第二十話 交渉
そこは、見上げるほどに大きな屋敷だった。
石造りの外壁が、神様越しの白い朝光を受けて、柔らかく輝いている。
玄関に続くアプローチには、丁寧に刈り込まれた生垣が続いていて、その先に、どっしりとした扉が構えていた。
古いわけではない。でも、どこかしっかりと根を張ったような、落ち着いた佇まいだった。
屋敷の周辺には、行き届いた庭園が広がっている。
見たこともない天然の花々が、色とりどりに咲き誇っていた。
風が吹くたびに、甘い香りが、ふわりと漂ってきた。
一歩中へ踏み込むと、磨き抜かれた大理石の床が、靴底に硬く冷たく伝わってくるようだった。
天井には、きらびやかなシャンデリアが吊るされていて、光の粒が、床の上に散らばっている。
玄関ホールは、私の家がまるごと収まってしまいそうなほど広い。
壁には、見たことのある有名な絵画が飾られていて、壁棚の上には、丁寧に活けてある花が置かれていた。
華やかで整然としているのに、節々から生活感から来る温かさを感じられる。
なんとも、不思議な空間だった。
ここが、ライラさんの家。——ノースシュタイン家。
遠い異国の地。イギリスの郊外にある、大きな大きな敷地。DEMsのお膝元。
私は今、ライラさんに招かれて、この豪奢な屋敷に足を踏み入れていた。
日本とは何もかも違う景色に、さっきからため息ばかりが漏れる。空気の匂いまで、違う気がした。
「ようこそ、ナナさん。むさ苦しいところですけれど、ゆっくりしていってくださいまし」
ライラさんが優雅に微笑んだ。
私はキョロキョロと首を動かして、ライラさんについていくことしかできなかった。
…………どうして、こんなことになったのか。
事の始まりは、数日前にさかのぼる。
ライラさんが口にした、一つの可能性。
誰も、犠牲にしない道。
それを手にするには、DEMsと片をつける必要があるらしい。
そのため、私たちは海を越えることになった。
ライラさんとスカイさんに連れられて、DEMsの本拠地があるという、この国へ。
同行するのは、限られた顔ぶれだった。
ライラさんとスカイさん。私とアイリ。それに、マシロさん。
マシロさんが行くことになったのは、クロハさんの延命治療が、日本にある技術では賄いきれず、DEMsの施設で継続することになったからだ。
他の皆は、日本に残った。
シーカは、レノちゃんの傍を。
アオちゃんは、スナミちゃんの傍を離れたくないと言っていた。
ミホ先輩は車椅子の身だし、ココナさんや、目を覚まさないみんなを見守る役目がある。
だから日本に残って、DEMsとの因縁は、通信上で片付けるつもりだという。
サクラちゃんは、最後まで渋っていた。
「私も行きたいです! ナナさんとひと時も離れたくありません!」
そう言って、子供みたいに駄々をこねていた。
決闘の一件ですっかり丸くなったとはいえ、私への執着は相変わらずだ。
結局は私に諭されて、仕方なく日本に残ることになった。
空港まで見送りに来て、最後まで未練がましく手を振っていた。
一番私の頭を悩ませたのは、両親への説明だった。
アナログ思考の我が家。娘が突然、遠くへ旅立つなんて、すんなり許すはずがない。
私たちは散々悩んだ末に、アイリの帰る家が見つかった、ということにした。
ずっと行き場のなかったアイリ。
その身元を引き取ってくれる人が現れて、アイリはそこへ帰ることになった。
だから、その見送りに、しばらく付き添いたい。──そう説明したのだ。
今更、本当のことなんて、言えるはずもない。
けれど両親は、アイリを本当の娘みたいに可愛がっていた。
だから、別れを惜しむ気持ちは、ちゃんとわかってくれた。
ただ、私には一つだけ、気がかりなことがあった。
それは、アイリとの行き違い。
私たちは未だに、仲直りができていないのだ。
アイリを助けたいという気持ちは、少しも変わっていない。
でも、あんな口論をしたあとで、どう向き合えばいいのか、わからなかった。
それに、ライラさんが提示したもう一つの可能性は、あくまで、DEMsとの対話がうまくいけばの話。
もしうまくいかなかったら、私とアイリは、喧嘩を再開することになる。
ぎくしゃくした関係を引きずったまま、私とアイリは、一言も喋らずにここまで来たのだった。
「皆、長旅でお疲れでしょう。このまま個室で休んでも構いませんが、せっかくですし、お茶に致しましょう」
私たちはライラさんに案内されて、応接間へ通される。そこでも、私は目を丸くした。
通された応接間は、今までとはまた違う雰囲気だった。
こちらはこじんまりとしていて、天井も低めで、どこか落ち着いた空気が漂っていた。
壁には淡い色の壁紙が張られていて、暖炉の上には小ぶりな置き時計と花瓶が飾られている。
時計は、静かに、規則正しく刻んでいた。
中央には、艶やかな木製のテーブルと、ふかふかとしたソファが向かい合って置かれていた。
座面には繊細な刺繍が施されていて、座るのが憚られるほどだった。
部屋の隅には、小さな陶器の人形や、見慣れない意匠の置物が、ガラス張りの戸棚の中に並んでいる。
骨董品屋さんみたいだ。行ったことも見たこともないけど……。
ややあって、たくさんのメイドさんが、テーブルの上にカップやケーキスタンドを運んでくる。
全員女性で、かつ、肌の色も髪の色も、てんでバラバラ。
国境を越えた美女たちが、優雅に、慎ましやかに働いていた。
……こんなラフな格好で、ここにいていいのかな。
私は、すっかり気後れしてしまっていた。
「ナナ。そんなに緊張するようでしたら、何か小話でもしましょうか?」
動揺はバレバレだったみたいだ。
ライラさんは口元に手を当てて、クスクスと笑う。
「私……恥ずかしながら、読み書きが苦手なんですの」
「え……え、ええ!? ほ、本当ですか!? で、でも、そんな様子、一度も……」
「ええ。ですから、他国へ赴く際は、その国の秘書に付いてきてもらい、補助いただいてるんですの。トーキングとリスニングは可能なのですが、やはり、読み書きまでとなると……上達まで時間がかかって、中々難しいのですわ」
……いや、聞いたり話したりできるのも、十分凄いと思うけど……。
って、ん? その国の秘書? ということは。
「あの、スカイさんって、日本人なんですか?」
紅茶の芳しい匂いが漂う中、私はおずおずと、ライラさんの後ろに立つスカイを見る。
スカイさんは手を胸に当てて、いつもの無表情でこう言った。
「はい。スカイ・ハセフジ。本名は、長谷藤ソラと申します。ライラ様のご意向で、普段は偽名を使用しております」
「……まさか、ナナ。今まで気づいていませんでしたの? ハセフジなんて苗字、いかにも日本人のものでしょうに」
「そ、それはそうですけど、でも、スカイさんってスタイル良いし、美人だし、怪力だし……」
そう言うと、スカイさんはこめかみに手を当てて、私の前にホログラムを見せてくれた。
そこには、セーラー服や浴衣など、様々な服を着たスカイさんがいた。
ほとんど見た目は変わらないけど、確かにそこには、日本で青春を謳歌している彼女の姿があった。
……メイド服以外を着ているところ、初めて見たかも。
「大学生の頃、イギリス留学をしていました。そこで、たまたま暴漢に絡まれていたライラ様を、お助けしたんです。それが縁で、雇われることになったんです」
「へぇ~。じゃあ、結構お給料もらってるの? 羨ましいなぁ~」
口にモノを入れながら、マシロさんは穏やかに呟く。
嫌味や皮肉ではない、純粋な気持ちのように思えた。
大きなテーブルの上には、いつの間にか、ケーキやクッキー、マドレーヌ、スコーンなどが並んでいる。
マシロさんはそれらを、掴んでは食べ、掴んでは食べていた。
「マシロの言うとおり、裕福であることは、事実ではありますわね。ここに住む両親の生活費も、私の賃金から出していますし」
さらりと、ライラさんは言った。
両親を養っているって……私よりも年下なのに、凄いなぁ。
暮らしぶりも合わせて目の当たりにすると、改めて、彼女の立場の大きさが、ずしりと迫ってくる。
マシロさんは「ふぅん」と興味なさそうに呟いて、また、お菓子を頬張った。
……マシロさんって、こんなに大食いな子だったんだ。
この調子だと、テーブルの上のお菓子が全て食べ尽くされてしまいそうだ。
ライラさんの雑談のおかげで緊張も解れたことだし、私も、本場のスコーンをいただこう。
そう思って、手を伸ばした。そのときだった。
「……あ」
アイリの手と、触れてしまった。バチッと目が合う。
お互いに視線を逸らして、今度は、隣にあるクッキーに手を伸ばした。
しかし、また、アイリとタイミングが重なり、手が触れてしまう。
……仕方ない。スコーンは諦めて、近くにあるパイを食べることにしよう。
アイリもまた、近くに置かれていたマカロンを食べ始めた。
その様子を見て、ライラさんとスカイさんは肩を竦める。
居た堪れない気持ちになった私は、ふと、こんなことを口にした。
「あ、あの、せっかくですし、ライラさんの生い立ちを聞きたいです。お茶のお供に……どうですか?」
「……それは構いませんけれど……」
戸惑いながらも、乗り気のライラさんを見て、思わずホッと胸を撫で下ろす。
ライラさんは紅茶を一口飲んで、胸元に手を置いた。
「私、故郷では神童と呼ばれておりまして。生まれながらに頭が良かったものですから、両親の反対そっちのけで、DEMsの試験を受けてみたのです」
「DEMsは、試験に合格した者しか加入することはできません。逆に言えば、試験に合格さえすれば、老若男女問わず構成員になれるのです」
スカイさんが、横から淡々と補足する。
私はパイをナイフ切る手を止めて、尋ねた。
「それで合格して、今に至るっていうことですか?」
「ええ。ですが、当時のDEMsでは、齢八歳の女の子を採用するのは異例。構成員は寮で暮らす決まりでしたが、未成年ですからね。近所に家を建てていただきました。もちろん、その分のお金は後日お返ししましたけれど」
スケールの違う話に、私はただ頷くしかなかった。
八歳で就職なんて、考えられなかった。そんなこと、許されるんだ……。
「……実際、ノースシュタイン家は、初めから裕福だったわけではありませんのよ。街外れの小さな田舎町に住んでいましたから。この豪邸は、DEMsの戦略の一つ。私を令嬢として記号化し、外交や広報的な立ち位置として扱うための設定作りですの」
「え……じ、じゃあ、ライラさんのそのお嬢様言葉とか、メイドさんとか、ドレスファッションも、全部、DEMsの……?」
「ああ、いえ。その辺りは、個人の趣味ですわ。お父様とお母様は至って普通の方です。どちらも私のワガママに付き合ってくれる、優しい両親ですわ」
「その優しさに甘えてばかりではいけません。特にお父様は、女性が多いこの空間を、非常に肩身の狭い思いをしていらっしゃいます」
スカイさんのボヤキに、他人事のようにオホホ、と、ライラさんは上品に笑う。
それを見て、スカイさんは眉間に皺を寄せて、ずいっと、ライラさんの顔を覗き込んだ。
「それよりも、ライラ様。趣味という言葉は看過できません」
ピシャリと、スカイさんはいつも以上に低い声を放つ。
周囲にいるメイドさんたちが、ほんの少しざわつき始めた。
「容姿や性別はともかく、食事や着替え、ボディガードまで柔軟にこなせる人材は貴重でございますよ。趣味の範疇を越えています」
「あら。私の秘書なのですから、そのくらいできて当然ですことよ。それを踏まえた選抜こそ、私の趣味ですわ」
どうやら彼女のメイド兼秘書になるには、相当ハードルが高いみたいだ。
それでも、各国の美女を揃えてあるのは、さすがと言うべきか。
すると、マシロさんを挟んで隣に座っていたアイリが、頬にホイップクリームを付けながら、キョトンと首を傾げた。
「えー? ライラって、一人で着替えもできないの?」
セリフだけ聞くと、小馬鹿にしたようにも見える。
けど、アイリの口調や態度を鑑みると、純粋な疑問だったのだろう。
ライラさんも特に不快な表情はせず、むしろ気まずそうに視線を逸らす。
代わりに応えてくれたのは、スカイさんだった。
「はい。ライラ様は類稀なる頭脳以外は、てんで駄目駄目なのです。この前など、小腹が空いたとカップラーメンを作ろうとして、湯の沸かし方がわからず、立ち尽くしておられました」
またしても、周りのメイドさんたちが小さく声を漏らす。
察するに、スカイさんの態度に困惑して、ざわついているような感じだった。
「ちょ、ちょっと、スカイ! 余計なことを言わないで頂戴!」
顔を赤くして、ライラさんが喚き出す。
普段の澄ました令嬢の姿とは打って変わって、なんだか年相応で、可愛らしかった。
とはいえ、特に驚きはしない。
ミホ先輩もかなりズボラだったし、天才というのは総じてそういうものなのだろう。
有名な学者の自伝小説では、そんな印象を受ける。
それにしても、出会ったときから、スカイさんはライラさんに対して、ズバズバと物申している。
他のメイドさんたちは、恭しく接しているのに。
「あの、スカイさんは、随分とライラさんと、距離が近いんですね」
気になってそう尋ねてみる。
メイドさんたちは、一瞬だけ、スカイさんの方を見ていた。
スカイさんは少し間を置いて、答えた。
「ライラ様はお若いです。立場と不釣り合いなほどに。誰もが傅き、チヤホヤされる毎日……このまま天狗でいれば、いつか、痛い目を見るでしょう」
「だから、わざと対等に接しているらしいですわ。誰か一人くらい、そういう者がいなければ、と。……馴れ馴れしすぎて、逆に困ったものですけれど」
「困ったとは心外です。普段困っているのは我々の方です」
スカイさんが、しれっと返す。
その言葉に、ライラさんはつんとそっぽを向いた。
けれど、その横顔は、まんざらでもなさそうだった。
立場は違うのに、二人は、まるで対等な友達みたいだった。
きっとライラさんも、本当はそれを心地よく思っているのだろう。
──友達。
その言葉に、チクリと胸が痛む。
アイリは私を見ようともせずに、紅茶を飲んでいた。
……早く、仲直りしたいな。
そう思うのに、何故か、アイリにかける言葉が見つからない。
楽しいはずの異国の屋敷で。私の胸には、晴れない曇りが残ったままだった。
「…………」
ライラさんも、それに気づいたらしい。
私とアイリを、ゆっくり見比べて、何かを言いかけて……やめた。
日本にいた時から、たくさん気を遣わせてしまっている。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「そんなことより、私、あなたに聞きたいことがあるんだけど〜」
すると、マシロさんはお腹を擦りながら、ニコニコ笑顔をライラさんに向ける。
テーブルの上からは、用意された洋菓子の三分の一ほどが既になくなっていた。
「あなたと日賀志ミホが言う、誰も犠牲にならない案って、どうしても、聞かせてくれないの~? 私は行かないけど、皆は明日、DEMsのお偉いさんに会うんでしょ?」
マシロさんの言う通りだった。
ミホ先輩とライラさんが考えついた、もう一つの可能性。私たちは、何も知らないままでいる。
「前にも言いましたが、ナナやアイリにも共有しないのは、作戦のうちですわ」
そう言って、ライラさんは紅茶を飲み干した。
そして、小さなクッキーをひとつまみして頬張り、飲み込んだ。
「安心なさい。日賀志ミホとの計画は綿密に立てていますから」
ライラさんは、この話は終わりと言わんばかりに、このお屋敷での生活ルールについて話し出す。
正直、言葉の半分も入って来なかった。
確かに、二人のことは信用している。けど、安心なんてできない。
だって、もしそれが失敗してしまったら、また、私とアイリは……。
リンゴの香りがする紅茶を、モヤモヤごと流し込む。
けれど、食堂でディナーをいただいても、大きなお風呂に入っても、個室のベッドで寝ても、モヤモヤが無くなることはなかった。
+++
ライラさんの屋敷を出て、車で少し走ったところに、それはあった。
鉄格子とホログラムを組み合わせた高い塀が、敷地をぐるりと囲んでいた。
入口には重厚な鉄の門があり、真っ黒なアンドロイドが左右に立っている。
ライラさんの顔を見るなり、門は静かに開いた。
中に入ると、まず、その広さに圧倒された。
向こうの塀が全く見えず、一つの街のように様々な建物やお店が並んでいる。
全て、白と黒を基調とした、無駄のない外壁。
地図や看板、道標などは全てホログラムで、宙にふわふわと浮いている。
そして、建物の間を縫うように、小型の車のような機械が、滑らかに走り回っていた。
荷物を積んでいるものもあれば、何も載せずにただ移動しているものもある。
その動きに一切の無駄はなく、けれど妙な可愛らしさがあった。
ライラさんとスカイさんは、粛々とした態度で、敷地の中央にある、最も大きな建造物──DEMs本部へと向かっていく。
他の建物よりも明らかに背が高く、屋上からは、いくつもの巨大な筒状の構造物が、空へ向かって真っ直ぐに伸びていた。
神様の研究に使うものなのだろうか。その先端が、靄の中に溶け込んで、見えなくなっていた。
DEMs本部には、黒い石材でできた巨大な受付カウンターがあって、その奥に、真っ黒なアンドロイドが数体、微動だにせずに立っていた。
壁にはDEMsの設立秘話や、無数の数値が映し出された大型スクリーンが嵌め込まれている。
床は継ぎ目のない素材でできていて、歩くたびに低く硬い音が響いた。
私とアイリは、無言のまま、この荘厳とした雰囲気の室内を歩いていく。
いくつもの扉をくぐり、エレベーターに乗り、廊下を歩き続けた。
通路の両脇から細い光が床を照らし、等間隔で並んでいる扉には、それぞれに見慣れない記号や番号が刻まれている。
そして、体感的に三十分ほど……実際には五分ほど、本部内を歩き回ったところで、ようやく、ライラさんが足を止める。
「ここですわ」
そこには、一際大きな、両開きの扉が鎮座していた。
今まで見たどの扉よりも、明らかに厚く、重そうだった。
余計な装飾は何もなく、ただ、その迫力だけが、ここから先が別世界だということを物語っていた。
「心の準備は、よろしくて? この奥の部屋にいるのが、DEMsの頂点。確かな決定権を持つ偉いオジサンたちですわ」
私は、ゴクリと唾を飲んだ。
隣にいたアイリと、一瞬、目が合いそうになる。
けれどお互い、すぐに逸らした。
気まずさは、こんなときでも消えてくれない。それが、もどかしかった。
「とはいえ、あくまで、話の主体となるのは、私と日賀志ミホです。お二人が肩肘を張る必要はありませんことよ」
「…………は、はい」
簡単に言いのけるなあ……そんなこと、できるわけないよ……。
心を落ち着かせる暇もなく、スカイさんは慣れた手つきで、堅牢な扉に、手のひらと網膜をかざした。
扉は、重々しく音を立てて、ゆっくりと開いていった。
──その先には、ただ、暗いだけの空間が広がっていた。
ただの、広大なホール。
装飾や照明はなく、どこまでが壁で、どこまでが天井なのかも、わからない。
一歩、足を踏み入れると、闇に呑まれるような心地がした。
物音一つしていない。自分の心臓と呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「誰か、いる」
しばらく進むと、アイリが誰に言うでもなく、ポツリと呟いた。
私には、何も感じられない。けれど、空気が一変したのだけはわかった。
重苦しいものから、ピリピリと刺さるものへと。
『──よくぞ、参った』
「っ!?」
突然、響いた声に、思わず身体が跳ねる。
どこから発せられているのだろう。低く、無機質で、性別すら判然としない声だった。
それが、あちこちから、ホール中に反響している。
姿は、どこにもない。ただ音声だけが、四方から、私たちを取り囲んでいるようだった。
暗闇の向こうに、誰がいる。
姿は見えなくても、複数の視線が、私たちへと注がれているような気がした。
注目されている。
仕方がないとはいえ、その事実に耐えきれず、ほんの少し、吐き気を覚えた。
『我らは、DEMsを統べる者だ』
闇の中から、五つの声が重なって聞こえる。
「せーの」もなしで合わせるなんて……たくさん練習したのかな。
極度の緊張で麻痺した私の頭は、もはや、そんな軽薄なことを考えていた。
ポヤポヤの頭のまま、ライラさんに倣って、頭を下げる。
しばらく、沈黙が続いた。
『面を上げよ、南雲ナナ。そして、遺物よ』
ようやく聞こえた言葉に、ハッと息を呑む。
遺物──そうだ。ここで、すべてが決まるんだ。
顔を上げると同時に、頭を切り替える。
駄目だ、ボケている場合じゃない。
本番はここから。私たちの最後の戦い……最後の対話が、始まろうとしている。
『此度は、大儀であった』
温度を感じられない、冷たい響き。ゾクリと、鳥肌が立った。
『そこの、地球外生命体──アイリという仮名の個体。全ての遺片を集め、完璧な遺物へと再構築されたとのこと。長らく、エーテルを研究してきた我らにとって、これほど価値のある個体は、かつて存在しない』
声の主の感情は、相変わらず読めないままだ。
けれど今の発言には、どことなく、アイリを品定めするかのような、下衆さを感じられた。
『貴殿らの活躍により、エーテルという人知を超えた存在へと、大きく近づくことができるであろう。それは我らDEMsの使命であり、祈願である。ライラ・ロストーリ・ノースシュタインには、たっぷりと報酬をくれてやることにしよう』
「あら、それは嬉しいですわ。……ですが、一つだけ。お尋ねしてもよろしいかしら」
ライラさんは、涼やかな声で、一歩前へ進み出る。
一様に笑い合っていたお偉いさんたちは、ピタリと口を閉ざした。
『申して見よ、ノースシュタインの娘。報酬についての要望かね?』
子供のワガママを受け流すかのような、軽い言い方だった。
しかし、ライラさんはその失礼な態度に臆することなく、ピンと背筋を伸ばして、ハッキリと言い放つ。
「ココナッツについて」
『……ッ!?』
室内を満たしていた空気が、明らかに変わった。
闇の向こうの声が、ざわりと揺れる。
さっきまでの余裕に満ちた響きは、もはや、見る影もなかった。
ゴクリ、と、喉が鳴る。
今まで以上の緊迫感に、私は知らず知らずのうちに、身を固くした。
そんな私の肩を、スカイさんの大きな手が包んだ。
スカイさんもライラさんも、胸を張って、気丈に立ち振る舞っている。
「お答えにならないのでしたら、こちらから申し上げても構いませんわよ。貴方方が長らく闇に葬ってきた、窃盗……」
『それ以上、口を開くな』
『身の程を弁えよ。組織の内部事情を、部外者の前で軽々しく口にするな』
『何処でその名を聞いたかは知らないが、即刻忘れよ』
『これ以上、口を開くようであれば、容赦なくここから追い出すぞ』
次から次へと、声が重なり合って聞こえてきた。
焦りや動揺を必死に抑えているような、そんな印象を受ける。
「ええ、どうぞお好きに」
しかし、ライラさんは引かなかった。
ニコリと微笑んで、両手を広げる。
『警告はした。──連れ出せ』
その一言で、暗がりから、小さな駆動音が、湧き出した。
現れたのは、黒い装甲の、アンドロイドたち。
双子の捜索中に見た、DEMsの捕獲用機体だ。
表情のない、つるりとした顔。無駄のない金属製の身体。
それらが、五体ほど、私たちを取り囲み、距離を詰めてくる。
「っ……!」
アイリが、咄嗟に身構える。そして、アンドロイドの一体が、無機質な手を、アイリの腕へと伸ばした。
──掴まれる。そう思った、瞬間だった。
「お引き取り願います」
私の隣にいたスカイさんの姿が、いつの間にか消えていた。
彼女はスカートを翻して、アンドロイドの腕を蹴り上げた。
革製のブーツが歪み、アンドロイドは仰け反る。
ギギギ、と、金属の軋む音がした。
アンドロイドはピンピンしてたけど、ほんの少しだけ、動きが遅くなる。
続けて、スカイさんは、もう一体のアンドロイドの顔面に拳を叩き込んだ。
柔らかい部分だったのか、装甲が、紙くずみたいにペシャンコになった。
アンドロイドは体勢を崩し、『視界不良、視界不良』という電子音が聞こえた。
また一体、また一体……。
私は目を疑った。
いくらスカイさんの力が強いとはいえ、頑丈なアンドロイドを、素手で圧倒している。
「ライラ様に、手出しはしません。筋肉が切れようとも、骨が砕けようとも、命をかけてもお守り致します」
体勢を立て直し、迫りくるアンドロイドたちを、片端から掴んでは、投げ、怯ませる。
まるで、嵐みたいだった。人数不利もあるのに、果敢に立ち向かっていた。
「お続けください、ライラ様。計画通り、交渉の邪魔はさせません」
スカイさんは、振り向きもせずにそう言った。
一瞬だけ、ライラさんが強く唇を噛んでいたのを、私は見逃さなかった。
『侍女一人に、何を手間取っている!』
『早急に、全員を捕まえ──』
「お黙りなさい、唐変木共」
ピシャリと、ライラさんは冷たく突き放す。
そして、懐から、小さな通信端末を取り出した
「ここからは私ではなく、当事者のこの方に、お話しいただきますわ」
端末から、ホログラムが浮かび上がる。
そこに映し出されたのは、見慣れた、あの飄々とした笑顔。
「──やれやれ。随分と遅かったじゃないか。待ちくたびれてしまったよ」
ミホ先輩。
日本にある彼女の研究所から、通信で繋がっているようだ。
闇の中の声は、しんと静まり返っている。
スカイさんの打撃音と、アンドロイドの駆動音だけが、周囲に響いていた。
「やあやあ、DEMsの旦那方」
沈黙を無視して、ミホ先輩は、ニヤリと口角を上げる。
しかし、目は、少しも笑っていなかった。
「六年ぶりだね。君たちに奪われたものを、返してもらいに来たよ」
『──馬鹿な』
『我らの許可なく、回線が繋がることなどありえぬ。どうやってこじ入った』
ココナッツというワードを聞いたとき以上に、声の主たちは動揺している。
それでも、ミホ先輩は気にせずに口を開けた。
「疑問を解消したいのは、同じ研究者としての性だ。やはり最高峰の頭脳を持つと、ここまで勉強熱心になるものなんだね」
『黙れ。質問に答えよ』
画面の中のミホ先輩は、両手を上げて肩を竦める。
呆れて物も言えない。と、顔に書いてあった。
「大層ご自慢の防壁のようだが、私の手にかかれば造作もない。六年前から更新されていなくて助かったよ。アップデートは積極的に行うべきだったね」
ミホ先輩が映る端末の画面が、何度かチラついている。
ノイズが走り、映像が歪んだ。
DEMsが力ずくで、通信を切ろうとしているのかもしれない。
世界有数と謳われる、その技術力で。
けれど、一向に、通信は途切れなかった。
『回線を落とせ。全力で遮断しろ』
「無駄さ。こういうイタチごっこは、私の得意分野でね。技術ってのは、規模じゃない。誰が使うか、なんだよ」
ミホ先輩はケラケラと笑い出す。
まさしく、天才の所業だった。世界中の頭脳を結集したはずのDEMs。
その防壁を、たった一人で、いとも簡単に突破している。
ややあって、DEMs側の妨害は停止した。大きな溜め息が聞こえる。
『……ノースシュタイン嬢。貴様、何故、日本に──いや。何故、今回の遺物の件に、日賀志ミホが参画していると伝えなかった』
「あら、いけませんでしたか? 貴方方は彼女に対して、何か後ろめたいことがあるみたいでしたから。名を出すのもお嫌かと思い、配慮してさしあげたのです」
『減らず口を……貴様ら、何が望みだ』
観念したように、声が問う。
ライラさんとミホ先輩は、顔を見合わせて、意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「さっき言っただろう。六年前。アンタたちが私から奪ったものを、返してもらう」
ミホ先輩の言葉に応じるかのように、端末からもう一つ、ホログラムが浮かび上がる。
そこに映し出されていたのは、ココナさんとそっくりの、精巧なアンドロイドだった。
「557-2号機。通称・ココナッツ。私が造った、最高傑作のアンドロイドだよ」
『………………』
「覚えてない、とは言わせないよ。順を追って、話してやろう」
ミホ先輩は咳払いをして、淡々と話し始める。
感情はなく、ただただ、事実を述べているかのような言い回しで。
「557号機は神由来の技術を活用し、人間と見分けがつかないほど精巧で、自己学習機能を備えた、唯一無二の存在だ。そんな素晴らしいアンドロイドを、一体しか造らないわけがないだろう。私はまったく同じ設計で、姉妹機を造っていたのさ。それが、557-2号機……ココナッツ」
姉妹機……? そんなものがあるなんて、ミホ先輩は一言も……。
「貴方方は、どこからか、その存在を嗅ぎつけたみたいですわね。そして、日賀志ミホにこう持ちかけた。『未解明の技術だ。是非、研究に協力してほしい』と。……それも秘密裏に、独断で行った」
「当時の私は、DEMsを信用していた。世界の技術を統べる、立派な組織だと。だから、のこのこ、本部まで出向いたんだよ。協力するつもりでね」
聞いているだけで、嫌な予感がした。
隣のアイリも、息を詰めて、画面を見つめている。
「私が本部に滞在している、その最中。突然、施設全体が、封鎖された。担当者は言ったよ。『557-2号機が暴走を起こした』と。……馬鹿な話さ。ココナッツが暴走なんて、起こすはずがない。私が、誰よりわかってる。何度もそう訴えた。だが、聞く耳を持たなかった」
『……それは』
「それどころか」
ミホ先輩は、闇の中の声の遮りを許さない。
少しずつ、彼女の声に怒りが滲み始めていた。
「私を、危険物持ち込みの疑いとでっち上げた。碌な説明もないまま、そして、私を、強制的に本国へ追い返した。────安全が確認でき次第、557-2号機は返す。そう取り決めてね」
ずっと疑問だった、DEMsとミホ先輩の因縁。
その真相を、ようやく知ることができた。
奪われた、姉妹機。
施設の封鎖も、暴走も、追放も。何もかも、仕組まれていたんだ。
ミホ先輩を追い出して、ココナッツを我が物とするために。
……なんて、ひどい。そんな騙すようなことしなくたって、交渉次第でどうにかなったのかもしれないのに。
「早く返せと要請したが、その返事は未だに来ちゃいない。取られた証拠もないし、ただの個人が、世界を有する企業を相手取って、戦えるわけもない……だから、ずっとDEMsを嫌悪して、もう二度と関わりたくないと思っていた」
ミホ先輩は肩を竦めて、ライラさんを一瞥する。ライラさんはコクリと頷いた。
出会ったばかりの頃の二人は、お互いに無関心で、冷たい態度を取っていた。
けど今は、同じ目的を持つ仲間。その意識が、二人の考え方を変えたのかもしれない。
そう思うと、胸が熱くなった。
『──仮に、その話が事実だとして』
ふと、闇の中から声があがる。先ほどまでの動揺や困惑は、もうない。
あるのは、懐疑。
そして、侮蔑だった。
『未起動、未学習の、まっさらなアンドロイドを……何故、今更になって、返せと言う』
「必要になったからさ。誰一人、犠牲にしないための、手段としてね」
コホン、と咳払いをするミホ先輩。そして、彼女は顔を近づけて、こう言った。
「557号機。これを、次の遺物として利用する」
『……そんなことが、可能なのか』
「おそらくね。557号機は、世に蔓延るアンドロイドとは違って、かなり神に近い性能をしている。だからこそ、遺物として神に取り込まれたとき、神は、まるで自分の一部かのように扱えるようになるだろうさ」
ケロリと、ミホ先輩はなんてことないかのように言ってのける。
「ですが、このままだと問題が残りますの」
ライラさんがそう言うと、ミホ先輩はゆっくりと頷いた。
「現在の557号機の身体には、意識データが残存している。権限の移行という点では、条件は整っているのだが……そうなると、残存した意識データの方の557号機が報われない」
「…………」
ただのコピー。ただのプログラム。そう思うことは、私にはできない。
例えバックアップとやらがあったとしても、ココナさんの身体に残っている意識は、確かにココナさんのものだ。それを蔑ろにすることは、犠牲にすることと同じこと……。
「ですが、ココナのバックアップデータを、ココナッツに移行することができれば、全ての問題は解決するのです。……ですわよね、ミホ」
「ああ。移行が完了したタイミングで、バックアップデータと557号機との同期を切る。それに一工夫して、557号機に残存している意識データを吸い上げる。……そうすれば、遺物として神に還るのは……」
「……意識のない、アンドロイドの身体だけ……!」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
ハッとして口を押さえるも、ライラさんとミホ先輩は、私の姿を見て、ニヤリと口角を上げた。
……これが、二人の言っていた、誰も犠牲にならない方法。
うまくいけば、私も、アイリも、皆も、全員が元の生活のまま、幸せに過ごしていける。
それだけじゃない。ミホ先輩の確執も取り除かれる。
アンドロイドが遺物の代替になるかはわからないけど、それこそ、DEMsと協力して調整することができれば……!
高揚感を覚える。
同時に、胸が高鳴った。
けれど、ライラさんも、ミホ先輩も……そして、アイリまでもがどこか、腑に落ちないような、顰め面をしていた。
いつの間にか、捕獲用アンドロイドは動きを止めて、その場に立ち尽くしている。
スカイさんの荒い息だけが、耳に届いていた。
……まだ、交渉は終わっていない。
あくまで、ライラさんとミホ先輩が、自分たちの目的を明らかにしただけ。
つまり、安心するのは、まだ早いということ。
全てが終わるまで──ココナッツさんを手放してもらうまで、気を抜くことは決して許されない。
そう思い直して、思いっきり頬を叩いた。
じんじんと痛む頬は、私の、気持ちの現れだった。




