第十一話 話し合い
「……で。話って、何」
シーカの低い声が、静かな室内に響く。
一方で、レノちゃんを撫でている手は優しく、そのギャップが余計に恐ろしく感じた。
私とアイリは今、シーカの家を訪れている。
仲氏家は相変わらず物が少なく、清潔だった。
レノちゃんはプゥプゥを寝息を立てて、幸せそうに寝ている。
黒革のソファに座るよう促されたものの、机の上にはお茶もお茶菓子もない。
……いや。それを目当てにして来たわけじゃないし、それでいいんだけど……心の壁の分厚さを感じられて、ちょっぴり悲しかった。
「あのね、シーカ。お願いがあるの」
私は姿勢を正して、シーカを真っ直ぐ見据える。
一瞬、彼女は目を見開いた。
「レノちゃんの、遺片の権限。それを、アイリに譲ってほしい」
レノちゃんを撫でていたシーカの手が、ピタリと止まった。
重苦しい空気で、息が詰まりそうになる。
権限を集めるなら、まず味方から。
シーカとレノちゃんが双子に奪われるよりも前に、動いておきたかった。
それに、ミホ先輩の見解によれば、権限を得ると、道具の変身先も増えていく。
アイリが斧にも変身できたなら、クロハとマシロに襲われても、多少はしのげるんじゃないかと踏んでいた。
空気は澱みきったまま、ゆっくりと、シーカが口を開いた。
「何で私なの。仲良く同盟組んでる、発田サクラに頼めばいいじゃん」
「……それは、そうなんだけど。でも、私はサクラちゃんよりも、シーカを信用しているから」
正直、不気味で得体の知れないサクラちゃんに頼むのは、最後にしたかった。
彼女は攻撃的だし、私以外のことになると容赦がない。
自分以外の人を守りたい私にとっては、ある意味、最悪の相手なのだ。
シーカはどうでもよさそうに溜め息を吐くと、そのまま口を閉じてしまった。
この沈黙の意味は、私にもわかっていた。嫌なことを言っている自覚もある。だって……。
「……権限を渡せば、レノちゃんは、しばらく眠ることになる……でも、必ず目覚めさせるから。全部終わったら、ちゃんと元の元気な姿に戻すって約束する。だから」
「その自覚があるなら、わかるでしょ」
返ってきたのは、考える間もない即答だった。
シーカの目に、迷いはない。
「目覚める保証も確証もないのに、任せられるわけがない。アンタへの恨みと後悔を抱えたまま生き続けるのも、嫌」
「…………」
正論だ。何も言い返すことができない。
容赦のない言葉だけど、そこには、嘘も悪意もない。
ただ、ありのままの事実を、シーカは突きつけている。だからこそ、耳が痛かった。
「それに……願いが叶うって言葉。あれが、ずっと引っかかってる」
「えっ……それって、どういう……」
「……私が死ぬまで、レノには元気で長生きしてほしいの。一日でも長く、一緒にいたい」
レノちゃん以外には見せない、慈愛で満ちた眼差し。
それに応じるかのようにレノちゃんは瞼を開け、ゆっくりとしっぽを振った。
「だから、むしろ逆。アイリの権限をレノに寄越して。私が、権限を全部集める。私が、願いを叶える」
突きつけられた言葉に、私は息を呑んだ。
それぞれが、譲れないものを抱えている。
シーカの瞳に宿る強さは、私の決意と、まっすぐにぶつかり合うものだった。
「シーカ、私は」
何か言わなきゃ。そう思うのに、言葉が出てこない。
膝の上のレノが、不穏な空気を察したのか、心配そうに、シーカと私を見比べていた。
シーカは他人を信用していない。
……サクラちゃんとの同盟のことをすぐ言わなかったとか、そういうのが積み重なったのもあるだろうけど……でもそれは、根本的な部分じゃない。
「シーカは、どうして、人を信用していないの?」
気がつけば、口から漏れていた。
シーカは一瞬だけ目を見開いて、呆れたように肩をすくめる。
「……嘘を吐くから。それに……私のことを知ると、皆、離れていくし」
「え……?」
「話は終わり。帰って」
冷たい怒りを内包した態度に、私は怯んだ。
触れてしまえば、凍りついてしまいそうで。
けど、何でだろう。
彼女の感情は私やアイリではなく、自分自身に向けられているような気がした。
「……うん、わかったよ。今日は帰るね。でも、私、諦めないから」
「アイリね……シーカのことも、レノのことも、だいすきだよ」
「…………」
何を思ったのか、アイリは心配そうな顔で言葉をかける。
レノちゃんに頬を寄せるシーカは、もう、こちらを見なかった。
これ以上何を言っても、平行線のままだ。
まずはシーカに私のことを受け入れてもらわないといけない。
「行こっか」
私はアイリの手を引いて、その部屋を後にする。
胸の奥に、重たいしこりを残したまま。
清潔な玄関で靴を履いていると、背後で、がちゃりと、ドアの開く音がした。
「ただいま……あれ?」
振り返るとそこには、警察官の制服を纏った女性が立っていた。
シーカと、どこか似た目元。もしかして、お母さんかな。
突然の来客に、不思議そうな顔をしている。
「お、お邪魔してました。私、南雲ナナです。シーカと、レノちゃんの友達で……」
「友達?」
穏やかだった顔が、一瞬にして引き攣る。
無言のまま、しばらく見つめ合う時間が発生した。
「え、ええと」
「……ああ、ごめんなさいね」
シーカのお母さんはニコリと微笑む。シーカとは違って、表情は豊かなようだ。
「それじゃあ、そっちの子も友達……」
彼女の視線が、私の隣に立っていた、アイリへと向けられた──その瞬間。
ほんの一瞬。空気が強張った気がした。
「……じ、じゃあ、私たち、これで失礼します。お邪魔しました!」
「あっ……ち、ちょっと……!」
私たちは逃げるように、仲氏家を後にする。
シーカのお母さんは追って来てはいなかった。
安堵はしていられない。……まさか、シーカのお母さんが警察官だったなんて。
普段なら頼もしく思うところだけど、アイリの存在と職務質問の件で、どうしても警戒してしまう。
それに……直感が冴えているアイリじゃなくても、さすがにわかった。
あの場の空気は、あの人の態度は、とても嫌な予感がした。
でも、これで大丈夫だ。今後シーカに会うときに、家じゃないところで会えば、それで。
今思えば、このときの私は、楽観的に考えすぎていたように思う。
だってこの後、アイリが指名手配されることになるなんて、想像すらしていなかったのだから。
+++
アイリが異変に気づいたのは、数日後の登校中のことだった。
「ねぇ、ナナ。みんな、見てるよ」
「えっ?」
いつもの通学路。
すれ違う人たちが皆、こめかみに指を当てては、チラチラとこちらを……いや、アイリを見ていた。
一人や二人じゃない。
子供もお年寄りも、皆が一様に目を見開いて、足早に去っていく。
アイリは落ち着かない様子で、私の袖を握る。
そして私の胸には、あのときと同じ──シーカのお母さんと会ったときと同じ、違和感が生まれ始めていた。
「あっ、いた……ナナちゃんっ!」
突然の大声に、心臓が跳ねる。
振り返るとそこには、血相を変えたサイセちゃんの姿があった。
「サ、サイセちゃん。どうしたの?……今日は一緒に行けない日だったよね……?」
私は自然と、アイリの前に立つ。
サイセちゃんは息を切らして、膝に手をついた。
「大丈夫。妹の世話は弟に任せて来たから……って、そんなことより、大変なの!」
慣れた手つきでチップを起動し、ホログラムを映し出す。
それを見て、私は、血の気が引いた。
一面に、大きなアイリの顔写真。
室内で撮られたような、けれど鮮明な画像。
その下には、毒々しい赤い文字が躍っていた。
『重要参考人。発見次第、通報を』
「な……っ、何で、アイリが」
「私が聞きたいよ。どうしてアイリちゃんが指名手配されてるの……?」
サイセちゃんの視線を受けて、アイリは落ち着かない様子で私の袖を握った。
「アイリちゃんがこんな目に遭うような子じゃないってわかってるけど……何か事情があるなら……いや、あってもなくても、一度、警察に行った方がいいんじゃないかな……」
「…………」
よく見ると、サイセちゃんは酷く怯えていた。
言葉とは裏腹に、半信半疑なのだろう。
無理もない。
彼女とアイリは、時たま一緒に登下校していたくらいの関係性しかないのだから。
それでも、気にかけてくれたことは間違いなく嬉しかったし、ありがたかった。
ただ……どうしよう。このまま学校に行くわけにはいかないし、家に帰るわけにもいかない。
「ナナ様、アイリ様」
「きゃっ!?」
どこからともなく、スカイさんの声がした。
辺りを見渡すと、そこには、路地裏からひょっこり顔を出す、不審なメイドがそこにいた。
「指名手配の情報を受けて参上致しました。安否を確保するため、今すぐ、お嬢様の元へ連行致します」
「れ、連行って……」
本当に指名手配犯みたいな扱いだ……でも、よかった。二人が近くにいてくれるなら、頼もしい。
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、スカイさんは懐から、プラスチック製のお面を取り出した。
「夏祭りも近いですし、それほど不審ではないかと。目的地へ辿り着くまで、我慢していただきます」
「それはいいですけど……夏祭りにはまだ、一カ月くらい早いですよ?」
「……おや。私の地元ではこの時期に……っと、失礼。雑談の暇はありませんね」
そう言うと、スカイさんは筋肉質な腕で、私とアイリを抱えた。
毎度のことながら、彼女の怪力には驚かされる。
もしかして、腹筋バキバキなのだろうか。
というか、お面じゃなくてこの体勢の方が不審に思われそうな気が……。
「手荒な真似をして申し訳ございません。いつもの喫茶店まで向かいます」
「あっ、ちょっと待ってください!」
踵を返そうとしたスカイさんを引き留めて、私はサイセちゃんの顔を見る。
「……ごめん、サイセちゃん。先生に、私とアイリが欠席すること伝えてくれる?」
「えっ……う、うん。わかった、けど……」
「だいじょうぶ。アイリも、ナナも、こわくないよ」
「……うん」
サイセちゃんは戸惑いながらも、力強く頷いてくれた。
……そのこわくないは、果たしてどっちの意味なのだろうか。
わからないまま、スカイさんは何も言わずに、私たちを連れ去ったのだった。
幸いなことに、私にはチップがないから、警察に現在地を特定されるようなことはない。
アイリは……わからないけど、指名手配なんていうやり方を取るってことは、正確な居場所を特定できていないに違いない。
加えて、私には地の利がある。
電波や信号や、人の往来が少ない(とされている)道や土地は、大体、頭に入っていた。
おかげで、私はスカイさんに安全な道を教えるナビゲーターとして、活躍することができた。
「まさか、両親から教わったことが、こんなところで救いになるなんて、思いませんでした」
私がそう言うと、スカイさんは珍しく笑った。
「ふふふ。そういうものですよ。私のこの異常な力も、格闘家の両親に無理やり叩き込まれたものなんです」
意外なルーツを知れて、嬉しかった……いや、両親が格闘家だからって、ここまで怪力になるものなのかな……余計に謎が深まっただけのような気もする。
けれど、使う機会がなさそうなことでも、ちゃんと頭に入れておくべきだということを、改めて実感した。
と、まあ、そんなこんなで。
いつもライラさんとお話する喫茶店に辿り着いた。DEMs管轄の、特別なお店だ。
カラカラという音と共に扉が開き、その先には、いつもと変わらない、アンティーク調のおしゃれな内装が広がっていた。そして……。
「ナナ、アイリ。よくぞご無事で」
出入口近くのテーブル席に、ライラさんは座っていた。
紅茶が入っていたであろうカップはすっかり空で、その横に、お冷が置かれていた。
「ラ、ライラ。アイリ、どうすればいいの。どうして、みんな、アイリをみるの」
アイリは、言動は子供っぽいけど、精神状態はとても落ち着いている。
私が取り乱していたときも、彼女は冷静に私を慰めたり、元気づけたりしてくれたのに。
そんなアイリが、珍しく、ひどく取り乱していた。
お祭りのお面を外して、ライラさんの目の前に座る。
「わかっていますから、落ち着きなさい。……マスター。オレンジジュースを二つ」
奥の方のカウンターで、妙齢の男性がコクリと頷く。
何度か見かけてはいるが、一度も声を聞いたことはない。
「安心してくださいまし。共有されていた指名手配のデータは、ローカル保存してあるものも含めて、全て消去済みですわ。街の人々から狙われるようなことは、もうないでしょう」
「ローカル?……よくわかりませんが、助かったってことですか?」
「…………」
ライラさんは目を伏せる。
言い淀んでいるのか、何度か口を開けたり、閉じたりしていた。
しばらく沈黙が続くと、お店の暗がりから人影が向かってくるのが見えた。
マスターだろうか。そう思い、顔を上げる。
「こんにちは、南雲ナナさん。私、仲氏アキラと言います」
目を疑った。確かにそこには、オレンジジュースを手にした、シーカのお母さんがいた。
「ラ……ライラさん。これ……どういうことですか。どうして、警察の人がここに」
「何を勘違いしてるのかわからないけど、私は一般市民の通報を受けてここに来たんだよ」
オレンジジュースを私とアイリの前に置いて、ライラさんの隣にドカッと座る。
ガラスのコップと氷が当たる心地よい音が、落ち込んだ空気を少し和らげた。
そして、私の嫌な考えも。
一瞬でも疑った自分が恥ずかしい。ライラさんが騙し討ちなんてするわけがないのに。
彼女の合理的で利己的は、筋金入りだ。
遺物に関する材料を、むざむざ手放すような真似はしない。
「むしろ、私の方が驚いたよ。まさか、南雲ナナさんと指名手配犯が、DEMsと関わっていたとはね。これは厄介なことになった」
アキラさんは両手を上げる。
「私から説明致します」
どういうことか尋ねる前に、少し離れたところにいたスカイさんが手を挙げて、口を開いた。
「DEMsの研究は、時に倫理や法律を逸脱します。神そのものが人類の理解と法の外にある以上、警察もまた、その研究を完全には否定できないのです」
サラッととんでもないことを言わなかった……?
倫理はともかく、法律を逸脱するなんて、そんな恐ろしいこと……。
本当に、私たちとは生きる世界が違うんだな……DEMsも、ライラさんも。
「だからこそ、DEMsにも警察にも、互いへの干渉権はありません。神を研究する者が法を支配してはならず、法を守る者が神の研究を止めてもならないのです」
「日賀志ミホ先生のシステムを越えられないのが悔しくて、そういう建前を言ってるだけじゃないの?……と、思ってる警察は多いけどね」
「あらあらあら。そんな噂が上がっているとは……随分と、私も舐められたものですわね。所詮はガキ、ということかしら」
二人は声を出して笑い出す。
アキラさんは裏のない穏やかな微笑みだったけど、ライラさんの笑顔は引き攣っていて、目が黒く淀んでいた。
居た堪れない空気が漂い、思わずオレンジジュースを口にする。
アイリも私を見て、オレンジジュースを飲んだ。喉が渇いていたのか、一気飲みだった。
「僭越ながら、お嬢様。年齢を加味すると、ガキなのはお嬢様の方でございます。真偽不明の情報に翻弄していないで、早急に交渉を開始してください」
「……スカイ。貴女、僭越ながらって付け加えれば、どんな口を効いても許されると思っていませんこと?」
ライラさんは困ったように額に手を当てていたけど、口角はほんの少し上がっていた。
幾分か気持ちが落ち着いたのを見計らって、私はようやく口を挟む。
「あ、あの。交渉って何ですか?」
「ああ。それは、ナナとアイリの指名手配取り下げと、今後、アイリへの干渉を控えるという誓約を結んでもらうためのものですわ」
そう言って、ライラさんの視線はアキラさんに向けられた。
「それは難しい話だね」
しかし、それは軽く一蹴される。
「アイリさんは、DEMsと関わりはあっても、支配下にはない。よって、DEMsが警察の行動に口出しすることはできないはずだ。だから、警察の監視下に置かせてもらうよ」
「あら。それは、逆も然りですわよね。警察の監視下にないのだから、警察がDEMsの行動に口出しすることもできないはずですわ。ですから、DEMsの支配下に置かせていただきます」
「えっ、えええ?……わたし、どっち?」
双方から手を差し出されたアイリは、キョロキョロと顔を動かす。
そして、自然な流れで私の身体を抱き締めた。
私はアイリの体温に身を委ねながら、二人の交渉を聞き続けた。
「そもそも、貴女方が……貴女が、アイリを目くじらを立てる理由は何ですの?」
「危険だから」
アキラさんはバッサリと、吐き捨てる。
こういうところは、シーカに似ているような気がした。
「この子は、警察のチップスキャンマシンを破壊したのよ。四月の頭くらいの話だけど」
「っ!……ゲホッ、ゲホッ……ま、待ってください。あのとき職務質問したのって、もしかして、アキラさんだったんですか?」
「あれ、気づいてなかったの……って、当然か。個人情報保護のためとはいえ、顔も声も隠してたからね」
世間は狭いとはよく言うけど……まさか、ここまでとは。
けど、これで納得がいった。
シーカの家で偶然会ったときに、アキラさんがアイリの顔写真を撮っていたんだ。
カメラとかを使っている素振りはなかったけど、チップは直近の視覚情報を取得できると聞くし、そこから割り出したのだろう。
「そんなことがあったんですの?」
ライラさんは訝しげに私を見る。
……しまった。ライラさんには職質の件を伝えていないままだった。
彼女の済んだ青色の瞳に嘘は吐けず、おずおずと首を縦に振る。
ライラさんは肩を一度上下したあと、ほんの少し頬を膨らませた。……申し訳ないです。
「上司からは、『そんな前列はないし、そもそも、日賀志ミホ先生が作ったものが壊れるはずがない』って言われて、闇に葬られたの。私は、それが気に食わなかった。もし人類にとっての脅威だとしたら、放っておいちゃマズいでしょう?」
「なるほど。警察の鏡、ですわね。……いえ、親としての矜持、でしょうか」
「……そんなんじゃないよ。私は、母親失格だからね」
純粋なリスペクトから来る言葉に聞こえたけど、アキラさんは悲しげな表情を浮かべた。
その視線の先には、何が映っているのだろうか。
「ということは、つまり、アイリが危険ではないとを証明できれば、干渉しないということですわよね?」
アキラさんの返事はなく、俯いたままだった。
しかし、ライラさんは気にせず続ける。
「取引ですわ。明日一日、アイリを監視しなさい。その結果、誰かを攻撃したり、機器を壊したりしなければ、執拗に着け狙うことはやめていただけませんこと」
「ちょっ……ライラさん、勝手に……!」
私がその場に立ち上がると、ライラさんは手のひらをこちらに向けた。
黙って聞いていろ、と言わんばかりのプレッシャーを放っている。
「……たった一日かぁ。一週間くらいの猶予は欲しいところだけどね」
「今の今まで大きな問題を起こしていないのですから、その辺りはご容赦してもらいたいですわ。それに、アイリへの警戒を続けることへの拒否はしていません。あくまで求めているのは、指名手配の取り下げと、執拗な監視の撤廃です」
「………………」
アキラさんは無言のまま、こめかみに指を当てる。
ややあって、小さく溜め息を吐いた。
「……取引って言うなら、危険な兆候が少しでも見えたら、指名手配や厳重な捜査は続けてもいいってことよね?」
「もちろん。……けれど、大丈夫ですの?……言い出しっぺの私が言うのもなんですけど、貴女の一存でそれらを打ち切る、なんてことができるとは思えませんわ」
「心配は無用だよ。そもそも、この指名手配も、顔写真以外は私のでっち上げだ。それに、ある程度の停職処分を受けても、生活できるほどの貯金はあるからね。元旦那が残した資産とか」
二人の間には、比較的穏やかな空気が流れている。
もしかして、本当にこのまま話が落ち着いてしまうのだろうか。
「ナナ、アイリ」
ふと、ライラさんが私とアイリを見る。真っ直ぐで、誠実な眼差しだった。
「勝手に話を進めて申し訳ありません。二人は、それで構いませんか?」
……きっと、拒否権はないのだろう。
この問いかけは、私たちが同意したという事実がほしいがためのもの。
「わかった。アイリ、それでいいよ」
「アイリ……」
アイリも、それをわかっていたのだろうか。
定かではないけど、彼女はスッパリと腹を決めたようだった。
それなら、私も腹をくくらないと。
この事態は私も関わっているんだから、アイリ一人で不安な目には合わせられない。
……とはいえ。
「私も、わかりました。でも、学校や家で監視されるのは、ちょっと……」
「確かに、場所は課題だね。安全性確保のために、警官が複数人張り込んでいても問題がない場所を選ぶ必要がある」
「そ、それなら、こことか……警察署内の一室で一日を過ごせばいいんじゃ」
「いけませんわ、ナナ。警察側が口裏合わせて、人や機械が壊れる三寸芝居をする可能性がありますもの」
「そんなこと、しないけどね」
ムッと唇を尖らせるアキラさん。さっきのお返しなのか、ライラさんは上品に笑った。
「というのは半分冗談で、様々な種類の人や機器がある場所の方が、実験としては優れていますわ。それに、室内だと動きも単調ですし」
「え。ライラさん、今、実験って」
「失敬。言葉の綾ですわ」
「…………」
今の言葉で、薄々察してしまった。
きっと三分の一くらいは、ライラさんの興味が原動力になっているのだろう。
残り三分の二は、アイリへの配慮であってほしいところだ。
「じゃあ、リーリースでいいんじゃないかな。あそこなら、色々と都合がいいよね」
「りーりーす?」
「遊園地だよ、遊園地」
私は耳を疑った。
遊園地なんて言葉は、今の雰囲気にも、これからすることにも、そぐわないと思ったから。
「ゆうえんち?」と首を傾げるアイリに、戸惑いながらも軽く説明をする。
素早い乗り物や、高い乗り物に乗ってスリルを味わったり、迷路を楽しんだり、人に脅かされるのを楽しんだりするところだよ。
……こう改めて言葉にすると、私がおかしなことを言っているような気がしてくる。現に、アイリは「何でわざわざそんなことを」みたいな顔で私を見つめていた。
「ふぅん……じゃあ、りーりーす、ってなに?」
「この辺りの遊園地の名前ですわ。ディアリー・エブリー・ムース。ここから一番近くて、かつ、DEMsが融資している施設ですの」
「あ、それは聞いたことがあります。神由来の機器の実験運用を兼ねている、とかなんとか」
人と機械がたくさんあって、大勢の警察が見張っててもおかしくない。
かつ、アイリものびのびと活動できる。これらの条件は、確かに網羅できているように思えた。
でも、それだけじゃないような気がする。私は黙って、続きの言葉を待った。
「ええ。ですから、監視設備はもちろんのこと、万が一、機械の故障や事故、人身被害が発生した場合でも、迅速な対応が可能ですのよ」
言い切ると、残り少ないお冷をグイッと飲み干す。
その間、スカイさんが補足説明をしてくれた。
「必要あらば区域ごと封鎖できますし、補償や設備停止も、お嬢様の権限と裁量である程度対応できます。言ってしまえば、あそこはDEMsの庭みたいなものです」
「あー……」
私は、ようやく納得した。
もしアイリが危険だったとしても、被害を最小限に抑えられる。
逆に、何も起こらなければ、それが安全性の証明になる。
遊園地は、アイリが何者なのかを測るための、巨大な実験場として最適なんだ。
「こうしちゃいられませんわ。ナナ、アイリ。明日も学校を休みなさい。ご両親にはスカイから嘘の事情を伝えてもらいなさいな」
「私もそろそろお暇するよ。部下の貴重な一日と、署の機器を使わせてもらうための申請をしなければならないからね」
アキラさんは含みのある笑みを浮かべたあと、別れを言うまでもなく、そそくさと喫茶店を出て行ってしまった。
「さて。お二人はこの後どうするんですの?……学校には、休むように言ってあるんですのよね。家に帰るのも気まずいでしょう」
「そ、そうですね。どうしようかな……アイリ、何かしたいことある?」
学校をサボることになった言い訳なんて、考えている暇はなかった。
親に内緒で休んだことが一度もない私には引き出しがなく、思わず、アイリに振ってしまった。
すると、アイリは腕を組んで、しばらく唸り声を上げる。
ややあって、ポンと手を叩いた。彼女の頭上に電球マークが見えた気がした。
「じゃあ、アイリ、たたかい、したい! スカイと!」
「へっ?」
意外な提案に、素っ頓狂な声が漏れる。
戦い、という言葉には怖いイメージしかないけど、アイリは好戦的な子じゃない。
「あら、いいですわね。ナナは少々……慎重すぎる節がありますから。せめて、正当防衛は普通にできるようになってもらったほうが、私の冷や汗の量も減りますし」
どういう意図があるか、と思考を巡らせるよりも先に、ライラさんが汲み取ってくれた。
かなりオブラートに包まれているけど、その真意は透けて見える。
彼女の読みは正解だったようで、アイリはコクコクと頷く。
「わ、私からもお願いします。ライラさんの言う通り、その……今の私は、弱っちいので」
「了解しました。場所は如何致しましょう」
二つ返事で了承したスカイさんが、テキパキと計画を進めてくれた。
訓練や修行と称するには気が引けるくらい穏やかなムードだったけど、私自身、戦いのためではなく運動の一環だと思ってやる方が、安寧を保てた。
けど、ライラさんが言っていたことが正論であることも事実。
気持ちの面では楽に、頭の面では真剣に、私はスカイさんと一日中、身体を動かしまくった。
+++
「わあ……っ!」
今どき珍しい紙のチケットを発券して、入場ゲートを潜り抜けた瞬間。
私とアイリは両手を重ねて、向かい合いながらぴょんぴょんと跳ね回った。
身バレ防止用の被り物で顔が覆われていても、視界はクリアでよく見える。
幻想的な音楽とカラフルな光に包まれた、素敵な風景。
地面に足が付くたびに、優しく波紋が広がる。まるで、湖の上にいるみたいに。
そして、色とりどりの珊瑚礁と花々が、辺り一面に広がっている。
頭上では、大小様々な魚の群れが、すいすいと泳いでいた。
それほどDEMsの技術が優れているということなのか、それとも、遊園地という響きがそうさせるのかはわからない。
何にせよ、今まで遊園地に行ったことがない私たちにとっては、夢みたいな空間だった。
「ねぇっ、ナナっ、あれ、なにっ!?」
「たぶん、案内板かなぁ」
興奮気味なアイリが指差した先には、宙に浮かぶモニターと、それを器用に操作する家族連れだった。
どの順番でアトラクションに乗るか、吟味しているようだ。
今日は休日でもないのに、人出がかなり多い。
大学生くらいのカップルも、先生に連れられた小学生たちも、次々と、こめかみに手を当ててゲートをくぐっていく。
そして、チラチラと私とアイリの姿を見ては、思い直したように視線を逸らしていった。
……やっぱり、目立つだろうか。
リーリース遊園地のマスコットキャラクター、リリスくんを模しているとはいえ、私たち以外に顔を覆っている人は、それほど多くない。
一瞬、心が陰りそうになったけど、懸念は一瞬にして消え去った。何故なら……。
「あのひとたち、まっちょだねー」
屈強な大人たち……私服警察が、眉間に皺を寄せながら、団体でゲートを通っていたからだ。
ふと聞こえた子供の声に、思わず吹き出しそうになる。
先頭に立っていたアキラさんと目が合うと、彼女はニコリと微笑んだ。
その笑みには、何か裏があるような気がした。
……アキラさんからも、ライラさんからも、今日は何も気にせず純粋に楽しむようにと、耳にタコができるほど言われている。
でも、あんなに明らかに「私たちは貴女方を監視しています」というオーラを放たれると、どうしても萎縮してしまう。
もし、見張り役がライラさんとスカイさんの二人だけなら、いっそのこと四人で楽しみましょう!……って言えたのに。
残念ながら二人は、気づかれないくらい遠い位置で、私たちを見守っているらしい。
「ハァ……」
アイリに気づかれないくらいの、小さな溜め息を吐く。
日が暮れるまで監視され続けることを、本人はどう思っているんだろうか。
「ねぇ、アイリ」
「ん?」
「全部……全部のことが済んで解決して、日常が戻ってきたら……改めて、来ようね」
「うんっ!」
アイリの満面の笑みは、私の心をほぐしてくれる。
彼女が純粋に遊園地を楽しんでくれるなら、それでいい。
代わりに私が、ワクワクする気持ちを押さえ込もう。
だってあと数時間で、アイリの命運が、大きく変わることになるのだから
「……そろそろ、行こっか。アイリ、何に乗りたい?」
「えーと、じゃあ、あれ! あれ、のりたい! ぐるぐる!」
アイリはそう言うと、私の返事も待たずに手を引いて駆け出した。
地面を蹴る度に、足元に映し出された模様が弾けて消える。
辿り着いたのは、コーヒーカップのアトラクションだった。
中央のティーポットから、淡い光の粒が噴水のように舞い上がっている。
それを囲むように並んだカップは、回転に合わせて縁の装飾が七色に輝いている。
ぶつかりそうでぶつからないのは、自動制御のおかげらしい。
二人でカップに乗り込んで、ハンドルを回し始める。
アイリは最初から力いっぱいに回していて、光の粒が線みたいに伸びて見えた。
やがて、軽快な音が止み、スタッフさんの声が聞こえる。
カップから降りた瞬間、視界がぐらりと揺れた。
ふらふらとした足取りでベンチに座ると、二人で倒れ込んだ。
「も、もういっかい!」
「ちょ、ちょっと待って、アイリ。まだ眩暈が……」
アイリの回復は異様なほど早く、私がダウンしている間も、一人で乗って楽しんでいた。
次に二人で乗るときは、ハンドルを握らせないようにしよう。そう心に誓って、何度も乗った。
けれど、穏かな回転のコーヒーカップは、アイリにとっては退屈だったらしい。
私が次に選んだアトラクション……リアル脱出ゲームの体験施設を訪れても、アイリはブーッと唇を尖らせていた。
それでも、みるみるうちに笑顔が戻ってきて、重厚な扉の前に立った頃にはもう、すっかりご機嫌になっていた。
さっきまで不貞腐れていた理由すら、忘れているくらいに。
その後も、メリーゴーランド、バイキング、パレード、ゴーカート、ジェットコースター……いろんなアトラクションで遊んだ。遊び倒した。
リーリース遊園地のアトラクションを、全て網羅したんじゃないかと思うくらい。
たくさん笑って、たくさんはしゃいだ、そんな時。
ぐぅ〜。
ふと、私のお腹の虫が鳴った。
「……そ、そういえば、ずっとごはん食べてなかったね」
あまりに大きな音だったので、頭が熱くなる。
両手でパタパタと仰いでいると、アイリが私の顔を覗き込んだ。
怪訝そうに見つめる彼女の視線を避けるように、私は屋台のクレープを二つ購入した。
私はチョコバナナで、アイリはイチゴ。
噴水のそばのテーブルで、隣同士で座る。
本物の水を使っているようで、ライトに反射した水面は、吸い込まれそうなほど綺麗に輝いていた。
パシャパシャという音をBGMにして、私たちは被り物を脱ぎ捨てる。
そして、一斉に、たっぷりのクリームを頬張った。
「んっ! お、おいしい!」
「うん、甘くて美味し……ぶっ……!」
「えっ!? ナナ、どうしたの!?」
「あははっ! どうやったら、そんな器用にクリームが付くの?」
アイリの口元に、クリームやイチゴソースがべったりと付いていた。
まるでサンタクロースの髭みたいになっていて、つい笑ってしまった。
ポケットティッシュを取り出して、顔を拭ってあげる。……と、その時。
パクッ!……手にしていたチョコクレープの一口を、アイリに奪われた。
「ちょっ、ちょっと、アイリ!」
「おちそうだったんだもんもぐもぐ」
「食べながら喋らないの!……もうっ。じゃあ、アイリのも一口ちょうだいね?」
「わかった、いいよ!」
ムキになった私は、アイリの一口よりも大きな口を開けた。
甘酸っぱいいちごの風味が、味覚を刺激する。
アイリはニコニコと私を見つめたままで、仕返しをものともしていなかった。
「たのしい、たのしいねぇ、ナナ」
一日中、アイリはずっと笑っていた。
笑って、驚いて、心配して、また笑って。
私はその全部を、隣で見ていた。
こんなに近くで、こんなに長く、アイリのことを見ていたのは、もしかしたら初めてかもしれない。
甘い匂いと、明るい音楽。幸せそうな人々の声。アイリの横顔。
……こんな時間が、ずっと続けばいいと思った。……でも。
「…………」
ふと、ポケットの中のタイマーの存在を思い出す。
このタイマーが鳴ったら、遊園地はおしまい。
アイリに危険がないことの証明は終了する。
これまでに、アイリが機械を壊したり、人に危害を加えるようなことはしなかった。
もちろん、するとはこれっぽっちも思っていなかったけど。
だから、アイリが警察に追われるようなことは、もうない。
それはとても喜ばしいことで、私の本望でもあるはずなのに……どうか、このタイマーが鳴りませんように、と。この楽しい時間が、終わりませんようにと、願っていた。
それでも、現実は残酷で。
デジタル時計は、この夢の時間が、あと二十分で終わることを告げていた。
「……アイリ、最後に観覧車、乗ろう」
アイリは「かんらんしゃ?」と首を傾けてから、指差した先を見て、目を見開いた。
黒い骨組みに、丸いゴンドラ。
見た目は至って普通で、ジェットコースターみたいなゴテゴテした派手さはない。
中心部が青く光っているくらいだ。
でも、中心部に埋め込まれた青い発光板は、どうやら神由来の素材を利用した最新発電装置らしい。
確かパンフレットにそう書いてあったけど、私には、ただ綺麗な飾りにしか見えなかった。
「うん。のりたい」
凛とした、静かな声。
アイリが時たま見せる、外見以上に大人びた姿。
そんな彼女を見る度、私は、胸がきゅうっと苦しくなる。
憂いを帯びた青い瞳が、私の心を切り裂くのだ。
だって、その奥に潜む黒い影が、普段のあどけない自分を、否定したがっているように思えてしまうから。
+++
観覧車のてっぺんからは、海沿いの街が一望できた。
夕暮れに染まった街並みが、湖の水面に映り込んでいる。
遊園地のカラフルな光が、遠くまで広がっていた。
こんなに高いところから見下ろすと、さっきまで自分たちがいた場所が、嘘みたいに小さく見えた。
「ナナ。おそら、ちかいね」
「そうだね……ここからでも、靄の向こうは、見えないんだね」
ガラス越しに見上げる、白くぼやけた神様の身体。
どこにいても、どんなときも、これだけは変わらない。
私の手を、アイリがぎゅっと握る。高所は初めてだろうし、怖かったのかな。
そう思って顔を見ると、彼女はいつも通り、純粋無垢に笑っていた。
大人っぽい姿は、もうない。夕暮れの光が、アイリの横顔を、やわらかく照らしていた。
「ねぇ、アイリ。このまま、どこか遠くに逃げ出しちゃおうか?」
「え?」
「……冗談だよ」
我ながら、柄にないことを言った、と思った。
神様に覆われたこの地球に、逃げ場なんてない。
観覧車が一周するまで、私たちの間には沈黙が流れていた。
でも、それは決して気まずいものじゃなくて。
風が強く吹いても揺れないゴンドラで、二人、身を寄せ合っていた。
アイリの体温が、肩から伝わってくる。
今日一日のことが、頭の中を、ゆっくりと流れていく。コーヒーカップで笑い合ったこと。
ジェットコースターで喉が枯れるほど叫んだことこと。クレープを頬張るアイリの顔。
こんな日が、また来るといい。そう思った。
ピ、ピ、ピ……。
心地良い雰囲気をぶち壊す、規則的な電子音。
ちょうど、ゴンドラが地面に近づいているタイミングだった。
私とアイリは手を繋いだまま、大きく身体を伸ばす。
さすがのアイリも疲労を感じているのか、ふわぁと欠伸をした。私もつられて、欠伸をする。
「南雲ナナさん、アイリさん、お疲れ様でした」
背後から、淡々とした声が聞こえた。
振り返るとそこには、警察官の制服に身を包んだアキラさんの姿があった。
観覧車を降りた瞬間に、もうそこにいた。
いつから待っていたのだろう。その顔は、今日一日、何も変わっていなかった。
笑いもしない。怒りもしない。ただ、静かに、こちらを見ていた。
夢の時間が、終わりを告げる。
「場所を変えましょう。ここでは人が多い」
そう言われて、アキラさんの背中を追う。他の警察官は、見当たらなかった。
十分ほど歩いて辿り着いたのは、ライトアップされた湖の畔だった。
たくさんの人が集まっている、幸せになる鐘というオブジェクトには目もくれず。
ほんの少し離れた……暗がりの、けれど広い空間に出た。
湖面が、夕暮れの最後の光を受けて、静かに揺れていた。
こんなに綺麗な場所なのに、今はその綺麗さが、どこか遠く感じた。
十人くらいの警察官は、近くの林で待機していた。まるで、猫に囲まれたネズミみたい。
私たちは、湖を背にして、被り物を外す。
そして、正面に立つアキラさんと、その後ろで姿勢よく佇んでいる警察官に向かって、私は、ゆっくりと口を開いた。
「これで、証明されましたよね。アイリが、何の危険もない、ただの女の子だって」
「…………」
アキラさんは何も言わずに、こちらに近づく。
その足音が、静かな湖畔に、はっきりと響いた。
緊迫した空気に、私はアイリの手を強く握った。アイリも、握り返してきた。
「最後に、一つ、確認させてください」
そう言って、アキラさんは、懐から端末を取り出す。
それは、アイリと初めて出会ったときに見た……アイリが壊した、あの、機械だった。
「な、何を」
どうして今更。
タイマーはもう鳴った。
今日一日、何も起きなかった。
アイリは純粋に、遊園地を楽しんでいただけ。
笑って、はしゃいで……それだけだった。それで十分なはずなのに。
嫌な予感が、胸の奥でじわりと広がった——次の瞬間。
アイリに向けられたマシンが、バチン、と、不快な音を鳴らした。
激しく明滅し、黒い煙を上げる。
誰が見ても故障したそれを、アキラさんは顔を顰めながら、無造作に地面に投げ捨てた。
乾いた音が、湖畔に響いた。
「機器の故障と、人身傷害が確認されましたね」
陽気な音楽と、上機嫌な子供たちの声をバックにして。
アキラさんは、腫れた手のひらをこちらへ向けて、そう告げた。
その声に、感情はなかった。
「……い、いや……ちょ、ちょっと、待ってください!」
自分でもびっくりするくらいの大声だった。
沈黙した機械と、アキラさんの赤い手のひら。
それらを交互に見比べたあと、ポケットから時計を取り出した。
「約束と違うじゃないですか! タイマーはもう鳴ったんですから、制限時間は過ぎています! アイリはっ……!」
「約束通りですよ」
私がどれだけ喚いても、空気は変わらないまま。
静かで、冷たくて、揺るがなかった。
その目が、最初からずっと……喫茶店で出会ったときと、全く同じ目だったことに気づいた。
「リーリース遊園地で、機器の故障や人身傷害があった場合は……という話でしたよね。そして、今まさに、その両方が確認されました」
「……さ、最初から……こうするつもり、だったんですか……?」
「……私たちも、そこまで暇じゃないですよ」
肯定とも否定とも捉え難い言葉を返すと、アキラさんは右手を挙げる。
林の中で待機していた警察官たちが、一斉に近づいてきた。その数、十人近く。
全員が、アイリに対して、恐怖の眼差しを向けていた。包囲が、じりじりと、狭まっていく。
「アイリさんを——危険人物を、拘束します」
この時の私は、気が動転していたんだと思う。
彼らが動き出すよりも前に、私の右手は、アイリの鎖骨へと動いていた。
鎖骨にある、痣。ハートと錠前を組み合わせたような、変な模様。
「ナナ、だいじょうぶだよ」
小さな声と共に、アイリは白い光に包まれる。
それは、今日見たどの光景よりも、綺麗で。
遊園地中のホログラムも、湖面のライトアップも、この瞬間の眩さには、叶わなかった。




