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5.初めての自由

更新でっす

 夢中になって走ることも、ヴィクトリアにとっては初めての出来事だった。


 どうにか明るい通りへと抜けられたところで、足を止める。

 肩をはずませながら、大きく呼吸を繰り返していく。


 彼女は緩まってしまったフードを深く被りなおすと、周囲の様子を注意深く観察する。

 もう夜中にもなる時刻なのに、通りに面した店や路上に設置された屋台から光が溢れ市井の人々が賑やかな夜を楽しんでいた。


 夜会の喧騒とはまったく違う。

 まるで別の世界に足を踏み入れてしまったかのようだった。


 ヴィクトリアは御者に言われた通り、迎えの馬車が止まりやすいよう大きな通り沿いに建つ大きな酒場の前に向かう。

 ただ、このまま勝手に扉を開けて入っていいのかわからず扉の前でしばらく佇んでいた。


「どうしたんだい、お嬢ちゃん」

「……あっ」


 突然扉が開くと恰幅のいいエプロン姿の中年の女性が顔を出して声をかけてくる。


「ごめんなさい、お邪魔だったかしら。……あ、あの……私、人を待っていて」

「なら、中に入って待ってるといいよ。こんな通りに若い娘が一人でいちゃ危ないからね」


 私の店だから中にお入りとエプロン姿の店の店主は、人好きする笑みを浮かべ豊かな体を左右に揺さぶりながらヴィクトリアを店の中へと案内した。


 扉の向こうの世界はさらなる別世界だった。

 労働者や商人、そして旅行者、何を営んでいるのか推測も出来ない様々な格好の客が賑やかにせめぎあう。

 

 店の奥側は厨房に面したカウンター席、広く取られたダイニングエリアに4人掛けのテーブルが並んでいる。

 どのテーブルの上にも、酒瓶や温かい料理が隙間なく置かれ食事を楽しんでいた。


 市井の様子は報告書で何度も見て、知っているつもりでいたヴィクトリアだった——が。

 この熱量の中に自ら飛び込まないねばわからないことだらけなのだと、彼女の世界がいかに狭かったかと肌で理解する。


「凄い別嬪さんじゃねえか、女将の知り合いかい?」

 

 席へ案内される最中、突然赤ら顔の客から声をかけられた彼女は、戸惑いが隠せぬ様子で口ごもってしまう。


「ひとりなら俺たちの席へ来なよ、あんたもやっぱ聖者様目当てで街に来た口か?」

「え、でも……」

「こら、あたしの知り合いだっていっただろう!汚い手で触るんじゃないよっ叩きだすよ!」


 女将は酔っ払いを一喝しヴィクトリアを引き離すと、カウンターの席へ座らせた。


「すまないね、酔っ払っているだけだから勘弁しておくれ。ここならあたしの目が届くから安心おしね。さあ、何か飲むかい?それとも食事が先かね」

「……でもその……私、持ち合わせが」


 屋敷への往復しかしないため、ヴィクトリアは金銭を所持していない事にようやく気付く。


「いいよそんなもん、あたしがあんたを誘ったんだからね。たらふく食べておいき、そして美味かったら周りの人にでも宣伝しておくれ」


 あっけらかんとした表情で女将はそう告げると、厨房に向かって料理を数品注文を入れる。

 料理が出来る前に大きな木製のジョッキに果実酒を注ぐと、ヴィクトリアの前にそれを置く。

 そして間髪入れずに厨房からひげ面の男が持ってきた、数人前はありそうなほど盛りつけられた料理も並べられた。


 白くけぶる湯気。

 それだけでも温かさを感じる出来立ての料理の品々。

 焦げた調味料の香ばしさが食欲を刺激する。


 ゴクリ、と唾を飲み込んだ喉が鳴った。


 「……じゃあ、頂きます」

 大きなジョッキを手にしたヴィクトリアを見て周りの客が歓声を上げる。


「女将、もっとサイズを気にしてやりなよ。細い腕が折れちまう」

「あまりの重さにプルプルしてるじゃねえか」


 (女将さんの為にもはしたない姿を見せるわけにいかない)


 ヴィクトリアは周りに囃されながらジョッキを落とさないよう、中身を零さないよう注意しながらジョッキを傾け口に含む。

 夜会で飲む軽い口当たりの酒とは違う、すっきりした柑橘の後にアルコールがダイレクトに伝わり喉がかっと熱くなった。


「どうだい、美味いだろう?うちの旦那自慢の果実酒さ」

「はい、とても美味しいです。手作りなのですね」


 初めて無条件に与えられた温かい人情。

 アルコールが体を駆け巡り、嬉しさが相乗的に高まっていく。


 はじめて口にした出来立ての料理の味に、忘れていた食欲が蘇った。

 料理はこんなにも美味しく、食事はこんなにも楽しいものだと。


 それからどのくらい時が過ぎただろうか、なかなか現れない迎えの存在にアルコールの周り始めた頭でヴィクトリアは考える。

 もう、お腹は一杯で明日コルセットを身に着けるのが憂鬱なほどなのに。


 どうしてか、ジョッキを抱える手が下せない。


「それじゃあ、親父さん特製の燻製肉頂くとしようか、あとキツイのを一杯」


 いつの間にか隣の椅子に居座っている青年が人懐こい笑顔を浮かべながら、元気よく女将さんに追加の注文を入れている。

 

 明るい栗毛のくせ毛に濃い緑の瞳。

 薄まったそばかすが可愛らしくも見えるが、キリっとした目元は端正だとヴィクトリアは思う。


 きっと街の娘たちに人気があるに違いない、そんな恵まれた容姿の男性。


「それでなんだっけ?ええと……君の望み?……願い?……やりたいこと?」


 女将から提供された大皿料理を隣へ座った彼に食べきれないからと、シェアしたことがきっかけであれこれ話すようになった。

 もうお互い酔いが回っていて、会話の内容が怪しくなっている。


「何でもいいの。出来れば恋がしたかったわ。恋愛小説の中の主人公みたいに胸の高鳴りやときめきを感じてみたかったのよ」


 初めて感じた胸の高鳴りが、大通りへ向かっての駆け足なんて酷い話でしょうと愚痴をこぼす。

 高位貴族として、公爵令嬢として、王太子妃としての矜持を崩すことなく生きていたヴィクトリア。

 

 詳細までは酔っていようと口にはしなかったが、初めて自分の状況の理不尽さを他人に訴えたのだ。


「……ふぅん。なら、僕でどうかな?」

「……え?」


 青年の言葉の真意が理解しきれず、彼の顔を見つめる。

 その顔が不意に近づいて、唇に柔らかな感触を覚えた。


「僕と恋してみる?」


 柔らかな感触が青年の唇だと理解した瞬間、ヴィクトリアの意識はアルコールに飲み込まれるように落ちて行った。

 

 

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