第十二話 二度目の、話し合い
やがて、アイリの身体から、光が消失していく。
もうそこにアイリの姿はなく。あるのは、一本の洋傘だった。
手のひらに、温もりが伝わってくる。
確かに、アイリの体温だった。……彼女は今、ここにいる。
足元のコンクリートは、湿気で少し湿っている。
背後の湖から吹いてくる風が、頬を撫でた。
生臭い水の匂いが鼻腔をくすぐる。
私と向かい合っていたアキラさんは、大きく目を見開いて、私たちの姿を見ていた。
「……やっぱり……その子は、異常な存在なんだね」
絞り出すような声と共に、懐から警棒を取り出した。
他にも、網、紐、さすまた……この場にいる全員が、各々道具を手にし始めた。
まるで、狂暴な野生動物を捕まえようとしているみたい。
アイリは、そんな存在じゃない。そんな存在じゃないのに。
「確保! 取り押さえろ!」
号令一下。アキラさんの叫び声で、警察官が一斉に襲いかかってきた。
傘を広げて、前に構える。
最初の一人が腕を伸ばしてきたけれど、傘でいなした。
一人、また一人と、波のようになだれ込んでくる人たちを、ひたすら受け止め続ける。
「背後に回れ!」
「っ!」
私は一人。一方、警察官は十人くらい。
挟まれてしまえば、すぐに捉えられる。焦りが、じわりと滲んでくる。
けれど、逃げるわけにはいかない。
アトラクションのある方へ逃げれば、楽しんでいる観光客の邪魔になる。それは、したくなかった。
ライラさんとスカイさんが、遠くから見ているはずだ。二人が来るまで、凌げばいい。
……それなら。
私は、傘を閉じた。
「な、なんだっ!?」
石突きを、警棒に向かって叩きつける。
金属がぶつかる音がして、警棒は地面を転がっていった。
アイリは、ただの傘じゃない。とっても丈夫で硬い。
神由来の技術を用いた道具でも、強度はこちらの方が勝っているはず。
「はぁっ!」
網を破く。
紐を千切る。
さすまたを破壊する。
人に攻撃できなくても、道具なら、怖くない。血も痛みもない。
誰一人傷つけることなく、動きを封じることができる。
……しかし。
「道具がなくたって、身体で押さえつける!」
いつの間にか後ろに回り込んでいた警察官が、私の身体を羽交い絞めにした。
「捉えたぞッ!」
じりじりと、全員が私たちを囲い込む。
少しずつ、輪が狭まっていく。
アイリのことを警戒して慎重になっているのは、不幸中の幸いだろうか。
——どうする。どうする。どうする。このままじゃ、捕まってしまう。
焦りが、胸の中で膨らんでいった、その時だった。
視界の端に、小さな人影。
小学生くらいの男の子が、一人、じっとこちらを見ていた。目を丸くして、口をぽかんと開けている。
近くにいる家族は、何も気づいていない——そうか!
「アイリ! 変身解除!」
「! うんっ!」
再び、アイリは眩い光に包まれる。
「わぁっ!……お、お母さん、見てー! あの女の子、変身したよー!」
無邪気な一人の声に、警察官たちが一瞬……ほんの一瞬だけ、怯んだ。
私は、その隙を逃さなかった。
体をひねって、腕の中から抜け出す。
羽交い絞めにしていた警察官が、あっと声を上げる。
小学生の男の子は、近くにいたお母さんらしき人を連れて来た。……よし、この調子だ。
「アイリ、もう一回!」
「うんっ!」
光が弾けた。アイリが人間に戻る。
私はアイリの手を取って、くるりと一回転させた。
アイリが、きゃっと声を上げた。そのまま、もう一度、鎖骨の痣に触れる。
また光が弾けて、傘に戻る。
私は傘を高く掲げて、バトンみたいに回す。
まるで、ダンスをしているみたい。
舞台も、音楽も、何もない。
でも、湖畔のライトアップが、私たちを照らしていた。
「……え、なにあれ。スゴッ!」
「どうなってるの?」
女性の声が、驚きに揺れる。
幸せの鐘を鳴らすために並んでいた人たちが、次々にこちらに向かってきた。
子供の声が、また上がった。
その声に引き寄せられるように、また一人、また一人と、足を止めていく。
気づけば、いつの間にか、十人ほどが、こちらを見ていた。
こめかみに手を当てて、視覚情報を記録し始めている人もいる。
「っ……さ、撮影はやめてください! 撮らないで!」
とある若い警察官が、叫び声を上げる。
それでも、観客たちはこめかみに手を当て続けていた。
見られている。記録されている。その心理が、警察官たちの足を、竦ませていた。
……でも、それは私も同じことで。
『ナナ、だいじょうぶ?』
「…………」
ステップがもつれる。
徐々に、息が上がってくる。
傘を持つ手に、じわりと、汗が滲んだ。
疲れたわけじゃない。
ストレスが、私の身体を侵食しているのだ。
……昔から、目立つのは苦手だ。
チップがないせいで、病気のせいで、散々、浮いてきた。
だから、なるべく端っこで、声を上げずに、穏便に過ごしてきた。
それなのに、今、こんなに大勢の視線が、一度に自分に向いている。
姉妹校間合同授業のときとは違って、私とアイリに注目が集まっている。
普段なら、考えただけで胃が痛くなる。背筋が凍って、体温が下がっていく。
でも。
でも、今は——今だけは、目立たなきゃいけない。
「アイリ、もう一回!」
「わかった!」
アイリが、嬉しそうに答えた。この状況を、心から楽しんでいるらしかった。
光が弾けるたびに、人が集まってくる。
最初は親子一組だったのに、気が付けば、警察官と同じくらいの人だかりが、円を描くように、私たちの周りに集まっていた。
「……やめだ」
歓声や拍手に混じって、ふと、諦めに近い声が聞こえてきた。
誰の声かはわからなかった。
でも、その一言が何かの引き金になったようで。張り詰めていた空気が、ぷつりと切れた気がした。
途端に警察官たちの輪が乱れた。
溜め息や地団駄まで聞こえてくる。彼らの視線はもはや私ではなく、地面を向いていた。
「……最悪だ。顔が割れた。両親になんて説明すれば……」
「これが正式な任務だったら、道具も保護マスクも用意できたのに」
「もともと無茶な話だったんだよ。出世はもういいから、帰りたい……」
ぼそぼそとした声が、あちこちから漏れてくる。
中には、アキラさんを侮辱する言葉もあった。
みるみるうちに十人近くの包囲が崩れていった。
観客たちのきょとんとした顔を横切って、人だかりの外へと消えていく。
歓声も、ざわめきに変わってしまった。
残ったのは、アキラさんだけだった。
観客たちの視線も、部下たちが去っていく足音も、アキラさんには届いていないようだった。
ただまっすぐに、私たちを見据えている。躊躇いのない、冷徹な眼差しだった。
「……何もかも覚悟の上なの」
アキラさんが、静かに言った。
「アイリさんを確保する。その為なら、なんだってやる」
一歩ずつ踏みしめるように、こちらへ近づいてくる。
私は、アイリの鎖骨の痣に触れた。
光が弾けて、傘が手の中に戻ってくる。広げて、前に構えた。
「……どうして、そこまで」
思わず、言葉が漏れる。アキラさんの答えは、とても淡々としていた。
「言ったでしょう。その子は、危険なのよ」
「ア、アイリは、危険なんかじゃ」
「じゃあ、今すぐ説明してくれない? その子が何者なのか。どこから来て、どういう家族構成で、どういう幼少期を過ごして、どうして傘になることができるのか」
「それは……」
返す言葉が、なかった。
私はアイリのことを、本当は、何も知らない。
どこから来たのかも。あの胸の模様が何なのかも。
ずっと一緒にいるのに。毎日隣にいるのに。それでも、何も、知らない。
──でも。
「アイリは、明るくて優しい子です」
『ナナ……』
「子供っぽいけど、たまに大人っぽいところもあって。勉強はできるし、文字も読めます。手を握られるのと、抱き締められるのが好きな、女の子ですよ」
アキラさんは、しばらく黙っていた。
「…………そんなの」
やがて、静かに言った。
「説明になってないよ」
その言葉は正しい。でも、私が知っているアイリはそれだけだ。それだけしか、知らない。
「……ごめんね。容赦、できないかもしれないよ」
アキラさんが、腕を振り上げた。
地面に落ちていた警棒を、いつの間にか拾っていたらしかった。
光を反射して、きらりと光る。
——来る。
私は、傘を前に突き出した。
警棒が、傘の骨に激しくぶつかる。
衝撃が腕に伝わった。痺れるような痛さだった。
でも、アイリが受け止めてくれたおかげで、吹き飛ばされずに済んだ。
一回、二回、三回。アキラさんの攻撃は続く。そのたびに、広げた傘で受け止めた。
……防ぐだけなら、できる。でも、このままじゃ、じり貧だということも、わかっていた。
反撃しなきゃ──そう思っても、足が震えて、動かなかった。
目の前にいるのは、シーカのお母さんだ。
今は脅威の存在でも、決して悪い人じゃない。
そんな人を、傘で叩きつける。殴りつける。それが、本当に正しいことなのだろうか。
すぐそこにいるはずのギャラリーの歓声が、遠く聞こえる。
アイリを守りたい。この場を切り抜けなきゃいけない。でも、攻撃はしたくない。
そんな複数の気持ちが心を覆って、身体が言うことを聞かなかった。
……刹那。
『ナナ』
「……アイリ?」
傘の中から、声が聞こえた。
『きゅうしょ。できるよ』
その言葉が、頭の中で、何かを解いた。
……そうだ。何で、忘れていたんだろう。
昨日の、スカイさんとの特訓が、頭の中に蘇った。
「いいですか、ナナさん。あなたは、血や傷を見ることが苦手ですね」
「……はい」
「そんなナナさんでも、戦える方法があるんです。道具を身体に強く当てるという行為は、することになってしまいますが……」
そう言って、スカイさんは一日中、つきっきりで教えてくれた。
首の横。脇の下。膝の裏。
人間の弱点を、一つひとつ、丁寧に。
「ごめんなさい」
私は、静かに傘を閉じる。誰にともなく、小さく呟いたあと、大きく踏み込んだ。
「っ!?」
石突きを、膝から足首にかかる部分に、強く当てた。
アキラさんの顔が、苦痛に歪む。バランスが崩れた……けど。
「……まだまだ、甘いね」
少し怯んだだけで、すぐ立て直す。
相手は、訓練を受けた警察官だ。そううまくはいかない。
それに、いざ目の前に人が立つと、やはり、身体が強張ってしまう。
急所を狙えても、最後の一押しが、どうしても鈍くなる。
その隙に、体をずらされる。何度も、傘の先端が空を切った。
……急所の場所は、頭ではわかっている。
でも、実際にやってみると、そう簡単にはいかない。
やっぱり、一朝一夕で身につくものじゃないんだ。じわりと、背中に焦りが滲んでくる。
「……やぁっ!」
それでも、傘の石突きを、アキラさんの脇の下目掛けて、突き込もうとする。
しかし、行動を読まれていた。
私が動いた先に、警棒が迫ってくる。すかさず足を止めて、後ろへ飛んだ。
一瞬、距離が開いた。お互い、息を整えながら、向かい合う。
アキラさんの息は、少しだけ上がっていた。
でも、その目は、まだ揺れていなかった。
疲れているのに、止まらない。止まれない。そういう目だった。
私の方が、先に限界が来るかもしれない。
腕が重い。足を止めた瞬間、溢れるように汗が流れ落ちてきた。傘を持つ手が、滑りそうになる。
「そろそろ、終わりにしようよ」
静かな声だった。
諦めているわけじゃない。むしろ、覚悟が、その声に滲んでいた。
アキラさんが、また踏み込んできた。
何の小細工もなしに、警棒を、真っ直ぐに振り下ろしてくる。
咄嗟に傘で受けた。衝撃が、両腕に伝わる。
今までの攻撃と比べても、遥かに重い一撃だった。覚悟を決めた人間の想いは、こんなにも重いのか。
「あっ……!」
途端に足がもつれた。体勢が崩れる。立て直そうとしても、間に合わない。
「っ——!」
そのまま、地面に押し倒された。アキラさんは、黙って手を伸ばした。
その先には、アイリではなく、私の首にかかった。
冷たい手だった。指に、じわりと、力が入る。
息が詰まりそうになる。追い詰められた人間の、剥き出しの感情が、その手にこもっていた。
彼女の手に、さらに力が込められる。
——そのとき。
風切り音がした。
そう認識したときには、アキラさんの身体が、宙に浮いていた。
『スカイ!?』
アイリの叫び声で、ようやく気づく。
いつの間に来ていたのか。
そこには、メイド服を翻したスカイさんが、音もなく、気配もなく、現れていた。
「それ以上は、見過ごせません」
スカイさんはアキラさんの腕を片手で掴んで、まるで荷物でも扱うように、軽々と持ち上げた。
いつも通りの、無表情。でも、その目は、アキラさんを静かに見下ろしていた。
「ちょ、ちょっと! 何すん……うわぁああっ!?」
そして、そのまま——湖へ、投げ込んだ。
大きな水しぶきが上がった。
観客からは、どよめきと驚きと興奮が入り混じった声が聞こえてくる。
「皆様。本日のゲリラショーはこれにてお開きでございます。ご観覧、ありがとうございました」
スカイさんがスカートを摘まんで、全員に向けて何かラッピング袋のようなものを配布し始めた。
誰も、もう、私やアキラさんのことを見ていなかった。
その光景を横目に、私は、困惑のまま、湖を見た。
「ゲホッ……ゲホッ……」
深さがあるのか、アキラさんはもがいていた。水面が揺れている。
ライトアップされた湖が、ゆらゆらと、乱れていた。
「ア、アキラさんっ!」
その姿を見た瞬間、気がついたら、走っていた。
考えるより先に、体が動いていた。靴のまま、傘のアイリと一緒に、湖に飛び込んだ。
冷たい水が、全身を包んだ。
息が詰まる。視界が暗くなる。でも、アキラさんの腕が見えた。
筋肉質なそれを掴んで、岸まで引っ張り上げる。
いつの間にか人間の姿に戻っていたアイリも、もう片方の腕を掴んでくれた。
ずぶ濡れのまま、地面に膝をついた。
鼻の奥に水が入って、ツーンと頭が痛かった。しばらく、まともに動くことができなかった。
周囲は、静かだった。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、静まり返っている。
観客も、スカイさんも、忽然といなくなっていた。
残っているのは、私とアイリと、アキラさんだけだった。
まるで、この世界に、三人しかいないみたいだった。
「…………」
アキラさんはずぶ濡れのまま、地面に座って、膝を抱えていた。口を一文字に結んでいる。
夜になれば、神様の顔は見えなくなる。
星も月も見えない、真っ暗な空だった。
湖面だけが、ライトアップの光を受けて、静かに揺れていた。
「……っ、なぜ」
震える声が、耳に伝わった。
怒りか、困惑か。それとも、寒くて震えているだけか。
どれとも判別し難い、複雑な響きだった。
「……何故、そこまで。素性も知れない、得体の知れない子のために……自分の人生を、棒に振るような真似ができるの?」
「……それは、こっちの台詞ですよ」
自分でも驚くくらい、はっきりとした声だった。
震えも揺らぎもなく、アイリの手を握る。
「アイリは、得体が知れない子なんかじゃないです。大事な友達です。それだけで、十分なんです」
アキラさんは、力強く唇を噛んだ。
口を開きかけては閉じ、また開きかけた。
「……友達、ね」
ややあって、そんな小さな呟きが放たれた。
それが最後の防波堤だったのか。堰を切ったように、言葉が漏れ出してきた。
「友達。あなた、シーカにもそう言って、関係を築いていたのよね?」
「え?」
突然、シーカの名前が出て、戸惑いが顔に出た。
どうして今、彼女の話が……?
「南雲ナナさん。あなたは、あの子のこと、どれだけ知っているの?」
アキラさんの目に、暗い影が差した。嫌な予感が、全身の肌に纏わりついた。
「あの子の本当の姿も知らないで。のうのうと、友達面をしていたんでしょう」
「ほ、本当のこと……?」
「……知らなかったのね。やっぱり」
アキラさんの笑顔は、乾いていた。
哀れむような目で、私を見つめる。
「教えてあげるよ。……あの子は……シーカは、本当は」
これは、シーカ自身の口から聞くべきことだ。
彼女の口から聞いてはいけない。直感が、そう告げていた。けれど。
「男の子なのよ」
「やめて」と叫ぶよりも前に。
アキラさんの言葉は、無情に、その場に落とされた。
「女の子だと思っていたでしょう。中学生まではそう育てていたから、勘違いしていても仕方ないけどね」
「…………」
「これでわかったでしょう? あなたが友達だと思っていたあの子は、あなたが思っているような子じゃないの」
ゆっくりと、アキラさんの言葉が、じわじわと染み込んでいく。
シーカは、女の子じゃない。男の子。女の子として、育てられた……。
「よ……」
声が漏れる。アキラさんは、眉をひそめた。
「よかったぁ~……!」
私の口から出たのは、心からの安堵だった。
「え?」
アキラさんは、ぽかんと口を開けていた。
拍子抜けしたような、信じられないものを見るような、そんな顔だった。
「……よかったって、何が」
「……えっと……」
私は、少し考えた。
うまく説明できるかわからない。そもそも、言っていいのかもわからない。
でも、言わずにはいられなかった。
「この前、シーカが言ってたんです。自分のことを知ったら、皆、離れていく……って」
アキラさんの眉が、微かに動いた。
「え……あの子が、そんなことを……?」
「はい。……だからてっきり、極悪非道な犯罪でもしてしまっているのかと、ずっと、心のどこかで、怖かったんです。でも、そうじゃなくて。本当によかった」
そう言って、アイリと顔を見合わせた。
アイリも、ほっとしたように、微笑んでいた。
胸の奥が、じわりと、ほどけていくような感覚があった。
シーカのことが、ずっと、心の隅に引っかかっていた。
あの分厚い壁の向こうに、何があるのかと。
想像するたびに、胸が痛かった。でも、全くの杞憂だった。
壁の向こうにあったのは、誰かを傷つけるようなことでも、誰かを不幸にするようなことでもなかった。
その事実が、ゆっくりと、全身に広がっていく。
「……いや、そうじゃなくて」
アキラさんの声が、困惑に揺れた。
私は、その反応に首を傾げる。
「あなた、なんとも思わないの? あの子が、その……」
「えっ? 何がですか?」
本当に、わからなかった。何を思うことがあるのだろうか。
シーカはシーカだ。それ以上でも、それ以下でもない。
「……それよりも、私、怒ってるんです」
「……怒ってる?」
胸の底から溢れてくる、妙なもどかしさ。その正体は、すぐにわかった。
「できるなら、シーカの口から直接聞きたかった。あの子が自分から話してくれる日を、ずっと、待っていたかった。なのに……どうして、アキラさんが勝手に言うんですか。本人の許しもなく。本人がいないところで」
身体が熱くなるのを感じる。
レノちゃん以外のことを信用せず、壁を作るシーカ。
あの子はきっと、ずっと、誰かに勝手に決めつけられて、勝手に扱われて、勝手にレッテルを貼られてきたんだ。
それが、どれだけしんどかったか。
「っ……私は、母親よ。あの子のために」
「ためって言えば、何をしてもいいんですか」
「…………」
「男の子でも、女の子でも、私には関係ありません。私の知ってるシーカは、クールで……少し口は悪いけど、レノちゃんを大切に思っていて、困ってる私やアイリに、忠告や協力をしてくれる——そういう子です」
私は、アキラさんを、まっすぐに睨んだ。
さっきまでの、追われる恐怖も、ずぶ濡れの冷たさも、全部、どこかへ吹き飛んでいた。
「アキラさん。あなたは、人の本質をちっとも見ていない。性別が違う。素性が知れない。だから、危険だって。中身も知らずに、表面上のことだけで決めつける。シーカのことも、アイリのことも……その子自身のことを、一度でも、ちゃんと見たことがありますか」
「……っ」
アキラさんの顔が、見る間に青ざめていく。口は、固く閉ざされたままだった。
「人を、そんなふうにしか見られないあなたに……シーカのことも、アイリのことも、とやかく言う資格なんてありません」
そう言い切った瞬間。ぐらり、と。アキラさんが、倒れ込んだ。
「ち、違う……私は、ただ……」
目が泳いでいる。さっきまでの、警官としての冷たい威厳は、もう、跡形もなかった。
残っていたのは、自分のしてきたことを突きつけられて、立っていられなくなった——ただの、一人の、母親の姿だった。
「……遊園地でのトラブルは起きませんでした。これで、アイリには執着しない約束でしたよね」
私は、改めて問い掛ける。すると、アキラさんは小さく頷いた。
「……そう、だね。そういう約束だった……ここでの機械の故障は、私の怪我は、ノーカンだ」
湖面が静かに揺れていた。
遊園地の方からは、閉演の音楽が遠くから聞こえている。
夜の空気が、肌に冷たかった。
……どのくらい、そうしていただろうか。ふと、アキラさんがこめかみに手を当てた。
『ちょっと、仲氏さん!? 一体、どこにいるんですか!? 無断で、部下を十人も連れて……今すぐ、署に戻りなさい!』
どうやら、誰かから着信があったらしかった。
相手の怒声が、漏れ聞こえてくる。上司だろうか。
「……わかりました。すぐに」
強張った表情のアキラさんは、短く答えると、静かに手を下ろした。
しばらく、虚空を見つめていた。それから、深く、息を吐いた。
肩から、力が抜けていくのがわかった。
ゆっくりと、立ち上がる。
私とアイリを一瞥して、何かを言おうとして、やめた。
その胸に何が浮かんでいるのか、私には、読み取れなかった。
何も言わずに、踵を返して、歩き始めた。小さな背中が、光の中に、消えていった。
『ねぇ、ナナ。……あのひと、どうなっちゃうの』
アイリが、寂しげな顔をして、私の手をそっと握った。
二人とも、ずぶ濡れのままだった。身体がまだ冷たい。でも、アイリの体温は、温かかった。
「……どうなるんだろうね。本人も覚悟してたみたいだけど、停職か……謹慎処分かな」
「おしごと、できない?」
「うん……たぶん。しばらくは」
アイリは、しばらく口を閉ざした。彼女の綺麗な横顔は、どこか寂しそうだった。
声をかけえやるべきか。思案していると、コツコツと、上品な靴の音が聞こえてきた。
「ご足労かけましたわね、ナナ」
振り返るとそこには、ライラさんとスカイさんがいた。
訝しげに彼女たちを見ていると、スカイさんが大きなタオルを広げたまま、ずんずんとこちらへ向かってくる。
「どうぞ」
そう言われて受け取った瞬間、急激に肩の力が抜けた。
柔らかい。とんでもなく、柔らかい。
こんな肌触りのタオル、今まで触ったことがない。もしかして、相当高級なやつなんじゃ……。
気に入ったのか、アイリは頬に当てて、うっとりと顔を綻ばせている。気持ちはわかる。
「ナナ」
堪能していると、ライラさんが私の眼前に立った。
いつもの高慢な雰囲気はなく、ただひたすらに、申し訳なさそうに眉を顰めている。
「試すようなことをして、ごめんなさい」
そして、深々と頭を下げた。スカイさんも、静かに、同じタイミングで頭を下げる。
「……試す?」
疲労もあって、理解が追いつかないけど……まずは、事情を聞かなきゃ。
ライラさんは顔を上げる。透き通ったマリンブルーの瞳に、私とアイリの姿があった。
「今回の取引は、アイリの素性を探る一環でもありました。奇しくも、その点で言えば警察の方々とは目的は同じでしたから」
それは、薄々感じていた。舞台を、DEMsの息が掛かっている遊園地に選んだ時点で……。
「ですがその他に、もう一つ。別の目的があったのです」
「別の目的、ですか?」
「ええ。それは、ナナさん。貴女が戦えるのかどうか、です」
チクリと、胸に棘が刺さったような気持ちになる。私は、そのまま続きの言葉を待った。
「白波スナミが襲われた件を受けて、貴女は、瀬戸海アオと協力して、自分が権限を集めたい──そう、仰っていましたわよね」
黙ってコクリと頷く。
アオちゃんと話したあとに、すぐに共有したことだ。
確かあのときは、肯定も否定もされていなかった。
「その志は大変立派です。が、現実問題、貴女は人間を攻撃することに抵抗があった」
「あ……それ、スカイさんにも言われました。でも私、表立ってそう言った覚えはないんですけど……」
「ふふ。人戒教の祭典での顛末を見聞きしていれば、そのくらいわかりますわ」
ニコリと微笑まれて、顔が赤くなる。私って、そんなにわかりやすいのかな。
「つまり、私が人を攻撃するという行為をできるのかどうか、黙って見てたってことですか?」
そんなつもりはなかったのに、つい、強い言い回しになってしまった。
内心反省しつつも、訂正はしない。
だって、二人がアイリを危険に晒したことは事実だから。
「ええ。結果として、怖い思いをさせることになりました。本当に申し訳ございません」
心の底からの、謝罪。
正直、怒りはある。……けど、納得もしていた。
確かに、言葉だけじゃわからない。
私自身、頭の隅では、戦わなければいけないときも来ると理解していた。
その時、私はどうするのか。
自分でもわからなかったけど、それが今回、浮き彫りになった。
それに、本当にピンチのときは、スカイさんが飛んで来てくれたのもわかっている。
だから……この件を引き伸ばす必要は、ない。
「……もう、こういうことはしないでください」
私は、頭を下げているライラさんとスカイさんを見やる。
そして、アイリの手を強く握った。
「私はともかく、アイリに怖い思いはさせたくないです。なので次は、ちゃんと話してくれると嬉しいです」
ほんの少しだけ、オブラートに包んだ言葉。でも、本心だ。
ライラさんは顔を上げて、金色の髪を整える。「約束しますわ」という返事に、嘘はなかった。
「……ん? ということは、スカイさんとの訓練って、意図的なことだったんですか?」
「はい。あのときはアイリ様が先に訓練をしたいと言いましたが、本来であれば、こちらから提案するつもりでした」
「何も教えないでライオンの群れに放つほど、外道ではありませんことよ」
オホホ、とライラさんは口元を隠して笑う。
スカイさんはその様子を見て、眉間に皺を寄せる。
「笑っている場合ではありませんよ、お嬢様。もう一つ、言うべきことがあるでしょう」
「え。まだ、あるの?」
呆れているのか、疲れているのか。アイリは溜め息混じりに呟く。
スカイさんは私たちに向き直ると、いつもの無表情で「ご容赦ください」と一言述べた。
「実は、ナナ様が戦えるのかどうか、という話は、シーカ様も関与しているんです」
「え……?」
また、急にシーカの名前が出てきた。
戸惑いながらも、耳を傾ける。
「アイリの指名手配があったとき、シーカから真っ先に連絡が来たんですの。それで、彼女はこう言いましたわ」
コホン、と咳払いをする。そして、普段よりもハスキーな声で、こう告げた。
「ナナとアイリが誰かに狙われてるなら、助けてやってほしい。でも、もしそれで戦うことになったら、私とレノも立ち会わせてほしい」
「……そ、それって、シーカとレノちゃんが、さっきまでここにいたってことですか!?」
ライラさんとスカイさんは、ゆっくりと首を縦に振る。
……じゃあ、アキラさんから秘密を聞いたところも、アキラさんに叱責してしまったところも、全部……。
足に力が入らなくなり、その場にしゃがみ込む。
シーカが今何を思っているのかはわからない。
けど、彼女の心情を想像するだけで、悲しいような虚しいような気持ちになってしまう。
シーカの許可なく、壁を抉じ開けてしまったのだ。しかも、本人の目の前で。
不可抗力だったとはいえ、あってはならないことを、私はしてしまったのだ。
「……近いうちに、話し合いたいと仰っていましたわ。……私が言えることは、このくらいです」
「後はお二人で話し合いなさい」と言いながら、ライラさんは私の肩に優しく触れた。
小さいけど、頼もしい手のひらだった。
「さあ、帰りましょう。責任を持って、貴女方を送り届けますわ」
呆然としている私を、スカイさんは軽々と抱きかかえる。
片方の腕には、アイリが同じ姿勢でぶら下がっている。
スタッフさんが手を振る中、遊園地の出口へ向かって、ライラさんとスカイさんは歩き始める。
夜の遊園地は、昼とは違う顔をしていた。
ホログラムの光が、暗がりの中で、昼よりも鮮やかに輝いていた。
閉演の音楽が、静かに流れている。
それをBGMにして、疲れた顔の家族やカップルは、「楽しかったね」と幸せそうに話していた。
私は首をひねって、さっきまでいた薄暗い湖を見やる。
あんなにぐちゃぐちゃなことが起きていた場所が、今はただ静かに、湖に光を映していた。
今日一日のことが、頭の中を流れていく。
コーヒーカップで笑ったこと。一緒にクレープを食べたこと。観覧車で寄り添ったこと。
そして……湖畔での、あの戦い。
アキラさんと戦って、シーカのことも知った。
そして、それをシーカに……見られていた。
シーカは、私に何の話をするつもりなんだろう。
頭の中がモヤモヤして、視界がぐるぐるしてくる。意識も朦朧としてきて……。
「ナナ」
暗い視界の中で、アイリの声が聞こえてくる。
柔和な声色が、じわりと私の心に染み込んだ。布団の中みたいに心地良かった。
「たのしかったね。また、いこうね」
「……うん。そうだね、アイリ」
遊園地の出口が、近づいてくる音がする。
ゲートの向こうには、きっと、夜の街と海が広がっているのだろう。
靄のかかった空の下で、とてもとても長かった一日が、終わっていく。
深いまどろみの中で、私は思う。きっと、今日の出来事は、一生忘れることはないのだろうと。




