第十八話 決闘
そしてついに、決闘の日が来た。
サクラちゃんに指定されたのは、街の外れにある、使われなくなった立体駐車場だった。
だだっ広い、コンクリートの空間。錆びた柵が、ぐるりと囲んでいる。
人気は、まるでない。物音ひとつしない、がらんとした雰囲気。
おあつらえ向きの舞台だった。
「……ナナ。もし殺されそうになったら、一目散に逃げなよ」
「そうだぞ! ああいうタイプは、何かあったらすぐに激情するからな!」
出入口を潜る前に、背後の二人に背中を叩かれた。
シーカと、アオちゃんだ。
もちろん、二人は戦わない。
あくまで、戦うのは私とアイリだけ。
でも、サクラちゃんとの決闘の話をした途端、不安だと言って聞かなくなり、ついには、付いていく形になってしまった。
「そ、そんなことにはならないよ、多分……アイリも居てくれるし……」
「あ! あと、自己犠牲もやめろよな。命大事に、だ! ハイ、復唱!」
「いのちだいじに!」
「おい、アイリ! お前じゃねぇよ! というか、アイリはアイリで、ちゃんとナナのこと、見とけよ!? ヤバくなったら、引きずってでもナナを連れてこい!」
エンジンがかかってしまったアオちゃんは止まらない。
「わかってるよ」という、アイリの気の抜けた返事を聞いては、「たるんでんじゃねぇ!」と叱責する。
手を伸ばしてアイリの肩を揺さぶっては、何度も、同じようなセリフを口にしていた。
そんな様子を微笑ましく思っていると、シーカが私の袖を引いた。
「ホッコリしてる場合じゃないぞ。アオは多少大袈裟だけど、危険なことに変わりはないんだから。ナナのことだから、わかってるだろうけど……」
「……うん。心配してくれてありがとう、シーカ。ちゃんと肝に銘じておくよ」
「………………」
しばらく、じっと顔を見つめられる。
……段々、彼女の綺麗な瞳と、訝しげな圧に、耐え切れなくなってきた。
「そ、そういえば、シーカは、ライラさんと会えてる?」
「いや、会ってないよ。クロハの延命治療の目途が立ったらしいとは、スカイから聞いたけど……まあでも、アイツのことだし、どうせ何か企んでるんでしょ」
溜め息交じりにそう言うと、シーカは両手を軽く挙げた。
その声色には、一種の信頼感のようなものが滲み出ている。
確かにライラさんなら、サプライズ的な何かを用意していてもおかしくない。
「……っと、そろそろ行かなきゃ。サクラちゃんが待ってる」
「ケッ! あんな凶暴なヤツ、待たせておきゃあいんだよ」
「あはは……でも、そういうわけにもいかないから。……じゃあ、行こうか。アイリ」
「うん!」
シーカとアオちゃんに改めてお礼を言うと、私はアイリと手を握った。
そして、薄暗い空間へと、足を踏み入れる。
コンクリートの床が、足音を吸い込むように、低く響いた。
壁は所々が錆びて、欠けている。
外よりもずっと冷たい空気が、じっとりと肌に纏わりついてきた。
更に奥へ進むと、少し広い空間に出る。
そこで真っ先に目に入ったのは、天井の大きな穴だった。
その穴から、外の光が、細く真っ直ぐに差し込んでいた。
穴の先には、白い靄と、機械仕掛けの神様の身体が、ぼんやりと浮かんでいた。
その光だけが、広いコンクリートの空間の中央を、スポットライトのように照らしていた。
その光の中に、サクラちゃんと、イチコ先生がいる。
サクラちゃんは小さな手鏡を掲げて、前髪を整えていた。
待ち合わせ場所に早めに来て、身だしなみを確認している女の子みたいだった。
場所が廃墟の立体駐車場でなければ、微笑ましい光景だったかもしれない。
そして、一歩後ろには、イチコ先生が粛々と、影のように立っている。
パチッと目が合うと、サクラちゃんは顔を輝かせた。
「来てくれて嬉しいです、ナナさん。お仲間さんとのお話は、済みましたか?」
「うん。待たせてゴメンね、サクラちゃん」
私はそう言うと、アイリの鎖骨部分に手のひらを当てた。
彼女の身体は白く眩い光に包まれ、やがて、洋傘へと変わっていく。
「あれ、さっそく始めちゃうんですか? ナナさんはお話が好きみたいだから、てっきり、私に何か伝えてくるんじゃないかと思っていました」
「本当はそうしたかったよ。でも、私、気づいたんだ」
アイリの体温が、鼓動が、手のひらに伝わってくる。
人間のときでも、変身していても関係ない。アイリはいつも、私の心を落ち着かせてくれた。
「サクラちゃんは、こうでもしないと、わかってくれない。って」
「私のこと、よくわかってますね。嬉しいです」
サクラちゃんは、すっと目を細める。そして、イチコ先生の腰回りに手を当てた。
イチコ先生の身体は光に包まれる。
輪郭がほどけて、形を変えていく。
そして、サクラちゃんの手の中に収まったのは、細く長い、大きな針だった。
「いつでもいいよ、ナナ!」
洋傘から、アイリの声が聞こえる。力強く柄を握り締め、傘を広げた。
「先に動きますか? サクラさん」
「そうですね、師匠。では、作戦通りに」
サクラちゃんが小声で何かを呟いた。
次の瞬間、地面を蹴る音がする。
速い。
気づいたときには、もう目の前にいた。
鋭利な針の先が、まっすぐに向かってくる。殺気が、肌を刺した。
両足に力を入れて、咄嗟に傘でそれを受け止める。
ガキン、と硬い音が廃墟に響き渡り、衝撃が全身を貫いた。
「……っ!」
息つく間もなく、次の突きが来た。
何度も、何度も、何度も。
目にも止まらぬ速さで繰り出される。
コンクリートの壁に反響した金属音が、頭の中でぐわんと鳴り続けた。
一撃一撃が、重い。
合同授業の発表会で、操られた生徒たちを圧倒したあの動き……いや、それ以上のものを、今、私が全身で受け止めている。
アイリの頑丈さに助けられて、何とか防いでいる。
それで精一杯だった。じわりと、腕が、痺れ始めていた。
天井の穴から差し込む光が、サクラちゃんの顔を照らしていた。
その表情は、余裕に満ちている。
楽しんでいるのか、それとも、何も感じていないのか、読み取れなかった。
「あれ? ナナさん、攻撃しないんですか?……って、ああ! そうでした。ナナさんは優しくて、お人好しだから、人を傷つけるのが怖いんですもんね」
返す言葉がなかった。
私は、人を傷つけたくない。血や傷は、見たくない。
「うふふ。でもそれじゃあ、いつまで経っても、私には勝てませんよ?」
サクラちゃんは攻撃を即座に止め、背後に回り込んだ。
傘を向けている暇はない。本当に、刺されてしまう……!
「アイリ! 斧!」
「まかせて!」
私が言うよりも前に、アイリが形態を変えた。ずしりと重い、斧へと。
またしても、金属音が響き渡る。斧の刃の部分で、針の先を受け止めた。……でも。
「無駄ですよ」
彼女は、それを待っていたかのように、一歩踏み込んだ。
すぐに針を引いて、私の足元に突き出す。
慌てて、斧の位置を下へと移動させる。しかし、その動きは読まれていた。
サクラちゃんは最小限の動きで再度針の位置を戻し、がら空きになった私の懐へ、するりと入り込んだ。
「う……っ!」
針の腹で、脇腹を叩かれた。
みぞおちへの強い打撃に、息が詰まる。
アイリのように頑丈とはいえ、まさかここまでの威力だなんて。
あれじゃまるで、針じゃなくて丸太だ。
膝が、崩れそうになった。
それでも私は、その場で踏ん張った。
サクラちゃんの次の攻撃が迫っている。倒れている場合じゃない。
重い身体に鞭打って、くるりと斧を持ち直す。
そして、サクラちゃんの喉元に、柄の部分を突き立てようとした。
「っ!?」
けれど、それも失敗に終わった。
イチコ先生が変身解除したことで、白い光が目に直撃した。
視界不良のままでも何とか柄を押し込んだが、イチコ先生の鋼鉄製の手が、それを受け止める。
「アイリさん、もらっちゃいますね」
そう言って、イチコ先生は私の手首を掴んだ。
教師型ということで調整されているのか、痛みは感じられない。
でも、容易に振りほどくことはできない。
……どうする。アイリを一度手放して、イチコ先生の踵を狙う?
いや、駄目だ。踵の強制停止ボタンは、一度押したことがある。きっと、対策がされているはず。
そもそも、サクラちゃんは私の動きを読んでいる。
アイリを手放した時点で、負けだ。私に戦う術がなくなってしまう。
じゃあ、このまま持久戦?
……それも駄目だ。サクラちゃんが何か仕掛けてくるに違いない。
そもそも、持久戦を選ぶことすら、サクラちゃんは読んでいるのかも……。
この一瞬。
ほんの一瞬の迷いを、サクラちゃんは見逃さなかった。
いつの間にかまた背後に回っていた彼女が、私の足を払う。
「あっ……!」
視界に天井が映った。
天井の穴から、神様の機械の身体が、薄ぼんやりと見えた。
地面に倒れるまでの間に、イチコ先生はまた針になり、サクラちゃんは私に覆いかぶさった。
針の先が、首の肌に軽く触れる。
ぷつり、と音がする。
生暖かい液体が、じわりと垂れた。
——強い。桁が違う。
必死に戦っても、サクラちゃんにはまるで届かない。
「ねぇ、ナナさん。これで、わかったでしょう?」
サクラちゃんは私を見下ろす、その顔は勝ち誇るでもなく。
ただ、慈しむように、優しかった。
「ナナさんは、弱いんです。優しすぎて、誰も傷つけられない。……でも、それでいいんですよ。ナナさんは、戦いになんて向いてないんです。それが、生まれ持った性分なんですよ」
嘲りなどではない。
本当に、私を案じている声だった。
だからこそ、胸に深く突き刺さる。
「だから、私が守ってあげるんです。ナナさんはもう、戦わなくていい。あなたに降りかかる困難は、災難は、全て私が遠ざけてあげる。……ね? その方がいいでしょう?」
違う。そんなの、私は求めてない。
そう言い返したいのに、身体が動かない。息が出来ない。
守って、守られて。そんな依存した関係性なんて、健全なわけがない。
私はサクラちゃんと友達になりたいと思っているけど、こんなのは、友達なんかじゃない。
ただの、支配だ。
「っ、あ……」
……そうか。
今、ようやくわかった。
彼女が抱えている、焦りの正体。
サクラちゃんは、怖いんだ。私が強くなるのが。
ずっと、何かに追い立てられているみたいだと思っていた。
目的も、当初からとてもズレている。
でも、本人はそれに気づいていない……そんな、妙な違和感がある。
それが浮き彫りになったのは、双子がいなくなってからだ。
守るべき脅威がいなくなったことで、混乱しているのかもしれない。
きっとサクラちゃんは、私が強いということを……自分で困難を解決できると知れば、私の隣にいられないと思っている。
守る必要がなくなったら、自分がここにいる理由がなくなると、そう思っている。
だから、認めたくないんだ。私が強くなることを。
……全部、憶測だ。
でも、もしかしたら……サクラちゃんの思いに、こんな恐怖が隠れている可能性が、少しでもあるとしたら。
「クッ……ク、サクラ、ちゃん。あなた、は……」
言葉にしなければ。彼女の真意を、汲み取らなければ。
そう思って、途切れ途切れの言葉を投げようとした。
息が、うまく続かなかった。でも、伝えなければいけない気がした。——そのとき。
「ベストなタイミングでしたわね、ナナ!」
廃墟の静寂を、高らかな声が切り裂いた。
「……!?」
この、高飛車な声は……まさか、ライラさん……!?
コンクリートの床に足音が響いた。
天井の穴から差し込む光の中に、見覚えのある人影が現れる。
突然の来訪者に、さすがのサクラちゃんも動揺したらしかった。
針が首から離れ、力が緩む。
その一瞬の隙が、はっきりと伝わってきた。
「ナナ!」
アイリが、変身を解いた。
さっきイチコ先生がやったみたいに、変身のときの光を閃光弾のように使う。
白い光が、廃墟の暗がりに弾けた。
私はそのアイリの咄嗟の判断を逃さなかった。
急いでサクラちゃんから距離を取り、ライラさんの声がした方へと走り出す。
足がふらついた。それでも、アイリに支えられながら、何とか前に進んだ。
すると、ライラさんだけではなく、スカイさんと、車椅子のミホ先輩。
そして……見覚えのある、双子の姿があった。
天井の穴から差し込む光の中に、全員が立っていた。
その光景が、夢みたいに見えた。
「え……ク……クロハさんに、マシロさん!? どっ……ど、どうして、二人までここに!? というか、何をしに……!? クロハさんは無事なの!? 身体は……っ!?」
「落ち着け。説明してる暇はない」
マシロさんに身体を預けながら、クロハさんが吐き捨てた。
その声は、かすれていた。立っているのも、やっとという感じだった。
それでも、その目は、まっすぐだった。
クロハさんは、弱々しい手でアイリの胸倉を掴んだ。
「これで、貸し借りはなし」
そのまま、アイリの顔をぐっと引き寄せる。
その唇に、自分の唇を、重ねた。
キス——権限譲渡。
服越しに、クロハさんの背中が淡く光り出す。
アイリの鎖骨の模様も、同じタイミングで。二つの光が、静かに、呼応した。
「マシロを泣かせたら、ただじゃ済まないから」
唇を離した瞬間。
クロハさんは震える声でそう言うと、糸の切れた人形みたいに、がくりと崩れ落ちた。
「お姉ちゃんっ!」
「クロハさん……!」
ゾッと、血の気が引いた。
さっきまで立っていたのに、嘘みたいに倒れる。
クロハさんの顔から、みるみる、生気が失われていった。
遺片の影響で、無理やり繋ぎ止められていた命……その権限を手放した今、クロハさんは、本来の——瀕死の状態へと、戻ってしまったのだろう。
呼吸が浅い。顔が真っ青だ。
明らかに、一刻を争う危うさだということが伝わってきた。
「お姉ちゃんっ!」
マシロさんが、小さく悲鳴を上げた。
すると、ミホ先輩の傍に控えていたスカイさんが、力なく倒れたクロハさんを素早く抱き留めた。
その動きに、一切の迷いがなかった。
「確保致しました。すぐにポットに入れ、処置を行います」
「ええ、スカイ。任せました。私と日賀志ミホは、あとから向かいます」
私たちやサクラちゃんには目もくれず、スカイさんは泣きじゃくるマシロさんも抱えて、この場を去った。
足音が、コンクリートの床に響いて、遠ざかっていく。
やがて、聞こえなくなった。
……ポット、処置……冷静に今の状況を顧みて、ようやくハッとした。
延命治療の手筈が、整ったんだ。
ライラさんとミホ先輩が、進めてくれていた手立て。
それに、目途が付いた。だからクロハさんは、権限を託してくれた。
一時的かもしれないけど、ちゃんと救われる可能性が生まれた。
「……っ、よかった」
「よかったね、ナナ……!」
涙ぐんだ私の頭を、アイリがそっと撫でた。
クロハさんが、マシロさんが、私とアイリのことを信じてくれた。
誰も死なせずに助けたい……そんな甘い願いが、形になろうとしていた。
ライラさんとミホ先輩は、不安の眼差しをアイリに向けていた。
暴走が気になるのだろうか。今のところは、そんな予兆はなさそうだったけれど。
「ズ……ズルい……っ!」
ふと、そのとき。
サクラちゃんが、甲高く声を荒げた。
敬語も、余裕綽々な態度も、全部、捨てたその姿は、彼女のありのままの姿に見えた。
「邪魔しないでよっ! これは、私とナナさんの決闘なの! 部外者は引っ込んでてよ!」
「確かにそうでしたわね。二人きりの大切な戦いだと、ナナからは伺っています。ですが、今行ったのはキスですわよ。戦いの邪魔はしていませんわ」
「屁理屈言わないでよ! 勝手に力を泥棒女に渡すなんて、フェアじゃない! 卑怯だ!」
サクラちゃんは地団駄を踏んで、泣き喚いた。
その声には、ただの文句とは違う、必死さのようなものが滲んでいた。
廃墟の壁に、その声が、反響した。
「これじゃあ……私が、ナナさんを守れない! ナナさんが強くなっちゃったら、私は……!」
「…………」
思わぬ流れで、サクラちゃんが本心を言葉にした。
子供みたいに剥き出しにしているその感情に、私は、少し戸惑った。
「ふむ。面白いことを言うね」
ここまで黙って見ていたミホ先輩が、口を開いた。
車椅子の上で、静かに、サクラちゃんを見据えていた。研究者らしい、ハキハキとした話し方だった。
「ナナから話を聞いたとき、もしや、と思ったよ。君はどうやら、自分の気持ちに正直になれないみたいだね。……いや。というよりは、認めたくなくて、目を逸らしているといったところかな」
「……っ!」
サクラちゃんの肩が、ビクッと跳ねた。
顔を俯かせて、その場に立ち尽くす。
「557号機も似たような性格だったからね。よくわかる。ナナが自分の足で立てるようになったら、自分に存在価値はないと、そう思っているのだろう。だから今、こうして、非論理的な行動をしている」
ミホ先輩の言葉は、至って淡々としていた。
けれどその一つ一つが、サクラちゃんの心の柔らかいところを、的確に抉っていく。
天井の穴から差し込む光が、ミホ先輩の顔を、静かに照らしていた。
「だっ……だ、黙れ! 何も知らないクセに、知ったような口を利くなっ!」
顔を上げて威嚇するサクラちゃんには、もはや、さっきまでの逆上はなかった。
代わりに漂っていたのは、戸惑いと動揺。その目が、激しく泳いでいた。
「わたっ……わ、私、わた、し、は、ただ。ナナさんのことを、守りたくて……ま、守ってくれたから、今度は、私が、代わりに、って……」
サクラちゃんは、途切れ途切れに言葉を呟いた。
自分の中の大切な前提が、ぐらりと揺らいだみたいだった。
あれだけ余裕に満ちていた表情が、今は、ただの女の子の顔になっている。
「……サクラちゃん」
私は、ゆっくりとその場に立ち上がる。
そして、すっかり縮こまったサクラちゃんを、じっと見据えた。
さっきまであれだけ余裕に満ちていた身体が、今は小さく見えた。
「っ! ナ、ナナ、さん……?」
「……私、実はね。入院中にサクラちゃんとお話してたこと、覚えていないんだ」
言いながら、胸がぎゅっと締めつけられた。
ずっと言えなかった言葉だった。
サクラちゃんがどれだけその記憶を大切にしてきたか、わかっているからこそ、言えなかった。
「……え……? じ、じゃあ、私を、虐めから、守ってくれたことも、記憶に、ない……?」
掠れた声が、鼓膜に伝わってきた。
彼女が今どんな気持ちなのかは、私には計り知れない。
「うん。……今まで黙っていて、ごめんなさい」
頭を深々と下げる。
謝ってしまったら、サクラちゃんの気持ちに寄り添えないかもしれない。それはわかっていた。
でも、言わなければいけなかった。
そして、すぐに顔を上げた。本当に伝えたいのは、これじゃないから。
「でもね。サクラちゃんの思いは、本物だよ。私のことが好きなことも、ずっと気にかけてくれていたことも、全部、ちゃんと伝わってる」
この子は、ずっと、私のことを想っていてくれたんだ。
私が知らないところで、思い出を大切に抱えていた。
それはとても純粋で、とても尊いものだ。
「……っ、でも、ナナさんは、私のこと、覚えてなかった。知らなかった」
「今は知ってるよ。サクラちゃんが、私以外には辛辣なことも。甘えたがりで、すぐにボディタッチすることも。桃色が好きなことも、イチゴクレープが好きなことも、クイズが苦手で、運動が苦手なことも。それから、いつもフリフリでかわいいお洋服を着ていて、ハンカチも、ちょっとした仕草も愛くるしいことも。私のお母さんと仲良しなことも、たぶん恋バナが好きなことも、ちょっと怖いところも、人を傷つけることに容赦がないことも……」
「わ、わかりました! わかりましたから、それ以上は……」
サクラちゃんの顔が、みるみる赤くなっていった。
さっきまで泣きそうだったのに、今は、恥ずかしさで顔を覆っていた。
その落差が、なんだか、サクラちゃんらしかった。つい、意地悪な笑みを浮かべてしまう。
「もういいの? 私、もっとサクラちゃんについて知ってること、言えるよ?」
「い、いいです……っ!」
サクラちゃんが、両手で顔を隠す。
「それでも、足りないんだよね。まだまだ、サクラちゃんには良いところも悪いところも、たくさんあるはず。それを、もっと知っていきたいの。知って……それで、改めて、友達になりたい」
「ナナさん……」
「守るとか、守られるとか。そんな関係性じゃなくて、もっと深い、心で通じ合う関係になりたいの。相手の弱さは私が補って、私の弱さを相手が補うような、そんな間柄。それこそが、友達とか恋人の形だと、私は思う」
サクラちゃんの目が、うるうると輝き出す。
けれど、私にはまだ、彼女に伝えなきゃいけないことがあった。
一度呼吸を整えて、ゆっくりと口を開く。
「強さも弱さも、関係ないよ。そういう尺度じゃなくて、対等な立場で側にいて欲しいと思ってる……この気持ちだけは、わかってほしいな」
サクラちゃんの頬に、涙がつたう。
堰き止めていた気持ちが、全て決壊したみたいに。
「……いいんですか。こんな私が、傍にいても」
私の本心は、もう、全てぶつけた。
その気持ちを込めて、「もちろん」と言う。
すると、途端に、サクラちゃんはその場に座り込んで、わんわんと声を上げて泣き始めた。
さっきまでの激しさが、嘘みたいに消えている。隣に佇んでいたイチコ先生が、優しく両肩に触れた。
「わ、わた、し……ナナさんと出会ったとき、ひと目で、運命だと思った。虐めから救ってくれたことで、もっと好きになった……これこそ、美しい友情の形だって、そう、感じたの」
廃墟の中に、サクラちゃんの声が反響する。
敬語も計算高さも、すっかり剥がれ落ちた彼女は、ただの高校生の女の子だった。
膝を抱えて俯いたまま、言葉を続ける。
「本当は……頭の隅では、違うってわかってました。友情はそれだけじゃないって。でも……でも、私はそれを否定し続けた。……だってそうしないと」
サクラちゃんの声が途切れる。
そして、二つの足でしっかりと立ち上がった。
「……そうしないと、ナナさんへの気持ちが、薄っぺらいものになっちゃう。救ってもらったから、嬉しかっただけって。そんなんじゃないのに。こんなに胸が高鳴るのに、こんなに特別なのに。愛じゃないって……それを突き付けられるのが、怖かった」
誰かに救われたとき、その気持ちに名前をつけたくなることがある。
感謝じゃ足りない、憧れでもない、もっと特別な何かだと。
そう、自分の中で定義することで、ようやく、宝物にできる。
何よりも得難い、貴重なものだと思える。
サクラちゃんにとって、私に救われた──守られたあの日が、まさにそうだったんだろう。
あの日生まれた高ぶる気持ちを、愛だと定義することで、安心しようとしていた。
その定義を手放してしまえば、ありふれた、軽薄な感情に成り下がってしまう。
だからこそ、二人の間にあった特別な出来事こそが愛の証だと、そんな理論にしがみついた。
そして、その理論が正しいと証明し続けることが、自分の気持ちの表れだと思い込んでしまっていたんだ。
発表会で生徒たちを薙ぎ払ったのも、双子から私を遠ざけようとしたのも、全部、あの日の再現だったんだ。
そうすることで、自分の気持ちが本物だと確かめたかった。私に示したかった。
でも、私がそれを拒んだことで、ひどく混乱した。
信じてきた理論が、崩れかけたから。
「……それでも、ナナさんのことが心配なのは、本当のことです。守りたいという気持ちも……愛を伝えたいとかそういうのじゃなくても、ただ純粋に、そう思っています」
やがて、サクラちゃんは涙を拭って、顔を上げた。
その目には、確固たる意志が映し出されていた。
今までのとは違う、カラッとした熱量が漂っていた。
「だから、権限は渡せません。ちゃんと決着をつけて……それから、どうするか決めます」
「……うん。私も、そうしたい」
無意識に、言葉が漏れる。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
サクラちゃんの熱い思いが、こっちまで伝わってくる。
言葉は、もう十分に交わした。
これ以上、戦いを続ける理由なんて、どこにもない。
それでも、私はまだ、終わりたくなかった。
皆が、私に預けてくれたものがある。
その重みを、言葉じゃなく身体でぶつけることで、サクラちゃんに届けたかった。
それが、皆の思いを受け取った私の覚悟であり、彼女たちの思いに応える唯一の方法だと思ったから。
「……アイリ。もう一度、お願い」
「……うん、わかったよ。ナナ」
アイリの声は、さっきよりもずっと力強かった。
クロハさんの権限を得て、アイリの胸の模様が、これまでにない強い光を放っている。
その光が、薄暗い廃墟を、柔らかく照らしていた。
「手加減は、しませんからね」
サクラちゃんは、真っ直ぐに私を見据えていた。
その顔には、動揺も、怒りも、恐怖もない。ただただ静かに、強い志を露わにして、微笑んでいた。
私はアイリの鎖骨に手を当てた。姿を変えたアイリは、傘でも斧でもなく、クロハさんから受け継いだ新たな形——大ぶりの鋏だった。
手にした瞬間、ずしりとした力が、体に流れ込んでくる。今まで感じたことのない、重さだった。
『ナナ。聞こえる?』
鋏から、声が響いた。
今までより、ずっとはっきりしていて、落ち着きがあった。
『クロハの権限を、もらったからかな。頭がすっきりして、いろんなことがわかるの。……記憶はまだ、完全じゃないけど』
たどたどしく、まるで子供のような言葉遣いだったアイリが、別人みたいに明晰だった。
権限を得るたびに、記憶が戻って、人間らしくなっていく。
その仕組みが、アイリが人間ではないのかもしれないという、嫌な予感を、じわりと、増長させていた。
「へぇ。呑気におしゃべりですか? 来ないなら、私から行きますよ」
いつの間にか針に変身していたイチコ先生を手に、サクラちゃんが地を蹴った。
さっきよりも、格段に速い。外の光を浴びた針が、きらりと光る。
咄嗟に、鋏を前に出した。
重なる刃で針を受け止める。ガキン、と硬い音が廃墟に響き渡った。
衝撃が、両腕を貫いた。
さっきよりも、ずっと重い一撃。
骨や内臓にまで届くような感覚が走る。
足元のコンクリートが、踏ん張る足の裏に、冷たく伝わってきていた。
サクラちゃんは、すぐに距離を取った。
そして、廃墟の柱の陰へ、するりと消える。
やっぱり、さっきとは違う。
狭い範囲での真正面からのぶつかり合いじゃなく、駐車場全体を戦場にするつもりだ。
そう気づいた瞬間、ぞくりとした。
改めて、彼女の本気が伝わってきた。
しん──と、静寂が満ちる。
ポッカリと空いた天井から、淡く白い光が降りている、埃が反射して、床に細長い影を落としている。
その先に並んだ、いくつも並んでいる柱。
きっと、そのうちのどれかにいるはず。でも、それがわからない。
気配を探す。
耳を澄ます。
でも、何も、聞こえない。感じない。
アイリの直感すら、肌に伝わってこない。
息が詰まりそうだった。
ただ立っているだけでは、ジリ貧だ。
動くべきか。待つべきか。判断がつかない。
どこまでが、彼女の作戦なのか。
「っ、え」
額に汗が伝った──次の瞬間。左の死角から、針が飛んできた。……い、いつの間に……!?
反射的に、アイリが傘に変わる。広がる傘に針がに当たって、弾かれた。
鼓動が高まる。全身の血が脈打つ。
……見えていなかった。
あと一瞬、動きが遅かったら……アイリの判断が遅かったら、針の先は、私の身体に届いていた。
『上! 来る!』
アイリの声が、頭に響く。
見上げた瞬間、サクラちゃんが、上の階の縁から飛び降りてきた。
真上からの一撃。その速さに、避けることができなかった。
「っ!」
咄嗟に、傘を盾にして受け止めた。
サクラちゃんの全身と重力が、一点に集中してのしかかってくる。
膝が、ぐらりと折れた。
でも、アイリは頑丈だ。ミホ先輩のお墨付きがある。
傘に傷はついていないし、アイリも痛みを感じていない。
歯を食いしばって、傘の柄を勢いよく振り下ろした。
その勢いで、傘の上に載っていたサクラちゃんの体が、ふわりと宙に浮く。
サクラちゃんはそのままジャンプして、距離を取った。
『ナナ、大丈夫!?』
「う……うん、平気。骨は折れてないよ」
平気、と言いながら、両腕が、じんじんと熱かった。
痛みというより、熱さに近い。何かが、断裂したのかもしれない。
でも、今は、考えないようにした。考えたら、動けなくなる気がしたから。
「……思ったより、粘りますね」
サクラちゃんが、静かに言った。
その声には、焦りも、驚きもない。
ただ純粋に、私たちの動きを観察していた。
廃墟の薄暗がりの中で、サクラちゃんの目だけが、静かに光っている。
やっぱり、サクラちゃんは強い。
自身の心の弱さを曝け出したことで、心のどこかが揺れているんじゃないかと思っていた。
でも違う。目の前にいる、恋する女の子は、そんな素振りを微塵も見せていない。
むしろ、強さが増している。
……彼女は、自分の強さは愛によるものだと言っていた。
最初はピンと来なかったけど、今なら、わかる気がする。
着地と同時に、サクラちゃんはすぐに体勢を立て直し、間合いを詰める。
攻撃が来る。
傘を閉じて反撃しようかと、迷いが生まれた。けれど、サクラちゃんの手に、違和感を覚えた。
針を持ってない方の手が、何かを握っている。
それに気づいた頃にはもう、遅かった。
「うっ……!」
何かが、視界に飛んできた。
たぶん、コンクリートの破片と砂だ。咄嗟に目を瞑り、傘を顔の前に寄せる。
すると、サクラちゃんの匂いが、通り抜けた。
しまった……背後に回られた……!さっきもやられたのに、また……!
「もらいました」
針が、背後から、真っ直ぐに伸びてくる気配がした。
今度こそ、やられる……そう思った、次の瞬間。
アイリが、鎖へと変わった。
しゃらり、と、金属音を鳴らしながら、宙を舞う。
冷たい重さが、手に伝わってきた。——ココナさんの変身先だ。クロハさんが奪った、ココナさんの力。
でもどうしてアイリは今、鎖になったんだろう……あっ、そうか!
サクラちゃんの動きが、ほんの一瞬、止まった。
見たことのない形態を前にして、判断を迷ったようだった。
私はその隙を逃さなかった。
アイリの言葉よりも前に、考えるよりも前に、足が動いた。
廃墟の奥、柱へ向かって、全力で駆け出す。
荒い息が、薄暗い空間に解けていった。
そして……私は、柱に鎖をぐるりと一周巻き付けた。
鎖が、ぴんと張る。どうやら鎖は、自由に伸縮できるようだ。
アイリが調整しているのか、元々そういう仕様になっているのかは、不明だ。
「……っ!」
鎖を勢いよく引っ張ると、腕に鋭い痛みが走った。
でも、私は決して手を離さない。柱がミシミシと音を立てて、埃が落ちてきた。
サクラちゃんもまた、針に巻き付いた鎖を、力任せに引っ張っている。
綱引きみたいだ。そんなことを思いながら、歯を食いしばった。痛みで、意識が朦朧としてくる。
『……ナナ』
ふと、アイリの声が聞こえてきた。
とても小さい声だった。声を出す余裕もなく、黙って話を聞く。
『サクラは、ナナが絶対に刃を向けてこないと思ってる。だから、こっちの攻撃を怖がっていない。……そこを狙おうと思う』
「…………」
『大丈夫。実際に傷をつける必要はない。ただ、刃を向けるだけ。ナナなら、できるよ。……覚悟ができたら、手を放して、サクラに近づいてほしい』
私はすぐに、鎖から手を離した。
一瞬の静寂が、緊張感が、辺りに漂う。
引っ張られていた力が、急になくなったことで、サクラちゃんの身体は、前に大きく傾いた。
足がもつれて、針を持つ腕が、勢いのまま崩れる。
……単身で、サクラちゃんに近づく。
それは、とても怖かった。でも、ここで躊躇したら、全部終わりだ。
皆の思いを背負っている。アイリが道を開いてくれた。だから、進むしかない。
足元のコンクリートを蹴って、真っ直ぐに駆け抜ける。
そして、サクラちゃんに手が届く位置まで——その刹那。
針に絡みついていた鎖が、するりとほどけて、斧へと変わった。
私はその斧に手を伸ばした。ずしりとした重さが、腕に伝わってくる。
痛みに耐えて、柄を握り締める。
斧の刃をサクラちゃんへ向け、立て直そうとするサクラちゃんの喉元へと、静かに突きつけた。
「ナナさん……!?」
また、サクラちゃんの動きが、止まった。
私は手のひらの中で斧を回転させて、柄の先でサクラちゃんの喉を叩いた。
「うっ……ぐぅっ……!」
急所を突いたことで、サクラちゃんは苦しげな声を上げた。
針を手放して、咄嗟に、両手で喉を包む。サクラちゃんはそのまま、その場に倒れ込んだ。
汗が額を伝う。
全身が熱くて、痛い。膝が、今にも折れそうだった。
すると、手の中の斧から、鼻を鳴らす音が聞こえた。
どこか誇らしげに、アイリは言い放つ。
「ナナと私、強くなったでしょ」
「……………………」
サクラちゃんは、呆然と、突きつけられた刃を見つめていた。
けれど、その顔に、悔しさはない。あったのは、戸惑いだった。
ゆっくりと床に手をついて、立ち上がる。
「……まだ、です。まだ、終わっていない」
掠れた声を出すサクラちゃん。
その目は、まだ燃えていた。床に落ちた針を、震える手で拾い上げる。
身体が限界に近いのは、見ればわかった。それでも、まだ戦おうとしている。
私は、鋏を構え直そうとする。
しかし、両腕に力が入らなかった。もう、限界かもしれない。
「その辺にしておきなさい」
凛とした声が、辺りに響いた。ハッとして、声がした方を見やる。
そこには、ライラさんの姿があった。
腕を組んで、呆れたように立っている。
隣にいたミホ先輩もまた、車椅子の上で、大きく溜め息を吐いた。
「……邪魔しないで」
「発田サクラ。貴女の意思を尊重したい気持ちはありますわ。でも今は、時間が惜しいんですの。治療ポットで養生しているとはいえ、西宮クロハは危篤状態ですのよ」
ライラさんは感情を抑えて、キッパリと言い放つ。
初めて出会ったときのような、低く、冷たい言葉だった。
私は、サクラちゃんを見た。
サクラちゃんも、私を見ていた。
お互いに息が上がって、手と足がひどく震えている。
──やがて、サクラちゃんは。ふと、力が抜けたように笑った。
「……まだ、戦いたいです。ナナさんに触れたいですし、私の気持ちもぶつけたい。……でもここは、一旦、保留にしておいた方がいいかもしれませんね」
「サクラちゃん……」
「勘違いしないでくださいね。この、赤ドレスの子供の言うことを聞くわけじゃありません。もう体力は限界ですし、ナナさんを怪我させちゃいましたし……」
プイッと顔を背けて、腕を組むサクラちゃん。
そして、私にゆっくり近づき、申し訳なさそうに眉毛を八の字にした。
「……両腕の痛みを堪えて、私に立ち向かった。そのガッツがあれば、きっと、私がいなくても、ナナさんは脅威と戦える……そう思いました。だから、信じてみることにします」
「……まあ、今のナナの脅威は、君だったわけだけどね」
空気が読めない発言をしたのは、ミホ先輩だった。
ライラさんが彼女の頭をペシッと叩く。
サクラちゃんにはその言葉がかなり刺さったようで、胸に手を当てて、苦しそうに「ごめんなさい、ナナさん」と繰り返す。
私はその光景を見て、思わず笑ってしまった。
しばらくして、サクラちゃんは、イチコ先生の方へ向き直った。
子供みたいな顔で、イチコ先生の顔を見上げる。
「……師匠、ごめんなさい。今まで勝手なことに付き合わせて。挙句、眠らせることになって……」
「謝らないでください」
イチコ先生は、サクラちゃんの頭をそっと撫でた。
彼女の柔和な微笑みは、空気までも和ませる。
「私の中には、違法に埋め込まれた恋愛感情があります。そしてそれは、とても歪んだものです。でも、サクラさんはそれを知ったうえで、否定も通報もせず、尊敬してくれましたね。その反応を見た私は、嬉しさの感情でいっぱいになりました」
凛とした、とても聞き取りやすい機械的な音声。
人間に近い見た目でも、彼女がアンドロイドであるというのはひしひしと伝わる。
でも、その声には、プログラムされたものではない思いが詰まっているような気がした。
「私がサクラさんに向ける感情は、教師型アンドロイドとして向ける慈愛から来るものかもしれません。それでも、サクラさんのことを他の生徒さんよりも好意的だと感じているのは、紛れもない事実です」
「……イチコ先生……」
「権限を渡すことで、私の身体は停止します。バックアップされたデータを別の身体に移行し、再び再開する運びになるでしょう。その際、トウジ様への愛情は、失われます。しかし、彼への恋愛感情は、そもそもマルウェアでしたから、この結果は、受け入れています」
このタイミングで、何故か、ライラさんとミホ先輩が、驚いたように目を見開いていた。
その反応が少し気になったけど、すぐにイチコ先生の言葉に、耳を傾ける。
「恋バナができなくなっても、サクラさんへの気持ちは、そのまま引き継がれるはずです。なので……容姿が変わっても、引き続き、仲良くしてくれると嬉しいです」
「あ、当たり前じゃないですか!」
サクラちゃんは震えた声でそう言うと、イチコ先生を抱き締めた。イチコ先生もまた、彼女を抱き返す。
天井の穴から差し込む光が、二人の間に、柔らかく落ちていた。
……イチコ先生は、既に覚悟していたんだ。
大切な方が捕まるのは嫌だと、そう言っていたのに……歪んだ愛情よりも、生徒を思う気持ちが上回ったのだろうか。
私には、イチコ先生の心の動きは、読めなかった。
でも、イチコ先生は、サクラちゃんにとって、唯一無二の存在であることは、確かだった。
そしてそれは、イチコ先生にとってもそうなんだ。
恋愛の師弟という不思議な間柄だけど、それでも、二人の関係は尊いものだと感じた。
「では、アイリさん。少しだけ、失礼しますね」
イチコ先生は、ゆっくりと、アイリの前に膝をついた。
そして、そっと、アイリの鎖骨の痣に、唇を寄せる。
その瞬間。
イチコ先生の腰回りから、淡い光が溢れ出した。
そしてその光は、アイリの胸の模様へと吸い込まれていく。
最後の権限が、アイリのもとへ、流れ込んでいく。
「……っ」
イチコ先生の身体から、力が抜けた。
その場に、ゆっくりと崩れ落ちる。サクラちゃんは、咄嗟にその身体を抱き留めた。
「先生……っ」
「サクラさん。ありがとう」
消えかかるような言葉を言い残すと、イチコ先生の目が、静かに閉じた。
その口元には、微笑みが残っていたけれど、微かに聞こえていた駆動音も電子音も、一切聞こえなくなってしまった。
サクラちゃんは、イチコ先生の身体に頬を寄せたまま、しばらく動かなかった。
「ナ、ナナ、これ……」
「……!? ア、アイリ……!?」
突然のことだった。
変身をしたわけでもないのに、アイリの身体が光に包まれる。
今までよりも強く、眩い光だった。胸の模様が、激しく明滅している。
幼さが残る顔が、すうっと凪いでいく。
瞳の奥には、これまでにない深い青色が宿っていた。
まるで、長い長い時間を生きてきたかのような……そんな貫禄が、漂っている。
やがて、光が収まった。
アイリはゆっくりと目を閉じる。彼女もう、私の知っている、無邪気なアイリではなかった。
静かで、哀しげで。何かを湛えてきたような、近寄りがたい雰囲気。
「……アイリ?」
恐る恐る、名前を呼ぶ。
すると、アイリはこちらを見て、小さく笑った。妖艶な微笑みだった。
「ナナ——私、全部、思い出したよ」
廃墟に、毅然とした声が響き渡る。
今までとは全く違う、別人のような声。
「私が、何者なのか。どこから来たのか。どうして、日本に来たのか。全部、思い出したよ」
最後の権限を得たことで、アイリは……失っていた記憶を、取り戻した。
「……アイリ。あなたは、一体……」
胸騒ぎがする。
元々は、アイリの記憶を取り戻すために、始まった非日常だった。
それが、紆余曲折あって、ようやく知ることができる。
それは、嬉しいことのはずだ。望んでいたことのはずだ。
なのに、聞きたくない……そう叫ぶ自分が、心の奥底に潜んでいた。
アイリは、その恐怖すら見透かしたように、しばらく黙って、私を見つめた。
「ナナ。聞いてほしい。私の話を。私が、何のためにナナの元に来たのかを」
ずっしりとした、重い言葉だった。
遺物、遺片──それらの非日常の根っこにある、全ての真相。
それが今、アイリの口から、語られようとしているのだ。
……どうしてかはわからないけど、そう思えた。
空からの光はやがて、オレンジ色に染まっていく。
廃墟の中が、私の心情のように、徐々に、徐々に薄暗く、肌寒くなっていった。




