第25話 水底の祠を守る者
リコの家は、湖に近い水路の外れにあった。古びた舟屋で、軒下には舟がつながれている。壁には干した網が掛かり、その下には桶や漁具が並んでいた。
「じいちゃん! お客さん! それと、すごいの連れてきた!」
「なんじゃと? うちに客なんて珍しいな」
奥から、日に焼けた老人が出てきた。深いしわの刻まれた顔は、眉のあたりがリコによく似ている。手には煙管を持っていた。
老人はわたしを見て、それから肩の上のノワに目を止めた。
からん、と煙管が床に落ちる。
「……猫さま」
老人はその場に膝をつき、深く頭を下げた。
「わしはトバと申します。……そちらの猫さまは、雨の神のお仲間でしょうか」
わたしとリコは顔を見合わせた。
リコは珍しい動物を見るような反応だったのに、おじいさんはまるで神さまを迎えるような態度で――ずいぶんな違いだった。
◇◇◇
ノワには、家でいちばん上等らしい座布団が用意された。
「うむ。近ごろの人間にしては、なかなか礼をわきまえておるではないか」
「あーっ、クロちゃん! そこ、あたいの席!」
「リコ! おまえというやつは……! 猫さまに向かってなんたる無礼を!」
「あわわ、お、おじいさん、あのですねっ――」
おじいさんが怒り出す前に、わたしはこれまでのことを説明した。
わたしたちが北から来たこと。猫は昔話の生き物ではなく、本当にいること。そしてノワが、とても偉い猫だということ。
その流れで《猫語り》や鈴のことも話してしまいそうになったが、すんでのところで町で見た手配書が頭をよぎったため、咄嗟に言葉を飲み込んだ。
「そうか……北の山にも猫さまがおられたのか」
おじいさんは何度もうなずいた。
「うちの家はな、代々、水の底に沈んだ神殿を守ってきた」
「水の底の神殿?」
「ああ。湖の底にある古い建物じゃ。雨の神を祀った場所でな」
おじいさんは、ゆっくりと昔の話を始めた。
三百年ほど前、あの湖がある場所には、昔のリーメの町があったという。
「ある夜、突然川の流れが変わった。水が町へ押し寄せて、朝には何もかも沈んでいたそうじゃ」
「ひと晩で……?」
「ああ。それからじゃ。この辺りでは、まとまった雨が降らなくなった。雨の神も、沈んだ神殿でお眠りになったままだと言われている」
似たような話は、ハルガやウルカでも聞いた。
ただ、ここでは町ひとつが丸ごと水の底に沈んでいる――他とは規模が全然違う。
「それでも、神殿を放っておくわけにはいかなかった。だから昔は、十年に一度だけ湖の水位を下げて、神殿を掃除していたんじゃ」
「じゃあ、おじいさんは、その神殿を見たことがあるんですか?」
「ああ。若いころに一度だけな」
おじいさんは少し懐かしそうに目を細めた。
「じゃが、水を減らすには金も人手もかかる。古いしきたりに金と人を費やす必要はもうないだろうと、誰もが自然と結論づけるようになって……もう四十年ほど、その行事は行われていない」
「……えっと、神殿って、どんなところだったんですか?」
「白い石でできた建物じゃ。まわりには水草が生えていて、その中を石畳の道が通っていた」
おじいさんは遠くを見るような目をした。
「不思議なことに、水の底なのに神殿のまわりだけは明るかった。まるで上から光が差しているみたいにな」
そのときの光景を話すおじいさんの声は、少しだけ弾んでいるようだった。
「神殿の守り手には、二つだけ決まりがあった。神殿のまわりをきれいにすること。そして――扉には触れないこと」
「扉、ですか?」
「ああ。わしらが守るのは神殿の外だけじゃ。中は、雨の神が祀られた神聖な場所だからな」
座布団の上で、ノワが静かに目を細めた。
わたしには、ノワが今考えていることがなんとなくわかる気がした。
――だって、わたしもちょうど同じことを考えていたから。
「……あの、おじいさん。実はうちのおばあちゃんも、祠を守ってたんです」
気がつくと、考えていたことを口に出していた。
「山の上にある小さな祠なんですけどね。おばあちゃんは毎朝掃除をして、お供えをして、ついでにわたしに猫の話をたくさん聞かせてくれました。……二年前に亡くなったんですけど」
「……そうか」
おじいさんの表情が、少しだけやわらいだ。
「なるほどな。初めて会ったとき、他人とは思えない何かを感じたんだが……嬢ちゃんも、祠を守る側の人間じゃったか」
「守る側の、人間……ですか」
うまく言えないけれど、その言葉を聞いて、胸がほんのりあたたかくなった気がした。
わたしは服の下に隠した鈴へ、そっと手を添えた。
「じいちゃん、あたいは? あたいにも何か感じる?」
「おまえは少し黙っておれ」
「ひどい!」
リコが頬をふくらませ、腹いせのようにノワの座布団の端へ腰を下ろした。
ノワは何も言わず、リコにつぶされそうになったしっぽをさっと引き寄せる。
……なんだか、いい家だな。
まだおばあちゃんが生きていたころのことを思い出し、わたしは楽しいやら寂しいやら、なんだか不思議な気持ちになっていた。
◇◇◇
それからしばらく話をして、外が夕暮れ色に変わったころ。
そろそろ宿へ戻ろうとした、そのときだった。
どん、どん、と太鼓の音が、水路の向こうから聞こえてきた。
外を見に行ったリコが、慌てて戻ってくる。
「じいちゃん! 教会から知らせが出た!」
「教会から?」
太鼓の音が近づいてきた。
続いて、知らせを読み上げる男の声が水路に響く。
――半月後、教会主導のもと、南の湖の水抜きを行う。
――水門を閉じ、三日間にわたって湖の水位を下げる。舟を持つ者は注意されたし。
胸元の鈴が、急に重くなったような気がした。
さっきおじいさんから聞いた、もう四十年も行われていないという行事――それを、教会がやるというのだ。
「……なんと罰当たりな」
おじいさんが、低い声で言った。
「昔からの決まりも知らん連中が、勝手に湖の底を暴こうなどとはな」
そして、わたしを見る。
「嬢ちゃん」
「は、はい」
「教会の目的は、間違いなくあの神殿じゃろう。あいつら、神殿でいったい何をするつもりなんじゃ……?」
おじいさんは眉をひそめながら言った。煙管を持つその手が、かすかに震えている。
窓の外では、水路が夕闇に沈みはじめている。
遠くで、教会堂の鐘が、いつもと変わらない音を鳴らしていた。




