第21話 霧の橋を渡りきれ
翌朝、辺りは濃い霧に包まれていた。
荷馬車でしばらく進むと街道はゆるやかな下り坂になり、さらにその先、濃い霧の中に大きな石橋が浮かび上がってくる。
対岸に渡ってしまえば、リーメはもうすぐそこ、なのだが――。
橋のたもとには、板屋根の検問小屋が建っていた。そのそばで篝火が赤く燃え、霧の中に数人の人影がぼんやりと浮かんでいる。
「……いるね」
「いるねえ。しかも、そこらの見廻りって感じじゃないよ」
何人もの旅人が、霧の中でぞろぞろと列を成している。荷はひとつずつ開けられ、念入りに検められていた。列の脇では例によって検問用の犬がくんくんと匂いをかいでいる。
その列の先頭へ視線を移動させたところ、検問小屋の前に見知った人影が立っていることに気づき、わたしは息を呑んだ。
若い修道士が、生真面目に背筋を伸ばして、旅人の顔をひとりひとり検分している。
ハクの眠っていた、あの岩屋で見かけた教会の人間――ギドだった。
「……ノワ。あの人、わたしたちの顔は知らないはずだよね?」
「直接顔を見られたわけでなく、人相書きが出回っている様子もないからな。問題なかろう」
フードの奥で、ノワがいつもどおり尊大に言った。
「そんなに心配なら、吾輩が一暴れして目を引いてやってもよいのだぞ?」
「それはだめ」
わたしは首を横に振る。
「教会に猫が目撃されちゃったら、それこそ本末転倒だよ。わたしなら大丈夫だから……」
ノワはしばらく黙った後、ふん、と満足そうに鼻を鳴らした。
◇◇◇
橋の手前の河原は、対岸の朝市へ向かう人々で賑わっていた。彼らは、旅人とは別の列で検分を受けているようで、若い兵士がひとりで担当しているみたいだ。
列の脇には、野菜籠や水瓶、鶏の籠、川魚の桶など、いろんな荷が並んでいる。どうやら検分用の犬はそちらの列には近づけないようだ。鶏を見れば吠えてしまうし、あの鼻にはいろんな匂いが強すぎるのだろう。
その光景を見て、ピンと閃いた。
「ラギ。いい作戦を思いついたよ。とりあえず、ラギは荷馬車で正面から堂々と行ってくれる?」
「えっ、僕に囮になれってこと!?」
「大丈夫、ラギを置いていったりなんてしないから! いつもみたいに商人として堂々としてくれるだけでいいから!」
「結局便利に使われてるだけのような……まぁいいけどさ」
不満そうに口を尖らせてはいるものの、その手はすでに荷を整え始めているあたり、ラギという人は根っからの商人なんだなぁとつくづく思う。
その場はラギに任せて、わたしは河原の隅に向かい、大きな青物籠を前にして難儀しているおばあさんに声をかけた。
「おばあちゃん、それ、橋の向こうまで持つよ」
「おやまあ、いいのかい?」
「うん。そのかわり……隣を歩かせてもらってもいい? あと、その肩掛けをちょっとだけ貸してほしいな」
おばあさんは検問のほうをじろりと見て、それからわたしの顔をじっと見た。
「近ごろは市に行くにも、いちいちうるさくてねえ。……あんた、わけありかい。ふふ、いいともさ。今からあんたは、あたしの孫娘だ」
ニッと笑った口には、歯が二本しかなかった。
◇◇◇
わたしは鈴を布にくるむと、口の中へ隠した。頬が膨らんでみえないよう、口の中からできるだけ空気を抜いておくことも忘れない。
ノワにはいつぞやのようにマフラーに徹してもらうことにした。頭や脚の先端を覆い隠すように上から肩掛けをかぶれば、よほどしつこく調べられないかぎりはマフラーにしか見えない……はず。
最後にフードをしっかりかぶって髪を隠し、準備ができたところで、検問小屋の前からひときわ明るい声が聞こえてきた。
「毛織物が二箱! こちら蜂蜜、薬草はリーメの薬屋さんへの届け物! 目録の写しもございます、どうぞどうぞ!」
ラギだ。衛兵が三人がかりで荷を検め始め、ギドが目録をのぞきこんでいる。
――今だ。
朝市へ向かう人々の列が、検問の脇をゆっくりと流れていく。途中、若い衛兵がわたしの担ぐ籠の中をちらりとのぞき見てから、おばあさんの顔を見てうなずく。
「婆さん、今日は連れがいるのか」
「大事な孫娘だよ。リーメの市は初めてでねえ」
「ふうん……お嬢さん、顔を上げてくれるか」
ドキン! と、心臓がすごい勢いで跳ねた。
――大丈夫……わたしは大丈夫……。
わたしは顔を上げ、にこっと笑った。籠のふたを自分から開け、青菜の束をひとつかみして衛兵の鼻先へ差し出す。それから自分の喉を指さして、首をゆっくり横に振ってみせる。
おばあさんが間髪入れずに乗ってくれた。
「ごめんよ兵隊さん。この子、風邪で喉をやられちまっててね。声が出ないのさ」
「そうかい。初めてのリーメだってのに、それは可哀想に。市で生姜湯でも飲ませてやるんだな。よし、行っていいぞ」
衛兵は、わたしが差し出した青菜をひと束だけ受け取って苦笑いした。
それから、あくまで自然に一歩、二歩とひたすら歩を進める。マフラーと化したノワは誰にも怪しまれる様子はない。
このまま橋を渡りきれ……渡りきるんだ、わたし!
やがて、検問小屋の前を通り過ぎる。ギドの生真面目な声が、ラギの口上に割りこんでいるのが聞こえてきた。
「目録はもう結構。それより商人どの……道中、鈴を持った娘を見かけませんでしたか?」
「鈴! ああー、鈴ねえ! いやあ僕、商売柄、音の鳴るものには敏感なんですけどねえ!」
ラギの騒がしい声を背後に浴びつつ、わたしたちは黙々と橋を渡っていく。
あと十歩……五歩……三歩……。
――渡り……きった!
◇◇◇
対岸の坂道で、おばあさんに籠と肩掛けを無事返すことができた。お礼に蜂蜜飴を渡そうと思ったら、逆に青菜をひと束押しつけられた。
「お嬢さん。なんだか知らないが、この先気をつけてな」
しわしわの手が、わたしの手をぎゅっと握った。
わたしは、まるで本当のおばあちゃんとお別れするように、名残惜しそうに手を振りつつその場を離れた。
そして少し先の辻まで進んだ先でラギを待っていると、程なくして荷馬車がやってきた。
「ミオちゃん! ……よ、よかったぁ。僕、生きた心地がしなかったよ」
「ありがとう、ラギ。さすが、一流の商人だね」
「はは、ありがと……でもあんな度胸試しはもう勘弁してほしいかな……」
◇◇◇
橋のたもとで、ギドはふと顔を上げた。
今、人混みのどこかで鈴が――。
いや、気のせいだ。このところ、寝ても覚めても鈴の音を探しているから、ただの水瓶の音まで鈴の音に聞こえてしまったのだろう。
ギドは苦笑いを浮かべたまま、手元の目録に視線を戻した。
◇◇◇
坂を登りきったところで、朝の風が吹いた。
霧が流れていき、その向こうに町の姿が見えてくる。
町じゅうをいくつもの運河が走り、そこかしこに石橋が架かっている。水辺には白壁の家々が並び、朝日を映した水面がきらきらと輝いていた。
「わ……」
思わず言葉を失う。こんな町、生まれて初めて見た。
ラギが、荷馬車の上で誇らしげに胸を張る。
「ようこそ、水の都リーメへ!」
「……ようやく着いたようだな」
フードの中から、ノワがそっと顔を出してつぶやいた。
その声色はやわらかく、ようやく安心できると気が抜けそうになった、そのとき。
広い運河をしずしずと下っていく、三隻の平たい荷船を見て、わたしは再び気を引き締めざるを得なかった。
積み荷を覆う灰色の幌と、へさきに立つ小さな旗――そのどちらにも、教会の紋章である灰色の輪が刻まれている。
「……もうこっちにも先回りされてたんだね」




