第二十二話 非日常から日常へ
ミホ先輩の研究所に、二体のアンドロイドが、並べて寝かされている。
ココナさんと、ココナッツさん。
瓜二つの顔が、ガラス越しに見える。
静かに眠っている彼女らの光景は、どこか不思議で、現実味がなかった。
今までの雑多な雰囲気はなく、どこか張り詰めた空気が漂っている。
雑然と並べられていたケーブルや私物は、綺麗さっぱりなくなっている。
研究所全体が、何か大きなものの幕開けを待っているみたいだった。
ミホ先輩は、まず、ココナさんの意識データの移行に取りかかった。
ココナさん本来の意識は、現在、ミホ先輩自前のサーバーの中に退避させてあるらしい。
ライラさん補助のもと、それを、調整済みのココナッツさんの身体へと移していく……その作業は、私にはまるで理解できない、難解なものだった。
いくつもの端末に、見たこともない記号や数値が、目まぐるしく流れていく。
何本ものケーブルが、二体の後頭部に繋がれ、低い駆動音が、絶え間なく響いている。
ライラさんとミホ先輩の指は、迷いなく動き続けていた。
私はただ、固唾を呑んで、見守ることしかできなかった。
「よし。移行、完了だ」
やがて、ミホ先輩が大きく息を吐いた。
その言葉に、私とアイリもホッと胸を撫で下ろす。
「これで、557号機の意識は、557-2号機の身体に収まった。……突然、新しい身体にさせてしまうのは申し訳ないが……まあ、彼女のことだ。すぐにわかってくれるだろうさ」
ミホ先輩は、ココナッツさんの身体を軽く叩いた。
その目には、造り手としてではない、何か別の思いがあるような気がしてならなかった。
「次は、アイリに権限を移してもらう前に……ココナと、話しておくといい。権限譲渡のための信頼度は十分だとは思うが、念のため、ね」
そう言って、小型のスピーカーのケーブルが、ココナさんの口の中に差し込まれる。
ややあって、モニターに、ゆっくりと数値が流れ始めた。0と1しかいない、よくわからない暗号だ。
「557号機。聞こえるかい」
『…き、こえ、てる』
スピーカーから聞こえてきたのは、ノイズ混じりの、ぎこちない合成音声だった。
それでも私は、彼女が、ココナさん本人であると確信した。
「ココナさん……!」
『な、な……あい、り……』
「うん。ここにいるよ」
ミホ先輩に促され、アイリは、ガラスで隔たれたスペースに入っていく。
そして、ココナさんの身体の傍に寄り、静かに手を添えた。
『……ねえ、あいり。じじょうは、みほ、から、きいてる。あたしの、こうきゅうぼでぃ、つかわせる、んだから。ぜったい、せいこう、させなさいよね』
「うん。任せて」
アイリは、迷いなく頷いた。
それを聞いたココナさんは、小さく笑い声のような音を鳴らす。
『……それにしても。しまい、なんて、しらなかった、わよ』
「ああ。言ってなかったからね」
『……まったく。かくしごと、おおい、んだから』
ミホ先輩は、バツが悪そうに視線を逸らした。
こうした二人のやり取りに、懐かしさすら覚える。
それから、少しの間があった。
『……あたしが、なくなっても。あたしが、なくなる、わけじゃ、ない。だから……アイリ。あんしん、して。おおぶねに、のった、きもちで、やりなさいよ』
それだけ言って、ココナさんは何も喋らなくなった。
いつもの強気な言い方、けれど、ちゃんと私たちのことを気にかける優しさ。
ココナさんらしいその態度に、胸が締め付けられた。
「あとは、アイリに遺物としての役目を全うしてもらうだけ、ですわね」
至って冷静に、ライラさんが言い放つ。
その言葉を受けて、私は、アイリに視線を向けた。
アイリが、ココナさんと体液接触をする。
それを行えば、ココナさん、スナミちゃん、レノちゃん、クロハさん、イチコ先生の意識は目覚めて、機械仕掛けの神はどこかへと去って行く。
そして──アイリは、人間の姿ではない、元の宇宙人としての姿になる。
考えたくない。
考えたくないのに、最悪の事態が、脳裏に過ってしまう。
宇宙人になったアイリにとって、もし、酸素や二酸化炭素が毒だったら……アイリは途端に意識を失い、死んでしまうかもしれない。
それに、大気の問題をクリアしたとしても、地球上にアイリが栄養を補給するものがない可能性もある。
どんな宇宙人なのかわからない以上、未知数でしかないのだ。
アイリも、ライラさんも、ミホ先輩も。
三人とも、「そんなことを考えていては仕方がない」と、何故かケロリと言い放っていた。
私には、それが理解できなかった。
事実ではある。かもしれないで行動が縛られては、それこそ今までの苦難が水の泡だ。
でも……。
「いよいよ、だね」
ポツリと、アイリは呟く。
深い青色の瞳の中には、静かな炎が浮かび上がっている。
……十分、覚悟はできているということか。できてないのは、私だけだ。
一番怖いのは、アイリだろうに……私が怖がって、どうするんだ。
喉の奥が、ぎゅっと詰まる。
……頭では、わかっている。これが最善なのだと。
誰も犠牲にせずに済む、唯一の道。ようやく辿り着いた答え。……だから、ここで止まってはいけない。
「ナナ」
アイリが、私の顔を覗き込んだ。
「そんな顔しないで。大丈夫。私は消えるわけじゃないし、不測の事態のための準備はしてあるし、死ぬようなことは、たぶんないよ。ただ、姿が変わるだけ」
最初に出会ったときみたいな、朗らかな笑顔。
アイリのこの顔を見るのは久々だった。
「……うん」
私は、必死に頷いた。
潤んだ瞳を隠すように視線をそらして、私はアイリの手を握った。
しばらくして、アイリは、ゆっくりと私の手を放し、ココナさんの身体へ歩み寄る。
そして、横たわるその姿を見下ろし、そっと屈み込んだ。
「ココナ。身体、使わせてもらうね」
あのとき……ココナさんが意識を失う前に、私とアイリのことを認めてくれたときのことを思い出す。
出会ってから日にちが経っていたわけじゃない。
それでもココナさんは、私たちに歩み寄ってくれた。私もアイリも、ココナさんのことが好きだった。
この譲渡は、心の通った受け渡しだ。だから、暴走することもなく……ちゃんと、うまくいく。
アイリは、そっと顔を近づける。
そして──眠るココナさんの唇に、優しく口づけた。
その瞬間だった。
「アイリッ!」
アイリの身体全体が、白く、淡く光り始めた。
それは、これまで何度も見てきた、傘に変身するときに見た光。
似ているけれど、まるで違う。
目が眩むほど眩しかったあのときとは違って、アイリの姿が、ぼんやりと残っていた。
少しずつ、アイリの輪郭が溶けて、滲んでいく。
光の中で、アイリの人間としての姿が、少しずつ形を変えていく。
思わず、私は手を伸ばそうとする。
けれど、光はそれを拒むかのように神聖で、足がすくんだ。
本能が、近づいてはいけないと言っているみたいだった。
私は、アイリの姿から、目を離せずにいた。
──目を、離してはいけない気がした。
アイリの覚悟を、勇姿を、見届けなければいけないと思った。
「………………」
やがて、光がゆっくりと引いていく。
そこに在ったのは。
──もう、私の知るアイリではなかった。
人の形をしていない。
四つ足の、小柄な生物。
顔のような部分はなく、無機物のようにも見える。
けれどそれは、決しておぞましいものではなかった。
むしろ、息を呑むほど美しく。そして、どこか畏れ多い姿をしている。
淡く発光する、幾重もの層。流れるような曲線。
仄かな七色の彩りが、その表面を絶え間なく巡っていた。
神々しさと、ほんの少しの禍々しさ。相反するはずのものが、不思議と調和して、そこに在った。
この世のものとは思えない姿だった。
それでいて、確かに生きていて、息づいている。
これが、アイリの本当の姿。遠い星から来た、ありのままの彼女。
「アイリ、なの?」
私は、震える声で問いかけた。
ややあって、その存在が、ゆらりと動いた。
目はないように見えるけど、まるで、こちらを見つめているような気がした。
そして、何かを伝えようとするように……しかし、返ってきたのは、言葉ではなかった。
木琴のような、軽やかな音色。
やはり、人間の声を発することはできないみたいだ。
彼女が何を思っているのか、知ることはできない。
それでもアイリは、私のほうを向いている。
何かを訴えるように。優しく、揺れ動いていた。
呆然と、私が立ち尽くしていると……。
「始まるみたいだよ」
ミホ先輩が静かに呟いて、私の裾を引っ張る。
咄嗟に振り向くと、ココナさんの身体が、ふわりと宙に浮かび上がっていたのだ。
「……っ!?」
横たわっていたはずのその身体が、見えない糸に引かれるように、ゆっくりと昇っていく。
浮かび上がった体は、天井へと吸い寄せられ──そのまま、すうっと、すり抜けていった。
そこに、壁などないかのように。
「神に還ろうとしているのでしょうか」
ライラさんは、慌てた様子で、研究所の外へと駆け出す。
私とアイリも、その後を追った。
外に出た、その瞬間。
私は、空を見上げて、息を呑んだ。
ココナさんの身体は、いつの間にか、ずっと上空にあった。小さな点になって、昇り続けている。
どこまでも高く、空を分厚く覆う、機械仕掛けの神様に向かっている。
「アイリも、ああいう感じで浮いていったのだろうか」
遅れてやって来たミホ先輩が、器用に車椅子を動かしながら言った。
感傷とは程遠い態度で、ココナさんへの想いよりも、純粋な好奇心が、その言葉の端々に滲んでいた。
「………………」
アイリは相変わらず、どこを見ているのかわからなかった。
でも、その全身が、ぎりぎりと音を立てている。
言葉にできない何かを、身体全体で訴えかけているような……私にはそれが、悲しみに見えた。
アイリから聞かされた、遠い記憶。
遺物としての役目を終えた者が、空を覆う神様へ吸い上げられていく光景。
まさか、目の前で見ることになるなんて。
上空のココナさんの身体は、もう、見えなくなっていた。
もう、あの姿を見ることは、二度とない。
そう思った──刹那。
「あっ……!」
機械仕掛けの神様の身体が、ぐにゃりと波打った。
空全体が、歪んでいた。
あれほど分厚く、どっしりと張り付いていた巨大な機械の身体が、まるで水面に石を投げ込んだときのように、じわじわと波紋を広げていく。
歯車の輪郭、パイプの線、装甲のつなぎ目……全てが一緒くたになって、ゆっくりと揺れていた。
——神が、遺物を飲み込んでいる。
そう思った矢先、神様の身体は、元の形を取り戻し始める。
何事もなかったかみたいに。
あれほど激しく歪んでいた輪郭が、今はもう、微動だにしていなかった。
いつもと変わらない、白くどんよりとした空が、そこにあった。
しかし、何かが違った。
うまく言葉にできないけれど、さっきまでとは、確かに、何かが変わっているような気がした。
気が付けば、周囲の家々から、多くの人が外に出てきているようだった。
皆揃って、空を見上げている。
戸惑いの声や、驚きの声が、あちこちから聞こえてきた。
でも、今の私には、それがひどく遠く感じられた。
「遺物の譲渡が、失敗したのでしょうか」
無意識に、そう呟いた。そのときだった。
ぴし、と。
上空から、そんな音が聞こえた気がした。
最初は聞き間違いかと思ったけど、ライラさんの「うまくいったみたいですわね」という安堵の声で、途端に思い直す。
生まれてからずっとそこにあった、機械仕掛けの白い空。
それが、端のほうから少しずつ、ほどけ始めていた。
糸がほつれるように……または、氷が溶けるように。
長い間、この星にしがみついていた神様の身体が、ゆっくりと、剥がれ落ちていく。
……役目を終えた神様は、一体、どこへ向かうのだろう。
そんなことを考えていると、靄の切れ間から、何かが差し込んできたのが見えた。
「あ……!」
それは、光だった。
細く、真っ直ぐな、一筋の光。
影ができるほどの光など、見たことがなかった。
なのに今は、地上に、くっきりとした影が生まれていた。
思わず、光に手を翳す。すると、指の隙間から光が溢れた。
肌に熱が伝わってきた。太陽の光の暖かさを、しみじみと感じることができた。
──でも、それよりも。
神様の切れ間から見えた、向こうの色。
本当の、空の色。
青い、青い空。
写真やデータで見るのは全く違う、奥行きがある。
靄と重なる部分は、淡く霞んだ水色で、その内側へ向かうほどに、どんどん色が濃くなっていた。
青空は、こんなにも澄み渡っているのか。
青空は、こんなにも美しいのか。
じわりと、涙が滲んだ。言葉が、出てこなかった。ただ、見上げることしかできなかった。
この青から、目を離したくなかった。
「……あれ?」
ぼやけた視界で、ふと、気がついた。
青く晴れ渡った空。
その一角に、ぽつんと、何かが残っていた。
あれは、雲じゃない。
間違いなく、神様の一部だ。
青の中に浮かぶ、巨大な機械の断片。
目のような窪みと、口のような継ぎ目……顔のように見えていた、あの部分。
あれほど空全体を覆い尽くしていた存在が、欠片だけを残して、綺麗さっぱり無くなっていた。
「ミホ先輩、あれは一体……? 神は去ったんじゃ」
「ああ。あれは、ほんの一部のようだね。どういうわけか、置いていったらしい」
「一部だけ、残して……? どうして、また」
「さあね」
ミホ先輩は肩を竦めた。それから、ふっと、口の端を持ち上げる。
そこには、遺恨も、感傷も、一切なかった。
「遺物を、新しく据えてやった礼のつもりか。それとも、ただの引き継ぎの不具合か……意思のない奴のことだ。お礼なんて殊勝な柄じゃないだろうけどね」
「どっちでもいいですわよ。神が残していった技術と、あの一部。おかげでこの星は、いきなり何もかも失わずに済んだみたいですわね。……少しずつ、自分たちの足で歩いていける。あの神様に頼りきらなくても」
神は何の想いも残さず、ただ、淡々と役目を終えた。
新しい遺物——ココナさんの身体を、その身に据えて。
……でも、ココナさんの役目も、永遠ではない。
いつか遥か先の未来に、神様はまた別の惑星に寄生して、データを吸収して、その惑星から遺物を捕まるのだろう。
そのとき、何が起こるのか。
それは、誰にもわからない。
「ここから先のことは——それこそ、神のみぞ知る、ってやつさ」
私の心を読んだかのように、ミホ先輩はそれだけ言うと、車椅子を研究所の方へ向けた。
タイヤが、地面を滑るように動く。迷いのない動きだった。
ややあって、ライラさんがその隣に並ぶ。
二人は、そのまま研究所の扉の中へと消えていった。
私とアイリは、その場に残って、ずっと空を見上げていた。
青い空に浮かぶ、神様の顔。
あれほど恐ろしくて、冷たくて、底のない存在だと思っていたのに……今はそれが、どこか、ひどく虚ろで、小さいもののように見えた。
+++
神様が去ったあと、世界は、かつてない混乱に包まれた。
無理もない。
地球を包む神様の存在は、人々にとっては当たり前の、生活の一部になっていたのだから。
神の存在は、空気や水と同じくらい揺るがないものだったのだはずだ。
それがある日突然、消えてしまった。
空を覆っていた神が剥がれ落ち、見たこともない青空が現れた。
ひっくり返るような騒ぎになるのは、当然のことだった。
街を歩いても、学校に行っても、誰もがその話題で埋め尽くされていた。
各国の専門家が、深刻な顔で議論を交わしているらしい。
また、人戒教の教徒を筆頭に、神への信仰が篤かった人々は嘆き悲しんでいた、滅亡の始まりだと叫ぶ人もいれば、新時代の幕開けだと叫ぶ人もいる。
様々な情報が、錯綜しているような状況だった。
一方で、晴れ渡った空を、ただ無邪気に喜ぶ人たちもいた。
初めて見る青空に、子供たちが歓声を上げ、お年寄りが涙ぐんでいる。
シーカによると、チップで接続できる掲示板システムには、世界中から、青空の写真があふれかえったらしい。
世界は、神という拠りどころを失って、期待と不安の入り混じった大きなうねりの中にあった。
私の両親も、例外ではなかった。
「ナナ。見てごらん、この空」
木の板で塞がれていた天窓は、見事に解放されている。
私とお父さんとお母さんは、その下で、並んで見上げていた。
神様を疎ましく思ってきた二人にとっては、この青空は、待ち望んでいたものだったのだろう。
「何でもかんでも、頼りすぎるのはよくないのよ。依存なんてしちゃ、いなくなったときに損をするのは私たちなんだからね」
何も知らないお母さんは、のんびりとそう言って笑った。
機械仕掛けの神様の下で、どんな戦いがあったのか、二人は知らない。私が関わっていることも。
……でも、それでいいと思った。皆が穏やかに笑っていられるなら、それで十分だった。
——そして。一週間が過ぎた頃。
私はシーカと共に、隣町にある山奥の病院を訪れた。
ライラさんとミホ先輩の計らいで、受付を顔パスで通り、真っ直ぐに一室へ向かう。
「アオちゃん!」
手を翳して扉を開ける。
すると、ベッドの傍では、アオちゃんが泣き笑いの顔をしていた。
その視線の先には、スナミちゃんが横たわっていた。
アオちゃんの、大切な幼馴染。
「あ……ナナ。おはよう~……」
スナミちゃんはゆっくりと私の方を向いて、笑いかけている。
「やっと……やっと起きやがったのかよ、このバカ! オレがどんだけ心配したと思って……寝すぎなんだよ、バカ!」
涙声で怒鳴るアオに、スナミちゃんはキョトンと首を傾げる。
そして、にへら、と力なく笑った。
「えへへ……。なんだか、すごくいい夢を見てた気がするの。宇宙の夢だったよ。星がいっぱいで、すごく綺麗で。手を伸ばしたら、届きそうで……」
もはや懐かしくもある、スナミちゃんのふわふわした口ぶりに、心がじわりと温かくなるのを感じた。
宇宙が大好きな、スナミちゃんらしい寝言。私は思わず声を上げて笑った。
よかった……本当に、よかった。
スナミちゃんの意識が、ちゃんと戻って来てくれて。
アオちゃんは、何度もスナミちゃんの名前を呼びながら、ごしごしと乱暴に目元を拭っている。
ずっと、たった一人で、スナミちゃんを支えてきたのだ。
その肩の荷が、ようやく下りたのだろう。
そして……そんな二人の、隣のベッドでは。
「……くぅん」
レノちゃんが鼻を鳴らして、目をパチクリとしていた。
シーツや、置かれてあるおもちゃを、ゆっくりと嗅ぎ始める。
そして、耳と尻尾を立てて、辺りを見渡していた。明らかに、ソワソワしている様子だった。
「……レノ……」
シーカが呟くと同時に、レノちゃんはハッとした顔をこちらに向けた。
すぐに、千切れそうなほど尻尾を振って、姿勢を低くする。
「……コラ、レノ。あんまり暴れちゃダメだ。病み上がり、なんだか、ら……」
ポツリと零れた声は、震えていた。
普段の彼女らしくない、優しくて穏やかな声色だった。
シーカは、レノちゃんの頭に、そっと頬を寄せる。
ただただ抱き締めて、目からは涙が流れていた。
よほど不安だったのだろう。
物言わぬまま眠り続ける家族の姿を、見守り続けて……。
「……あ。そういや、ナナ」
しんみりとした空気が、アオちゃんの軽やかな態度で一変する。
アオちゃんは私に近づくと、こめかみに手を当てて、ホログラム越しにとあるメッセージを見せてくれた。
それは、マシロさんからのものだった。いつの間に二人は連絡先を交換していたのだろう。
そんなことを考える暇もなく、私の視線はメッセージに向けられた。
『クロハお姉ちゃんが、目を覚ましたの! さっき、一瞬だけど、指が動いた。お医者さんも、奇跡だって言ってた。まだ話すことはできないけど……それでも、一命を取り留めたよ!』
そんな文章に加えて、クロハさんがほんの少しだけ人差し指を上げている写真が、添えられている。
数えきれないほどの管に繋がれて、大きな機械に生かされていた彼女が、回復したのだ。
よく見ると、写真の隅に映るマシロさんは、顔をぐしゃぐしゃにして、笑いながら泣いていた。
その姿を見て、自然と口角が上がる。
そして、頬には一筋の涙が伝っていた。
「……よかった。本当によかったよ、皆……」
喉の奥から、言葉が漏れた。
遺片に囚われ、眠り続けていた皆が、誰一人欠けることなく、目を覚ました。
全員で、元の平穏な日常に戻る。──そんな願いが、ようやく叶った。
これは、私だけの力だけじゃない。
皆のおかげで、当たり前の毎日が戻ってきたんだ。
胸に染みるこの思いを、大切に大切に、宝物のように仕舞いこむ。
この景色を、この経験を、ずっと忘れたくないと思った。
……………………。
………………。
…………。
「ナナさーん、もしもーし?」
突然、眼前から聞こえてきた声に、私はハッと我に返った。
いつの間にか、公園のベンチでボーッとしていたらしい。
取り留めもなく、あの頃のことを思い返しているうちに、時間を忘れていたようだ。
空には、すっかり見慣れた青色が広がっている。
あれだけの騒ぎだったのに……人というのは案外、新しい空にもすぐ慣れてしまうものらしい。
今ではもう、誰もが当たり前に、この青を見上げて暮らしていた。
「私の顔に、何か付いてますか?」
目の前で、サクラちゃんが顔を覗き込んでいる。
長い睫毛と桃の匂いに、ドキッと胸が跳ねた。
「ご、ごめんごめん。ちょっと、考えごとしてた」
私は、慌てて姿勢を直す。サクラちゃんは首を傾げながら、隣に座った。
サクラちゃんとは、こうして時々、近所の公園で待ち合わせている。
南雲家はまだまだ、筋金入りのアナログ家庭。
ライラさんたちと連絡を取る方法なんて、誰かのチップを経由する他ないのだ。
シーカに頼むか、アオちゃんに頼むか……そんな感じで悩んでいると、突然、サクラちゃんが現れて、連絡係を買って出てくれた。
どこから聞きつけたのかわからなくて怖かったけど、すっかり張り切っていたので、そのまま、なあなあで頼むことになってしまったのだった。
サクラちゃんの目的は……まあ、言うまでもない。きっと、私と顔を合わせる口実が欲しいのだ。
相変わらずのその熱量には、今でも、戸惑いを隠せずにいる。
それでも、前のような不気味さや、嫌な気持ちはなかった。
私の味方でいてくれるサクラちゃんには、非常に感謝している。
「あ、そうだ。ナナさん、聞いてください」
サクラちゃんは私の膝の上に手を触れて、ニコリと笑いかける。
「イチコ先生、この間、角花高校に復帰されたんですよ!」
「本当? それはよかった」
「はい! 同僚の先生への恋心はなくなっちゃいましたけど、それ以外はすっかり元通り。いつもの、おっとりした先生のままです。ふふふ」
イチコ先生が、製造元の会社でどのような処遇を受けたのか。
そして、彼女に違法なパッチをインストールした先生が、どうなったのか。
その辺りのことは、よく知らない。
……気にならないと言えば嘘になる。
けど、今はそれよりも、イチコ先生の話と、恋愛の師匠を慕うサクラちゃんの笑顔を見ていたかった。
「……っと、そういえば、ナナさん。こちらは、ご存じですか」
サクラちゃんは笑顔を抑えて、真剣な眼差しをこちらに向ける。
彼女が何を言おうとしているのか、私には何となく伝わった。
「峰石ヤクの件、裁判が終わったみたいですよ」
「……そっか。終わったんだ」
私は、少しだけ背筋を伸ばす。
人戒教。
機械仕掛けの神様を崇めて、西宮双子を縛り付けていた、不安定な宗教団体。
肝心の神が消えてしまえば、信仰心も途絶える。
拠りどころをなくした信者たちは、次々と峰石ヤクの元から離れていき、あっという間に、組織は解体されてしまった。
そして……そこに残ったのは、教祖だった峰石ヤクの、罪の清算だけだった。
「信者の方々から、お布施を騙し取っていたこと。それに、双子への仕打ち……何もかも明るみに出て、相応の刑が下ったそうです」
サクラちゃんはハァと溜め息を吐いた。
私は何も言わずに、ベンチの傍にある桜の蕾に目を向ける。
春先ののどかな風が、頬と髪を撫でた。
確か、シーカのお母さんも、警察官として捜査に関わってくれたと聞いている。
……二人は、峰石ヤクのことなんて、すっかり忘れているかもしれない。
それでも、クロハさんとマシロさんの心が報われてほしいと、そう思った。
「それにしても。世の中、ずいぶん変わりましたよねえ。DEMsが縮小してから——って、あれ? どのくらいになりますっけ?」
「えっと……どれくらいだったかな。二年……いや、一年?」
私とサクラちゃんは、同じタイミングで顔を見合わせる。
そして、お互いに笑いあった。
神が去ってから、本当に、いろいろなことがあった。
一つ一つを追いかけているうちに、気づけば、ずいぶんと月日が流れている。
……神を失って、役目の大半をなくしたDEMs。
あの強大だった組織も、さすがに以前のままではいられなかった。
けれど、ライラさんの言う通り、消えてなくなることはなかった。
残された神由来の技術の、維持や応用。
そして、青空にぽつんと浮かんだまま残る、神様の一部の研究。
それらを担う場所として、規模をぐっと縮めながらも、今もこの世界に存続していた。
威圧的で、やや独善的な思想を持つ、近寄りがたい組織。
それが今では、改革を経て、人々の暮らしを陰から静かに支える存在へと変わっていっているのだ。
ライラさん曰く、DEMs最高権力者であるジハイルさんの計らいらしい。
最初に彼らと出会ったときには、全く考えられない方向転換だった。
世界は少しずつ、けれど確かに、神のいない日々へと馴染んでいっているらしい。
「……あ、そろそろ時間ですね。イギリスとの定期連絡」
ふいに、サクラちゃんが声を上げた。
こめかみに手を当てて、ホログラムを起動する。
慣れた手つきで通信を始めるサクラちゃんを横目に、私は、無意識に姿勢を正した。
ライラさんと話すだけなのに、何故か毎回、落ち着かない気持ちになる。
でも、この定期連絡が、私にとっての楽しみであることは事実だった。
だって、これを通してだけ、海の向こうにいる、あの人たちの近況を知ることができる。
ライラさんと、スカイさん。ミホ先輩と、ココナッツ。
──そして、アイリ。
何も映っていなかったホログラムの画面が、ぽうっと、明るく灯った。
『ごきげんよう、ナナ』
金色の縦ロールに、凛と澄ました佇まい。
いつも着ていた真っ赤なドレスは見る影もなく、年相応の落ち着いた洋服を身に纏っていた。
彼女の背後に見える部屋も、以前訪れた様子とは全く違う。
豪華絢爛な豪邸ではなく、木のぬくもりが感じられる、優しい空間だった。
DEMsが縮小した影響で、ライラさんの生活は、少しだけ簡素なものになったらしい。
とはいえ、私としては十分に華美のように思えた。
ブリティッシュカントリーと言えばいいのか、レンガと木を組み合わせた、映画に出てきそうな可愛らしい建物。
侍女は雇い続けているようだし、両親は少しだけ仕事量が増えたみたいだけど、それでも、ノースシュタイン家はとても微笑ましく、慎ましく、それでいて、幸せそうに過ごしているみたいだ。
「ライラさん、こんにちは。今日はレモンティーですか?」
『あら。よくわかりましたわね』
ライラさんは、優雅にカップを傾けてみせる。
すると、その背後に、背の高い人影がちらりと見えた。
スカイさんだ。いつもの無表情のまま、ペコリと会釈する。
『ナナ様、聞いていただけますか。実はこのレモンティー、ライラ様がお淹れになったんです。長年の夢である、インスタントラーメンを一人で作る日も近いかと』
『ちょっと、スカイ! まだそれ諦めてなかったんですの!?』
ぎゃあぎゃあと言い合う二人に、思わず吹き出してしまった。
海を隔てても、この二人は、ちっとも変わらない。
お互いに憎まれ口を叩き合いながら、それでいて、誰よりも信頼し合っている。
その関係が、とても微笑ましかった。
「え、ええと……新しい組織の方は、順調ですか?」
私がそう尋ねると、スカイさんはピタリと口を閉ざした。
一方のライラさんは、ふっと得意げに鼻を鳴らして、口を開く。
『ええ、もちろん。おかげさまで、すっかり軌道に乗ってきましたわ』
ライラさんはDEMsに籍を置いたまま、自分の手で、全く別の団体を作り上げたのだ。
立場としては、DEMsのスピンオフ企業。
事業部門を切り離して、独立した新しい企業として立ち上げたのだ。
表宇宙を研究するための機関。
しかし、それはあくまで表向きでのもの。
その実体は、アイリを守るための機関。
研究という名目のもとで、アイリが安心して暮らせる場所を用意するための、舞台装置。
ライラさんとDEMsが話し合って、用意してくれたものだ。
どんな理由や経緯があれど、それが喜ばしいことであることは事実だった。
『ミホも、ますます張り切っていますわよ。新設した機械や備品に目を輝かせて、毎日、嬉々として研究に没頭していますの。それに、ココナッツも——』
『ちょっと!』
不意に、画面の外から、別の声が割り込んできた。
そして、見覚えのある顔が、ぬっと現れる。
『その呼び方、恥ずかしいからやめてって何度言ったらわかるのよ! ココナッツってフルーツみたいな名前じゃなくて、ココナって呼びなさいよ!』
『あら。ですが、今の貴女の身体は、557-2号機。ココナッツですわよね?』
『身体がそうかもしれないけど、心はあたしなの! もうっ!』
言いたいことだけ言って、そそくさとその場を後にするココナさん。
彼女の気の強いところは、出会ったときから変わらない。
こうして、海の向こうの皆の様子を窺えるのが、何より嬉しかった。
それぞれの場所で、ちゃんと前を向いて、笑って暮らしている。
あの長い戦いの果てに、みんなが手にした、穏やかな日々。それが、画面越しに伝わってくる。
そして、ひとしきり近況を語り合ったあと。ライラさんは咳払いをして、声のトーンを下げた。
『さて……そろそろ、本題に移りましょうか。貴女の、卒業後についてですけれど』
「……はい」
手に汗が滲む。唇が渇く。
私もお茶を用意しておけばよかったなんて、悠長なことを考えてしまっていた。
『貴女には、DEMsとの取り決めどおり、こちらでの研究に、協力してもらうことになりますわ』
ライラさんの口調は、いつになく、慎重だった。
DEMsと直接交渉した、あのとき。
私は、自分自身が、神の干渉を受けていない、まっさらな個体だと主張した。
そして、遺物に意識を干渉された、稀有な経験を持つ者だとも。
その結果、アイリと同様に、私もDEMsの観察・調査対象とされた。
……忘れるはずが、なかった。私は、自らこの身を差し出すと、啖呵を切ったのだから。
高校を卒業すれば、いよいよ、その約束を、果たすときが来る。
『とはいえ、ご安心なさい。貴女を研究漬けにして、縛りつけるような真似はさせませんわ。協力は、必要な範囲で。それ以外の時間は──貴女の、自由になさってちょうだい』
DEMsの研究に協力するためには、生涯をイギリスで過ごす。
これは、DEMs側の最大限の譲歩だった。
研究対象として赴く傍ら、私はイギリスで生活基盤を構築しなければならない。
困り果てた様子を見ていたライラさんが、住む場所を用意してくれたのだ。
『あくまで、私が用意したのは、場所だけですわ。そこでどう働き、どう根を張っていくかは、ナナ。貴女次第です』
その言葉が、静かに、胸に響いた。
そう。ライラさんが開けてくれた扉の先を歩くのは、私一人だけだ。
親元を離れ、慣れない異国で、研究に協力しながら、働いて、生活を築いていく。
それは、決して楽なことじゃないだろう。
でも、私の覚悟は、今更、揺るぐことはない。
「はい。やらせてください」
私は、真っ直ぐに画面を見つめて、頷いた。
「不安がないと言ったら、嘘になります。でも、私、決めたんです。アイリの傍にいるって。あの子と同じ場所で生きていきたいって。……だから、どんなことでも、頑張れます」
しばらく、ライラさんは私の顔をじっと見ていた。
そして、目元を緩めて、口元を隠す。
『ウフフ……良い目をするようになりましたわね。心配は不要だったかしら』
ライラさんは、とても満足そうに息を吐いた。
奥に佇んでいたスカイさんもまた、目を伏せてウンウンと頷く。
「ナナさん。イギリスへ行くときは、私の分の手続きもお忘れなく! 私も当然、ご一緒しますよ!」
すると、サクラちゃんが、ひょいと顔を覗き込む。
突然のことに、私ではなくライラさんが驚いた。
「……何度も聞くけど、本当にいいの? サクラちゃん。ご家族と離れることになるわけだし、文化や食事の違いだってあるんだよ?」
「そんなの、ナナさんだって同じですよ!……というか、だからこそです! 身近に味方は多い方がいいでしょう!」
サクラちゃんは、得意気な表情で胸を叩く。
確かに、私のイギリス行きを未だに飲み込めずにいる両親も、サクラちゃんが一緒だとわかれば、安心してくれるかもしれない。
特に、お母さんは彼女のことを気に入っているみたいだし、少しは安心してくれるだろう。
……でも。
『人数が増えるのは構いませんけれど、大丈夫なんですの? サクラ貴女、勉学は苦手ですわよね。英語もダメダメだと聞いていますわよ?』
私が懸念していたことを、ライラさんはズバッと指摘する。
サクラちゃんはムッと唇を尖らせて、腕を組んだ。
「よ、余計な心配しなくていいからっ! ナナさんとの共同生活のためなら、英語くらいすぐ話せるようになるもん!」
ふいっとそっぽを向くサクラちゃん。
私以外の人に対してつっけんどんなのは変わらないけど、それでも、前より柔らかくなっている。
『……ああ、そうそう。それから、アイリのことですけれど』
アイリ。
その名前に、言葉に、背筋が伸びる。
『探り探りで、本当に大変でしたけれど……アイリと意思疎通ができるようになってからは、驚くほどスムーズに事が進みました』
「……そう、なんですね」
アイリは、ライラさんが設立した企業の施設内で過ごしている。
大きな一つのフロアを丸々使って、アイリにとって最適かつ最高の居場所となるように。
『幸いなことに、地球の大気とは親和性があるようですけれど、食事や発声、体内構造……情報の受け取り方まで、多くの違いがあります』
一つ一つ、ゆっくりと確かめながら。
アイリは、地球で──異なる惑星で、無事に生活できているみたいだ。
けど……いつ、どんな条件で、アイリの身体が脅かされるのかは、まだ、わからないまま。
未知が多いアイリの生態や正体は、最重要機密事項となっている。
関わりのあった人たちや、DEMs上層部にしか、公表されていないし、会うこともできないらしい。
『けれど、ナナ。アイリ、毎日とても楽しそうにしていますのよ。屋外で太陽の光を浴びたり、ミホと映画を見たり……』
映画かぁ……どんなもの観るんだろう。
私は、モニターの前に並ぶ二人の様子に、思いを馳せる。
そしてそれは、徐々に、別の思いへと変化していった。
──早く、会いたい。
高まる気持ちを抑えるために、深呼吸する。
ライラさんは私の反応を見て、小さく微笑み、サクラちゃんは、ハァと溜め息を吐いた。
やっぱり私は、何がなんでも、イギリスに行く必要がある。
アイリに、直接触れたい。アイリのことを、もっと知りたい。
姿形は違っても、私の中では、アイリはアイリ。
無邪気で、大人びていて……何より、芯が強い。そんな、私の親友。
「……あの、ライラさん。今回もまた、お願いしてもいいですか?」
『ええ、もちろん。前回の返事も窺っておりますわ』
定期連絡のときに、アイリと言伝でお話する。
いつの間にか、それが、いつもの流れになっていた。
私は咳払いをして、真っ直ぐに前を見る。そこに、アイリがいると想像しながら。
「アイリ、元気?……会いに行けなくて、ごめ……寂しいよ」
「ごめん」という言葉を、アイリは嫌う。理由までは聞いてないけど、彼女らしいと思う。
気持ちをどう伝えるべきか迷い、少し間が空く。
けれどすぐに思い直し、素直に、自分の考えを、ありのまま口にすることにした。
「でも……もう少しで、高校を卒業するの。そしたら私、そっちに行くから。それまで、待っててね」
一緒に寝て、たまに一緒にお風呂に入って、食事をして、運動して、一緒に本を読んで、遊園地で遊んで……大切な思い出が、昨日のことのように、鮮明に蘇る。
あのときと同じ……いや。それ以上の楽しさを、味わいたい。
笑い合って、ふざけあって、高め合って……かけがえのない日々を送ろう。
冬と春が混ざったような、晴れやかな空の下。
木洩れ陽に当たる、小さな二つのフキノトウを見つめながら、ゆっくりと、深呼吸する。
私たちのこれからを祝福するかのような、清涼な空気が、肺いっぱいに広がった。




