第十四話 すれ違い
「お待たせしました、ライラさん」
私はアイリを連れて、DEMs管轄の喫茶店を訪れた。
今どき珍しい、レトロな外観。
木の匂いとコーヒーの匂いが入り混じる、落ち着いた店内。
出入口近くの、いつもの席。
先に着いていたライラさんは、スカイさんが淹れたであろう紅茶には口をつけず、窓の外を眺めていた。
いつもなら、私に話があるときはスカイさんを経由して伝える。
けれど今回は「折り入って話がある」と、改まって呼び出された。
扉を開けて、すぐにわかった。良い話ではなさそうだ。
胸の奥に、小さな不安が芽生える。
私が固めの赤い椅子に腰を下ろすと、ライラさんはゆっくりと、こちらに向き直った。
堅苦しい表情のまま、しばらく言葉を選ぶように黙ったあと、意を決したように、口を開く。
「単刀直入に申し上げますわ。私、明日、本国へ戻ります」
「えっ」
予想だにしない言葉に、私は目を丸くした。
「本国って……イギリスですよね。どうして急に……」
「DEMsから呼び出されたのですわ」
ライラさんは、すっかり冷めたティーカップの縁を、指先でなぞった。
その仕草はどこか妖艶で、大人びて見えた。
「ナナ。貴女には、正直にお話しておきますわ。私、板挟みになっておりますの」
「板挟み?」
「ええ」
ライラさんは、ふっと、自嘲気味に笑った。
「組織としてのDEMsは、こう考えています。砕けた神のパーツ……遺片を、早急に、一つに集めて管理したい。そのためには、最も力のある者に、全ての権限を託すのが効率的、と」
最も力のある者、というのが、誰を指すのか。
私には、すぐにわかってしまった。
「……サクラちゃん、ですね?」
「ええ。発田サクラ。そして、その武器たる岩鬼イチコ。例の発表会での活躍を、DEMsは大層気に入ったみたいでして」
活躍……生徒や先生がゾンビみたいに襲ってきて、アオちゃんとスナミちゃん。サクラちゃんとイチコ先生が、私たちの代わりに戦ってくれたことだ。
DEMsも把握済みということは、つまり、サクラちゃんが、生徒たちを乱暴に攻撃したこともわかっているはず。
致命傷じゃないとはいえ、大きな針で身体を刺して、血や傷が……。
それでも、サクラちゃんが選ばれた。
「南雲ナナよりも、発田サクラに権限を集約させる。本部はそう判断していて、こちらにも、そのような命令が下されましたわ」
胸がズキリと痛む。
損得で考えれば、DEMsが強いサクラちゃんを選ぶのは当然のことかもしれない。
私は、弱い。
自覚はしていたけど、面と向かって突き付けられると、やっぱり辛い。
「ライラ、アイリたちとお別れするの?」
ふと、アイリが眉毛を八の字にして呟く。
「……私は、DEMsの一員ですわ。組織の決定には、従う義務がある。──けれど」
ライラさんは前髪を整えると、真っ直ぐに私を見た。
その瞳に、いつもの高慢さはなかった。あったのは、迷いだった。
「私個人は、あなたを、応援したいのです」
「ライラさん……」
「約束したでしょう。貴女方と、貴女方の周囲の人間を守ると。あれを、嘘にはしたくありませんわ。それに……短い間ですが、お二人とは濃密な時間を過ごしました。多少の情は湧きますとも」
ライラさんがこんなに素直に気持ちを口にするのは、初めてかもしれない。
だからこそ、その言葉の重さが、胸に響く。
合理的で利己的な彼女が、揺れている。その事実が、たまらなく嬉しかった。
「発田サクラの支援と、南雲ナナの支援。この二つは、両立しませんの。どっちつかずでいることは、できませんわ」
だから、と。ライラさんは、続けた。
「私は、一度、本国へ戻ります。本部と、直接掛け合うために。今のねじれた状況をどうにかできないか、足掻いてみるつもりですわ」
「……私たちのために、ありがとうござ」
「勘違いなさらないで」
言葉を遮り、ライラさんは、つん、と顎を上げた。
「これは、自分自身のけじめですわ。板挟みのまま、あなたを中途半端に、応援も妨害もできずにいるのが、性に合わないだけ」
キッパリと、思いを口にする。
……そうか。これはあくまで、本人の矜持の問題なんだ。
私やアイリを守るという約束を、破りたくないという責任感。
それなら確かに、感謝を伝えるのは違うかもしれない。
そういうのは、心の中で済ませておくべきだ。私は咳払いをして、問い掛ける。
「日本には、いつ頃帰って来るんですか?」
「わかりませんわ。本部の頑固な老人たちを説得するには、骨が折れますもの。しばらく会えなくなる、と思ってくださいまし」
その言葉に、寂しさが込み上げる。
出会ったばかりの頃は、無慈悲で、得体の知れない人だと思っていたけど……いつの間にか彼女は、私たちにとって、心強い味方になっていたのだと実感する。
「ですが、お二人を丸腰で放り出すような真似はしませんわ」
そう言うと、ライラさんは手を叩く。
隣で気配を消して立っていたスカイさんが、一歩前へ出た。
「スカイを、日本に残します」
「えっ」
「不在の間、お二人の護衛はスカイに任せますわ。この子の腕は、貴女もご存じでしょう。それが私にできる、せめてもの誠意ですの」
「不肖スカイ、命を懸けてお守りいたします」
スカイさんは丁寧な所作で、深々と頭を下げる。
ふわりと揺れるメイド服から、お花の良い匂いが漂った。
「い、命は懸けなくていいですけど……ありがとうございます。でも、大丈夫なんですか? ライラさんだって、ボディーガードがいた方がいいんじゃ」
「それについては問題ありませんわ。イギリスから別の侍女を呼んでいますから。今後しばらくは彼女と共に行動します」
「別の侍女? スカイさんだけじゃないんですか?」
私が問い掛けると、ライラさんはニコリと微笑んだ。
「ええ。ノースシュタイン家は、全国各地の侍女を雇っておりますの。スカイは日本人ですから、今回の仕事のボディーガードとして選んだだけですわ」
「え? スカイって、日本しゅっしんなの?」
台詞をアイリに取られてしまった。
しかし、改めてスカイさんを見ると、日本人のように見えなくもない……が、身長の高さとスタイルの良さ、エキゾチックな美形さとは、うまく結びつかない。
「はい。本名は、長谷藤ソラと申します。イギリスに留学していたところを、ライラ様に拾っていただきました」
「……そ、そうだったんですね。知らなかったです……」
「隠す必要もありませんでしたが、お伝えする機会がありませんでした」
冗談を言っているようには見えないけど、にわかには信じられなかった。
ライラさんとスカイさんの出会いが、気になるところだ。
「雑談はこの辺りにしておいて……ナナ。身辺には、くれぐれも気を付けなさい」
和やかな空気は、再度、ピリリと冷たくなる。
ライラさんは、すっかり冷めた紅茶を飲み干した。
「この先、何が起こるかはわかりません。ただでさえ、ナナは発田サクラと断交してしまった。しかも、円満ではない形で」
「す、すみません……」
「謝罪は不要ですわ。過ぎたことは仕方ありません。……ですが、これだけは伝えておきます」
ライラさんは、テーブル越しに私とアイリの手を握った。
年相応の、小さな手のひらだった。
「私は合理的・効率的という言葉を好みますが、世の中、それだけでは済まないことも、十分わかっているつもりです。ですから、貴女は、貴女が信じる道を進みなさい」
「……はい!」
胸がいっぱいになった。
ライラさんは、私たちのやり方を汲み取ってくれる。尊重してくれる。
それがとてもありがたくて、自然と笑みが零れる。
ライラさんの言葉の裏には、別の考えが潜んでいるような気がしたけど……私には、それが悪いものには思えなかった。
むしろ、私たちの背中を強く押してくれているるような、その道は間違っていないと保証してくれているような、そんな感じがした。
「話は以上です。また会いましょう。ナナ、アイリ」
ライラさんは、柔らかさと寂しさを含んだ笑みで、その場に立ち上がる。
そして、ドレスの裾を翻すと、私たちの顔を見ることなく、喫茶店を後にした。
背中が見えなくなるまで見送ると、私の肩がほんの少し重くなる。
ライラさんの本心を知れたのは嬉しかったけど、それでもやっぱり、頼れる人が一人いなくなるというのは、心細かった。
でも、ライラさんは自分の戦いをしに行ったのだ。だったら私も、私の戦いに目を向けなきゃ。
「ナナ。だいじょうぶ?」
隣のアイリが、不安そうな目で私の顔を覗き込む。彼女を安心させようと、笑顔を取り繕った。
「うん、大丈夫だよ。スカイさんが居てくれるし」
そう言うと、控えめに佇むスカイさんが、ペコリと会釈をした。
彼女は強い。今は、それだけで十分だ。
「そうだ。この後用事もないし、スカイさんにお稽古つけてもらおうか?」
「それ、いいね! スカイ、おねがいしていい?」
「勿論で御座います。しかしその前に、南雲家に戻りましょう」
スカイさんに促されて、私たちも喫茶店を出る。
カラカラと鳴る鈴の音が、心地よかった。
——しかし。このときの私は、まだ、知る由もない。
まさか、ライラさんがいなくなった、その隙を突くようなタイミングで……あんな事態が、起きてしまうなんて。
+++
ライラさんが発ってから、二日ほど経った頃。
放課後、いつも通りアイリとサイセちゃん、三人で一緒に帰っていると……校門を出たところに、アオの姿があった。
待ち伏せなんて、前に、スナミちゃんの件を知らせに来た時以来だった。
あのときはひどく取り乱していたけど、今日はそんなこともなく。
貧乏ゆすりをしながら、ソワソワと周囲を見渡していた。
「あっ、ナナ!」
ふと、アオちゃんと目が合う。
サイセちゃんは「知り合いの子?」と小首を傾げていた。
「アオちゃん。どうしたの? こんなところで」
「やべえ話を聞いちまってな。歩きながらでいいから、話しておきたい」
「えーっと、私、お邪魔かな?」
「ん? あーいや! アンタが良ければだが、いてもらえる方が助かる。……名前は?」
「サ、サイセ、です」
「そうか! よろしくな!」
カッカッカ! と高らかに笑うアオちゃん。
その大きな声に、自然と視線が集まった。
てっきり、遺片やスナミちゃんに関する重要な話かと思ったけど……サイセちゃんがいてもいいって言うなら、別の話なのだろうか。全く予想が付かない。
落ち着かない気持ちで、家がある方角へと歩き出す。
アオちゃんはコミュニケーション能力が非常に高く、あっという間にサイセちゃんと打ち解けていた。
まあ、サイセちゃんはいつも人の輪の中心にいるような子だし、案外気が合うのかもしれない。
「そうそう。で、サイセに聞きたいことっつーのがさ。人戒教のことなんだよ」
人戒教。
その単語を聞いて、背中に悪寒が走る。
クロハとマシロが所属している、遺片を狙う暴力的な宗教団体だ。
「?……それと私と何の関係があるの? 私、信者とかそんなんじゃないよ?」
「あーいや、その辺は問題じゃねぇんだ。最近、ニュースで見たとかそういうのだ」
「ああ。それなら、ついこの間、小さく話題になってたね。聖地? 総本山? が、大災害か何かで半壊したとか何とか」
「サ、サイセちゃん! それ、本当!?」
思わず、サイセちゃんの肩を掴む。彼女の身体がピクリと跳ねた。
「う、うん。本当だよ。何でそんなに驚くの?」
「あっ、い、いや、その……」
どう言い訳すれば良いのか迷って、視線を逸らす。
って、駄目だ。こんなことをしたら、余計に怪しまれてしまう。
「しんせきが、そのしゅうきょうの人なんだよ」
「そ……そうそう!」
情けないことに、アイリの助け舟に乗ることにした。
サイセちゃんは興味が無さそうに「ふぅん」と呟く。
「やっぱりそうか……」
神妙な雰囲気を醸しながら、アオちゃんは口を開く。
「今日、たまたま耳に挟んだんだ。サクラとイチコ先生が、その本拠地とやらに行くって」
「サクラちゃんが……?」
「ああ。信用ならないかもしれねぇが……ただ、サイセが言ってた災害っつーのが、例の双子なのは間違いない」
「あ、うん。私たちと同い年くらいの子が発端だって、ニュースで言ってたよ」
心臓の鼓動が早くなる。サクラちゃんは、本気だ。
本気でクロハとマシロを攻撃して、無理やり、権限を奪おうとしている。
「サクラのやつ、目がマジだったぜ。まるで獲物を狩りに行くみたいな」
「ナ、ナナ……」
震える手を、アイリが優しく包んでくれる。
そのことに感謝しつつ、頭の中で情報を繋ぎ合わせる。
クロハとマシロは、おそらく人戒教の教徒。
でも、春頃にあった祭典で、ココナさんの権限を奪った。
そして、原因不明のまま暴走した。
それ以降、人戒教に関して一切の音沙汰がなかった。
双子も行方不明のままだったのに……まさか、こんなことになるなんて。
「それで……もしナナが行くつもりなら、オレも連れてってくれ。そう頼みに来たんだ」
「アオちゃんが?」
私は、少し戸惑った。アオの気持ちを思うと、簡単には頷けなかったからだ。
「……あの二人は、スナミちゃんをあんな目に遭わせた相手だよ」
「わかってる。恨んでるさ」
アオちゃんは即答した。自分の気持ちを隠す気はないらしい。
「正直に言う。あいつらの顔を見たら、オレの方が怒りで暴走しちまうかもしれねぇ。スナミを返せって、殴りかかるかもしれねぇ。でも」
真っ直ぐな憎しみを嚙み殺すように。
アオちゃんは拳を固く握って、続けた。
「でも、サクラのやり方は、もっと気に入らねぇ。力ずくで奪うって、それ、スナミにやったことと同じだろ」
そうか。
アオちゃんはわかっているんだ。
暴力の応酬の虚しさを。やられたらやり返すことの無法さを。
そういった憎しみは、恨みは、どこかで断ち切らないといけないことを。
「……アオちゃんは強いね」
「なっ……ま、まあ、腕っぷしは自信あるけどよ」
アオちゃんは顔を真っ赤にして、ぐしゃりと前髪をかき上げる。
姉御肌な彼女の、可愛らしい一面だった。
「スナミの権限は、今、双子が持ってるんだろ。それがサクラなんかの手に渡るくらいなら、アンタの手に渡ってほしいんだ」
「アオちゃん……」
「サクラのやつ、スナミのことを伝えても見舞いに来ないどころか、オレたちの名前すら未だに覚えてねぇんだぜ。あんな冷酷な女、こっちから願い下げだ」
肩を透かして、アオちゃんは屈託のない笑顔を浮かべる。
そんな彼女の期待に、信頼に、心から応えたいと思えた。
「わかったよ、アオちゃん。私、人戒教の本拠地に行く。だから」
「ついてきてくれるよね?」
私の言葉を遮って、アイリがアオちゃんの側に近寄った。
「言い出しっぺはオレだぜ。当たり前だろ」
アオちゃんは、ドンッと胸に拳を当てる。アイリもそれを真似て、胸を張った。
その様子を見て笑っていると、サイセちゃんが軽く肩を叩く。
「……よくわからないけど、ナナちゃん、最近変わったよねぇ」
突然耳元で囁かれて、ドキリとする。「そ、そうかな?」と、当たり障りのない返事をした。
「うん。何か、芯があるっていうか……肝が据わってるっていうか? 前のナナちゃんも良いけど、今のナナちゃんも素敵だよ」
「……ありがとう」
人気者の彼女にそう言われると、さすがに照れる。
サイセちゃんは数少ない、私の日常の一部だ。
非日常が降りかかっている中で、彼女の存在は安寧となってくれていた。
少しだけ、空気が和らぐ。
でも、アオちゃんの憎しみが消えたわけじゃないし、サクラちゃんと双子がどうなるかもわからない。
不安は、小さな棘のように胸に残った。
「ところで、その人戒教の本拠地って、どこにあるの?」
「ああ。ニュースでもやってたし、わかってる。ただ、急いだ方がいいな。サクラに先を越されるわけにはいかねぇし……」
「お待ちください」
「きゃっ!」
サイセちゃんの悲鳴に、心臓が跳ねた。
どうやら、遠くで監視していたスカイさんが急に現れたようだ。
……やっぱり、普通は驚くよね。すっかり慣れてしまった自分が恐ろしい。
「ナナ様。これは罠の可能性もあります」
スカイさんの声は、いつも通り静かで、感情を押し殺したような響きだった。
でも、その言葉の奥には、確かな警戒心が滲んでいた。
「あん? 罠じゃねぇよ。なんだってオレがナナにそんなこと」
「アオ様を疑っているわけではありません。サクラ様を疑っているのです」
ピシャリと、厳しく言い放つスカイさん。
アオちゃんは眉間に皺を寄せながら、不愉快そうに口を閉じる。
「サクラ様は、ナナ様が双子を庇うことを承知しているはずです。暴走を餌に、貴女をおびき寄せているとも考えられます」
冷静な指摘だった。確かに、その通りかもしれない。
サクラちゃんは、私のことを、誰より知っている。
私が双子を見捨てられないことも、わかっているはずだ。
でも。
「でも、暴走は事実なんですよね」
「…………そのようですが」
「だったら、行きます。クロハとマシロが苦しんでいるなら、サクラちゃんが二人を殺そうとしているなら、私、放っておけません。間に合ううちに、止めないと」
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。
怖くないわけじゃない。ただ、行かないという選択肢が、頭になかった。それだけだった。
「……ナナ様はお人好しですね」
スカイさんは、私の目を見て、軽く息を吐いた。
いつも通りのポーカーフェイスは崩さずに、声色だけが、彼女の優しさを透かしてくれた。
「そこが、ナナの良いところ!」
アイリはそう言うと、私を背後から抱き締めた。
その細い腕の力強さに、胸の奥が、じわりと温かくなる。
アオちゃんもサイセちゃんも、うんうんと頷いてくれた。
「承知致しました。それでは、私もお供致します。お嬢様より、ナナ様とアイリ様をお守りするよう、仰せつかっております故」
「は、はい! ありがとうございます!」
「お礼は不要です」と告げるスカイさんは、そのつっけんどんな態度は、どこか、ライラさんに似ていた。思わず笑みが零れる。
それにしても、心強い味方だ。
スカイさんは、人間離れした怪力を持っている。
遊園地での一件を思えば、これほど頼もしいことはない。
「おいおい、こんなメイドに護衛が務まるのかよ? ま、タッパと筋肉はありそうだけどよ」
しかし、アオちゃんにとっては、スカイさんは未知の存在だ。
腕を組んで、訝しげにスカイさんを見やる。
その目が、スカイさんの長身を、上から下まで品定めするように動いた。
否定も肯定もすることなく、スカイさんは会釈をした。
……彼女の超人的なパワーを目の当たりにしたアオちゃんが、どんな反応をするのか。不謹慎ながらも、ワクワクしてしまう。
「……私、ナナちゃんが何に巻き込まれているのか知らないけど……それでも、応援してるよ」
すると、サイセちゃんが力強く私の両手を握った。
その大きな目には、心配の色が隠れていた。柔らかくて、温かい手だった。
こんなふうに、真っ直ぐに心配してくれる人がいる。それだけで、どれだけ救われるか。
そんな彼女の手を握り返したあと、軽くハグをした。
私の不安は、震えは、いつの間にか収まっていた。
「全部終わったら、聞かせてよね。私、気になってあんまり眠れてないんだから!」
「うん、もちろん。……じゃあ、行ってくるね」
私がそう言うと、サイセちゃんは微笑んだ。踵を返して、家の方へと走り出す。
見えなくなるまで、お互いに手を振り続けた。
「それでは、目的地へ急ぎましょう。私が案内致します」
スカイさんはこめかみに手を当てて、地図を開いた。
ここから最短で行ける方法を計算しているようだ。その横顔は、いつも通り揺るがなかった。
アオちゃんはストレッチをして、拳を鳴らした。
気合は十分、といったところか。関節が、ぱきぱきと音を立てる。
移動しやすいように、私はアイリを傘に変身させて、小脇に挟んだ。
「ナナ様」
「はい?」
「良い友人を持ちましたね」
「……はい!」
返事をするや否や、スカイさんは私とアオちゃんを、片腕で持ち上げる。
毎度のことながら、荷物みたいで少し複雑な気持ちになるけど、運ばれる身で文句は言えない。
「うわっ!? お、おい、何だこれ、どうなってやがる!?」
「アオ様、お静かに。舌を挟みますよ」
スカートを翻して、スカイさんは街の塀を、屋根を、駆けていく。
サーカスの劇団員みたいだ。眼下に、街の景色が、流れていく。
靄のかかった空の下、建物の連なりが、どこまでも続いていた。
こうして私たちは、人戒教の拠点へと向かった。
傘の柄をしっかり手にしたまま、私は、サクラちゃんより先に到着することを、ただただ、祈り続けた。
+++
人戒教の本拠地までは、スカイさんの脚力と交通機関を組み合わせても、一時間はかかった。
アオちゃんが通う角花高校がある、隣の港町。
そこから少し離れた先の山を一つ越えたところに、本拠地はあった。
「わぁ……」
思わず感嘆が漏れる。古びた聖堂のような、厳かな雰囲気の建物。
双子の暴走によって半壊しているけれど、むしろ、それがこの場の神々しさを際立たせているように思えた。
崩れた壁、歪んだ柱。
床のあちこちには、白いローブ姿の教徒たちがぐったりと倒れている。
「めちゃくちゃだな。これが、暴走なのか……」
空気がピリピリと痺れている。
遠くの方から、不安定な力の波動が、断続的に押し寄せてきているみたいな……そんな感覚が、傘状態のアイリから、脈打つように伝わってくる。
歩くたびに、崩れ残った瓦礫が落ち、足元がぐらりと揺れ動く。
「ナナ様、アオ様。ここは私が先導致します」
スカイさんは息を整えながら、すっと前に出る。
倒れた教徒たちを手早く検分しては、安全な道を吟味する。
さすがは、ライラさんの側近。怪力だけでなく、目や鼻もとっても効くみたいだ。
奥へ、奥へと進むほど、アイリから伝わる直感は強くなっていく。
肌が焼けるように熱く、耳鳴りもする。この先は危険だと、全身が訴えかけている。
それでも私は、足を止めなかった。そして……広々とした大きな空間に辿り着く。
そこにあったのは、異様な光景だった。
「……っ、あ、ぐ……っ! や、めろ……勝手に、動くな……っ!」
真っ先に目に入ったのは、悲惨な姿のクロハだった。
歯を食いしばり、苦悶の表情を浮かべている。額からは、大量の脂汗が流れていた。
クロハは、自分の身体を必死に押さえつけていた。
けれど、その腕は彼女の意思を無視するかのように痙攣し、鋏になったり、鎖になったり、槌になったりしている。
「お姉ちゃんっ! しっかりして、お姉ちゃんっ!」
自分自身と戦っているかのようなクロハの側で、マシロは、泣き叫びながら縋りつく。
暴れるクロハに弾き飛ばされても、鋏や槌が顔をかすめても、何度も、姉の元へと這い寄っては、クロハの体にぎゅっとしがみついた。
「マシロ、離れ、ろ……私に、近寄るな……」
「嫌だ! 離れない! お姉ちゃんを一人になんかしないっ!」
「……っ!」
見ていられなかった。
二人は苦しんでいる。痛みと暴走に、必死で耐えている。
……でも、どうして。アイリがレノちゃんの権限を譲渡したときは、こんなことにはならなかった。
一体、クロハと何が違うっていうの。何が……。
「アイツら……スナミをあんな目に遭わせやがって……」
「アオちゃん、近づいちゃ駄目だよ」
「……わかってる。わかってるけどよ……」
アオちゃんは低く呻く。
彼女の拳と口から、ぎりぎりと音がした。
双子を睨み付ける目は、憎しみを越えたもので……まさに、今にも飛び出していきそうな気配だった。
けれどアオちゃんは、その場に踏みとどまっている。
感情と理性がせめぎ合っているのかもしれない。その均衡はいつ崩れてもおかしくない。
私は、アオちゃんの腕を掴んだまま、離さなかった。
「ひっ……ひぃっ……! い、いや、こっちに来ないで……!」
ふと、悲鳴交じりの声が聞こえた。
広間の隅、柱の陰に、一人の女性がいた。
腰を抜かしたのか、へたり込んでいる。そこを、二名の教徒が必死に支えていた。
女性も白いローブを着ていたが、伸びていた人たちとは全くデザインが違った。
金の刺繍が施された、豪勢できめ細かい布。派手なお化粧と、いくつものアクセサリー。
一目で、人戒教の偉い人だとわかった。
「ヤク様! ここは危険です。早く逃げましょう!」
「聖堂が大切なのはわかりますが、命あっての物種です!」
「……え、ええ……そうね。大切なウチの子を見放すのは、心苦しいけれど……」
二人に支えられながら、ヤク様と呼ばれた女性は、ヨロヨロと力なく広間を去っていく。
その足取りは頼りなかったが、去り際、彼女は首を後ろに回して、クロハとマシロを一瞥した。
「……クソが……」
落ち着いた声色から滲み出る、苛立ちと保身。
双子を見たあの目には、心配の色が欠片もなかった。その目が、忘れられなかった。
「あーあ。もっとちゃんと監禁してたら、こんなこと起きなかったのに」
そして——ゾッと背筋が凍るほど甘い、聞き覚えのある声がした。
「そうは思いませんか? ナナさん」
見上げると、サクラちゃんが、柱の上に、静かに立っていた。
私たちを見下ろすように。
その手に握られた大きな針が、獲物の力が尽きるのを待つかのように、ゆらりと揺れていた。
「サクラちゃん……!」
「早かったですね、ナナさん」
満面の笑みだった。
普段と変わらない、甘くて柔らかい笑顔。
今からしようとしていることと、その笑顔は、あまりにも、かけ離れていた。
その不自然さに、不安定さに、眩暈を覚えた。
「安心してください。すぐに、終わらせますからね」
サクラちゃんはその場から飛び降り、針の先を地面へと向ける。
全体重をかけて、真っ直ぐに、クロハの心臓を狙っていた。
「駄目っ!」
「ナナ様!」
「ナナ!」
全員の制止の声が、遠く聞こえた。
私は考えるよりも先に、身体を動かしていた。
クロハとマシロ、そして針の間に挟まるように、身を投げ出す。
すると、殺意に満ちていたサクラちゃんの顔が、一瞬にして青ざめた。
あれだけ冷たかった目が、激しく動揺している。
「なっ……ナナさんっ! どいてください、危ないっ!」
「ナナ! アイリをつかって!」
なんて馬鹿なことをしたんだろう。
アイリの言う通り、傘を広げて防御すべきだった。
そうしなければ、私は犬死だ。私の身体を貫いて、クロハにまで針先が届いてしまう。
そんな暇はなかった、というのは言い訳だ。
浅はかな考えで命を投げ捨てることは、ミホ先輩の思いを、シーカの思いを、アオちゃんの思いを、捨てることと同じだから。
でも、どれだけ後悔しても、もう遅かった。
私の淡い夢は、目標は、このまま儚く散って——。
「ご無事ですか。ナナ様」
「……え?」
気がつけば、スカイさんの腕の中にいた。
いつの間に動いたのか、わからなかった。
気配も、音もなかった。でも、スカイさんは、確かに、そこにいた。
クロハの暴走が及ばないくらい距離を取った場所に、私とアイリはいる。
一方、サクラちゃんは、大理石の壁際に吹き飛んでいた。
針が地面に深々と刺さっているのを見るに、大きな怪我はしていないようだった。
「……くっ」
「! ス、スカイさん、頬が……!」
「軽傷です。お気になさらず」
「き、気にしますよ。わ、私のせいで、傷が……」
「申し訳なく思うのでしたら、無暗に飛び込むのはおやめください」
ぐうの音も出ない、正論だった。
その言葉の奥には、確かな心配が滲んでいた。
私は自分の頬を強く叩き、気持ちを整える。
そして、こちらをじっと窺うサクラちゃんに視線を向けた。
「……っ、何で、お前が、庇うんだ。私たちは、お前らを」
唐突に、近くから、クロハの掠れた声が聞こえた。
私は彼女の顔を見ずに、口を開く。
「理由なんてないよ。ただ、誰も死んでほしくない。それだけ」
「………………」
返事はなかった。
広間の中は、奇妙な静けさに包まれている。
崩れかけた天井の隙間から、靄のかかった空が見えた。
白い光が、埃の舞う広間に、静かに差し込んでいた。
私は傘を広げて、サクラちゃんと双子の間に立つ。
スカイさんは隣に立ち、腰を低くして拳を構えた。
「……ナナさん」
静かな声だった。
その目は、まるで、理解できないものを見るかのようだった。
傷ついているのか、困惑しているのか、読み取れない。
「そいつらは、敵ですよ。ナナさん、たくさん危ない目に遭ってきたんですよね?」
「……よく知ってるね。でも、それは関係ないよ」
「……そうですか。わかりました」
すると、サクラちゃんが手にしていた針が、白く輝き出した。
みるみるうちに、人間の形へと変貌して——一瞬のうちに、岩鬼イチコ先生の姿になった。
「ナナさんがそこまで言うなら、殺すのは、やめます」
「サクラちゃん……!」
彼女の言葉に嘘はない。そう思えて、つい、傘を持つ力が抜けた。
「ナナ様。信用してはなりません!」
スカイさんが叫んだ、その時だった。
イチコ先生が一目散に、私の身体を横切った。
目にも止まらぬ速さで、アンドロイド特有の金属質な匂いが鼻をついた。
「権限の譲渡には、体液の接触がいるんですよね。それなら……」
イチコ先生がクロハに覆い被さった。そして、震える唇に、自らの唇を押し当てようと——。
「させないっ!」
声をあげたのは、マシロだった。
彼女は全力で、イチコ先生を突き放そうとする。
しかし、相手はアンドロイドだ。
教師型に調整されているとはいえ、人間よりもパワーが大きい。
マシロの弱った身体では、止めるのが精一杯だ。
私は急いで駆け寄り、アイリを斧へと変身させた。
「やぁっ!」
そして、イチコ先生の踵部分を強く叩く。
ガキィン、と、全身に響く音と衝撃。
そしてすぐに、ピピピという電子音を奏でて……イチコ先生は、その場に倒れ込んだ。
「ナイス!」
斧から聞こえたアイリの声に、ほっと胸を撫で下ろす。
どうやら、正解だったようだ。
教師型アンドロイドは、踵の部分に緊急停止用のプロセスが施されているらしい。
強く叩けば、停止する。……事前に調べておいて、正解だった。
「う、うぅう……」
権限の譲渡は行われなかった。
けれど、クロハは相変わらず苦しんでいる。
右腕がピクピクと痙攣し、力を撒き散らしている。床に、新たなヒビが走った。
「お姉ちゃん、今のうち! 逃げるよっ!」
「っ!」
突然、マシロが力を振り絞って、クロハを抱え起こした。
私たちのことを見ることもなく、ただただ必死に、走り去ろうとしていた。
「待て!」
サクラちゃんは単身で追いかけようとする。私はそれを、傘で止めた。
「賢明な判断です、ナナ様。あの二人に近づけないことがわかった今、保護の方法を整えてから、再度、彼女たちと相対すべきで……むっ」
スカイさんが冷静に分析しながら、サクラちゃんを羽交い絞めにしようとした、その時だった。
「逃すかよ! スナミの仇!」
我を忘れたように飛び出そうとしたアオちゃんを見て、スカイさんは方向転換した。
筋肉質なアオちゃんの渾身の抵抗を、片腕で、難なく封じ込める。
「離せ……っ! あいつらが、スナミを……!」
「落ち着いてください。アオ様まで、犬死するおつもりですか」
「っ……!」
スカイさんの声は、静かで、揺るがない。
アオちゃんはぐっと言葉に詰まった。腕の中で何度ももがいて、それでも、びくともしない。
やがて、力なく項垂れた。その背中は、小さく震えていた。
その間に、双子の姿は、見えなくなっていた。
さっきまであれだけ激しかった暴走の余韻だけが、空気の中に、じんわりと残っている。
「チッ」
サクラちゃんは舌打ちをして、イチコ先生を起動させた。
その目が、一瞬、私たちに向いた。戦うつもりかと思って、身構える。
でも、その目に、戦意はなかった。
「ナナさんと戦うつもりはありません。だってナナさんは、宇宙一大切な存在ですから」
「それなら」
「だからこそ私は、ナナさんを戦わせたくないんです。安全でいてほしいんです。それなのに……ナナさんは出しゃばって、私の邪魔をするんですね」
気がつけば、彼女の目からは涙が溢れていた。
サクラちゃんは本当に、私のことが好きなんだろう。
きっと、その気持ちは本物だ。
でも、だからこそ、胸の奥がむず痒くなる一方で、彼女の心を救ったことを覚えていない事実が、じわりと罪悪感として滲み出てくる。
そして、こうも思った。
どうして彼女は、私へ向ける愛情や心遣いを、他の人にも向けてやれないのだろう、と。
ある意味では、シーカよりも分厚い壁かもしれない。
「……ごめんね、サクラちゃん。私、あなたのやり方には、どうしても納得できないの」
ハッキリと、自分の思いを口にした。
生暖かい風が、私たちの間を通り抜けた。
「殺したり、無理やり奪うなんて、そんなのは駄目。例え回り道でも、危険でも、お互いに話し合って、納得して、同意の上で譲渡する。そうすべきだと私は思うんだ」
「…………そんなの、甘い。ナナさんは優しすぎる。その優しさが、いつか自分を傷つけるんですよ。私は、それが耐えられない」
手の甲で、涙を拭うサクラちゃん。
目を伏せて、ゆっくりと深呼吸をしたあと、くるりと背を向けた。
「もう、いいです」
恐ろしいほど低く、冷徹な声だった。さっきまでの涙が嘘のようだった。
「今のところは見逃してあげます。でも、次に会ったときは、容赦しませんから」
彼女は、本気だ。
それが、傘の柄から伝わってきた。アイリの直感は、いつも正しいから。
「そんなの、矛盾してんだろ。アンタはナナが大事なんじゃないのか」
「うるさいっ! そんなこと、わかってる! 部外者が口を挟むな!」
アオちゃんに対する暴言を吐きながら、サクラちゃんはイチコ先生と一緒にこの場を去った。
その足音が、瓦礫を踏みしだきながら、遠ざかっていく。
姿が見えなくなった瞬間、ドッと肩の力が抜ける。
いつの間にか人の形に戻ったアイリにもたれかかりながら、ふう、と一息ついた。
半壊した聖堂の中は、静かだった。
さっきまでの嵐のような緊張が、嘘みたいに消えていた。
崩れた壁の隙間から、白い光が差し込んでいる。
「……悪い、ナナ。オレ、無鉄砲に飛び出しかけた」
アオちゃんが、ぽつりと呟いた。
さっきの激情は、もうどこにもなかった。
代わりに、自分が我を忘れかけたことへの、バツの悪さが、その横顔に滲んでいた。
「ううん。アオちゃんは止まっただけ偉いよ。私なんか、死んじゃうところだった」
「いや。止まったっつーか、止められたんだよ」
すると、アオちゃんは私ではなく、スカイさんの方を向いた。
その目は、きらきらと輝いている。
「アンタ、この俺を片手で軽々と押さえるなんて、やるな。オレ、喧嘩や筋肉ならそこそこ自信あんだぜ? ここに来るときといい、顔色一つ変えずに動き回って……」
「私は、ライラお嬢様にお仕えする身。これくらいは、当然のことです」
当然じゃないと思うけど……まさか、ライラさんの侍女って、全員、スカイさんくらいの超人なのだろうか。
「すげぇよ、かっけぇ! なあ、姐さんって呼んでいいか?」
「え。そ、そのような呼称をされるのは、初めてです」
「よっしゃ! じゃあ、オレが一番弟子だな!」
パシン、と、軽やかにスカイさんの背中を叩くアオちゃん。
スカイさんは珍しく眉をひそめて、自身の周囲をまるで子犬のように歩き回るアオちゃんを、困惑した様子で見つめていた。
その表情が、あまりにも珍しくて、思わず笑いそうになった。
さっきまでの、憎しみに駆られた剣幕は、もうどこにもない。
後に残されたのは、半壊した拠点と、倒れた教徒たちと、立ち尽くす私たちだけだった。
「……ナナ。これで、よかったの? クロハも、マシロも、どこかに行っちゃったよ?」
率直なアイリの問いに、私はしばらく答えられなかった。
サクラちゃんの凶行から、双子を守った。
でも、問題は何一つ解決していない。
あんな暴走している状態で遠くに逃げられるとは思えない。
でも、もし、関係のない人を攻撃してしまったりしたら……逃がした私の責任だ。
今度こそ早急に、サクラちゃんよりも先に、二人を見つけなければ。
いや、その前に、二人が譲渡を承諾してくれる交渉材料を用意して……それから、安全に取り押さえる方法を、スカイさんに頼まないと……。
頭の中で、次々と考えが溢れてくる。
ぶつぶつと独り言を呟きながら、周囲を見渡した、その時だった。
「ん?」
サクラちゃんが来る、ほんの少し前。
豪華なローブを着た女性が慄いていた位置に、キラリと光るものが見えた。
その周囲には、割れた窓の破片や、砕けた調度品の残骸が、床一面に散らばっていた。
でも、それらとは違う質感と形のものがある。
私は急いで駆け寄って、それを拾い上げた。
「……これって……?」
今時珍しい、小さなカードだった。瓦礫にまみれて、半分泥に埋もれていた部分を、そっと拭う。
——診察券だ。
どこかの病院の診察券。
整形外科、と記されている。表には、患者の名前が印字されていた。
峰石ヤク。
確かに、ヤク様と呼ばれていたあの女性と、名前が一致している。
「ナナ様」
ふと、スカイさんが、私から診察券を受け取った。
そして、丁寧に、綺麗な袋に包んでくれた。
「峰石ヤク。彼女は、人戒教の教祖とされている方です」
「えっ……そ、そうなんですか!?」
「はい。あの方の足取りを掴めば、ナナ様の目的に一歩近づけるやもしれません」
その言葉に、はっと思い立った。
スカイさんの言う通りだ。
教祖ということは、クロハとマシロとの間に、何かしらの繋がりがあるはずだ。
それを知ることが、双子を救う糸口になるかもしれない。
胸の中で、小さな希望が灯った。
「とりあえず、ここを離れましょう。いつ崩れてもおかしくありませんから」
「そ、そうですね。でも、信者さんたちがまだ……」
「安心しろ、ナナ。さっきオレが救助要請しといたから!」
アオちゃんは腕を組んで、胸を張った。
迷いのないその表情が、今までより一層頼もしく見えた。
「さすが、アオだね!」
アイリの言葉に、心から同意した。ビニール袋越しに、ぎゅっと診察券を握り締める。
そして、半壊した聖堂を後にした。
辺りはすっかり薄暗かったけれど、空に浮かぶ神様は、相変わらず微笑んでいた。




