第7話 黒板の消えない名前
深夜零時を回った頃、山間の廃校に一台のミニバンが乗り付けた。
ヘッドライトが消えると、深い闇が周囲を包み込んだ。
虫の音さえ途絶え、湿気を帯びた空気が重く肌にまとわりつく。
「うわ、真っ暗だな。マジで何も見えねえ」
助手席から降りた正一が、スマートフォンのライトを点灯させながら大げさに肩をすくめた。
その背後から、運転席の達也が舌打ちしながら降りてくる。
「当たり前だろ。もう十年以上前に廃校になってんだから。電気なんて通ってるわけない」
達也の声には苛立ちが混じっていた。
三十路を迎えたばかりの彼は、以前のような覇気がなく、目の下には濃い隈が刻まれている。
ブラック企業での過酷なノルマと、自腹営業で作った借金が、かつてのガキ大将から余裕を奪い去っていた。
「ちょっと二人とも、静かにして。誰かに見つかったらどうすんの」
後部座席から降りてきた美和が、ヒールの高いサンダルで砂利を踏み鳴らしながら言った。
彼女もまた、十年前の小悪魔的な魅力はとうに色褪せ、今はSNSで偽りのキラキラした日常を演じることに疲弊しきっていた。
今夜、彼ら三人は中学校の同窓会の後、酒の勢いもあって「昔通っていた小学校に行ってみよう」という話になったのだ。
廃校となった母校は、町外れの鬱蒼とした森の中に放置されていた。
取り壊し計画は予算不足で頓挫し、今では地元の若者すら寄り付かない心霊スポットとして細々と語り継がれるだけの場所になっていた。
「鍵、どうすんだよ」
正一が錆びついた昇降口の鉄扉をガタガタと揺らした。
「昔と同じだよ。裏の図工室の窓、鍵が壊れてんだ」
達也はそう言って、慣れた足取りで校舎の裏手へと回った。
雑草が生い茂る中をかき分けて進むと、図工室の窓は少しだけ隙間が空いていた。
「ほらな」
達也が力任せに窓を引き開けた。
カビと埃の入り混じった、古い木造建築特有の匂いが鼻をつく。
むせ返るようなその匂いに、三人は思わず顔をしかめた。
「うわっ……くっさ。なんか気持ち悪いんだけど」美和が鼻をつまんだ。
「まあまあ、せっかくここまで来たんだし。俺たちの教室、見ていこうぜ」
正一が促し、三人は一人、また一人と窓から校舎の中へと侵入した。
廊下は、スマホの頼りない光だけが唯一の頼りだった。
ギシッ、ギシッ。
歩を進めるたびに、たわんだ床板が悲鳴のような音を上げる。
剥がれかけたリノリウムの床、蜘蛛の巣が張った手洗い場、色あせた習字の作品が丸まって落ちている掲示板。
すべてが、彼らが卒業したあの日のまま、朽ち果てていた。
「なんか、出るって噂、マジっぽい雰囲気だな」
正一の声は少し震えていた。
「バカ言ってんじゃねえよ。幽霊なんているわけないだろ。大体、お前が言い出したことだろうが」
達也は強がって見せたが、その声は廊下の奥へと反響し、どこか頼りなく響いた。
三人は、かつて自分たちが過ごした六年三組の教室を目指していた。
階段を上り、三階の西端の教室。
「ここだ」
色褪せた「6−3」のプレートが、半分外れかかって斜めにぶら下がっていた。
達也が引き戸に手をかけ、力を込めた。
木が擦れる重い音がして、戸が開いた。
教室の中は、驚くほど昔のままだった。
小さな木製の机と椅子が整然と並び、黒板には日直の名前を書く欄がうっすらと残っている。
壁には世界地図や、誰かが書いた落書きがそのまま残っていた。
「うわー、懐かしい!」
美和が声を弾ませて教室に入る。
彼女は自分の席だった場所を探し始めた。
「俺の席、このへんだったっけ」
正一が机を撫でながら笑う。
「お前ら、あんま触んなよ。埃まみれだぞ」
達也はそう言いながらも、教卓の前に立ち、教室全体を見渡した。
月明かりが窓から差し込み、無人の教室を青白く照らし出していた。
その光景は、どこか現実離れしていて、まるで時間が止まった空間に迷い込んだような錯覚を覚えた。
「あ、見てよこれ」
教卓の後ろ、黒板の粉受けの溝に、短いチョークの欠片がいくつか転がっているのを美和が見つけた。
「まだ書けるかな」
美和が白いチョークを手に取り、黒板に走らせる。
カツ、カツ、カツ。
『相沢 美和 参上♡』
乾燥しきった黒板に、白い粉がパラパラと落ちながら文字が浮かび上がった。
「お前、相沢じゃなくて今は佐藤だろうが」
達也が鼻で笑う。
「いいのよ、旧姓で。ここは昔の私なんだから」
美和はふん、と鼻を鳴らした。
彼女は数年前に結婚したが、夫との関係は冷え切っており、離婚も秒読みだという噂だ。
「じゃあ俺も」
正一が黄色のチョークを手に取り、美和の名前の隣に大きく書き殴った。
『大木 正一 天下無敵!』
「なんだよそれ、小学生かよ」
三人は声を上げて笑った。
深夜の廃校という非日常感と、アルコールの余韻が、彼らを無邪気な子供時代へと引き戻していた。
黒板に落書きをしてふざけ合っていたが、ふと、正一がチョークを持ったまま言った。
「なあ……お前ら、覚えてるか?」
「何を?」
「あの『ゲーム』だよ」
正一の言葉に、達也と美和の笑顔がスッと消えた。
教室の温度がいくらか下がったような気がした。
「……やめろよ、正一。あんな昔の話」
達也が不機嫌そうに顔を背けた。
「いいじゃんか。もう時効だろ? ほら、小林だよ。小林 真司」
その名前が出た瞬間、重苦しい沈黙が落ちた。
小林 真司。
五年生の三学期に転校してきた、痩せていて無口な少年。
彼は誰とも打ち解けず、いつも教室の隅でうつむいていた。
そんな小林を、当時のクラスのリーダー格だった達也たちは「ゲーム」の標的にした。
最初は些細なことだった。
小林の机にゴミを入れる。
体操着を隠す。
しかし、小林はただ無表情で耐え続けていた。
彼らの「遊び」は次第にエスカレートしていった。
その究極が、黒板を使った「ゲーム」だった。
放課後、誰もいなくなった教室の黒板に、小林への悪口を書き連ねた。
『小林はバイ菌』
『小林、くさい』
『消えろ』
翌朝、登校してきた小林は、その黒板を一人で黙々と黒板消しで消す。
達也たちはそれを見て笑い転げる。
ただそれだけの、残酷で陰湿な遊びだった。
「あいつ、マジで反応薄かったよな。何されても『はい』しか言わなくてさ」
正一が思い出し笑いをしながら言う。
「ちょっと、やめなよ。さすがに子供だったとはいえ、やりすぎだったよ」
美和がたしなめるように言ったが、その顔には微かな笑みが浮かんでいた。
彼女もまた、傍観者という名の共犯者だった。
「でもさ、最後はどうなったんだっけ? あいつ」
「さあな。卒業直前にまた転校していっただろ。それきりじゃねえの」
達也はタバコを取り出し、火をつけた。
紫煙が暗い教室に立ち上った。
「そういや、小林が転校する前の日、あいつが自分で黒板になんか書いてたよな。あれ、何て書いてあったんだっけ?」
正一が首を傾げる。
「知らねえよ。どうせ負け犬の遠吠えだろ」
達也が吐き捨てるように言った、その時。
――カリ、カリ、カリ……。
静まり返った教室に、微かな音が響いた。
「……おい、なんだ今の音」
達也がタバコを手に持ったまま、動きを止めた。
「ねえ、何か聞こえなかった?」
美和も怯えたように周囲を見回した。
――カリッ、カカッ、カリカリカリ……!
音は、教卓の後ろ、黒板のほうから聞こえていた。
誰かが爪を立て黒板を引っ掻いているような硬くて嫌な音。
三人は息を呑み、ゆっくりと黒板へ視線を向けた。
スマホのライトが黒板を照らし出す。
そこには、先ほど美和と正一が書いた落書きの隣、白いチョークの粉がパラパラと零れ落ちている場所があった。
誰も、触っていないはずなのに。
真っ黒な黒板の表面に、ゆっくりと、しかし確実に、白い線が浮かび上がっていく。
まるで、見えない手がチョークを握っているかのように。
『こ』
『ば』
『や』
『し』
いびつで震えた文字が、一つ、また一つと黒板に刻み込まれていった。
「……嘘だろ」
正一が息を呑む。
三人は石のように固まったまま、黒板を見つめ続けた。
誰も黒板の前に立っていない。
風もない。
虫の音すらしない。
ただ、見えない何かが、黒板にゆっくりと文字を刻んでいく音だけが、不気味に響き渡っていた。
『こばやししんじ』
その名前を完全に書き終わると、カリカリという音はピタリと止んだ。
「……おい、誰かのイタズラだろ。達也、お前なんか仕掛けたのかよ」
正一が震える声で達也を振り返る。
「馬鹿言え! 俺はずっとここに立ってたじゃねえか。お前だって見てただろ!」
達也は、恐怖を誤魔化すように怒鳴った。
「……帰る。こんなとこ、もう帰る!」
美和が半狂乱になって、教卓の前から後ろの扉へと向かって駆け出した。
ヒールの音が鳴り響いた。
彼女が後ろの引き戸に手をかけ、思い切り横に引いた。
ガタッ!
戸はびくともしなかった。
「えっ……開かない。嘘、どうして!」
美和が何度も戸を揺さぶるが、まるで外からくさびでも打ち込まれたように、全く動かない。
「どけ、俺がやる」
達也が駆け寄り、力任せに戸を引いた。
筋肉の筋が浮き出るほど力を込めるが、やはり戸は開かない。
「くそっ! なんだこれ!」
「前! 前の扉は!」
正一が教卓の横にある引き戸を思い切り引いたが開かなかった。
完全な密室。
窓は――と達也が視線を向けると、先ほどまで彼らが入ってきたはずの窓には、いつの間にか赤錆びた太い鉄格子がはまっていた。
「……何だこれ、どうなってんだ。さっきまであんなの、なかっただろ……!」
正一がへたり込んだ。
その時、再びあの音が響き始めた。
――カリッ、カカッ、カリカリカリ……!
今度は、先ほどよりも速く、激しく。
三人は恐る恐る黒板を振り返った。
黒板には、あの名前の周りに、新たな文字が猛スピードで書き殴られていた。
『達也は会社の金を盗んだ』
「はっ……!?」
達也の顔から血の気が引いた。
彼が自腹営業の補填のために経費を横領しているという、絶対に知られてはならない事実。
『正一は奥さんの妹と寝た』
「やめろ……やめろぉっ!」
正一が両手で頭を抱え、絶叫した。
彼のスマートフォンのライトが床に落ち、三人の影を天井に不気味に引き伸ばした。
『美和はパパ活で生活してる』
「違う! 違う、あれはただの食事よ! 嘘よ!」
美和は顔を両手で覆いその場にしゃがみこんだ。
黒板は、今や彼らの「罪」と「秘密」を暴き立てる巨大な告発状と化していた。
チョークの粉が、雪のように床へ降り積もっていく。
むせ返るようなその匂いは、十年前のあの日、彼らが小林の机にぶちまけたチョークの粉の匂いと同じだった。
「消せ! 消せよこんなもん!!」
達也が半狂乱になって、黒板の下に落ちていた黒板消しを掴み取った。
彼は黒板に飛びつき、自分の名前と秘密が書かれた部分を猛烈な勢いでこすった。
バフッ、バフッ。
大量のチョークの粉が舞い上がった。
しかし、いくらこすっても、文字は消えなかった。
それどころか、こすればこするほど、チョークの粉が達也のワイシャツや顔にベットリと張り付いていく。
それはただの白い粉ではなかった。
達也の顔に張り付いた粉は、まるで黒いインクのように変色し、皮膚に染み込んでいく。
「あああっ!? なんだこれ、取れねえ! 取れねえよ!!」
達也が自分の顔を引っ掻いた。
黒い染みは、皮膚の上でうごめき、それ自体が生きているかのように「泥棒」「横領」という文字に変わった。
「嫌ぁあああっ!!」
美和が叫び声を上げた。
彼女の白いブラウスにも、いつの間にか黒いチョークの粉がこびりつき、「売春」「嘘つき」という文字になった。
「助けて……誰か、助けて!」
正一は床に這いつくばりながら、必死で扉の隙間に指を差し込もうとしていた。
彼の背中にも、無数の黒い文字がびっしりと浮かび上がっている。
――カリ、カリ、カリ……。
黒板には、まだ書き続けられていた。
『ゲームはおわり』
『これからは』
『おまえたちのばん』
ふと、教室の隅、かつて小林真司が座っていた一番後ろの席。
そこに、誰もいないはずの椅子に、黒い影が座っているのを達也は見た。
その影は、うつむいたまま、微かに肩を揺らしている。
笑っている。
あの時、自分たちが小林を笑い者にしたように。
今度は、彼らが永遠に笑われる番だった。
「許してくれ……俺が悪かった……小林、許してくれぇっ!!」
達也の絶叫は、再び響き始めた爪で黒板を引っ掻く凄まじい音にかき消された。
その後、深夜近くに近くを通りかかった住民が、誰もいないはずの三階の教室から、大人たちの泣き叫ぶ声と、狂ったように黒板を引っ掻く音を聞いたという噂が流れた。




