第16話 白猫先生、三百年ぶりの診察です
夕焼けの中、鈴の音が、丸い扉に吸い込まれていった。
……返事はなかった。
扉の向こうからは、確かに気配を感じる。鉛から解放されたためか、さっきまで感じていた熱っぽさはやわらぎ、頭も少しずつすっきりしてきている。であれば、この気配の主――扉の向こうの猫は、今は病み上がりでぼーっとしているところなのかもしれない。
「問題ない。そのまま呼び続けよ」
わたしの背中を後押しするように、ノワが力強い言葉を投げかけてくれた。
「――うん! ねぇ、猫さん……お願い、起きて。もう、大丈夫だよ」
病み上がりの体を気遣うように、優しく語りかける。
そして、何度目かの呼びかけの後――。
石の扉が、ゆっくりと音もなく開き……一匹の猫が、よろりと敷居をまたいで出てきた。
白い猫だった。ほっそりして、長い毛はあちこちぼさぼさで、瞳は理知的な琥珀色をしている。その目は夕日を浴びてしぱしぱと細くなり、わたしたち二人と一匹を順番に眺めて――開口一番、こう言った。
「……患者は何人ですか」
「え?」
「患者の数です。水を飲んで体調を崩した人、流行り病で倒れた人――ウルカ村には、そういった苦しんでいる人が大勢いるはずです。祠で眠っているあいだに、村人の苦しむ声がたくさん聞こえてきました。具体的にいつ頃から、何人くらいの人が、どのような症状に苦しんでいるのか、わかりますか?」
た、畳みかけてくる。わたしはウルカで看病をして回ったときのことを必死に思い出した。寝込んでいる人はたぶん三十人くらいいて、みんな大体ひと月半ほど前から症状が現れたって言ってた気がする。熱でうなされている人、お腹の痛みを訴えている人が何人いて、そのうち子供とお年寄りが何人いたか、等々――。
「……よろしい。おおむね分かりました」
その白猫はきゅっと座り直し、前足をきちんとそろえて、わたしを見上げてきた。その姿は、まるでトト村の診療所の先生みたいだなと思った。
「三百年も眠っていたせいで、私の《福》はもう、ほとんど届かなくなっていたようですね。そこへ追い打ちのように、私のなけなしの《福》を鉛で塞がれて……面目次第もないです」
「あまり己を責めるものではないぞ、白いの」
ノワに勇ましい声をかけられて、うなだれていた白猫がパッと顔を上げた。
「あぁ、王さま……お久しゅうございます」
「うむ。最近は熱にうなされていたようだが、息災なようで何よりである」
「ご覧の通り、今はすっかり元通りです。それはそうと王さま……その、毛づくろいが少々雑になってはいませんか? ずいぶんと過酷な旅をされてきたのでしょうか……」
「吾輩のことは診んでもよい!」
どうやら、この白猫もノワの知り合いだったようだ。お互いの遠慮のなさから、気の置けない間柄であることがうかがえる。
それから白猫は、岩屋の奥で静かに湧いている小さな泉へ鼻先を寄せた。続けてわたしたちが剥がして積んでおいた鉛の板の山を検分すると、その琥珀の目を細めた。
「……やはり、かすかですが鉛の匂いがしますね。半年のあいだ、雨のたびに鉛の毒が少しずつ泥水として流れ、この湧き水に混ざってしまったようです。そこへ、流行り病が重なってしまい、このような事態に……」
ノワの言っていた通りだったようだ。ノワにこっそり尊敬のまなざしを向けると、ちょっとだけ得意そうにひげを立ててきた。かわいいなぁこの王さま。
「私自身も鉛の毒にあてられていたようです。眠りながら、ずっと悪い夢を見ているような状態で……《防疫》の《福》の使い手として、お恥ずかしい話です」
「あなたのせいじゃないよ。あんな風に扉を封印されちゃったら、どうしようもないもん」
わたしがそう言うと、白猫は初めてまじまじとわたしを見た。
「……なるほど、あなたが《猫語り》ですね。お名前をうかがっても?」
「わたしの名前はミオ。そうだ、あなたの名前も、教えてもらえないかな?」
「私は名を持ってはおりません」
琥珀の瞳が、ほんの少し伏せられた。
「ウルカの村の子らは、いつの間にか私を白沢さまと呼んでおりましたね。といっても、私という猫そのものではなく、この湧き水、あるいは、湧き水に宿る守り神のような存在のことを指しているようでしたけど」
じゃあ、とわたしは膝をつき、白猫と目の高さを合わせた。
「ハク……白いから、ハク。どうかな?」
「…………」
「あ、安直、だったかな?」
「……いいえ、そんなことはありませんよ。うん、よろしい」
白猫は、つんとあごを上げて言った。
「私はこれからハクと名乗りましょう。ハク――悪くない響きだと思います」
白いしっぽの先が、ゆらりと揺れた。どうやらそれなりに気に入ってもらえたらしい。
と、しっぽを眺めていると、やがて視線は自然と、ぼさぼさの毛で覆われた体へと移っていく。ノワやスズとは、また違った触り心地なんだろうなぁ……。
「ねえ、ハク。早速なんだけど……ちょっとだけ、体を撫でてもいい? ほんのちょっとだけだから」
「遠慮させていただきます」
ぴしゃりと断られた。うーん、これは手強いかも。でも、わたしは諦めないからね!
◇◇◇
気を取り直したところで、鈴を鳴らしながら、改めて白猫の名前を呼ぶ。
「ハク。お願い――あの村を、助けて」
チリン、と鳴った音が、ハクの白い毛にすうっと吸いこまれ、ほんのり光った……ような気がした。
直後、視界がぐらりと揺れ、わたしはまた膝から崩れ落ちるも、地面に手をついてかろうじて体を支えることができた。崖を登って疲れていた体に、契約の負荷が重くのしかかってくる。
「ミ、ミオちゃんっ!? 大丈夫!?」
「へーきだよ、いつものやつだから……ありがとう、ラギ」
「へーき、ではありません」
ハクがてとてと歩いてきて、わたしの手首にひたりと鼻先を当てた。
「脈が速い。顔色も悪い。猫語りどの――どうやらあなたが、目覚めて最初の患者のようですね。今夜はここで休みなさい。村へ戻るのは明日の朝です。よろしいですね?」
「で、でも、村の人たちが……」
「病人の村へ、病人を連れて行くわけにはいきません」
ぐうの音も出なかった。ラギは笑いながら焚き火の支度を始め、ノワは「当然であるな」となぜか偉そうにうなずいていた。
◇◇◇
その晩、ハクは焚き火のそばで、わたしたちが剥がした鉛の板を、改めて念入りに検分していた。
「……妙ですね」
「妙って……なにが?」
「この鉛――とても丁寧に手入れをされていて……優しさすら感じられます」
ハクは、前足で板の裏を指し示した。
「裏に柔らかい布が当ててある。祠の石を傷つけないためのものでしょう。祠を封印せざるを得なかったものの、壊したくはなかった……そういう意思が伝わってくるようです」
琥珀の瞳が、焚き火ごしにわたしを見た。
「猫を憎む者の仕事とは思えません。この封印を施した人たちは――いったい何をそんなに恐れているのでしょうね」




