第8話 空きベッドの心電図
深夜二時。
総合病院の三階、内科と外科の混合病棟。
昼間の喧騒が嘘のように、夜のナースステーションは静まり返っていた。
聞こえるのは、空調の低い唸り声と、時折響く点滴ポンプの無機質なアラーム音だけ。
サキは、パイプ椅子に深く腰掛け、ぼんやりと電子カルテの画面を見つめていた。
乾いた目がコンタクトレンズの上でゴロゴロと鳴る。
看護師になって三年目。
新人の頃は、患者の小さな変化に一喜一憂し、ベッドへの急変コールが鳴るたびに心臓をバクバクさせていた。
だが、今は違う。
「死」は、悲劇ではなく「業務」になった。
エンゼルケアの手順、遺族への事務的な対応、そして何より、山のように増える書類仕事。
誰かが亡くなるたびに、サキの頭をよぎるのは「可哀想に」という感情ではなく、「また残業か」といううんざりとした疲労感だった。
ツン、と鼻を突く強烈な消毒液の匂い。
この匂いにもすっかり慣れてしまった。
「サキちゃん、三〇四号室の点滴、そろそろ交換かな」
先輩のベテラン看護師、大西がカルテから目を離さずに言った。
「あ、はい。行ってきます」
サキは立ち上がり、首の後ろで凝り固まった筋肉をほぐすように軽く回した。
三〇四号室。
四人部屋だが、現在は三人しか入院していない。
一番窓際のベッドが空いている。
三日前に、そこに入院していた高齢の女性が亡くなった。
深夜の廊下は、等間隔に配置された非常灯の緑色の光だけが頼りだった。
サキの履いているナースシューズが、リノリウムの床と擦れてキュッ、キュッと乾いた音を立てる。
その単調なリズムが、夜の病院の静寂をかえって際立たせた。
三〇四号室の前に立つ。
そっと引き戸を開けると、部屋の中は真っ暗だった。
他の三人の患者は、規則正しい寝息やいびきを立てて眠っている。
サキは手元のペンライトを点け、入り口近くのベッドの患者の点滴を確認した。
残量をチェックし、速度を調整する。
マニュアル通りの、機械的な作業。
二つ目、三つ目のベッドも確認した。
よし、異常なし。
サキが部屋を出ようと踵を返した、その時。
シャ……。
背後から、微かな音がした。
衣擦れのような、あるいは何かを引きずるような。
サキは足を止め、振り返った。
音の出所は、部屋の奥。
誰もいないはずの、一番窓際の空きベッドだった。
窓の外から差し込む街灯の薄明かりが、ベッドを囲むカーテンをうっすらと照らし出している。
三日前に業者が入り、シーツもマットレスも綺麗に交換され、カーテンはきっちりと端に寄せられて結ばれているはずだった。
しかし、そのカーテンが、ほんのわずかだけ――5センチほど、レールに沿って引き出されていた。
シャ……。
サキの目の前で、カーテンがさらに数センチ、ひとりでにスライドした。
窓が開いていて風が吹き込んだのか?
いや、窓は完全に閉まっている。
空調の風で動くほど、カーテンは軽くはない。
サキは眉をひそめ、ペンライトの光を空きベッドへ向けた。
光の円が、ピンと張られた白いシーツと、何も敷かれていない平らなマットレスを照らし出す。
誰もいない。
当然。
気のせいか。
そう自分を納得させようとした瞬間。
ピロン。
静寂を切り裂くように、ナースコールの音が鳴った。
サキの心臓がビクンと跳ねた。
慌ててステーションからの呼び出しPHSを見るが、鳴っていない。
音は、目の前から聞こえた。
空きベッドの枕元。壁に設置されたナースコールのパネル。
そのランプが、暗闇の中で真っ赤に点滅していた。
点滅する赤い光が、サキの青ざめた顔を一定のリズムで照らし出す。
誰もいないベッドからのナースコール。
サキは息を呑み、動けなくなった。
過去にも、接触不良なのか、無人のベッドのコールが鳴るという怪談じみた噂は聞いた。
だが、実際に目の当たりにするのは初めてだった。
「……誰、ですか?」
サキは震える声で尋ねていた。
返事はない。
ただ、赤いランプが、まるで心臓の鼓動のように、点滅を繰り返している。
トクン、トクン。
サキは恐る恐るベッドに近づき、ナースコールの取り消しボタンを押した。
カチッというプラスチックの乾いた音がして、赤い点滅は消えた。
ふう、と安堵の息を吐き出す。
ただの誤作動か。
古い病棟だから、配線がイカれているのだろう。
明日、日勤の師長に報告して修理を頼もう。
そう考えながら部屋を出ようとした、その背後で。
ピッ……ピッ……ピッ……。
規則的な電子音が鳴り始めた。
サキは全身の毛穴が粟立つのを感じた。
その音は、看護師なら誰もが聞き慣れている音。
心電図モニターの、心拍を知らせるシンクロ音だ。
おかしい。
空きベッドには、患者どころか、モニター自体が設置されていないはず。
死亡退院が出た直後に、医療機器はすべて片付けられている。
サキは震える手でペンライトを向けた。
ベッドの脇に、いつの間にか一台の古いポータブル心電図モニターが置かれていた。
キャスター付きの台座に乗ったそれは、薄暗い部屋で、液晶画面を青白く発光させていた。
「な……んで」
誰がこんなものを持ち込んだの。
画面の中央には、鮮やかな緑色の線が、規則正しい波形で右から左へと流れていた。
ピッ……ピッ……ピッ……。
波形は、正常な洞調律を示している。
つまり、誰かがこのモニターに繋がれ、安定した心拍を刻んでいるということだ。
しかし、モニターから伸びているはずの電極コードは、床に向かってだらりと垂れ下がり、その先は何も繋がっていなかった。
虚空に転がったパッチが、まるで目に見えない患者の胸に貼り付いているかのように。
サキは後ずさりした。
恐怖で喉がカラカラに乾き、声が出ない。
ピッ……ピッ……ピッ……。
モニターの音だけが、静まり返った病室に響く。
他の患者たちは、この異様な電子音に全く気づいていないかのように、深い眠りに落ちたままだ。
その時、三日前に亡くなった女性の顔がフラッシュバックした。
深夜の急変。
バタバタと駆けつけた時には、すでに心停止状態だった。
サキは医師の指示で機械的に心臓マッサージを行い、強心剤を打ち、そして、死亡確認の瞬間を無表情で見つめていた。
『もうちょっと、話を聞いてあげればよかったね』
遺体を拭き清めながら、大西がぽつりと言った言葉を思い出す。
その患者は、身寄りもなく、毎日のようにナースコールを鳴らしては「寂しい」「手を握ってほしい」と訴えていた。
サキは「業務の邪魔になる厄介な患者」と、適当にあしらっていた。
亡くなった夜もそうだった。
急変する少し前、彼女はナースコールを鳴らしていた。
しかしサキは「またいつもの寂しがり病」と決めつけ、コールを五分以上放置した。
もし、あの時すぐに駆けつけていれば。
ピッ……ピッ……ピッ……。
モニターの音が、少し速くなった気がした。
サキの心臓も、それに合わせるようにドクン、ドクンと鼓動を早める。
シャ……シャシャ……!
空きベッドのカーテンが、意思を持っているかのように一気に引かれ、ベッドの周囲を半分ほど覆い隠した。
カーテンの向こう側に、誰かがいる。
ペンライトの光が、白いカーテン越しに、ベッドの上に座り込む黒い人影を映し出した。
小柄で、背中を丸めた老婆のシルエットが浮かび上がった。
「ひっ……!」
サキは短い悲鳴を上げ、部屋から逃げ出そうとした。
しかし、足が床に縫い付けられたように動かない。
金縛りに遭ったように、全身の筋肉が硬直してしまっていた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ!
モニターの音が、明確に速くなった。
頻脈だ。
それと完全にシンクロするように、サキ自身の心臓も早鐘のように打ち始めた。
苦しい。
胸が締め付けられるように痛い。
サキは胸を掻き毟るように押さえつけた。
呼吸が浅くなり、過呼吸のような状態に陥った。
モニターの波形が、激しく上下に揺れ始めた。
それは、ただの機械の異常ではない。
サキは直感した。
このモニターは、老婆の心拍数を表示しているのではない。
――私の、心拍数だ。
私が感じている恐怖と動悸を、この波形が正確になぞっている。
カーテンの向こう側の影が、ゆらりと立ち上がった。
シャアァァッ!
一気にカーテンが引き開けられ……。
そこにいたのは、死んだはずの老婆だった。
白い死装束ではなく、最後に着ていた色褪せたパジャマ姿。
その顔は青黒く鬱血し、目を見開いたまま、サキを真っ直ぐに見据えていた。
「……サ、キ、さん」
空気が漏れるような、ヒューというかすれた声。
「どうして……きて、くれなかったの」
老婆が一歩、サキに向かって足を踏み出した。
ピピピピピピピ!
モニターのアラーム音がけたたましく鳴り響く。
心室頻拍(VT)の波形。
サキはついに床に崩れ落ちた。
心臓が破裂しそうなほど激しく打ち、息がうまく吸えない。
酸素が脳に回らず、視界の端がチカチカと明滅し始める。
「ごめっ……なさい……ごめんなさいっ……!」
サキは喘ぎながら謝罪の言葉を口にした。
それは、心からの反省ではなく、ただ目の前の恐怖から逃れたい一心から出た言葉だった。
老婆はゆっくりとしゃがみ込み、サキの顔を覗き込んだ。
強烈な、腐敗したような臭いが鼻を突く。
「さみしかったの……とっても、さみしかった。だから、ずっとナースコールを、おしていたのに」
冷たい、氷のような指先が、サキの頬を撫でた。
その瞬間。
ピーーーーーーーーーー……。
モニターの緑色の波形が、一直線になった。
心停止。
同時に、サキの胸の中の鼓動が、ピタリと止まった。
「あっ……あ……!」
息ができない。
空気を吸い込もうとしても、入ってこない。
首を締められているわけではない。
肺が停止したかたような窒息感……。
サキは目を剥き、床を掻きむしった。
助けて。誰か、助けて。
彼女は声にならない悲鳴を上げながら、ナースステーションの方へ手を伸ばした。
あの時、ナースコールを握りしめたまま息絶えていった老婆と全く同じ格好で。
「だいじょうぶよ」
老婆の顔が、サキの耳元に近づく。
「これからは、ずっといっしょ。もう、さみしくないわ」
意識の最後に聞こえたのは、キャスター付きのストレッチャーが廊下を遠ざかっていくような、重く軋む音だった。
翌朝、日勤の看護師が出勤してきたとき、サキは三〇四号室の空きベッドの横で倒れているのを発見された。
死因は急性心不全。
まだ二十五歳の若さ。
ただ、奇妙なことに、彼女の遺体は、まるで何かにひどく怯え、誰かにすがりつくように手を伸ばした姿勢で硬直していたという。
その日以来、あの三〇四号室の空きベッドから、夜な夜な二つの重なり合った寝息が聞こえてくるようになった。
サキが亡くなってから数年後。
その病院は老朽化により建て替えられ、古い病棟は取り壊された。
新しい病棟は最新の設備が整い、心電図モニターが勝手に鳴るようなこともなくなった。
ただ、夜勤の看護師たちの間では、ある噂が囁かれていた。
深夜二時。
ナースステーションで記録をつけていると、誰もいないはずの廊下から、キュッ、キュッと、ナースシューズが床を擦る単調な音が聞こえてくる。
その足音は、三〇四号室があった場所のあたりで止まる。
そして、暗い廊下の奥で、若い女性のひどく息苦しそうな喘ぎ声が聞こえてくる。
『ごめんなさい、ごめんなさい、助けて……』




