」
「うん。ひょっとして、今日なら出てるのかな」
◇◇◇
同じころ。
教会堂の奥を、ひとりの修道士が急いでいた。
「南の湖で霧が出ました。それから……ほんのわずかですが、湖に雨が降ったとか」
報告を聞いた年配の修道士は、しばらく黙って窓の外を見た。
「……兆しでしょうか」
そのつぶやきに、返事はなかった。
やがて、年配の修道士は静かに口を開いた。
「司祭さまを呼びなさい」




