第十七話 二人の世界
約束をした日から、一週間が経過した。
私はサクラちゃんに連れられて、南雲家を出る。
玄関先で見送ってくれた両親は、二人とも嬉しそうだった。
サクラちゃんのことがよほど気に入っているらしい。
普段なら耳にタコができるほど言われる「ホログラムがたくさんあるところには行かないようにね」という言葉が、今日はなかった。
外に出ると、夏の熱気が幾分か和らいでいることに気づいた。
風に、微かに秋の匂いが混じっている。
でも、日差しはまだ強くて、腕に当たるとじりじりと熱い。
「ナナさん! そのお洋服、素敵ですねっ!」
まるで子供みたいにはしゃぐサクラちゃん。
彼女が一体何を企んでいるのか、どこへ連れて行かれるのか。
横顔をそっと窺いながら、「ありがとう」と呟いた。
決裂した彼女と二人きり……アイリとイチコ先生がいないとはいえ、警戒を解くわけにはいかない。
いつ、何を仕掛けてくるか。
身構えながら、私は繋がれた手に力を込めた。
街中を進んで行くと、街路樹の葉が、風に揺れていた。
まだ緑色だけれど、端の方が少しだけ色づき始めている。
足元には、早々に落ちた葉が、一枚、二枚、転がっていた。
やがて辿り着いたのは、街の中心にある、大きな複合施設だった。
たくさんの人で賑わう、華やかな場所。
……こんなところに、何の用があるんだろう。そう身構えていると……。
「あ、ナナさん! 見てください、あれ! 美味しそうですよっ!」
サクラちゃんが、目を輝かせて指を差す。
その先にあったのは、クレープ屋さんだった。
休日ということもあって、店内では多くの女性客が笑い合っていた。
ふわふわの生地に、たっぷりのクリーム。甘い匂いが、こっちにまで漂ってくる。
「せっかくですし、食べませんか? 私、ナナさんと、こういうの、ずっとしてみたかったんです!」
「えっ。あっ、ちょっと……!」
戸惑う私を気にせず、サクラちゃんはぐいぐいとお店に入っていった。
そして、あっという間にクレープを二つ買い、片方を私に押し付ける。
サクラちゃんはイチゴ、私のはチョコバナナだった。
……私の好みの味だ。どうして知ってるんだろう。彼女のことだから、偶々とは思えない。
「んん~! 美味しい!……あ、そうだ」
自分のクレープを一口かじって、とろけそうな顔で笑ったあと。
サクラちゃんは、自分のクレープを、ずいと私の口元へ差し出してきた。
「ナナさん、あ〜ん」
「…………え」
「遠慮しないでください。はい、あ〜ん」
キラキラした眼差しで、食べかけのクレープを差し出すサクラちゃん。
さっきまでの緊張感が、ドッと消え失せてしまった。
私は、イチゴが入ったクレープと、サクラちゃんの満面の笑みを、交互に見やる。
……身構えてここまで来たけど……これは。どう見ても。
ただの、デートだった。
「ナナさん、早く! クリーム、溶けちゃいますよ」
「あ、う、うん……」
断れる雰囲気ではなかった。恐る恐る、一口かじる。
甘酸っぱくて、美味しい。
それを伝えると、サクラちゃんは「えへへ」と、幸せそうに頬を緩めた。
「このあと、雑貨屋さんに行っていいですか? お気に入りのお店があるんです!」
「え、ええと……もちろん、行くのはいいんだけど、その、お話は……?」
「そんなことよりも、せっかくの休日を楽しみましょうよ! 時間はたっぷりありますし……ダメですか?」
アメジストのような瞳が、うるうると湿っていた。
子犬のような上目遣いに、つい、たじろぐ。
……サクラちゃんは、人を攻撃することに何の躊躇もない。
そんな危険な子なのに、どうして私は、彼女のことを嫌いになれないのだろうか。
私のことを好いてくれているから?……いや、違う。何か別の理由があるはずだ。でも……。
そんなことを考えていると、突然、サクラちゃんが私の腕を掴んだ。
その手は微かに震えていて、視線は地面を向いている。
「……お願いです、ナナさん。今日だけ……今日だけは、私のことだけを見ていてください。私のことだけを考えていてください。私のことだけを感じていてください」
「サクラちゃん……」
……そうだ。
私は今日、サクラちゃんのことを知るためにここに来た。
お話のことは気になるけど、それだけじゃわからないこともある。
もしかしたら、彼女に抱いた違和感の正体に気づくきっかけになるかもしれない。
むしろ、今日を楽しむことで、私の思いがサクラちゃんに伝わってくれるかも。
「うん、わかったよ。せっかくのデートだし、楽しもう!」
「デッ……! デデデデ、デート……!」
さっきまでのしおらしい態度へどこへやら。
サクラちゃんは顔を真っ赤にして、パクパクとクレープを口にする。
勢い余って喉に詰まり、胸を叩きながら水を飲み干した。
「あははっ!」
「も、もうっ! 笑わないでくださいよ、ナナさんっ!」
対峙した関係とは思えないくらい、穏やかな空気が辺りに漂う。
それに居心地の良さを感じながら、私はホイップクリームを口いっぱいに含めるのだった。
サクラちゃんは私の手を引いて、施設のあちこちを、楽しそうに歩き回った。
お気に入りだという雑貨屋さんは、どこか幻想的でメルヘンで、おとぎ話の世界に出てくるものばかり。思わず、ウットリしてしまった。
そこでお揃いのペンダントを買って、さっそく身に着ける。
サクラちゃんは終始ご機嫌で、私の手をずっと握っていた。
「ナナさん、この服、似合いそう」
「ナナさん、あれ見てください」
「ナナさん、ナナさん」
ナナさん、ナナさん、ナナさん。
息をするように、私の名前を呼ぶ。
その一途さは、嬉しいというより、やっぱり、どこか怖い。
でも、向けられる笑顔に、悪意というものがこれっぽっちもない。
ただ純粋に、私と過ごす時間を、心から喜んでいるのが伝わってくる。
遺物のことも、権限のことも口にすることなく、サクラちゃんは楽しそうにはしゃぐ。
そして……私たちは、施設の地下にあるゲームセンターへと足を踏み入れることになった。
「ナナさんのご両親には申し訳ないですけど、どうしても来たかったんです」
サクラちゃんは私の顔色を窺って、入り口の前で足を止めてくれた。
ピコピコという電子音や、機械音声。
子供たちの黄色い声から、おそらくイマドキの音楽。
それらが全てごちゃまぜになって、全身に響いてくる。
お父さんとお母さんが嫌うものを、片っ端から詰め込んだような場所。
自然と、身体がギクシャクしてしまう。
ゆっくりと足を踏み入れた瞬間、その賑やかさが、一気に押し寄せてきた。
筐体がずらりと並んでいて、溢れ出るカラフルな光が点滅している。
そのうちの多くは、チップに直接信号を送って、視覚や聴覚に働きかけるタイプのゲームのようだ。
全員がこめかみに手を当てながら、画面の中に没入している。
他にも、ホログラムで対戦相手を呼び出して戦うものや、何をするものなのかサッパリわからないものもあった。どれも見ているだけで、胸がざわざわする。
怖いというより、目が離せなかった。
どんなものがあるんだろうと、探検家のような気持ちで、自然と足が前に進んで行く。
しばらくして、自分が浮足立っていることを自覚して、歩みを止める。
「……って、あ、ごめんね、サクラちゃん。私が手を引く感じになっちゃって……って、ん?」
ふと、ゲームセンターの隅っこの方に、古びた筐体が並んでいるのが見えた。
チップがなくても、硬貨を入れれば遊べるタイプのようだ。
人は少なく、音も抑えられている。
あれなら、私でも遊べそうだ。……と、思った矢先。
「ねぇ、ナナさん。私と、勝負しませんか?」
「勝負?」
「はい。ゲームで、何戦か。楽しそうでしょう?」
可愛らしく、小首をかしげるサクラちゃん。
その提案自体は、他愛のないものに思えた。
しかし、次の言葉で、空気が一変する。
「もし、私が勝ったら。私と決闘してください。もちろん、イチコ先生と、泥棒女も一緒に」
「……っ」
……ゲームセンターに来たかった理由は、これだったのかな。
私は思わず身構える。
「逆に、ナナさんが勝ったら、私は誰にも手を出しません。約束します」
サクラちゃんは真っ直ぐに私の目を見る。
そこに、嘘や冗談の色はなかった。
「聞いてもいい?……どうして、決闘なの? 穏便に済む方法は、ないの?」
「ナナさん。これは最大限の譲歩ですよ。断ったら、手段を選ばずに動くだけです。今度こそ、本当に。ね」
随分と上から目線な言い方だけど、彼女がこちらに歩み寄ってくれているのは事実だった。
「正直、もう疲れたんです。私には、双子を探す手段はないですし。かくれんぼなんかに時間を使うくらいなら、こうやって、ナナさんと笑い合う時間に費やしたいんです」
眉毛を八の字にして、大きく溜め息を吐く。
そうか。
クロハさんとマシロさんがミホ先輩の研究所にいる以上、サクラちゃんにはもう成す術がないんだ。
あのとき、危険を覚悟で双子に対話しておいてよかった。と、少しだけ安堵する。
……でも。
「そう思っているのなら、イチコ先生の権限を、アイリに渡してくれないかな?」
「それは無理です。行方知れずとはいえ、双子と戦うことになったらどうするんですか? ナナさんは弱いんだから、すぐにやられちゃいますよ」
弱い。
ここ最近、何度か言われたことのある言葉だった。
悔しくて、拳に力が入る。
「そんなことになる前に、私がわからせてあげるんです。ナナさんを攻撃するのは心が引けますが……言うことを聞いてくれないんですから、仕方ないですよね?」
「………………」
峰石ヤクと同じだ。
気に入らないことや、思い通りにならないことがあれば、力で解決しようとする。
そんなの……そんなの、間違ってる。
私たちはただ、遺物という神からの贈り物に振り回されているだけ。
言ってしまえば、全員被害者なんだ。
なのに、どうして協力しようとせずに、敵対してしまうんだろう。
争いは何も生まないし、傷はずっと残り続ける。痛い思いなんて、しない方が良いはずなのに。
……私は、誰も傷つけたくない。
でも、サクラちゃんは本気だ。
その刃が、大切な人に向けられるくらいなら……私自身が気持ちごと、それを受け止めるべきだ。
「……わかった。引き受けるよ」
それに、もし、このゲーム対決に勝てば。サクラちゃんは大人しくなる。
戦わずに、全てが終わる──そんな道があるなら、私はそれに賭ける。
「本当ですか! やったぁ!」
サクラちゃんは、パァっと顔を輝かせる。
デートの雰囲気が一瞬戻ってきたような気がしたけど、私はもう、それには乗らなかった。
……いや、乗ることはできなかった。
「三回勝負にしましょう。一戦目と二戦目の内容は、ナナさんが決めていいですよ!」
「……うーん。じゃあ、これで」
そう言って選んだのは、反射神経と知識を競う、早押しクイズの筐体だった。
画面に問題が表示され、いち早くボタンを押して、答える。
スピードと頭の回転がものを言うタイプのゲームだ。
問題文と共に、ファンタジー作品によく登場するような魔物が現れる。
そして、問題を解くとやられていく。
私たちが操作するキャラは、魔王を打ち倒そうとする勇者の出で立ちをしている。
「クイズ、ですかぁ。私、苦手なんですよねぇ」
「あれ? そうなの? 角花高校って、偏差値高い方じゃなかったっけ?」
「そうなんですけど、うぅん……」
ごにょごにょと口を動かすサクラちゃん。
謙遜しているのだろうか……なんて、思っていた。勝負が終わるまでは。
「……あれっ?」
クイズ対決は、私の圧勝。
あっけなくて、拍子抜けしてしまうほどに。
「うう……。ナナさん、お強い……」
サクラちゃんは、しょんぼりと肩を落とす。
手を抜いているような様子もなかったし、おそらく本気だったのだろう。
クイズ云々の前に、ボタンを押すのがワンテンポ遅くて、たまに早く押せても、答えが見当違い。
最初から最後まで、ずっとこんな調子だった。
戦いのときはあんなに俊敏で、頭の切れる動きをしていたのに……こうしてみると、反射神経も、頭の回転も、普通の女の子と変わらない。
あの強さは、一体どこから来ているのか。
「つ、次は私が選ぶ番ですね。今度は、負けませんから!」
プクッと、頬を膨らませるサクラちゃん。
その姿を見て、私は少しだけ気を緩めた。
二戦目は、対戦型の格闘ゲームだった。
キャラクターを操作して、相手と戦うゲーム。
私は、こういうゲームにあまり馴染みがない。
昔のゲーム機でならプレイしたことはあるけど、こんな仰々しいボタンやレバーは、使ったことがない。
正直、自信はなかった。
けれど、さっきのサクラちゃんの反応速度を見たおかげで、何とか渡り合えるかもしれない。
そう慢心していた。
「行きますよ、ナナさん!」
「うん!」
硬貨を筐体に入れて、意気揚々とゲームを開始する。──ところが。
ラウンドが始まった瞬間。サクラちゃんの雰囲気が変わった。
「えっ、ちょっ……うわっ!」
攻撃を繰り出そうとしても、まるでそれを読んでいたかのように、避けられる。
ガードを固めれば、崩される。
隙をついて反撃しようとすれば、その隙を先回りして、潰される。
「な……っ、なんで」
つい、悲鳴や驚嘆の声が漏れてしまう。
何をしても、見透かされているような……私が次にどう動くか、何をしようとしているか。
サクラちゃんには、全てお見通しみたいだった。
「私、運動神経も頭も良くないですけど、昔からこういうのは得意なんです」
反対の筐体の前に座っていたサクラちゃんが、一瞬だけこちらを覗き込んで笑った。
「……武道とか、習ってたの?」
このまま一方的に話してくれていれば、一瞬でも隙が生まれるんじゃないか。
そんな浅はかな考えで、質問を投げる。
けれど、これっぽっちも効果はなかった。
「いいえ、ちっとも。私自身、自分がどうしてこんなに強いか、わからないんです。筋肉があるわけでもないし、走るのだってクラスで一番遅いんですよ?」
「……そう、なんだ……」
「だから私、思うんです。私の力は、全て、愛が源泉になっているんじゃないかと」
「……愛?」
「はい! ナナさんを守りたい。ナナさんの助けになりたい。そんな気持ちが、隠された力を引き出してくれてるんじゃないかって……そう思うんです」
うっとりとした声色は、態度は、恋する乙女という言葉がよく似合うほど、艶やかだった。
彼女の持論はさておき、気持ちや欲望が昂ると、脳のリミッターが外せるという事例は、入院していた頃、看護師さんから聞いたことがある。
それが当てはまるのだとしたら、サクラちゃんの恐ろしさは格段に跳ね上がる。
だって、愛というエネルギーは、枯渇することがない。
つまり、体力が限界でも、疲労が限界でも、愛さえあればサクラちゃんは動けるということ。
私が戦って、勝てるような相手じゃない。
Game set
……流暢な英語が、辺りに小さく響く。
画面では、私が操作していたキャラが、目をバツにして倒れていた。
「これで、一勝一敗、ですね」
サクラちゃんは嬉しそうにそう言った。
その声色の奥には、底知れない何かが宿っているような気がした。
「さあ、最後の勝負です。内容は……どうしましょうか?」
次で、全てが決まる。決闘か……円満解決か。
緊張で、じわりと手に汗が滲む。
「うーん、どのゲームもフェアじゃないですね……最後はシンプルに、じゃんけんはどうですか?」
「え、じゃんけん?」
ゲームセンターに来てるのに、最後の大勝負が、じゃんけん?
何か狙いがあるのだろうか。
そう訝しんでいると、それを察したサクラちゃんが、慌てて両手を挙げた。
「企んでなんかないですよ。じゃんけんなんて、運任せのゲームでしょう? イカサマなんてできません」
「確かに、そうだけど…………わかった、じゃんけんにしよう」
特に断る理由もなく、素直に従う。
サクラちゃんは「そうこなくっちゃ!」と明るく飛び跳ねると、おもむろに手を構えた。
「行きますよ。最初は、グー……」
何を出そう。ここは無難に、パーでいいだろうか。
「じゃんけん──」
「ナナさんはこういうとき、パーを出しますよね」
「──っ!?」
サクラちゃんの声が、耳に届いた。
それとほぼ同じタイミングで、両者の手が、露わになる。
「ぽん」
サクラちゃんの手は、チョキ。
私の手は、パー。
呆然と、自分の手を見る。
広げた五本の指……完全に、読まれていた。
「ふふふ。私、ナナさんのことなら、何でも知ってるんですよ」
勝ち誇るわけでもなく、サクラちゃんは当たり前のことのように、微笑んだ。
「病院にいたときもそうでした。ナナさんは最初、ほぼ間違いなくパーを出すんです。全部を受け止めようとする、ナナさんらしい手ですね」
私の、じゃんけんの癖。
自分でも気づいていなかった、心の動き。
それを、サクラちゃんは知り尽くしている。
改めて、思い知った。
サクラちゃんが、どれだけ私を見てきたのか。
どれだけ、私のことを想って、観察していたのか。
その執着の、底の知れなさを。
「私の勝ちです、ナナさん。約束、覚えていますよね?」
「…………」
私は、何も言えなかった。
サクラちゃんが有利になるように仕組まれていたとはいえ、負けは負け。
勝負を受けてしまった以上は、この結果を受け入れるしかない。
「イチコ先生が無事に帰ってきたら、決闘しましょう。本気のやつです。……私、ナナさんのことが大好きだから、ナナさんを殺すようなことはしません。でも、手加減もしませんよ」
サクラちゃんは、柔らかく微笑んだ。
そして、その笑顔のまま手を振って、並んだ筐体と家族連れの間を縫うように、消えていく。
電子音が、あちこちから鳴り響いていた。
子供たちの歓声が、飛び交っていた。
でも、その全部が、頭の中でぐわんと響いて、遠くなった。
私は、しばらく動けなかった。
サクラちゃんは、私のことが好きだ。
きっとそれは事実だろう。
それなのに、どうして戦うんだろう。
伝えたい気持ちがあるなら、言葉で伝えればいいのに。もっと別のやり方があるはずなのに。
それに、おかしかった。
サクラちゃんは最初、私が傷つくことを恐れていたはずだ。
だから、双子を倒すと言い始めた。私を危険な目に遭わせたくないという意思で、動いていた……。
なのに今は、私を傷つけることも厭わないとでもいうように、戦いに積極的だ。
彼女の中で、何かが変わったのだろうか。
クロハさんとマシロさんの行方を見失ったせいで……追い詰められている? 焦っている?
……でも、何に?
わからなかった。
でも、その答えは、戦いの中で見つけるしかない。
言葉が届かないなら、せめて、身体で感じ取るしか……。
戦いながら、気持ちを探る。
そんなこと、私にできるかどうかわからない。でも、やってみるしかない。
あの子の底知れない執着に、ちゃんと向き合うときが来たんだ。
不意に、隅の方に置かれた、誰にも見向きもされない古びた筐体が、目に入った。
薄暗い光の中で、ポツンと、寂しそうにしている。
私にはそれが、どこかさっきまでのサクラちゃんのように見えて、仕方がなかった。
+++
病院の廊下は、静かだった。
馴染みのある市立病院とは違って、DEMsの息がかかっている国立病院は、ほとんど人がいなかった。
白い壁、白い床。
消毒液の匂いが、薄く漂っていた。
「お邪魔します」
「します!」
受付で借りたカードキーを二人分差し込むと、特別病室の扉が開いた。
廊下よりも静かなそこには、三つのベッドが並んでいる。
一番手前が、スナミちゃんだった。
点滴の管が、細い腕に繋がっている。
その顔は穏やかで、眠っているだけのように見えた。
周囲には、宇宙を模したキャラクターのぬいぐるみや模型が置かれている。
その隣には、レノちゃんがいた。
動物病院でもないのに、人と並んで病床に伏せているのは、若干の違和感があった。
でも、DEMsの管轄だと思うと、納得がいく。
大きな黒い体躯が、白いシーツの上に横たわっていて、規則正しく、背中が上下していた。
そして、一番奥には、ココナさんがいた。
完全に活動停止しているからか、他の二人のような維持装置は全くない。
その代わりに、機械を検査するための装置とモニターが置かれている。
治療というよりも、解析、という表現が近いような気がした。
三人とも、身体はちゃんとここにある。
でも、心は、ここにはない。
「……スナミ、レノ、ココナ……」
アイリは明らかに落ち込んだ様子で、小さく呼びかける。
それでも、返事はない。
スナミちゃんが植物状態になったと聞いたとき、アオちゃんはひどく取り乱していた。
レノちゃんが眠ったとき、シーカはずっと泣いていた。
ココナさんが活動停止したとき、ミホ先輩の背中はとても小さく見えた。
全員、救ってみせる。
そう誓ったはずなのに、三人を目の前にすると、その言葉が、どこか遠くに感じられた。
願いが叶うなんて、そんなあやふやなものに委ねていいのか。
今更になって、不安が押し寄せてくる。
「ナナ、だいじょうぶ?」
「……うん」
この気持ちは、アイリに知られたくなかった。私は顔を逸らして、窓の外を見る。
山の高いところにあるこの病院からは、私が暮らす街と、隣の港街が、とても小さく見えた。
まるで、おもちゃみたいに。
上空には、相変わらず気味の悪い微笑みを浮かべている、神様の姿があった。
宙に浮かぶ雲が晴れても、その先は白く靄がかったまま。
機械に覆われた空は、いつも、私の心をザワつかせる。
すると、そのとき。
扉の方から、フォン、と、控えめな電子音が聞こえた。
「おや、ナナにアイリ。久しぶりだね」
車椅子を押しながら入ってきたのは、ミホ先輩だった。
以前会ったときとは、印象が全く違う。
目の下の隈は消えていて、髪もきちんとポニーテールにまとめられている。
変な臭いもしない。
そして、張り詰めたような雰囲気も、少しだけ和らいでいた。
「わざわざ足を運ぶなんて、律儀だね。ここまで来るのには、中々骨が折れるだろう?」
ミホ先輩は私たちを見て、口元をほころばせた。いつもの飄々とした笑顔だった。
「ミ、ミホ先輩こそ、お顔の色がよくなりましたね。ちゃんとごはんとか、食べてますか?」
「ああ。君たちが研究所を片づけてくれてから、祖父母が異様に気にするようになってね。うっかり忘れた日には、それはもう鬼の形相さ」
あの優しそうなおじいさんとおばあさんが? まったく想像がつかない。
「まあでも、感謝しているよ。あの二人のごはんは、美味しいからね」
そう言いながら、ミホ先輩はココナさんの近くへと移動した。
端末を操作する手はスムーズで、何度も同じように検査しているのだということが、ひしひしと伝わる。
けれど相変わらず、彼女のその横顔に、何が浮かんでいるのかは、読み取れなかった。
「ねぇねぇ。ミホって、お父さんとお母さんはいないの?」
ふと、アイリが、とんでもないことを口にした。
アイリの脇腹を、肘で小突く。
「ああ、いないよ。小さい頃に交通事故に遭ってね。両親はそのときに亡くなった。私の足も」
さらり、と。
何でもないことのように、ミホ先輩は言い放った。
病室内に、重い空気が漂う。
「それからは、父方の祖父母に引き取られたんだ。研究所の敷地内の一軒家……アレが祖父母の家でね。私はずっとそこで暮らしてきた」
「……ん? けんきゅうじょって、もともとあったの?」
「いいや。稼いだ資金で建てたものだよ」
アイリの疑問は止まらない。そして、ミホ先輩の口も止まらなかった。
「事の始まりは、義足だった。かなりの粗悪品でね。すぐに壊れてしまったんだ。それを、倉庫にあった資材だけで修理してみせた。前よりも良くなった状態でね」
「す、凄い」
思わず、声が漏れる。
ミホ先輩は手を止めて、少し遠くを見るように窓の外を見た。
感傷的というわけではなく、ただ静かに、過去を見ているかのような目だった。
「ああ。祖父母もそう思ったみたいでね。敷地内の倉庫を好きに使っていいって言われたんだ。私はそこでずっと、色々と作っては、企業に売りつけていた。ここまで育ててくれた祖父母にも還元できたし、良い生活だったよ」
ミホ先輩の口元に、柔らかい笑みが浮かんだ。
その笑顔には、誇りと懐かしさが詰まっていた。
「……ただ、少しだけ後悔していることがある。私は学校にほとんど通わなかったんだ。そのせいで、祖父母にはひどく凄く心配されたよ。友達ができないんじゃないかってね」
「なるほど。じゃあ、もう、しんぱいはいらないね!」
「え?」
素っ頓狂な声をあげて、ミホ先輩はアイリを見やる。
アイリは手を胸に当てて、したり顔で微笑む。
「アイリも、ナナも、ミホのともだち! だから、いまは、たくさん、ともだちいるよ!」
「おお、嬉しいことを言ってくれるね。ありがとう」
ミホ先輩はそう言いながら、顔を逸らす。
耳が赤くなっていたのを見て、彼女のいじらしさが、私の心をくすぐった。
「ま、まあ、私の話は置いておいてだね」
珍しく動揺しているミホ先輩は、咳払いをすると、改めて私たちに向き直った。
「ちょうどいいタイミングだ。君たちに伝えておきたいことがある。まずは、例の双子のことだ」
「……私も聞きたかったです。今二人は、研究所にいるんですよね?」
ライラさんとスカイさんから、既に聞いていた。
でも、どんな生活を送っているのか……どんな状況にあるのかまでは、知らないままだった。
「研究所を隔離用に少し改装してね。風呂も食事も、そこで完結できるようにしたよ。食事は祖父母に頼んで、運搬用ロボットに運ばせている。また迷惑かけることになって、申し訳ないがね」
「そうなんですね。クロハさんは……暴走は、落ち着いていますか?」
「ああ。今のところは安定しているよ。原因はまだわからないけど」
ミホ先輩は、チラリとアイリを見る。
……何故、レノちゃんの権限を得たアイリは何も起きずに、クロハさんのときは暴走してしまったのか。
また、何故、アイリがクロハさんの暴走を止めることができたのか。
この二つの謎は、いくらミホ先輩でも、ライラさんでも、未だに解明できていないらしい。
「……二人は、どんな様子ですか」
「どうだろう。協力的でもないし、ずっと警戒しているみたいだよ。とはいえ、食事は毎回ちゃんと食べているようだから、最低限の信頼はしてくれているんじゃないかな」
それなら、ひとまずは安心できそうだ。私は、ホッと胸を撫で下ろす。
「クロハの延命治療については、ライラ嬢に一任しているよ。過去にDEMsを訪れたとき、そういう技術の話を聞いたことがあってね。できるはずなんだ。だから今は、ただ待つしかないね」
過去にDEMsを訪れた?
ミホ先輩は、DEMsとただならぬ因縁があると聞いているけど……関わりがあったのか。
もしかして、そのときに何かトラブルがあったのかな……。
どうしよう、聞いてみてもいいのだろうか。気まずい雰囲気になるだろうか。
でも、そろそろ長い付き合いになるわけだし、ミホ先輩のことをもっと知りたい気持ちはある。
「そうだ、これも伝えておこうか」
私が口を開くよりも前に、ミホ先輩はとある小さなモニターをこちらに見せてきた。
真っ黒な画面で、0と1の数字だけが表示されている。
「ミホ先輩、これって……?」
「うん。機能停止した557号機の中に残存している意識データと、直接やり取りできないかを試みているんだ。成功すれば、ココナと話せるようになる」
そ、そんなことが可能なんだ……!
もしココナさんの話を聞けるようになったら、遺物や力、権限譲渡のことも、詳しく知ることができるかもしれない。
予想や推測でしかない現状を、打破する何かが……。
「ただ、学習機能も止まっているわけだし、クロハから力を奪われたタイミングで記憶や記録、意識は止まっているだろう。それ以降のことは、何も知らない状態になる」
そう言って、ミホ先輩は再び端末に視線を戻した。
モニターに流れる数字の羅列を、静かに、丁寧に、追い続けている。
「……ところで、ナナ。私も過去の話をしたんだし、君の話も聞いていいかな?」
「えっ?」
「ずっと気になっていたことがあってね。どうして君は、血や傷をあんなに嫌がるんだい?」
突然の質問に、私は戸惑いを隠せずにいた。
点滴の音と、維持装置の微かな電子音だけ、規則正しく聞こえてくる。
少し迷ってから、私はゆっくりと口を開いた。
「そう……ですね。ええと……私が、入院していた頃、なんですけど……」
ミホ先輩は、私の顔を見ずに、耳だけ貸している。
むしろ、そのくらいの距離感が、今はありがたかった。
「……仲良くしてくれていた、女性の看護師さんがいたんです。ある日、病室内で暴れた患者さんの対応をしているときに……その人、大怪我をしてしまったんです」
「ふぅん。まあ、よく聞く話ではあるね。それで、トラウマになったのかい?」
「……それもあるんですが……衝撃だったのは、看護師さんの血の色でした。青色だったんです」
「青い血って、アンドロイドのねんりょう、だよね?」
「うん。私、看護師さんのこと、ずっと人間だと思ってたから、すごくびっくりしたの」
アイリもミホ先輩も、何も言わなかった。
ただただ、続きを待っている。
「別に、アンドロイドだから~とか、そういう差別的な思想があったわけじゃないんです。もちろん、今も。でも、あの瞬間、自分の中に、人間かアンドロイドかで判断しようとする気持ちが、あったんだって思って……少しでもそんなことを思ってしまいそうになった自分が、嫌で」
「なるほど。自己嫌悪しているんだね」
「はい。人間かアンドロイドかなんて関係ないのに、血を見て判断しようとした。その感覚がまだ、心の底に残っていて……だから、血を見るたびに、それを思い出してしまうんです」
「へぇ……それにしても、意外だなぁ。血や傷そのものの恐怖だとばかり思っていたから。まあでも、看護師の怪我がトラウマになっていることには、変わりないようだ」
……もちろん、血や傷への恐怖自体はある。
グロテスクな映画とかは見れないし、献血も全力で目を逸らす。
しかし、それもあくまで人並み程度。
にもかかわらず、私は自分に「血が怖い」と言い聞かせてきた。
周囲の人にも、両親にも、そう伝えてきた。
だって……。
「……考えすぎだって、いろんな人から言われました」
「そうかな? 私はそうは思わないけどね」
「えっ?」
思わず、声が裏返る。
ミホ先輩は、ニコリと微笑んでこちらを見た。
「その看護師のことが好きだった、というだけだろう。好きな人のことを、一瞬でも別の尺度で計ってしまった自分が許せない。それは、至って正常な考え方だよ」
「…………」
そう言ってもらえたのは、初めてだった。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
「むしろ、そういうトラブルがあったからこそ、アンドロイドは視認できる場所にロゴや広告を貼ったり、音声や言葉選びをわざと機械的にしたりしているわけだからね。君以外にも、同じような思いをした人はいるんじゃないかな」
「そう……なんですかね……」
「うん、きっとそうだよ! ナナ!」
アイリは私の顔を覗き込んで、手を握る。
その細くて冷たい手を、強く握り返した。
「だったら、なおさら! サクラとのけっとうも、ち、でなようにしなきゃ、だね!」
「ん? 決闘? 何の話だい?」
「あ、ええと……」
サクラちゃんとの決闘。
デートが終わった昨夜のうちに、スカイさんには、既に伝えていたことだった。
でも、さすがにミホ先輩には、まだ話が届いてなかったみたいだ。
「実は、サクラちゃん──発田サクラに決闘を申し込まれて。戦うことになったんです。アイリの言う通り、血や傷を出さないように戦うつもりです。急所を突くか、言葉で伝えて……」
「ちょっと待ちたまえ。何故、そんな話になったんだい? そもそも彼女は、ナナを傷つけたくないという思いで行動していたはずだ。それが何故、決闘という形になる?」
ミホ先輩は車椅子を近づけて、当然の疑問をぶつける。
私は視線を合わせるために、その場にしゃがみ込んだ。
「私にもわかりません。サクラちゃんが何を考えているのか……でも、どこか焦っているような印象は受けるんです」
「……ふむ。乙女心は複雑、ということか」
曖昧な表現で濁されたが、何故か一瞬だけ、ココナさんの方を見たのを、私は見逃さなかった。
「まあ、ナナなら大丈夫だろう」
少しの沈黙を経て、軽く手を挙げると、ミホ先輩は車椅子のタイヤを動かした。
「報告は以上だ。それじゃあ私は、院内の研究所に戻るとするよ」
「あ……何から何まで、ありがとうございます、ミホ先輩。どうか無理はなさらずに」
「礼はいらないよ。好きでやっていることだからね」
手をヒラリと挙げて、ミホ先輩は病室を出ていった。
控えめな電子音と共に、扉が閉まる。
病室には、静けさが戻ってきた。私は改めて、三人のベッドを見渡す。
「ナナ」
アイリもまた、三人をじっと見ていた。
その横顔は、見た目通りの、成熟した女性然としていた。
「ぜったい、みんなをおこそうね」
視線を動かさずに、アイリは、落ち着いたトーンでそう呟く。
この子は、いつの間に、こんな顔をするようになったんだろう。
ゴミ捨て場で拾ったあの日、アイリは何もわからなくて、言動は子供っぽくて……。
それが今は、成長した大人の片鱗を見せるようになっていた。
レノちゃんの権限を得た影響なのだろうか。それとも、アイリ特有の何か……?
でも、私としてはどっちでもよかった。
無邪気でも淑やかでも、アイリはアイリだ。
出会ってから、そろそろ半年になる。
それは短いようで、とても長い月日だった。
ただの女子高生だった私が、非日常に巻き込まれるようになったきっかけ。
アイリは私の人生を大きく変えて、彩りを与えてくれた、唯一無二の存在だった。
「……アイリ、私の前に現れてくれて、ありがとう」
感傷に浸ったせいか、そんな言葉が零れ落ちる。
途端に恥ずかしくなったけど、後悔はしていなかった。だって、本当のことだから。
すると、アイリは顔を輝かせて、私を抱き締める。
彼女の体温と匂いに包まれた。
「アイリの方こそ、ありがとう。私、ナナのやくに立てるのが、とてもうれしい」
「それは……恩人、だから?」
「ううん。それもあるけど、それだけじゃない!」
アイリは身体を離して、笑った。
屈託のない、真っ直ぐな笑顔だった。
その顔を見るだけで、何か大切なものが、胸の中に満ちてくる気がした。




