第19話 念願の川蟹汁の時間です
あの騒ぎから二日後、ウルカにはおいしい匂いが漂いはじめていた。
桟橋のまわりの屋台が、一軒、また一軒と板戸を開け、一斉に川蟹汁を仕込みはじめたのである。
通りでは、おかみさんの末っ子が同じ年頃の子たちと駆け回っていたり、十日ぶりに床から出たというおばあさんが日なたで豆をむいていたり。村にとって当たり前の光景が、ようやく戻ってきたのだ。
初めて村に来たときは川の音くらいしか聞こえなかったのに、今はこうして色とりどりのにぎやかな音が村じゅうにあふれかえっている。
「よぉし、火はそのまま! 蟹はどーんと入れちまえ!」
大鍋の前で仕切っているのは、渡し守のおかしらにしてサヨちゃんのお父さん、ガルドさんだった。病み上がりとはとても思えない、力強い声だった。
今日は村の快気祝いだから、村の人たちにはもちろん、旅人であるわたしたちにも、盛大に川蟹汁をふるまうとガルドさんは言ってくれた。
そしてついに、わたしとラギの手にお椀が差し出される。お椀の中では、赤い蟹と川魚のつみれ、それにどっさりと詰め込まれた葱が、熱々の湯気を立てていた。
……ずずっ。
「~~~っ、おいしい!」
蟹の出汁が体の芯までじゅわっと染みわたっていく。こんなおいしいものがこの世に存在していたなんて、信じられない。
隣にちょこんと座ったサヨちゃんが、お椀で口元を隠しながら、えへへと笑った。わたしもその笑顔に釣られてつい笑みがこぼれる。なんだか川蟹汁のうま味が増した気がした。
隣では、ラギがお椀を抱えて感涙にむせんでいた。
「ああ、これが蜂蜜壺と引き換えに得た川蟹汁かぁ……想像してたよりはるかにおいしい……」
「泣きながら食べたら味がわからなくなんない?」
ラギはわたしの言葉など聞こえていないようで、ひたすら汁をすすり続けている。
「おい娘。前にも言ったが、殻はしっかりと剥いて、身は山と盛るのだぞ、よいな?」
「はいはい、わかっ――」
「お待ちなさい」
わたしとノワの間に割って入ってきたのは、ハクだった。
「王さま、川蟹汁には葱が入っています。葱は私たち猫にとっては毒ですので、そのまま食べてはいけません」
「え、そうなの?」
「な……んだと……?」
人間であるわたしよりも、猫であるノワのほうが衝撃を受けていた。
……ノワって、本当に猫の王さまなんだよね?
「では吾輩は、この芳しき椀を、ただ眺めるしかないと申すのか……?」
「そのまま食べては、と私は言いましたよ、王さま」
その後、わたしはハクの提案をガルドさんに伝え、葱を抜いた川蟹汁を別に作ってもらった。
「蟹はすでに殻を剥いて、身をほぐしてあります。すでに冷ましてありますので、どうぞ召し上がってください、王さま」
ハクの前足の先には、ちんまりした小皿が二つ並んでいた。ちゃっかりハク自身の分もある。
「……ハクよ。そなたはまことに……名医であるな」
「お褒めいただきありがとうございます」
感極まったノワは、勢いよく小皿に顔を埋めて蟹の身をむさぼるように食べはじめた。ハクはその隣で、澄ました顔でノワを眺めている。これではどっちが王さまかわからないなぁと、おかしくて思わず吹き出しそうになってしまった。
◇◇◇
遅めの朝食を済ませると、休む間もなく、その日の昼の舟で村を出発することになった。渡し舟が再開し、リーメへ下る旅人たちがちらほらと桟橋に集まり始めていたため、人であふれかえる前に川を渡ってしまおうとラギが提案したからである。
ハクは例によって桟橋の杭の上にのぼり、わたしに小さな包みを差し出した。中には、乾かした薬草が几帳面に分けて束ねてある。
「清めの薬包です。旅先で熱や腹下しに見舞われた際は、煎じて飲んでください。……それと、猫語りどの。ひとつ、あなたの耳に入れておきたいことがあります」
琥珀の瞳が、すっと細くなった。
「渡し舟を待つ旅人たちが話していました。近ごろ、灰の教会の荷馬車が続々とリーメへ向かっているそうです。その荷馬車には、鉛が積まれていたとか」
「灰の教会って……例の、灰色の外套を着た人たちのことだよね。じゃあ、鉛って……」
「おそらくリーメでも、猫絡みで何か企んでいるのでしょう。リーメに向かう際は、どうかお気をつけて」
それからハクは、すでにフードの中に潜り込んでいるノワに向き直った。
「王さま。今後は、丁寧な毛づくろいを心がけてくださいね。次にお会いしたときにまた毛並みが荒れていたら――」
「余計なお世話である。吾輩は吾輩のやりたいように毛づくろいするのである」
「では、せめて毛づくろいの前に水浴びを――」
「断固拒否である!」
それきりフードの奥に引きこもってしまったノワに、ハクはやれやれと首を振ると、最後にもう一度わたしへと向き直った。
「猫語りどの。王さまのことを頼みましたよ」
「うん、わかった。……ねぇ、ハク。あのね……最後に一回だけ……なでちゃ、だめかな。ちょっとだけでいいから」
またしてもやれやれと首を振るハク。やっぱりだめかぁ……と、思いきや。
ハクは杭からするりと降りて、わたしの足元に頭をぐいっとこすりつけてきた。
「……ご健勝を祈ってますよ、猫語りどの」
◇◇◇
サヨちゃんは、舟が出るぎりぎりまで、わたしの袖をつかんで離さなかった。
「はい、これ。炒り豆。旅の道中で食べて」
「ありがと。……じゃあ、お返しにこれあげる」
ラギの荷から分けてもらった蜂蜜飴ひと袋を、その小さな手に握らせた。
「っ、ありがとう、お姉ちゃん……また来てね。今度は、今よりもっと元気になったウルカが、もっともっとおもてなしするから」
「うん、きっとまた来る。それまでハクのこと――白沢さまのこと、お願いね」
「まかせて!」
そして、大舟は荷馬車ごとわたしたちを乗せて出発した。ちなみに、お代は受け取ってもらえなかった。命の恩人から代金を取ったりしたら川の神さまに叱られるからと、ガルドさんが言って聞かないのだ。
ラギは「タダより高いものはないんだけどなあ」とぶつぶつ言いながら、こっそり蜂蜜の小壺ひとつを舟に積まれた網の陰に置いていた。商人として譲れないものがあったのだろう。
そしてノワはというと、大舟に乗った途端、堂々と船首に立った。
「うむ。……これでこそ王の御座船である」
「イカダのときは外套の中に隠れてたのに、この舟は平気なんだ」
「娘よ。何を勘違いしておる。吾輩は常に平静であるゆえ――」
「あ、うん。そだね」
延々と続くノワの言い訳を聞きながら、遠くなったウルカの村を見やる。サヨちゃんも、ガルドさんも、そしてハクも、すでに顔が見えないほど小さくなっていた。
絶対にまた来るから……だから、みんな……元気でね。
あたたかい風が、わたしたちを優しく撫でるように吹き抜けていった。
◇◇◇
対岸の街道に到着し、大舟を降りてから歩くことしばらく。
最初の宿場町に着くころには、すっかり日が暮れていた。
リーメまではあと二日かかるというので、通りで宿を探すことになった。
と、先を行くラギが、不意にぴたりと足を止めた。
「……ミオちゃん、あれ」
指さした先には掲示板が立っており、そこにはこんな貼り紙があった。
――鈴ヲ持ツ旅ノ娘、見カケタラ教会ヘ報セルコト。
腰の鈴が、急に重たくなった気がした。
フードの中で、ノワが低く言った。
「……娘、とりあえず鈴は懐へ隠しておけ」




