第6話 深夜残業フロアのもう一人
由紀子は、アクリルネイルの長い爪で、カタカタと乾いた音を立てながらキーボードを叩き続けた。
誰もいない、深夜のオフィス。
ワンフロアぶち抜きの無機質でだだっ広い空間には、由紀子が座る営業部のデスク周辺、ほんの数メートル四方しか照明が点いていない。
ブラインドが上げられたままの巨大な窓の外は、ビル群の明かりも消え、完全な暗闇に沈んでいる。
巨大な黒い鏡のようになったガラス面には、蛍光灯の血の気のない青白い光と、疲労で少し顔がむくんだ由紀子の姿だけがくっきりと反射していた。
夜間設定に切り替わった空調の冷たい風が、タイトスカートから伸びたストッキング越しの脚を、這うように撫でていく。
時折、フロアのずっと奥にあるサーバールームから、ブゥーンという低く単調な機械音が漏れ聞こえてくる。
昼間はひっきりなしに鳴る電話のベルや、上司の怒声、パンプスの足音で息苦しいほど騒がしいこの場所が、夜になるとまるで無人の巨大な墓場のように静まり返る。
耳の奥がキーンと鳴るようなその不気味な静けさが、由紀子は入社した頃からずっと嫌いだった。
「なんで私ばっかり、こんな目に遭わなきゃいけないのよ……」
誰に聞かせるわけでもなく、真っ暗なフロアに向けて小さな愚痴をこぼした。
ため息をつきながら、画面の右下にあるパソコンの時計を見る。
時刻は、午前二時を少し回ったところだった。
本来なら、今頃はベッドで泥のように眠っているはずだった。
だが、明日の朝一番の会議で使うプレゼン資料に、致命的なミスが見つかった。
データ入力の単純なミスだった。
由紀子は、後輩の佐々木のミスだと課長に報告した。
『佐々木さんが確認を怠ったみたいです。私が責任を持って今夜中に修正しておきます』
そう言って、健気な先輩を演じた。
入力ミスをしたのは由紀子自身だった。
完璧主義でプライドの高い由紀子にとって、自分の評価に傷がつくことなど絶対に嫌だった。
佐々木は二日前から、過労とストレスで会社を休んでいる。
だから、反論される心配はなかった。
(メンタル弱すぎるよ。少し仕事を多めに振ったくらいで休むなんて、社会人失格だわ)
由紀子は自分の狡さを、強引な自己正当化で塗りつぶした。
罪悪感など感じない。
悪いのはいつも他人だった。
カチッ。
唐突に、照明の届かないフロアの奥で音がした。
由紀子のタイピングする指が、空中でピタリと止まる。
温度調節のために切り替わる空調の音だろうか。
それにしては、少し異質で生々しかった。
暗闇に沈んだ、ずっと向こうの総務部のデスクの島あたりから聞こえた気がした。
キー、という微かに軋むような音がした。
キャスター付きのオフィスチェアに誰かが座り、わずかに体重を移動させたような音だった。
由紀子は息を殺し、キーボードから手を離してじっと耳を澄ませた。
ブゥーンというサーバーの無機質な音だけが、耳鳴りのように単調に響いている。
誰もいるはずがない。
先ほど、最終退出のセキュリティカードを端末に通し、フロアの鍵を閉めたのは由紀子自身だ。
ビルの警備員が深夜の巡回に来るには、まだ二時間以上も早すぎる。
(気のせいだわ。ただの軋みよ。疲れてるのよ、私)
由紀子は小さく頭を振り、不安を振り払うように再びキーボードに手を乗せた。
だが、一度途切れてしまった集中力は、なかなか戻ってこなかった。
なんだか、さっきから妙に肩が重い。
ただの肩こりではない。
首の付け根あたりに、冷たくて重い鉛の塊がじっとりとめり込んでいるような、不快で鈍い痛みがある。
由紀子は大きく伸びをし、デスクの引き出しを開けた。
そこから、手のひらサイズの小さな手鏡を取り出す。
装飾のついた、アンティーク調の折りたたみミラー。
由紀子は鏡を開き、自分の顔を映した。
目の下に、うっすらと青いクマができている。
乾燥した唇を舐め、ポーチからリップクリームを取り出して丁寧に塗る。
どんなに疲れていても、完璧な自分を保たなければ気が済まない。
身だしなみの乱れは、心の乱れだ。
そう思いながら、鏡の角度を少しだけ変えた。
手鏡の小さな丸い枠の中に、背後の景色が不意に映り込んだ。
照明の当たっていない、真っ暗なフロアのずっと奥。
由紀子は、リップクリームを唇に当てたまま、その手をピタリと止めた。
胸の奥で、心臓がドクンと嫌な、重い音を立てる。
鏡の中。
暗闇と同化しそうなほど遠く、キャビネットが並ぶ通路の真ん中に何かが立っていた。
黒い、人間のシルエット。
確かに人の形をしていた。
だが、その輪郭は薄闇の中で妙にぼやけ、揺らいでいるように見える。
真っ直ぐに直立し、顔のあたりだけが、まるでそこだけ光を集めたようにぽっかりと白く浮き上がっている。
(……誰? 泥棒?)
由紀子はヒッと喉の奥で息を呑んだ。
警備員ではない。
がっちりとした体格でもないし、制服も着ていない。
こんな一切の光がない暗闇の中で、微動だにせず、ただじっと立ち尽くしているなんて異常すぎる。
直接見て確かめようと振り返りかけた。
首を回そうとした瞬間、体が石のようにカチカチに硬直した。
『振り向いてはいけない』
細胞の奥底で、生物としての本能が強烈なアラートを鳴らした。
見間違いだ。
疲労が見せたただの影。
そう思いたかった。
由紀子は恐怖でガタガタと震える手で、手鏡を両手でしっかりと握り直した。
鏡の角度を奥の暗闇へと変えた。
暗闇に、誰かが立っていた。
シルエットは、女性だった。
だらりと両腕を下げ、首を不自然な角度で傾けている。
顔は、長い髪に覆われていて見えない。
だが、その服装には見覚えがあった。
淡いグレーのカーディガン、紺色のひざ丈スカート。
(佐々木、さん……?)
なぜ、彼女がここに。
休職中のはずよ。
それに、セキュリティはどうやって抜けたの。
混乱する頭の中で、無数の疑問が駆け巡った。
息を詰めて見つめる中、鏡の中の『それ』が、ゆっくりと動いた。
ズルッ。
濡れた雑巾で床を擦るようなひどく不快な音が、鏡越しではなく、背後の空間から直接耳に届いた。
由紀子の全身から、一気にサーッと血の気が引いた。
冷たい汗が背筋を伝い、タイトスカートの中を嫌な感触で流れ落ちた。
『それ』は、人間のように両足で歩いているのではなかった。
だらりと両腕を下へ垂らしたまま、まるで透明なローラーの上にでも乗っているかのように、一切の上下運動をせずに、床を滑るようにこちらへ近づいてきている。
ズルッ。
ズズッ。
その音が鳴るたびに、確実に、一直線に由紀子のデスクに向かってくる。
(嘘でしょ。やめて、来ないで)
鏡越しに見る『それ』の姿が、だんだんと大きくなり、細部の輪郭がはっきりとしてきた。
完全な暗闇の中から、由紀子のデスク周辺を照らす青白い照明の境界線へと、ゆっくりと這い出してきた。
顔を覆う長い髪の隙間から見えた肌は、温かい血の流れている生きている人間の色ではなかった。
何日も水に浸かっていた死体のような、魚の腹のような、腐敗を感じさせる不気味な青白色。
ズルッ。
距離が縮まった。
『それ』は三列後ろのデスクの横まで迫っていた。
由紀子は悲鳴を上げようとしたが、喉が引きつって声が出ない。
手鏡を持つ手が激しく震え、カチカチとコンパクトの蓋が鳴る。
逃げなければ。
頭ではわかっているのに、金縛りに遭ったように指一本動かせない。
空調の冷気が、急激に温度を下げたように感じた。
いや、違う。
『それ』が近づいてくるにつれて、冷凍庫を開けた時のような、生臭くて冷たい空気が背中に吹きつけているのだ。
ズルッ。
すぐ後ろ。
一つ後ろのデスクの真横。
鏡の中の『それ』が、ゆっくりと顔を上げた。
長い髪の間から、大きく見開かれた右目だけが、鏡越しに由紀子を真っ直ぐに見据えていた。
白目がなく、黒目だけの巨大な瞳。
佐々木ではなかった。
この世の人間ではなかった。
『……あなたの、せい……』
空気を震わせず、鼓膜を通さず、頭蓋骨の内側に直接響いてくるような、水底から響くようなくぐもった声が聞こえた。
同時に、背後の空間から、何日も放置された生ゴミと腐った泥が混ざったような、吐き気を催す強烈な悪臭がドッと漂ってきた。
(私じゃない!)
由紀子は震えながら心の中で必死に叫んだ。
(私は悪くない! 仕事ができないあの子が悪いんでしょ! 全部あの子のせいよ!)
身勝手な言い訳は、得体の知れない怪異には一切通じなかった。
鏡の中で、『それ』の死人のように青白い右手が、重力に逆らうようにゆっくりと持ち上がった。
不自然なほど細く長い指が、鏡の中の由紀子の細い首元へ向かって、静かに伸びてくる。
手鏡の小さな枠の中で、その手がどんどん大きく、迫り出してくる。
「いやあぁぁぁっ! 来ないで!」
由紀子は限界に達してついに絶叫し、両手で持っていた手鏡を、目の前のデスクに力任せに叩きつけた。
ガシャン!
甲高い破砕音を立てて、アンティーク調の手鏡のガラスが粉々に砕け散り、破片がキーボードの上に飛び散った。
パニック状態に陥った由紀子は、キャスター付きの椅子を乱暴に蹴り倒し、もつれる足で立ち上がりながら、ついに背後へと振り返った。
……誰もいなかった。
青白い蛍光灯の光が、無人のデスクを照らしているだけだった。
遠くで、サーバーの音がブゥーンと鳴り続けている。
臭いもない。
冷たい空気もない。
ただ、狂ったように拍動する自分の心臓の音だけが、フロアに響いていた。
「……幻覚……?」
由紀子は床にへたり込み、荒い息を吐きながら周囲を見回した。
やはり誰もいない。
極度のストレスと睡眠不足が見せた、ただの幻なのか。
そう、そうに違いない。
自分を納得させようと、由紀子は深く息を吸い込んだ。
だが。
荒い呼吸を整えようとした不意に、さっきから重かった首の付け根に、氷の針を刺されたようなチクリとした鋭い痛みが走った。
「痛っ……」
由紀子は無意識に、自分のうなじから首筋にかけて手を当てた。
指先が、肌の温もりとは違う、何かひどく冷たくて、ぬるりとした液体に触れた。
嫌な予感がして、恐る恐るその指先を目の前に持ってくる。
そこには、べっとりと、ドス黒い赤い血がついていた。
自分の血。
そして、由紀子は視線を落とし、決定的な絶望に気づいた。
デスクの上から床にかけて散らばった、無数の手鏡の破片。
その何十個にも割れた鋭いガラスの破片のすべてに、白目のない、見開かれた巨大な黒い瞳が、こちらをじっと見つめ返すように映り込んでいた。
『……みつけた……』
今度は背後からでも、鏡の中からでもない。
すぐ頭の真上から、あのねっとりとした声が降ってきた。
由紀子は血のついた指を震わせながら、ギギギと錆びた機械のように、ゆっくりと顔を上げた。
青白い蛍光灯の光の中。
由紀子のデスクの真上の白い天井。
そこに、四つん這いのようにベタリと張り付いた『それ』がいた。
真っ黒な長い髪をだらりと垂らしながら。
首をゴキリと180度ねじ曲げた凄惨な笑顔で、由紀子の顔を至近距離から見下ろしていた。




