第六話 超克する
仲氏さんは、私たちには目もくれず、一目散に地上へと走り出した。
ライラさんが突然動き出してビックリしたけど、とりあえず、計画の一段階は達成できたようだ。
内心、安堵の溜め息を吐く。
レノちゃんはともかく、ミホ先輩のことまで気にかけてくれるかどうかはわからない。
けど、仲氏さんは何だかなんだ優しい人のはずだ。それに、ミホ先輩の口八丁もある。
『チッ……一人、逃げやがった』
不安な気持ちは残るが、今はそれどころじゃない。
鋏から、双子の片割れ――クロハちゃんの落胆した声が室内に響き渡った。
「でもでも~、あの子、ただの一般人でしょ~? 傘の子と鎖の子、二人もいるからイイじゃん!」
「っ……ね、ねぇ、ナナ。このあとは、一体どうするつもりなのよ?」
ココナさんは冷静を装って、私に問い掛ける。
このあとの流れは、既に話を付けてあった。
計画の、第二段階。
私がスカイさんと交代し、私とココナさん、ライラさんが地上へ向かう。
つまり、スカイさんが一人で双子を足止めして、行動不能にさせるという流れだ。……でも。
「ナナ様。援助、感謝、致します。後は、私めに、お任せください」
傘に変身したアイリを握ったまま、背後からスカイさんの囁き声が聞こえた。
息切れを飲み込んでいるのか、言葉が途切れ途切れだった。
ライラさんに襲い掛かった信者は、半数ほどが逃げ出し、何人かが床に伏せたまま動かなくなっている。……一応、息はあるみたいだけど。
この地下室には信者が二十人ほどいた。その全員と一度以上組み手をして、退けたんだ。
いくらスカイさんが怪力でも、体力が消耗していてもおかしくはない。
「スカイさん……ライラさん、ごめんなさい。この場は、私とアイリに任せてもらえませんか」
恐る恐る、そう尋ねる。
決して、双子と戦いたくてこう言ってるわけじゃない。
正直、計画通りにスカイさんが対応してくれるならそれに越したことはない。
でも、スカイさんは万全の状態じゃない。私と違って、戦うための道具もない。何より……。
『わたし、そと、いかない! いけない! ここ、いる! ナナも、いっしょ!』
手に伝わる、アイリの感情。
ミホ先輩と実験したときはあまり感じられなかったけど、今、確かにアイリの思いが私の頭に流れ込んで来ている。
もしかしたら変身能力は、直接、心を通じ合わせることもできるのかもしれない。
……アイリの考え。それは、ゾッとする嫌な予感。
この前アイリが感じ取っていた、物々しい気配。
本能に訴えかけるような違和感が、私の両足にズッシリと重りを巻き付ける。
そして……本人は気づいていないかもしれないけど、その重りは、ココナさんにも巻き付いていた。
……だから。
「ココナさんも、残ってもらえますか」
「!……い、言われなくても、アタシは残るわ! ナナのことが心配だもの!」
食い気味で、ココナさんは大きな声を上げる。
両肩に伝わる彼女の温度が、とてもありがたかった。同時に、不安も募った。
「私、言いましたわよね? 指示には従っていただきますわよ、と」
しかし、ライラさんはそんなことを知る由もなく、淡泊かつ冷酷に呟く。
何も言い返すことができない。……やっぱり、スカイさんに任せた方が……。
「──スカイ。さっさと地上に戻りますわよ」
「承知しま…………今、何と?」
私は、耳を疑った。スカイさんも珍しく、声を裏返していた。
双子から視線を逸らすわけにはいかず、ライラさんがどんな表情をしているのかはわからない。
けれど、コツコツと小さく鳴る足音と、遠ざかっていくライラさんの声が、彼女が今まさにこの場から去ろうとしているのがわかった。
「聞こえていたはずですわ。同じことを二度も言うつもりはありませんわよ」
「承知しました。しかし、何故このような──」
二人の会話は、ここで途切れてしまった。
よりにもよって、こんな気になるところで……でも、そんなことは後でゆっくり聞けばいい話だ。
「あ! ようやく終わった~? もう攻撃していい~?」
マシロが弾んだ声でそう言った。
器用に鋏を振り回しながら、ニコニコと笑っている。
まるで、遊びを心待ちにしているかのような、無邪気な子供のようだった。
けれど、その笑顔には、迷いというものが一切ない。
彼女は前屈みになって、こちらを窺い始めた。
いつでも飛び出せるぞと言わんばかりの、獣みたいな低い姿勢。……背筋が凍る思いだった。
とはいえ、まだこちらに来る様子はない。距離を保ったまま、私たちの出方を測っている。
──二対三。数の上ではこちらの方が多い。かといって、有利というわけではない。
だって、アイリとココナは痣付き。彼女たちのターゲット。
私の行動次第で、二人はまた誘拐されてしまう。そんなプレッシャーが、ピリピリと肌に突き刺さる。
「追いかけなくていいの? アンタら、人戒教が忌み嫌うDEMsの人間が、たった今逃げたけど?」
ココナさんは私の肩に手を触れたまま、出入口の方を指差して挑発する。
非常に落ち着いた声だった。私の代わりに場を繋ごうとしてくれているのだろう。
『ハッ……そんなこと、ない』
でも、挑発は空振りに終わる。
突如として、マシロが持つ鋏が真っ白に輝き──人間の姿に戻る。
変身が解けるとき特有の、空気が軋むような感覚。
鋏だった女性……もとい、クロハは、石床を俯いたまま、マシロの手をぎゅっと握っていた。
ど……どうして、戦闘状態を解除したのだろう。まさか、このまま地上へ向かう気じゃ……。
「私たちは、親に言われて教徒やってるだけ。神の技術なんて、どうでもいい。ただ、マシロさえ傍に居てくれれば、それでいいの」
内心ひどく取り乱している私を他所に、クロハは吐き捨てるように呟いた。
その声は疲れ果てていて、宗教や信仰に対する軽蔑の感情が透けて見えた。
そして、ふいに、クロハが顔を上げた。
口角が上がっている。目尻が下がっている。マシロと全く同じ、屈託のない笑顔。
「っ! ……ナナッ! 目を逸らさないで!」
ココナさんの声が響くと同時に、双子は一斉に、地上へ続く階段を目指して駆け出した。
『ナナ! だめ、いっちゃだめ!』
アイリの悲痛な叫びが、頭の中に直接流れ込んでくる。
いっちゃだめ、と繰り返している一方で、みんながあぶない、とも案じているようだった。
ライラさんとスカイさんを逃がしたとき、アイリの直感は、私の心を鋭い針で刺すように伝わった。
でも今は、それがない。だから私は、自分の行動に自信を持てなかった。
……考えろ、考えろ、考えろ。最悪な事態を想定する。
ライラさん、スカイさん、仲氏さん、レノちゃん、ミホ先輩が死んでしまうこと。
それが、考え得る最悪の事態。
双子が地上へ進み、全員を皆殺しにする可能性。絶対に避けるべき可能性。
「させないっ!」
気づいたときには、足が動いていた。
傘を閉じ、暗闇に消えていく背中を追う。
パニックを起こしている自覚はあった。
スカイさんに任せておくべきだったとも後悔している。
しかし、そんな弱い心を押し付けて、皆を助けたいという気持ちが、私の筋肉を動かした。
「アハハッ!」
そんな私を、嘲笑う声。
出入口へ消え、暗闇に紛れたはずの双子が、何事もなかったかのように、私の目の前に引き返して来た。
思わず、足が止まる。一体、何を。
「だってさ~。痣付きがここに二人もいるんだよ? 対して、地上には一人。こっちであなたたちを潰した方が、オトクじゃ~ん?」
その言葉に、思わずハッと息が漏れる。
──そうか。アイリが感じていた違和感の正体は、これだったのか。
聡明なライラさんのことだ。たぶん、彼女も同じような思考に至ったのだろう。
「ま、賢明な判断だったよね~! 手強そうなメイドさんも、あんなボロボロじゃすぐに始末してたし、逆にメイドさんが残ってあなたたちが逃げてたら、背中から真っ二つにしてたよ~」
ぞくり、と冷や汗が滲む。
けれど、それと同時に、私の胸には、別の思いが込み上げていた。
やっぱり、アイリの直感は、信用に値する。
あれがなければ、今ごろ私は、背中を断ち切られていたのかもしれない。
もちろん、彼女たちがホラを吹いている可能性もあるけど……とりあえず、最悪の事態だけは避けられそうだ。
だってマシロとクロハは、地上に用はない。
ひとまずの危機は回避できた。そう思うと、強張っていた肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
しかし、そのわずかな隙を、二人は見逃さなかった。
「ねえねえ。それよりさ~」
先ほどまでとは裏腹に、低く、重い声色。二人は笑顔を浮かべて、自分自身の顔を指差した。
「あなた、私たちの見分け、つく?」
「……え」
唐突な問いに、戸惑いの顔が隠せない。
確かに私は一瞬、彼女たちを見失った。
そして今、二人は笑顔で並び、私を見つめている。
同じ背格好に、同じ髪型、同じ顔。
違うところは、クロハはいつも不機嫌そうで、マシロがいつも笑っているということ。
その判断材料が、今はない。ローブのせいで、痣を確認することもできない。
「ふふふっ! どっちがマシロかな? こっちがお姉ちゃんかな~?」
二人はお互いに向かい合って、両手を握る。踊るように、くるくると回っている。
「っ!」
私は慌てて、傘を広げる。
どっちが鋏でも、この大きな傘があれば攻撃は通らない。
冷静にならなきゃ、冷静に……深呼吸しなきゃ。
見分けがつかなくたって、どっちかが鋏になることは変わらない。
なら、どっちが変身しても対処できるように、二人まとめて、傘で正面から受け止めればいい。
広げたこの傘なら、二人いっぺんに、防ぎきれる。
私は、傘の柄を握り直し、双子の正面へ、しっかりと構えた──そのときだった。
「アハハッ!」
双子の片方が、横を通り過ぎる。
私とアイリには目もくれず、冷たい部屋の奥へ、一直線に走りだす。
その先には……ココナさんがいる。
「っ……!」
予想外かつ、不可解な行動。
思わず、それに視線を奪われそうになる。しかし。
「アタシは大丈夫よ、ナナ! 落ち着いて、目の前に集中してっ!」
ココナさんの凛々しい言葉を聞いて、思い直す。
そうだ。冷静にならなきゃ。
ミホ先輩は、ココナさんには最低限の自衛機能があると言っていた。
だからココナさんは、一人でもある程度戦える。
それに、痣付きは、それを使う相手がいないと道具に変身できない。
どちらがクロハかはわからないけど、片方が近くにいないと鋏にはなれない。
つまり今、双子はどちらも丸腰ということ。
なら、ココナさんを信じて、私は正面にいる片割れを警戒していればいい。
いっそのこと、私がこの子を拘束すれば、攻撃はされないのだ。
私は視線を戻し、開いた傘の向こうにいる相手を見やる。二人が離れている今がチャンス──。
「残念でした」
背後。すぐ後ろで、無機質な声がした。
ザシュッ!
「っ!……うぅ……っ!」
熱い。右肩に、鋭い熱が走る。
何が起きたのかわからないまま、その場に倒れ込む。
すると、声の主が……不機嫌そうに眉間に皺を寄せたクロハが、私の顔を覗き込んだ。
そして、彼女は手にしていたものを見せびらかす。
真っ赤な血が付いた、ナイフ。
服ごと肌がざっくりと割れていて、そこから、じわりと液体が滲む。
血。私の、血。
「あ……あ……」
頭が、真っ白になった。
息がうまく吸えない。吸っても吸っても、肺に空気が入ってこない。
視界が、ぐにゃりと歪む。
膝から、力が抜けていく。
しっかりしなきゃ。そう頭ではわかっているはずなのに、身体が言うことを聞かない。
じわじわと滲む赤が、目に焼き付いて離れない。
『ナナ! ナナ、しっかりして……っ!』
「ナナ!」
徐々に近づいてくるココナさんの声と、頭上に響くアイリの声で、かろうじて私は意識を保ち、傘を持つ手も緩めない。
けど正直、私の心は限界だった。
「わざわざ変身しなくても、傷つけるならこれで十分。でしょ」
「さすがお姉ちゃん!……あ、銃刀法違反だからって通報しないでよ~?」
マシロはケタケタと笑いながら、クロハの肌に……背中に手を触れる。
眩い光に包まれて、クロハは人間から巨大な鋏へと変身した。
──私は、馬鹿だ。最初から、二人の手のひらの上だったんだ。
どちらかが変身して、斬りかかってくるのだという先入観に苛まれてしまっていた。
傘を構えていれば防げると。
二人が近づかなければ攻撃されないと。
見分けなんてつかなくていいと。そう、思い込んでしまっていた。
マシロとクロハは、私が思っているより遥かに、戦いに慣れている。攻撃に慣れている。
今まで平穏な日常生活を送っていた私とは、ステージも価値観も大きく違うのだ。
私は、二人のことを……いや、自分の弱さを甘く見ていたのかもしれない。
「あれれ~? 何だか、すごく震えてない? もしかして、血が苦手なのかな~?」
『好都合だね、マシロ。さっさと仕留めて』
「は~い、お姉ちゃんっ!」
双子の声がやけに遠くに聞こえる。
広げた傘からはみ出るくらい、刃が開いた鋏。
それがアイリごと、動けない私の身体を真っ二つにしようと、閉じられていく。
確か、ミホ先輩に助けてもらったときも、こんなことになったっけ。
なんて、走馬灯のように記憶が呼び起こされる。
本当はもっと早い動きなのに、スローに見えた。
刃は地下の蝋燭の火を反射して、鈍く光っている。
太ももとふくらはぎは、鉛のように重く、地面に縫い付けられたかのよう。
視線を逸らしても感じる、血の匂い。皮膚に伝わる血の流れ。
それらが私の身体を絡め取って離さない。
「アイリ! 変身、解除して! 今すぐっ!」
その時。ココナさんの鋭い声が、空気を断ち切った。
『う……うんっ!』
アイリはひどく動揺している様子だったけど、二つ返事でそれに応える。
ぱぁっ、と弾けた白い光に包まれ、傘が、ほどけた。
そして私の手に残ったのは、アイリの細い指先だった。
「ナナ、だいじょうぶ! だいじょうぶ、ねっ!」
人間の姿に戻ったアイリは、泥なって地面に解けそうな私の身体を、心を、ぎゅっと抱き締めた。
双子に背を向けている状況。自殺行為……かに見えた。
『チッ。余計な真似を』
鋏が閉じられることは、なかった。私の胴体は繋がっている。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、たどたどしく、舌っ足らずで、必死に紡がれる言葉。
背中に回された腕は、長くて細い。そして、ひやりと冷たい。
彼女の体温が、真っ白に塗り潰された頭の中に、色を付けてくれる。
少しずつ、少しずつ、呼吸も整いだす。
「やっぱりね」
抱き締めあう私たちを庇うように、一歩前へ。ココナさんが、躍り出た。
「アンタたち、痣がある個体を殺せないんでしょ? ま、考えてみれば当然の話よね。だって、殺してしまったら願いが叶うが達成できないかもしれないもの」
彼女は両手を軽く広げ、強気な態度で真っ直ぐにマシロを見据える。
マシロは無言のまま鋏を一度閉じると、非常にゆっくりとした動きで顎に手を当てた。
「私、殺さない程度に痛めつける暴力って、見たことないんだよね~。だから加減とか、やり方とか、ぜ~んぜんわかんなくて、困ってたの!」
マシロは、鋏を構え直す。
さっきよりも輝きを帯びた表情を浮かべたまま、小さな舌で唇を舐めた。
「でも、アンドロイドなら、安心して戦えるよっ! 錠前模様とコアだけ残して、要らない部分は壊しちゃえばいいだけだもんね!」
「へぇ、よくわかってるじゃない。……けど、覚えておきなさい。日賀志ミホの力作は、どれもこれも、ありえないくらい頑丈なのよ」
言い放つと同時に、ココナさんは、静かに、かつ、ゆっくりと歩き出した。
私とアイリ、そして、出入口から距離を取り、部屋の中央へ進んでいく。
「あれ、そっちで遊ぶの? いいよ~! 傘の子はもう、遊んでくれないみたいだし!」
嫌味でも皮肉でもない、本心からくる言葉に聞こえた。それが逆に、悔しさを増長させる。
私なんて目にも掛けていない。戦力外と切り捨てられた事実が、じくりと、胸の奥に刺さった。
アイリは私を抱き締めながら、両手の指を口の端に引っかけて、思いきり横に引っ張った。
「べーっ!」と舌まで出していたけど、マシロは一瞥もしなかった。
「なら、ちょうどよかったわね。アタシも退屈してたところなの。思う存分、付き合ってあげる」
ココナさんは片手を前に出し、くいっと、指先でマシロを招いた。
──それが、合図だった。
マシロが床を蹴る。鋏の刃は閉じられたまま、鈍器のように大きく振るった。
ココナさんは攻撃の方向を見極めて、身を捻じる。刃は空を切った。
「あわわっ!」
勢い余ったのか、マシロはその場で一回転する。
しかし、崩れたバランスすら、彼女たちはモノにする。
マシロは即座に鋏を水平に持ったまま、ココナさんがいる方に一歩大きく踏み出した。
「くっ……!」
鈍い音と共に、ココナさんの苦し気な声が漏れる。腕で受け止めたようだ。
しかし、その箇所には傷も血も一切ない。
全くそうは見えないけど、やっぱり、彼女はアンドロイドなんだ。
改めて、そう再認識する。だって、もし彼女が人間だったら、深い傷が……。
「……うぅっ」
一瞬、胃液が逆流しかける。
せっかく食べたベビーカステラを戻したくなくて、グッと我慢した。
その後、ココナさんの身体に何度も鋏が当たる。
それなのに、ココナさんは決して怯まなかった。
避けて、捌いて、隙があれば拳を叩き付ける。
一撃が弾かれる度に、マシロの目と鈍色の鋏が爛々と光る。
「わぁ~! あなた、ホントに頑丈なんだね! 私、段々楽しくなってきちゃった!」
『少し落ち着きなさい、マシロ。調子に乗らないで』
あくまでクロハの方は冷静に、マシロを嗜める。
その声色にはほんの少し悲しさが滲んでいた。
それでも、マシロの猛攻は止まらない。
本人は遊びと言っていたし、楽しそうな表情をしている。
なのに、日頃の鬱憤を晴らしているかのような……怒りを内包した攻撃。
一つ一つが重く、容赦がない。
さっきまでの駆け引きや、臨機応変な行動とは無縁の、力の押し付け。こんなの、ただの暴力だ。
でも、その残虐性の背後には、見知らぬ誰かの影が透けて見えた。
「このっ……!」
ココナさんは一歩を踏み込み、開いた刃を両手で掴む。
武器を持たないココナさんにできるのは、避け続けることと、防御だけ。
攻撃に転じる隙なんて、どこにもない。
何度か手からスタンガンのような……電撃を放ってはいるけど、マシロはそれを鋏で受ける。
見た目だけだと鋏は金属製のように見えるけど、電気伝導がないということは、違うのだろう。
『あなたって、人間を攻撃するプログラムも実装されてるんだ』
ふと、静かな声が響いた。クロハだ。
「当たり前でしょ。アタシは生まれてからずっと、自分の意志で行動して生きてきたんだから」
『ふぅん。そう思い込まされるように作られているのか、可哀想に』
「っ……!」
ココナさんの顔が、耳が、鮮やかな赤色に染まる。
二つの刃を塞き止めている手に、今まで以上の力が入った。
しかし、その一瞬の感情の変化が、仇となる。
ココナさんに、隙が生まれる。
マシロは刃を広げたまま、ココナを囲うようにして、鋏の刃を壁に突き立てた。
ガキンと、石壁を削る音が室内に響く。
追い込まれたココナさんの背中が、壁に触れた。彼女の両側に、刃がめり込む。
「さ、させないわよっ!」
ココナさんは、咄嗟にその場にしゃがみ込む。
鋏はココナさんの頭上をすり抜けて、勢いよく閉じられる。
『マシロ。思いっ切り蹴って』
「え?……はぁ~い、お姉ちゃん」
マシロの足が、鋭く振り上げられる。
ココナさんがしゃがみ込んだ瞬間を狙いすましたように、彼女の綺麗な顔面に、直撃する。
ひどく、鈍い音がした。
「ぐっ……!」
ココナさんが、たたらを踏んだ。
左手で床を付き、右手で両目を覆う。
そして、私の視界から顔を背けた。
「っ、あ」
しかし、見てしまった。見えてしまった。
ココナさんの目尻から流れる、青い液体が。
涙なんかじゃない。粘度がある、海のような色の液体。白い肌を伝って、ぽたりと、床に落ちる。
あれは──アンドロイドの動力源。通称、青い血。
「う、うぅ……っ」
心臓が縮み上がる。……マズい。また、過呼吸になってしまう。頭が塗り潰されてしまう。
人間より頑丈とはいえ、アンドロイドにも傷はつく。
それほど痛みはないのか、痩せ我慢か。ココナさんは至って平気そうに、口角を上げていた。
ああ……そうだ。確か、あの人も同じ顔をしていたっけ。
痛みなんてまるでないって感じの……人間を安心させるための微笑み。
アンドロイドは痛みに鈍い。
そうわかっていても、全く安心なんてできなかったのをよく覚えている。
むしろ、あのとき抱いた感情は、恐怖に近いものだった。
『アンドロイドの目ってさ、柔らかいんだよね。光を拾うセンサーが入ってるから、硬い素材で覆えない』
「……急に饒舌になるじゃない。というか、詳しいわね。もしかして、アンドロイドのお友達でもいたの?」
『……別に。大学の講義で習っただけ』
「あっそ」と吐き捨てると、ココナさんは目を抑えていた手をゆっくり離し、片膝を付いて立ち上がった。
……しかし。
「コ、ココナさん……」
明らかに、ココナさんの動きが鈍くなっている。
鋏を避けるタイミングも、マシロとの距離感が、さっきよりも若干ズレているような気がした。
「…………」
ココナさんは何も喋らない。ただ、歯を食いしばって、鋏をかわし続けている。
——私の、せいだ。
「……っ! この……動け! 動いてよっ!」
自分の足を、思い切り叩く。筋肉が硬直して動かないソレを、何度も、何度も。
それでも、両足に力は入らない。震えたままで、何の役にも立たない。
「ナ、ナナ! やめて!」
振り上げた瞬間、アイリが私の腕を掴む。
彼女の細い手でも、自傷を止めるには十分だったみたいだ。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
自分の服に血が染み込むのを感じるたびに。
右肩の傷が熱く感じるたびに。
ココナさんの青い血が床に落ちるたびに。
どんどん、呼吸が浅くなっていく。
「ナナ。アイリのこと、みて」
「っ、……ぇ」
アイリの両手が、私の頬を両側からそっと包みこんだ。
ゆっくりと、顔を上げさせられる。アイリの顔が、視界の真ん中に現れた。
彼女の瞳は、真っ直ぐだった。
怖がってなんかいない。
揺れてなんかいない。
ただ真剣に、私だけを見ている。
「……ァ、ア、イリ、あなた、は……」
どうしてそこまで、私を気にかけるの。
そんな言葉が喉まで出かかって、飲み込んだ。
アイリはきょとんとした顔をしたあと、「んー」と唸りながら目を伏せた。
言葉を選んでいるのだろうか。
「……ナナ、アイリのおんじん。すくってくれた!」
「……おんじん?」
おんじん……恩人?……ああ、ゴミ捨て場で倒れてたときのことか……。
でも、私はアイリを一度置いていこうとした。
それでも、アイリは助けてくれたと思っている。家に匿っているだけだ。
それなのにアイリは、私のことを恩人だと思ってくれている。
私はあの時、確かに、アイリを助けたんだ。
目の奥が、じわりと熱くなる。
ずっとずっと、アイリに……皆に助けられてばっかりだと思っていた。
実際そうだけど、私だって、誰かを助けていたんだ。
──それなら。
今だって、できるはずだ。今だって、助けるべき相手がいる。
そう思ったら、鉛のような足が軽くなった気がした。
「…………謝って」
気づいたら、口から出ていた。
声は思ったより静かだった。
怒鳴るわけでも叫ぶわけでもない。ただはっきりと、双子に向かって言葉を投げた。
「あれっ、そのコンディションで動けるんだ~。無理しない方がいいと思うけどなぁ」
マシロはココナさんを警戒しながら、攻撃を止めてこちらを見やる。
少しだけ、笑顔が引きつっていた。
「ココナさんを馬鹿にしたこと……プログラムって侮辱したこと、謝ってよ」
自分でも驚くほど、低い声。
アイリの身体を借りて、その場に立ち上がった。
膝はまだ震えている。
抉るような痛みも残っている。
息も絶え絶えだ。血も怖い。
こんな状態で何ができるんだ。情けない。みっともない。そんな声が、心の奥から聞こえる。
けど……それは、動かない理由にはならない。
だって今一番辛いのは、ココナさんだから。
私の怖さや痛さなんて、比べものにならない。
「アイリ、お願い。もう一度だけ……」
言い切る前に、アイリが私の左手を掴み、自分の痣に重ねた。
目がチカチカするほど眩い光。人間の姿が、傘へと変貌していく。
いつ見ても、この光景は慣れない。
でも、この傘の柄から伝わるアイリの温もりは、手によく馴染んでいる。
『まるで、生まれたばかりの小鹿みたい。あなた、今度こそ死ぬよ?』
蔑むようなクロハの言葉。
挑発か、心を折るつもりなのかは知らないけど、覚悟を決めた今の私の心には届かない。
「ココナさん。私に、考えがあります。協力してもらえますか」
それだけ言って、ココナさんと双子の間に割って入る。
攻撃の合間を縫って、傘を大きく広げた。いつもみたいに、マシロの正面に向けて。
「き、協力って、何をする気?」
「マシロから鋏を取り上げます」
「!」
私は一瞬だけ、ココナさんの顔を見る。
彼女は目を見開いて、コクリと頷いた。
ココナさんの目から流れる青い血は、口元を経て顎にまで垂れている。
見るつもりはなかったのに、見えてしまった。
胸と頭が、強く握られたみたいに痛い。やっぱりまだ、血は怖い。
「また防御するんだね。ああ、そっか! あなたって、傷を付けられるのだけじゃなくて、傷を付けるのも苦手なのかな~?」
『今度こそ、傘ごと真っ二つにしてあげる』
マシロは、拍子抜けしたように眉を上げる。
そして、鋏を大きく開き始めた。
刃と刃の間に、私ごと、傘ごと、全部を飲み込もうとするように。
ゆっくりと、確実に持ち手を動かす。
──ここまでは想定通り。問題は、マシロがいつ鋏を閉じるか。
傘を構えたまま、じっと刃先を見つめる。……まだだ。まだ、刃は動いている。
『ナナ! くる、かも!』
アイリの直感。名前を呼ばれたタイミングで、私は、傘を閉じた。
「えっ!?」
マシロは若干遅れて、勢いよく刃を閉じ始める。……今だ!
私は閉じた傘を両手で握り締め、思いきり前に踏み込んだ。
「うわわっ……!」
私は全体重を乗せて、傘の先端──石突きを打ち込む。
そこは、鋏の支点。二枚の刃が交わる、その一点だけを狙っての攻撃だった。
……マシロの言う通り、私は攻撃ができない。どれだけ悪い人でも、私や私の大切な人に危害を加えられても、だ。
でも、だからこそ……今、双子の油断を誘うことができた。
ガンッ!
鈍い衝撃が、全身に伝わる。
押し返される形で、マシロの伸ばした腕は勢いに負けて曲がり、鋏の柄が彼女の胸元に当たった。
「っ! うっ、ぐ……!」
『マシロ!』
マシロは短い悲鳴を上げる。
胸元に柄が食い込んで、体勢が後ろへ大きく崩れた。
予想していなかった痛みに負けたのか、傘を持つその手から、途端に力が抜けた。
無機質な音と共に、鋏が、床に落ちる。
一瞬の静寂。
「今です、ココナさん!」
そう叫ぼうとして、声が出なかった。喉が渇ききって、言葉が詰まる。
……しかし、私が口を開くまでもなく。ココナさんの足は、既に動いていた。
目をやられて鈍くなっていたはずの動きが、この瞬間だけ鋭く、一直線に、がら空きになったマシロに向かって、手のひらを突き出した。
指先に走る火花が、ぱちぱちと音を立てて集まっていく。
スタンガンの機能。ミホ先輩が用意した。自衛のための武器。
バチィッ!と、不安になる音が響き渡ると同時に、青白い閃光が、マシロの全身を貫いた。
「あ、れ……」
マシロの口から、声にならない声が漏れる。
その小さな身体が、まるで糸の切れた人形みたいに、ぐらりと傾いた。
目は閉じられ、口からは涎が垂れている。
……胸が上下しているのを見るに、気絶しただけで、生きてはいるみたいだ。
私は内心、胸を撫で下ろす。
『……うそ』
床に伏したマシロの隣で、無慈悲に転がっていた鋏は人間の姿へ変わる。
目尻に涙を浮かべて、マシロを抱き締めた。
「悪いけど、アンタにも気絶させてもらうから」
ココナさんの、冷酷非情な言葉。
クロハは見上げる形でキッと睨み付けたけど、抵抗する素振りは一切見せなかった。
再び、閃光が走る。
クロハは、マシロの手を握ったまま、覆い被さるようにして倒れた。
石造りの地下室が、静寂に包まれる。
私たちを襲う脅威は、パタリといなくなってしまった。
「っ……! ぶはぁっ、はぁっ……!」
止まっていた息が、堰を切ったように漏れ出す。
本当に止まっていたわけじゃないはずだけど、それを確かめる術はない。
柄に合わないことをしすぎた……。
ヘナヘナと全身の力が抜けて、その場に座り込む。
双子を倒したという実感はない。動きを止めただけ。
そう思うと、ストレスはいくらかマシだった。
「ねぇ、ナナ」
マシロとクロハに視線を送りながら、ココナさんが問いかける。
「何で、あんな無茶したのよ。あのまま耐え続けていれば、きっとスカイが飛んで来てたわ。ナナが怖い思いする必要なんて、なかったのに」
「……私がやるって、言っちゃったから。やらなきゃ、自分のこと、今より嫌いになっちゃう。……それに」
自分の気持ちをどう伝えようか迷って、言葉が途切れる。
そのタイミングで、アイリが傘の変身を解いた。
アイリは軽々と私を持ち上げて、お姫様抱っこの要領で支えてくれた。
少し恥ずかしかったけど、おかげで、素直に本心を伝えることができそうだ。
「仲間が傷つくところは、見たくない。……ですから」
そう言うと、ココナさんはふいと顔を逸らした。
腕を組んで、出入口へと足を進める。
「ナナのおかげで、目的は達成されたわ。ありがとう。……あの子たちが目を覚ます前に、さっさと地上に戻るわよ」
いつも通りの、強気な口調。
言葉の節々から優しさが溢れていて、自然と笑みが浮かんだ。
アイリに抱えられながら、ココナさんの後を追うとき……ふと、すれ違った双子に目をやる。
無邪気に笑っていたマシロも、不機嫌そうにしていたクロハも、眠ってしまえば、ごく普通の、可愛らしい女性だった。
二人が、願いを叶えるにこだわる理由は何なんだろう。
こんなことまでして、叶えたい願いって一体……?
そんなことを考えたところで、所詮妄想でしかないのはわかっている。
けど、頭を働かせていないと、右肩の傷の痛みに意識が持っていかれそうになる。
正直、かなりギリギリな状態だ。
でも、アイリはそれに気づいていない。気づかせないように、平然を装った。
ココナさんを先頭に、アイリは地上への階段へと駆け出す。
外から漂う温かな空気と風が頬を撫でた。
地下室の冷たさを忘れるのに、そう時間はかからなそうだ。




