第23話 水の都と〈水底の町〉
一夜明けても、ノワのしっぽはまだ不機嫌そうに揺れ続けていた。
「おはよ、ノワ。どうしたの? 昨夜から落ち着かないみたいだけど……」
「なんでもない。気にするな」
「そうは言っても、しっぽが……」
「……猫のしっぽとは、時折こうして勝手に動くものなのだ。ゆえに気にするな」
相変わらず猫の王さまは頑なだけど、今はひとまず置いておくしかない。
まずは水の底にあると思われる祠にどうやって行くのか。そこに眠っている猫をどうやって起こすのか。すぐに解決できるとは思えないので、まずはこの町にしばらく腰を落ち着けるための宿を探さないといけない。
――本当にどうしたものかな……。
◇◇◇
「安くて長居できる宿探しかぁ。今日は薬屋への納品もあるし、忙しくなりそうだなぁ」
朝の船着き場で、ラギが指を折りながら頭の中でやるべきことを整理していた。
「水の底で眠る猫、かぁ。どうすればいいんだろうね? はぁ……せっかくリーメに来たっていうのに、ゆっくりする暇もないね」
ぼやきながらも、ラギはてきぱきと荷ほどきを済ませ、早朝の町へと繰り出していった。
納品の結果は上々だったらしい。道中で仕入れた薬草と蜂蜜が思ったよりいい値で売れたんだとか。
おまけに薬屋の店主から、水路裏にあるという穴場の宿をついでに教えてもらえたのだという。早速ラギに案内されて行ってみると、建物は古いものの、船着き場があり、竈も自由に使えて、しかも宿代は安い、という、確かに長く滞在するには悪くなさそうな宿だった。
これならしばらく腰を据えて猫のことに専念できそうだ。最初の課題がとりあえず解決できて、少しだけ肩の力を抜くことができた。
「よし、今からここが、僕たちのリーメの拠点だ」
「ふむ、この出窓は日当たりもよくて、吾輩の玉座にふさわしいのではないか」
「今回はそこがノワの特等席かぁ」
ノワは早速出窓に収まり、下の水路を行く小舟を眺めはじめた。特等席はお気に召されたようで、しっぽの揺れはいつのまにか収まっていた。
「して、娘よ。いい加減、干し魚の在庫を補充するのだ。犬に食い荒らされて以来、すっからかんなままではないか」
「そうだね、あとで市場で買い足しておくよ。このままだと一日二本どころか、しばらく何も食べられなくなっちゃうからねー」
「せっかく水の都に着いたのだ。奮発して一日三本に増やしても――」
「それはだめ」
ノワは玉座の上で、とても残念そうな顔をした。
◇◇◇
その日の午後、まずはリーメという町を知っておく必要があるだろうということで、わたしたちは散歩に出かけた。
水路のそばを歩いていると、ふと、不思議な光景が視界に入ってきて、わたしはつい足を止めてしまった。
「みーず、みず。上流の水はいらんかねー」
水瓶をずらりと積んだ小舟が、水路をゆっくり進んでいく。近くにいたおばさんが小舟を呼び止めて売り子に銅貨を渡し、桶に水を注いでもらっている。
「ねえラギ。リーメにはこれだけ水があるのに、なんでわざわざ水を買ってるの?」
「あれは飲み水だよ。運河の水は舟が行き交ったり、洗い物に使われたりして、そのまま飲むわけにはいかないからね。だからああして、上流で汲んだものを飲み水として売買するのさ」
わたしは足元の運河をのぞきこんだ。今もたくさんの舟を運んでいる、緑色の水。澄んでいてきれいではあるけど、確かにこの水は飲む気にはなれない。
ウルカでの騒動を思い出していると、どうやらラギも似たようなことを考えていたようで、わたしたちは顔を見合わせて一緒に苦笑いを浮かべた。
それから、小舟の売り子に銅貨を二枚差し出して、わたしたちも飲み水を確保する。
「うむ。さすが水の都。良い水である」
買った水をひと舐めしたノワが、フードの中で偉そうに太鼓判を押す。今まで水の味に言及したことはなかったので、それだけリーメの水が格別だということなのだろう。
それからさらにリーメを散策し、大運河にかかる橋の上に差し掛かったところで、わたしはそっと例の猫の気配をたどってみた。
南のほう……運河を下ったずっと先。今日も気配の主は、その先にいる。気配の源の位置は、昨日から変化してはおらず、わたしたちが近づいた分だけ、昨日よりほんの少し気配が強まっている気がした。
「焦るでないぞ、娘」
懐のあたりからノワの声がした。
「なんの策もなく焦って水へ飛び込んだところで、濡れて溺れるだけであるからな」
「さすがにそんなことはしないよ……わたしのことなんだと思ってるの……」
この旅で少しは成長できたと思っていたけど、ノワにとっては今も旅を始める前と変わらないただの田舎娘という扱いなのかな……だとしたら、ちょっと悔しいかも。……いつか見返してやるんだから!
◇◇◇
夕方になり、わたしひとりで買い出しに出たところ、魚屋のおじさんから妙な話を聞くことになった。
「あんたたち、北から来たんだって? だったら、南の湖は一度見ておいたほうがいい。ありゃあ見ものだぞ」
「湖?」
「大運河をずうっと下った先に、海と見間違えるくらい広い広い湖があってな。ずっとずっと昔、元々は町があった場所らしくってな。何があったかは知らないが、あの湖の底には、その町が丸ごと沈んでるって噂だ」
目の前の魚の匂いが、ふっと遠のいた気がした。
「町が湖の底に……沈んでるの?」
「この町の人間は〈水底の町〉って呼んでる。わしのじいさんの、そのまたじいさんよりも昔の話さ。今でも鐘楼のてっぺんが水面から飛び出しているのが見えたりするんだとか。わしはいまだに見たことないがな」
大運河を下った先……南のほう……わたしが感じている猫の気配のする方角と同じだ。
ということは、この町で眠っている猫というのは――〈水底の町〉のどこかにいるということ。三百年ものあいだ、ずっと湖の底で、眠っているのだ。
「――っ、おじさん、ありがとう! あ、これ、お魚の代金です!」
「お、おう。毎度あり」
忘れずに干し魚を三本買ってから、駆け足で宿へと向かう。南の湖、その底に沈んだ町。早くみんなに教えないと。
そして、通りの角を曲がろうとしたところで――わたしは慌てて足を止めた。
すぐ先の広場に掲示板があり、そのまわりに人だかりができている。掲示板には、貼られたばかりらしい一枚の真新しい紙が見えた。
――鈴ヲ持ツ、栗色ノ髪ノ旅ノ娘。見カケタラ教会ヘ報セヨ。
ウルカの対岸の宿場で見たものと、同じ手配書――いや、わたしの髪色の情報が増えた分、ちょっとだけ詳しくなっていた。それが今、この大きな町の中心にまで貼り出されている。
わたしはフードを目深にかぶり直し、人だかりからそっと離れた。念のため、隠し持った鈴が鳴ってしまわないように、懐をぎゅっと押さえつける。
……掲示板にあったのはあの一文だけ。わたしの顔自体はまだ、教会には知られていない。
でも……本当に大丈夫なんだろうか。
この町にはすでに、あちこちに教会の目が張られてる。ハルガやウルカとは比べものにならないくらい、たくさんの目が。
どれだけ大丈夫だと自分に言い聞かせても、不安が消えることはなかった。




