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第15話 人の善意

 わたしたちは近くにあった大岩の陰に急いで転がりこんだ。


 心臓がバクバクいっている。霧はもうすっかり薄くなっているので、頼りにはならない。見つかっただろうか……いや、向こうは今もこっちに背を向けたままだ。


 その灰色の外套を着た人物は、岩屋の前にひざまずいて、入口を封じている鉛の板に手を当てていた。


「なんで教会の人が……」


「静かに……どうやら祈っておるようだな。声からして、若い男のようだ」


 風向きのおかげで、途切れ途切れではあるが、わたしの耳にも声が届いてきた。ノワの言うとおりそれは祈りの言葉であり、ひと通り唱え終えると、その男の人は立ち上がって崖下の川べりに向かって声をかけた。見れば、下の岩場に小さな舟がもやい綱で結びつけられており、その上では年寄りの船頭さんが煙管をふかしている。


「ギドさま、用事はお済みですかい」


「ええ。封印の無事を確認できました」


 ギドと呼ばれたその男は、崖からすぐには下りず、対岸の村のほうへ目をやった。


「……村の具合はどうですか?」


「ひどいもんですわ。親類を頼ってうちの村まで逃げてきたやつまでいますよ。祟りだ祟りだって、そればっかりで」


「祟り……」


 ギドはしばらく黙りこんだ。


「早く良くなるといいのですが……次の便で教会の薬を届けさせましょう。私にできるのはそれくらいです」


 ――教会の人、なんだよね? 今まで見てきた人たちとはずいぶん雰囲気が違うというか……少なくとも悪い人には思えなかった。


 ギドという男から目が離せなくなり、さらにその言動を注視していると、今度は懐から折り畳まれた紙を取り出して、中に書かれた文字を読み上げはじめた。


「ふむ……『南へ向かう旅の一行に注意されたし。栗色の髪の、鈴を持つ娘。見かけても手出しは無用、ただちに上へ報せよ』……鈴を持つ娘、ですか。あなたは何かご存じですか?」


「さあねえ。しかしまぁ、近ごろの教会さんは妙に忙しないですなあ」


「ええ……まったくです。私にも、何がなんだか」


 ギドはそれきり口を閉じたまま舟に乗り込み、程なくして岩場を離れていった。


 ――わたしは岩の陰で膝を抱え、舟が出ていく音を聞いていた。


 栗色の髪の、鈴を持つ娘。


 それって、わたしのこと、だよね……? 教会がわたしを追っている? なんで……?


 混乱するわたしの心中を察したのか、ノワがすぐさま状況を説明してくれた。


「恐らく、ハルガの町ですれ違った、あの教会幹部の男であろうな。ただものではないと思っておったが、やはりもう目をつけられておったか……お前が《猫語り》であることも、すでに見抜かれているやもしれぬな」


「そんなっ、わたし、何もマズいことは言ってない……よね?」


「安心しろ。相手がそれほどの男だったというだけのこと。運が悪かったと思って諦めるしかあるまい。そんなことよりも――すでにああして末端まで文が回っておるとなると、この先も灰色の外套を嫌と言うほど目にすることになるであろうな」


 ラギが、はあぁ、と長い息を吐いた。


「僕まで早くもお尋ね者の一味にされてしまうなんて……」


「……今ならまだ一味から抜けられるよ?」


「馬鹿言わないでよ。君たちが商売の種として魅力的なのは今も変わらない。僕はその種に出資すると決めたんだ。商人に二言はないよ。それに……今抜けちゃったら、報酬の川蟹汁がもらえなくなるだろ?」


 どこまでもラギらしい言い分に、わたしはちょっとだけ泣きそうになった。


◇◇◇


 ギドの舟が川下へ遠ざかり、その姿が見えなくなるまで、わたしたちは岩陰でサヨちゃんの炒り豆をかじりながらじっと待っていた。


「……ねえ、ノワ。あのギドって人、本当に教会の人なのかな? 村に薬を送るって言ってたし、なんだか悪い人には見えなかったけど」


「善人であろうよ。おそらくはな」


 ノワは豆には見向きもせず、川下を見つめたまま言った。


「教会が悪人だらけなら、とっくに滅んでおるだろうよ。おそらく祠を鉛で封じているのも、純粋な善人が良かれと思ってやっておるのだろうからな。だからこそ……厄介なのだがな」


 良かれと思って……か。


 わたしは一瞬、ウルカの水瓶のことを思い出して、すぐに胸の奥にしまい込んだ。


◇◇◇


 やっとギドの舟が見えなくなったところで、わたしたちは崖を登りはじめた。


 中腹までの道は、思ったよりも整っていた。昔の人が岩肌を削って作ったらしい細い石段が、何度も折れ曲がりながら岩屋まで続いている。元々はお参りの道だったのかもしれない。


 石段を登りきると、まるですぐそばにいるんじゃないかと錯覚するくらい、例の気配は強くなっていた。


 岩屋の奥に、丸い石の扉が見える。扉の表面にはトト村やハルガの祠と同じく、やはり歯車と月の紋が刻まれている。そして……扉を覆うように、鉛の板が幾枚も貼り重ねてあった。


「ラギ、今回もお願いします」


「はいはい。……しかし傍から見ると、僕たちのやってることって、完全に物盗りだよね」


 そんなことを言いつつも、ラギはすでに鉛へ布を当て終えており、音を殺しつつ鉛を端から少しずつ浮かせていく。


 タガネの先が奥に進むほど、手のひらに鉛の重さがずしりとのしかかってくるようだった。ギドはすでに川下の向こうに消えたとは言え、それでもなるべく急いで事を進めたいところだ。でも、ハルガのときのように、また焦って大きな音を出してしまって、万が一近くにまだ教会の人がいて、音を聞かれでもしたら……。想像しただけで、肝が冷えた。


「……ミオちゃん、手が震えてるけど、疲れた? 一旦休憩する?」


「ううん、違うの。さっきから、扉のすぐ向こうに、とても濃い気配を感じていて……」


 川を渡っているときに感じた、あの感覚。ううん、あのときよりも、ずっと熱くて、どんどん呼吸が苦しくなっていく。まるで、目の前に病気でとても苦しそうにしている人がいて、その人の病気の一部を肩代わりしているような、そんな感覚。


 そして、次第に日が傾いていき、やがて西の空が赤くなるころ。


 最後の鉛の板が、パキ、と小さな音を立てて外れた。


 地面に積み上げられた鉛の板は、両手で抱えるほどの山のような量にまでなった。扉の向こうに眠る気配の主は、こんなにたくさんの鉛で、半年ものあいだずっと押さえつけられていたんだ。


 夕日を受けて、丸い扉があらわになる。


「娘よ」


 ノワがわたしの隣に並んだ。月色の瞳が扉をまっすぐに見ている。


「呼んでやれ。お前の――《猫語り》の声で」


 わたしは深く頷くと、腰の鈴を外して、胸の前でそっと構えた。


 息をゆっくり吸って、吐いて、もういちど吸う。そして――。


 チリン。


 澄んだ鈴の音が、夕焼けの崖にゆっくりと広がっていった。


「お願い――起きて」

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