第17話 白猫ハクの《福》
祠を封印した人たちは、何をそんなに恐れているのか。
ハクの問いへの答えは、焚き火が燃え尽きるまで考えてみても、一向に出てこなかった。今はとりあえず置いといて、先にウルカの村をなんとかしないと、だ。
夜が明けてすぐ、わたしたちは崖を下り、イカダを泊めてある岩場へと向かった。ちなみに祠から取り除いた鉛の板については、そのまま置きっぱなしというわけにもいかないので、イカダに積んで持ち帰ることにした。
「ほう、張り綱を伝って来られたのですね。では失礼して――」
ハクは顔色ひとつ変えずに平然とイカダの上に飛び乗り、端っこに座ったかと思うと、身を乗り出して水面に鼻先を寄せていた。
「この川は汚染されていないでしょうか……ん、問題ないようですね」
「ハクよ! 川に落ちたらどうする! 早く離れよ!」
一方、猫の王さまときたら、早速ハクという名を自由に使いつつも、すでにわたしの外套に潜り込んで、わたしの体にしっかりしがみついていた。昨日ほど爪の食い込みが深くないのは、少しは水に慣れたということだろうか。それとも単に諦めただけか。
「王さま。水は太古の昔より、我々猫も含めたあらゆる生命の渇きを潤してくれるものです。それにこちらの川は飲んでも問題ありませんし、何も怖がる必要は――」
「だ、誰が怖いと言った! 万が一に備えよと言っているのであってだな!」
その後もノワは何やら騒いでいたが、わたしたちは気にせず黙々とイカダに乗り込んでいくのだった。
◇◇◇
帰り道は特に何事もなく、イカダは順調に川を進んでいった。ノワも川の上ではずっと静かにしており、平和なものだった。体に食い込む爪だけはなんとかしてほしかったけど……。
やがて、桟橋が見えてきた。その上では、サヨちゃんがこちらに向かってぶんぶんと手を振っていた……んだけれど、イカダの上の白い猫に気づいた途端、ピタッと目を丸くしたまま固まってしまった。
「えっと……その、獣? はいったい…………あっ、ひょっとして……」
「うん、そうだよ。この子が、みんなが白沢さまって呼んでいる猫――名前はハクっていうの」
「ハク……白沢さま……ほんとに、いたんだ……」
サヨちゃんは両手で口を押さえ、その場にぺたんとしゃがみこんでしまった。
ハクはひらりと桟橋に降りて、まっすぐサヨちゃんを見上げる。
「ふむ……顔色は問題ないようですね。かすかに鉛の匂いがしますが、これくらいなら私の《福》でどうにかなるでしょう。今まで、よく踏ん張りましたね」
そう言って、サヨちゃんの手に鼻先をちょこんとくっつけた。
「さて……猫語りどの。患者たちのところへ、案内していただけますか?」
◇◇◇
まずは宿に向かったところ、おかみさんの末っ子は今日も苦しそうに、細く浅い息を繰り返していた。
ハクはその枕元に座ると、額、手首、胸の順に、ひたりひたりと鼻先を当てた。白いしっぽの先が、ゆっくり規則正しく揺れる。
「熱が長引いたことで衰弱してはいますが、脈はまだしっかりしています。今ならまだ、十分に間に合います」
それから、琥珀の瞳が部屋の隅の水瓶に向けられた。
「まず、あの水を捨てなさい。村じゅうにある白沢の水の汲み置きは、すべて捨てることです。飲むのはもちろん、粥に使うのも、今日限りやめなさい。当面の水はすべて川上で汲み、必ず沸かしてから使うこと。いくら薬があっても、元を絶たなくては治る病も治りませんので」
わたしはハクの言ったことを、そっくりそのままおかみさんに伝えた。
おかみさんは当然困惑し、おろおろと狼狽えはじめる。
「白沢の水を捨てる……? だって、今までずっと、村を支えてきた水なんだよ?」
「その水が、まさに皆さんの害となっているのです……半年くらい前から、異変はあったはずですよ。例えば――味がおかしくなった、とかね」
わたしが引き続きその言葉を伝えると、それまで黙って話を聞いていたサヨちゃんが、ゆっくりと口を開いた。
「あたし、嘘つきじゃなかったでしょ? 白沢さまがそう言ってるんだよ?」
おかみさんは泣きそうになりながら、末っ子が弱々しく息を吐くのを聞いた。それから土間に下り、水瓶を抱えて庭に飛び出すと、中の水をザバッとぶちまけた。
そして、覚悟を決めた表情で、サヨちゃんのほうを振り返る。
「……サヨちゃん、今の話、みんなに伝えてくれるかい? 私も一緒に行くからさ」
「――っ、うん!」
◇◇◇
それからしばらくのあいだ、ウルカではあちこちからバシャバシャと水が地面を叩く音が聞こえてきた。
サヨちゃんとおかみさんが一軒一軒回って、汲み置きの樽を空けさせる。ラギとわたしは荷馬車で川上と村を何回も往復して、川の水を汲んでは村じゅうに配って歩いた。
そしてあっという間に日は暮れていき――。
ハクがふと、夕焼けに照らされた桟橋の杭の上にのぼって、すっと座った。
「さて猫語りどの、仕上げです。流行り病をこの村から追い出します。ただ、病み上がりの私では十分な《福》を村じゅうに行き渡らせるのは難しいでしょう。なので……あなたの力を貸してください」
「うん、わかった」
チリン。
「ハク。この村から――病を、追い出して」
わたしの願いが鈴の音に乗って、ハクの白くて長い毛に、すうっと吸い込まれていった。
次の瞬間、ハクの毛が、ふわりと膨らんだ。夕闇の中で、そこだけ月が下りてきたように、ほんのり白く光る。川から吹いた風が、村じゅうを撫でるように通り過ぎていく。あたたかい猫の匂いがする、とても心地いい風だった。
風を追いかけるようにして視線を村のほうへ向けると、軒下で咳きこんでいたおじいさんが、ふっと顔を上げ、胸いっぱいに息を吸うのが見えた。
ハクの《福》が村人に届いたことを目の当たりにし、安心した直後、膝からかくんと力が抜けた。倒れる寸前、ラギの腕とノワの背中が、わたしの体を支えてくれた。
「なかなか万全の状態で鈴を鳴らせぬな……ともあれ、ご苦労であった」
「ミオちゃん、お疲れ様」
ふたりにお礼を言いつつ杭の上をチラリと覗き見ると、ハクも少しだけ息が上がっているのが見えた。ハクもまた、病み上がりでつらいだろうに、それでも、わたしが眠っているあいだもひと晩じゅう眠ることなく、村人たちを診て回ったのだという。
◇◇◇
夜が明けると、村の様子は一変していた。
わたしは、この宿に泊まって初めて、うなされる声で夜中に起こされることなく、すっきり朝を迎えることができた。
そっと奥の間をのぞくと、おかみさんが末っ子の枕元で声を殺して泣いていた。子供はすっかり熱が下がったようで、ぼんやりと目を開けて、はっきりした声で言った。
「かあちゃん……おなかすいた」
わたしは、いつの間にか起きてきていたラギと廊下で手を取り合い、心から喜んだ。ノワは知らん顔で毛づくろいをしていたけど、しっぽがゆらゆら揺れていたので、一緒に喜んでくれていたようだった。
おかみさんに朝の粥を炊いてもらっていると、表からサヨちゃんが転がるように駆け込んできた。
「お姉ちゃん、大変……! し、神父さまが……」
サヨちゃんは、息を切らして言った。
「みんなの病が治ったのは、獣の妖術のせいだって……岩屋にその証拠があるはずだから……今すぐ舟を出せって、みんなを桟橋に集めてるの!」




