第22話 水の底に眠る『お姉さま』
教会の荷船を見て緊張するわたしを気づかってくれたのか、ラギがいつも以上に元気よく提案してくれた。
「まずは宿! それから商品の納品! てなわけで、ミオちゃんが無事リーメに到着できたお祝いに、今夜はちゃんと屋根の下で寝よう」
ラギの言うことももっともだった。とりあえずあちらはまだわたしたちには気づいていないんだし気にし過ぎはよくない――なにより、市場から漂うおいしそうな匂いに、わたしのお腹がそろそろ限界だった。
◇◇◇
リーメは、水の都という名前の通り、町全体が水でできていた。
道の代わりに水路が走り、荷車の代わりに小舟が行き交う。石の橋のたもとには市が立ち、見たこともない果物や、銀色の魚、そして香辛料の山が、どれも朝の日差しを浴びて輝いて見える。
「すごい……すごいよラギ。道が全部、川になってる」
「水の都だからねえ。ほら見てミオちゃん。あれが乗合の舟。あっちの太いのが大運河」
「へえ~……この町の人って、どこへ行くにしてもみんな舟で移動するんだ」
「そうそう。だからこの町の子供は、歩き方よりも先に舟の漕ぎ方を覚える、なんてトンデモ話まで聞こえてくるくらいさ」
ラギの話に感心しつつ、さらに町を見渡していると、不意にわたしの鼻が香ばしい匂いをとらえた。
「あ! あの串の魚、湯気が立ってておいしそう!」
「おい娘。吾輩に一本用意するのである」
「はいはい、約束したもんね」
そんなこんなで、まずは串の魚を買うことになった。炙りたての川魚は、皮はパリパリ、身はほろほろで、初めての味と食感に、ただただ舌鼓を打つばかりだった。じっくり味わっていたところ、フードの中から黒い頭がにゅっと伸びてきて、魚を半分ほどパクっとかすめ取られてしまった。
「んん、うまい。娘よ、もう一本寄こすのである」
「ちょっと! 誰かに見られたらどうするの! ちゃんとノワの分も買ってあげるからお行儀の悪いことしないの!」
小声でノワを叱りつつ、魚串をもう一本買ってフードの中にそっと入れてあげた。
ノワが魚にバクバク食いつく音を耳元で聞きつつ、改めて町を見渡してみる。
緑が濃い町だな、と思った。
街路樹も、窓辺の鉢植えも、市場の青物も、みんな深い緑色をしている。故郷のトト村は緑を失いかけ、街道沿いで目にした陸の村々はすでに緑を失くしていたというのに、この町には当たり前のように緑があふれかえっていた。
――《白蝕》は、水辺を避ける。
そういえば――手帳に記された七猫の印は、そのほとんどが水辺にあったんだっけ……。川沿いに残っていた草花。この水の都の存在そのもの。全部ひとつにつながってる気がするのに、どうつながっているのかはまだ全然見えてこない。
「ねぇ、ノワ。七猫のことなんだけど……」
ノワは依然として魚に夢中でかぶりついており、それどころではなかった。
「……はぁ」
実はわたしのことをあえて無視したのでは、とも思ったが、それならなおさらわたしの質問には答えてくれないだろう……わたしはため息をつくしかなかった。
◇◇◇
食事が済んでひと息ついていると、何やら不穏な空気が徐々に漂ってきた。
市場の辻、橋のたもと、船着き場の柱……あちこちに灰色の輪の旗がはためいている。ハルガでもウルカでも、こんなにたくさん教会の紋章を見かけることはなかった。
広場のほうからは、教会の人の演説も聞こえてくる。
「なんか……この町って、教会一色って感じじゃない?」
「実際、リーメじゃ教会の力がかなり強いからね。ほら、あれ」
ラギが運河の向こうを指した。
白壁の家並みの奥に、ひときわ大きな石造りの建物がそびえていた。高い鐘楼と尖った屋根が周囲の建物から抜け出し、正面には教会の紋章を刻んだ大きな旗が垂れている。離れた場所からでも、そこが町の中心のひとつなのだとわかった。
「ほら、あの荷船の行き先も、たぶんあそこだよ」
ラギが声を落とした。風の切れ間に、演説の声がくっきりと聞こえてくる。
『災いの獣』
『北から流れてくる穢れ』
どれも、すっかり聞き慣れてしまった言葉たちだ。
「……ここでも、猫は悪者なんだね」
「かと言って、猫の正体を明かすわけにもいかないしねぇ。しょうがないよ。真実は僕らが知ってればいいさ」
フードの中のノワは、何も言わなかった。
◇◇◇
それからしばらく歩き、大運河にかかる橋の上を渡っていると――。
ドクン、と。
太くて、深くて、大きな流れみたいな気配が、胸の真ん中をゆっくり通り抜けていった。
わたしは、思わず近くの欄干をつかんだ。
「ミオちゃん!?」
「いる……」
「い、いるって、なにが?」
「たぶん……ハルガでスズが『お姉さま』って言ってた猫」
「え、もうわかったの? 着いたばっかりなのに」
「うん……自分でもびっくりするくらい、はっきりわかっちゃった」
ハルガやウルカで感じたものとは比べものにならない、まるでわたしが丸ごと飲み込まれてしまいそうな、とても大きな気配。
もちろん、その方向もはっきりとわかったので、当然ノワも一緒にそちらを見てくれている――と思いきや。
ノワは、全然違う方向を向いていた。
気配の方角は、南の水面の先。なのにノワは、反対側にある市場の雑踏を眺めている。特に何かに反応しているわけでもないようで、耳はぴくりとも動いていなかった。
「ノワ?」
「……なんでもない。宿を探すのであろう。行くぞ」
……この「なんでもない」は、「何かある」ってことだよね。
尋ねても当然答えは返ってこないだろうから、ノワのほうから話してくれるまで、今はただ待つとしよう。
◇◇◇
夕方の宿の窓辺で、わたしはもう一度、あの大きな気配が漂ってくる方向をたどってみた。
気配の主は、南のほう……大運河を下った先にいるようだ。
でも、何かが変だ。
ハルガの祠は、丘の上にあった。ウルカの祠は、崖の岩屋にあった。どっちも、猫が眠っていたのは、陸の上だった。
でも、この気配の主は――水の、ずっと下にいる。ゆらめく水の層を、いくつも、いくつも通り抜けた先。深くて暗い水の底。
「……ねえ、ノワ」
わたしは暮れゆく水の都を眺めながら、窓辺で丸くなっているノワに聞いた。
「リーメに眠っている猫の祠って、もしかして……水の底にあったりする?」
「…………」
「ってことは、その猫って――泳げるの?」
「…………」
ノワは答えなかった。
「大丈夫だよ、ノワ。いざとなったら、樽のイカダ、また作ろ?」
「……娘。お前、さては楽しんでおるな」
「ちょっとだけ」
窓の外で、水の都がゆっくり暮れていく。
ノワのしっぽは、ただ不機嫌そうにゆらゆらと揺れていた。




