第9話 商店街の鏡に映る娘
傾きかけた夕日が、錆びついたシャッターに長く濃い影を落としていた。
かつては地元の人々で賑わっていた「夕顔通り商店街」。
今では、開いている店より閉まっているシャッターの方が多い、いわゆるシャッター通りだ。
アスファルトの隙間から雑草が伸び、風が吹くと、どこかの軒先の破れた日除けテントがバタバタと寒々しい音を立てる。
リョウは、実家である古道具屋『松本堂』の店先で、投げやりに埃を払っていた。
「こんなガラクタ、誰が買うんだよ……」
ため息とともに呟く。
大学を中退し、なんの目標もなく実家の手伝いという名目で日々をやり過ごしていた。
祖父の代から続くこの店には、使い道のない骨董品とも呼べないような古道具が所狭しと積み上げられていた。
カラン、と乾いた音を立てて、祖父の源造が奥から出てきた。
「リョウ、奥の蔵の整理は終わったか」
「まだだよ。ガラクタばっかりで足の踏み場もないんだから」
「ガラクタとはなんだ。どれも曰く付きの、由緒ある品だ」
源造は気難しい顔で咳き込みながら、また店の奥へと引っ込んでいった。
八十を超える祖父は、この商店街の最古参だ。
昔は商店街の組合長も務め、この辺りの顔役だったらしいが、リョウにとってはただの口うるさい老人にしか見えなかった。
リョウは再びため息をつき、薄暗い蔵へと向かった。
カビと古い木材の匂いが充満する蔵の中は、昼間でもひんやりとしている。
裸電球の心もとない光を頼りに、積み上げられた木箱や古い家具を動かしていく。
その時、部屋の隅に立てかけられていた、大きな布の塊に目が留まった。
被せられていた埃まみれの布を引っ張ると、バサリという音とともに、立派な木彫りの装飾が施された姿見が現れた。
高さはリョウの背丈ほどもある。
鏡の縁は黒く変色し、表面は長年の埃と水垢のようなもので白く曇っていた。
「なんだこれ……こんなの、あったっけ」
リョウは首を傾げた。
幼い頃からこの蔵には何度も入っているが、こんな大きな鏡を見た記憶はない。
手元にあった雑巾で、鏡の表面を無造作に拭き取ってみた。
キュッ、キュッ。
曇りが取れ、リョウの疲れた顔が鏡に映り込む。
蔵の小さな窓から、夕暮れのオレンジ色の光が差し込み、鏡の表面を不気味なほど鮮やかに染め上げた。
その瞬間。
鏡の奥――リョウの背後に広がる暗がりの中に、ふと、白いものが動いた気がした。
「……ん?」
リョウは振り返った。
だが、そこには古い箪笥が埃を被って鎮座しているだけだ。
ネズミでも走ったのだろうか。
再び鏡に向き直る。
やはり、何も映っていない。
自分のくたびれた顔があるだけ。
気のせいか、と雑巾を投げ捨てようとした時、リョウの動きがピタリと止まった。
鏡の中。
リョウの肩越し、薄暗い蔵の奥。
そこに、ひっそりと「誰か」が立っていた。
セーラー服のような古い学生服を着た、おかっぱ頭の少女。
透き通るように白い肌と、ひどく悲しげな、だがどこか惹きつけられるような漆黒の瞳。
彼女は、鏡の中からじっとリョウを見つめていた。
「うわっ……!」
リョウは驚いて尻餅をつき、慌てて後ろを振り返った。
誰もいない。
だが、恐る恐る鏡へ視線を戻すと、やはりそこには少女が立っている。
夕暮れの光の中、彼女の姿だけが、まるで古い映画のワンシーンのように鮮明に浮かび上がっていた。
恐怖よりも先に、リョウの胸に湧き上がったのは、奇妙な高揚感だった。
息を呑むほど、美しい少女だったのだ。
少女はリョウと目が合うと、ふっと、儚げな微笑みを浮かべた。
その瞬間、リョウの鼻先を、焦げた木材のような、ひどく煙たい匂いが掠めた。
それからの数日間、リョウの生活は一変した。
暇さえあれば蔵にこもり、あの姿見の前に座り込むようになった。
少女は、夕暮れ時――ちょうど商店街に長く赤い影が伸びる時間帯になると、決まって鏡の中に現れた。
彼女は言葉を発しない。
ただ、鏡の奥からじっとリョウを見つめ、時折、彼が話しかける言葉に反応するように、小さく首を傾げたり、微笑んだりした。
「君は、この商店街に住んでたの?」
リョウの問いかけに、少女は目を伏せ、悲しそうに頷いた。
その仕草がたまらなく愛おしく、リョウは次第に現実の生活よりも、鏡の中の彼女との無言の逢瀬にのめり込んでいった。
退屈で色褪せていたリョウの日常が、彼女の存在によって鮮やかに色づいていくように感じられた。
奇妙なことが起こり始めたのは、彼女と「出会って」から四日目の夕暮れだった。
「ねえ、君の名前、教えてくれないかな。俺はリョウって言うんだ」
リョウが鏡越しに手を伸ばすと、少女は、鏡の向こうからそっと手を重ねるように合わせた。
ガラス越しの冷たい感触。
その時、少女がこれまでにないほど、深く、愛らしくだがどこか凄絶な微笑みを浮かべた。
パチッ。
何かが爆ぜるような小さな音がした。
それと同時に、あの焦げくさい匂いが、蔵の中にムワッと充満した。
「なんだ……?」
リョウは咳き込みながら蔵を飛び出した。
外の空気を吸おうと商店街の通りに出た瞬間、彼の足がすくんだ。
目の前にある、向かいの閉業した金物屋。
昨日までただシャッターが下りていただけのその店舗が、まるで火事にでも遭ったかのように、シャッターが熱でドロドロにひしゃげ、外壁が真っ黒に焼け焦げていた。
「……なんだよこれ」
リョウは慌てて周囲を見回した。
だが、消防車が来た形跡も、騒ぎになった様子もない。
近所の八百屋の親父も、何事もなかったかのように店先で煙草を吹かしている。
「おっちゃん! あそこの金物屋、いつ火事になったんだよ!?」
リョウが血相を変えて尋ねると、八百屋の親父は怪訝な顔をした。
「何寝ぼけてんだ、リョウ。金物屋はずっとあのまんまじゃねえか。火事なんか起きてねえよ」
「でも、シャッターが焼け焦げて……」
リョウが指を差すが、親父は呆れたように首を振るだけだった。
どういうことだ。
親父の目には、あの焼け跡が見えていないのか。
リョウは震える足で、自分の店の前まで戻った。
あの鏡だ。
彼女が微笑んだ瞬間、金物屋が「焼けた」。
リョウの背筋に、ロマンチックな妄想を吹き飛ばすような、冷たい悪寒が走った。
その夜、リョウは夕食の席で、祖父の源造にそれとなく尋ねてみた。
「じいちゃん。この商店街って、昔、大きな火事があったことない?」
源造の箸がピタリと止まった。
しわくちゃの顔が、一瞬だけ、ゾッとするほど引きつったのをリョウは見逃さなかった。
「……何十年も前の話だ。お前が知る必要はない」
源造はそれだけを吐き捨てると、そそくさと自室へ引っ込んでしまった。
リョウはスマートフォンを取り出し、地元図書館の過去の新聞記事データベースを検索した。
『夕顔通り商店街、大規模火災。三店舗全焼。一人が死亡』
四十年前の記事だった。
死亡したのは、金物屋の隣にあった洋装店の娘。
当時十七歳。
記事に添えられた白黒の粗い写真。
そこに写っていたのは、紛れもなく、鏡の中のあの少女だった。
記事を読み進めていくうちに、リョウの手は小刻みに震え始めた。
『火元の原因は不明。しかし、一部では地上げ屋による放火の噂も……』
当時の商店街は再開発の話が持ち上がっており、立ち退きに強硬に反対していたのが、全焼した三店舗だったという。
そして、再開発推進派の筆頭であり、後にその焼け跡の土地を安値で買い叩いたのが、当時の組合長――リョウの祖父、源造だった。
「……まさか、じいちゃんが、放火させたってのか?」
証拠はない。
ただの噂だ。
だが、祖父のあの引きつった顔と、焼け焦げた金物屋の幻覚が、リョウの中で一つに繋がった。
あの姿見。
あれはきっと、焼け跡から回収され、ずっと蔵に封印されていたものだ。
洋装店の娘が、死ぬ間際まで愛用していたものなのかもしれない。
リョウは震える手でスマホを落とした。
彼女は、俺に好意を持っていたわけじゃない。
憎悪。
復讐。
自分を焼き殺した男の血を引く孫を、鏡の向こうからじっと見定めていたのか。
ドスン!
突然、一階の店舗の方から大きな物音がした。
「じいちゃん!?」
リョウは階段を駆け下りた。
店舗の土間に、祖父の源造が倒れていた。
彼は苦しそうに喉をかきむしり、白目を剥いて痙攣している。
「じいちゃん! しっかりしろ! 救急車……!」
リョウが駆け寄って祖父の体を抱き起こそうとした時、源造の口から、ゴボッ、と真っ黒な灰が吐き出された。
「ひっ……!」
リョウは思わず手を離した。
源造の皮膚が、みるみるうちに赤黒く爛れ、まるで今まさに炎に包まれているかのように水ぶくれができ、パチパチと弾けていく。
しかし、どこにも火の気はない。
「あ、あぢぃ……あぢぃぃぃっ!!」
源造は狂ったように叫びながら床をのたうち回った。
肉が焦げる強烈な異臭が放たれている。
リョウは恐怖のあまり声も出せず、後ずさりした。
その時、開けっ放しになっていた蔵の奥から、カタッ、と微かな音がした。
リョウは硬直したまま、ゆっくりと蔵の方へ首を向けた。
薄暗い蔵の奥。
あの姿見の前に、いつの間にか「彼女」が立っていた。
いや、鏡の中ではない。
彼女は、鏡から『這い出して』いた。
焼け焦げてボロボロになったセーラー服。
炭化した皮膚の隙間から、赤い肉が覗いている。
髪はチリチリに燃え尽き、かつて美しかった顔の半分は、ドロドロに溶けて頭蓋骨が露出していた。
ただ、残された片方の漆黒の瞳だけが、爛々と憎悪の光を放ち、リョウを真っ直ぐに見据えていた。
パチッ、パチッ。
彼女が一歩踏み出すたびに、床板が焦げ、火の粉が舞う。
彼女は、祖父を見下ろし、そしてリョウに視線を移した。
あの時と同じように。
深く、凄絶な微笑みを浮かべて。
「あ……ああ……」
リョウは逃げようとした。
しかし、足がもつれて転倒し、這いつくばるようにして店の出口へ向かった。
だが、店の入り口のガラス戸に映った自分の姿を見て、リョウは絶望の悲鳴を上げた。
ガラスに映るリョウの背中には、真っ赤な炎が燃え上がっていたのだ。
熱い。
嘘だ。
火なんて出ていない。
しかし、リョウの脳は、皮膚が焼け焦げ、肉が爆ぜる凄まじい痛みを正確に知覚していた。
「ギャアアアアッ! 熱い! 助けてくれ!!」
リョウは床を転げ回り、懸命に背中の炎を消そうとした。
だが、幻覚の炎は決して消えることはない。
ジリジリと、彼女が近づいてくる気配がした。
「ねえ」
鼓膜を焼くような、熱を持ったひび割れた声が耳元で囁いた。
「あなたも、いっしょにもえるのよ。おじいさんのつくった、このきれいな火で」
リョウの視界が、真っ赤な炎に包まれ、やがて何も見えなくなった。
ただ、肉の焦げる強烈な匂いと、自分の絶叫だけが、永遠に終わらない地獄のように響き続けていた。
翌朝。
古道具屋『松本堂』の店内で、源造とリョウの変死体が発見された。
二人の遺体は、まるで業火に焼かれたかのように全身が黒焦げに炭化していたという。
しかし、不思議なことに、周囲の家具や商品、建物の木材には、一切火の気が及んだ形跡はなかった。
ただ、蔵の奥に倒れていた古い姿見の表面だけが、内側から高熱を浴びたように、ドロドロに溶け落ちていたという。
事件から数日後。
警察の現場検証も終わり、規制線が張られた『松本堂』の前には、野次馬の姿もまばらになっていた。
出火原因は未だに不明のままだった。
木造の古い店舗であるにもかかわらず、火が燃え移った形跡がなく、遺体だけが炭化しているという異常な状況に、警察も首を傾げるしかなかった。
ただ一つ、近所の住民たちの間で密かに囁かれている噂があった。
事件の日の夕暮れ時。
『松本堂』の奥から、酷く焼け焦げたセーラー服姿の少女が、ゆっくりと足を引きずりながら出てくるのを見た者がいるという。
彼女の足元からはパチパチと火の粉が散り、彼女が歩いた跡のアスファルトは、黒く変色して溶けていたと。
少女は、シャッターが下りた金物屋の前を通り過ぎ、かつて洋装店があった空き地の前で立ち止まると、ふっと夕闇の中に溶けるように消えていったらしい。
現在、「夕顔通り商店街」は完全なゴーストタウンと化している。
松本堂の事件を不気味に思った残りの店主たちも、次々と店を畳んでこの土地を離れていったからだ。
今では、取り壊しを待つだけの廃屋が立ち並ぶ通りを、夕暮れ時の赤い光だけが不気味に照らし出している。
もし、あなたが日の落ちかけた時刻にこの商店街の跡地を通りかかることがあれば、気をつけてほしい。
錆びついたシャッターのガラス越しや、打ち捨てられた車の窓ガラス。
ふとした瞬間に、鏡面のような場所に目を向けてはならない。
もしそこに、悲しげな瞳をしたセーラー服の少女が映り込んでいたら。
そして彼女が、あなたに向かって微笑みかけてきたら。
その時、あなたの背中では、すでに決して消えることのない幻の炎が、チリチリと音を立てて燃え始めているのだから。




