第5話 止まった電話と増える謝罪
由美は、古い木造家屋の玄関を開け放った。
むせ返るような、埃と古い畳の匂い。
そして、かすかに漂う防虫剤のツンとした匂いが、鼻腔を突いた。
「相変わらず、物が多いわね」
由美はため息をつきながら、持参した軍手をはめた。
「おばあちゃん、物を捨てられない人だったから」
後ろからついてきた妹の香織が、遠慮がちに部屋の中を覗き込んだ。
二週間前に亡くなった祖母の遺品整理だった。
両親はすでに他界しており、孫である二人が片付けを引き受けることになった。
祖母は、近所でも評判の「優しいおばあちゃん」だった。
いつも縁側に座ってニコニコと笑い、通りかかる誰に対しても穏やかに接していた。
庭で丁寧に育てた季節の花を近所の人に配り、学校帰りの子どもたちにはポケットから飴玉を出してあげるような人だった。
面倒なご近所トラブルとは無縁で、誰からも好かれる理想的な老後だった。
ドライな性格の由美にとっても、繊細で少し神経質な香織にとっても、記憶の中の祖母は、いつも変わらないその優しい笑顔しかなかった。
だからこそ、祖母の死は唐突で、二人の心にぽっかりと穴を開けていた。
「とりあえず、今日は一階の居間から片付けよう。日が暮れると気味悪いし」
由美は事務的な声で言い、大きな半透明のゴミ袋をバサッと広げた。
香織は小さくうなずき、畳の隅にうず高く積まれた古い座布団を抱えて運び始めた。
埃のにおいが、動くたびにふわりと舞い上がる。
主がいなくなった古い家は、耳鳴りがするほど、不気味なほど静まり返っていた。
壁に掛けられた古い柱時計の振り子は、祖母が亡くなった日から止まっていた。
換気のために窓を開けても、外から聞こえるはずの生活音は一切なく、ただ生ぬるい風が畳の上を通り抜ける微かな音しかしない。
広い家の中で、二人の足音と、段ボールを組み立てるベリッというガムテープの音だけが、やけに大きく、虚しく響き渡っていた。
「あ、これ……」
居間の隅、テレビ台の横で、香織が手を止めた。
そこには、埃を被った古い固定電話が置かれていた。
今時珍しい、カセットテープ式の留守番電話機能がついた黒くて四角い機械。
祖母が丁寧に編んだであろう、白いレースのカバーが掛けられている。
「まだこんなの使ってたのね」
由美は手を休めることなく言った。
「電話線、もう抜いてあるよね?」
香織が電話機の裏側を覗き込む。
「うん、業者の人が先週、回線ごと止めたはず」
香織は、黄ばんだレースのカバーの端をつまみ、そっとめくった。
途端に、香織の顔がこわばり、指先がピタリと止まった。
「……お姉ちゃん」
「何? 虫でもいた?」
「これ……ランプが、点滅してる」
由美はゴミをまとめる手を止め、怪訝そうに振り返った。
香織の震える指がさす先。
埃を被った黒い電話機のパネルの中央。
小さな赤いランプが、チカチカと一定のリズムで点滅を繰り返していた。
その横の古い液晶画面には、『メッセージ・1件』という黒いデジタル文字が、くっきりと表示されている。
「電源は入ってるの?」
「コンセントは挿さったままだよ。でも……電話線は、壁から抜けてる。ほら」
香織が恐る恐る持ち上げたグレーのモジュラーケーブルの先は、宙に浮いたまま、どこにも繋がっていなかった。
外から電話がかかってくるはずがない状態だった。
「解約する前に入ってた、留守電の録音がそのまま残ってるだけじゃないの?」
由美は少し気味悪そうにしながらも、持ち前のドライな口ぶりで言いながら、ゴミ袋の口を固く結んだ。
「再生しないで、そのまま消去しちゃえばいいわよ。どうせセールスか何か、大した用件じゃないでしょ」
「でも……もし、おばあちゃん宛ての、大事な連絡だったらどうしよう。最後に残された声かもしれないし……」
香織は昔から、こういう細かい因果律のようなものが気になってしまう性格だった。
誰かの想いが残っているのではないかと思うと、無下に消去することができなかった。
「じゃあ、一回だけ聞いてから消しなさいよ。私、あっちの台所の方やってるから」
由美は呆れたように大きくため息をつき、ゴミ袋を引きずりながら、足早に居間を出て行った。
香織は、電話機の前に正座した。
赤いランプの点滅が、妙に気になった。
チカ、チカ。
一定のリズムが、まるで何かの拍動のように見えた。
香織は、深呼吸をしてから、ゆっくりと『再生』の四角いボタンを押し込んだ。
ガチャン。
重々しい機械音とともに、透明なプラスチックの窓の奥で、小さなカセットテープがジーッと回り始める音がした。
ザーッという、古いアナログテープ特有の耳障りなホワイトノイズが、静まり返った居間に響き渡る。
数秒の空白。
そして、スピーカーからポツリと声が聞こえた。
『……ごめんなさい……』
まだ小学生くらいの、小さな女の子の声だった。
声はひどくかすれており、小刻みに震えている。
『……私が、悪いんです……だから……もう……ごめんなさい……』
ズズッ、と鼻をすする生々しい音。
誰かにひどく理不尽に怒られているのか、それとも極限まで怯えきっているのか。
助けを求めるような弱々しい声は、そこでブツッという無機質な切断音とともに突然切れた。
「……何、これ。誰……?」
間違い電話だろうか。
それとも、近所の子どもがイタズラで吹き込んだのだろうか。
香織は背筋に氷を押し当てられたような冷たいものを感じ、弾かれたように『消去』のボタンを連打した。
ピーッという甲高い電子音が鳴り響き、ようやく赤いランプのチカチカという点滅が消えた。
液晶画面の数字が『0件』に戻った。
香織は、こわばっていた肩の力を抜き、ホッと長い息を吐き出した。
気のせいだ。
ただの気味の悪いイタズラ録音だ。
そう自分に言い聞かせた。
台所から、由美が食器を片付ける音が聞こえてくる。
カチャカチャという生活音に、少しだけ安心した。
香織は立ち上がり、再び座布団の整理に戻ろうとした。
カチャッ。
背後で、音がした。
香織は硬直した。
振り向く。
電話機の赤いランプが、再び点滅を始めていた。
チカ、チカ、チカ。
液晶画面の数字が、『1件』に変わっている。
(え……?)
消したはず。
それに、電話線は繋がっていないし。
新しいメッセージが入るはずがない。
香織は恐怖で硬直したまま、畳の上をじりじりと後ずさりした。
「お姉ちゃん……ちょっと来て……」
声がひどく震えていた。
ただならぬ気配を感じたのか、台所から由美が小走りで顔を出した。
「どうしたの? あんた、そんな真っ青な顔して」
「これ……消したはずなのに、また、ランプが……」
由美は怪訝そうに眉をひそめ、ドカドカと足音を立てて電話機に近づいた。
「ちゃんと消去ボタンを押した? 何十年も前の古い機械なんだから、ボタンの接触が悪いんじゃないの?」
由美はイライラした様子で、ためらいもなく、太い指で『再生』ボタンをガチャンと強く押し込んだ。
ザーッ。
再び、耳障りなノイズ音が響く。
そして、スピーカーから流れてきたのは、先ほどと全く同じ、かすれた女の子の声だった。
だが、録音されている言葉が変わっていた。
『……おばあちゃん……ごめんなさい……』
ゴミ袋の口を結ぼうとしていた由美の動きが、ピタリと止まった。
『……角の家の、おばあちゃん……いつも、うるさくして、ごめんなさい……』
女の子の震える声の奥、環境ノイズの向こう側で、別の異質な音が混じっていた。
バシッ。ドスッ。
何か柔らかいものを、靴の底で容赦なく叩き、蹴るような鈍い打撃音だった。
そして、それを楽しむような、甲高い複数の子どもたちの嘲笑い声。
『……私、悪い子だから……だから、窓からずっと見られてても……助けてくれなくても……ごめんなさい……』
「これ……ただの録音じゃない。いじめ……暴行の現場じゃないの?」
由美が、顔から血の気を引きながら呟いた。
祖母のこの居間の窓からは、縁側越しに、すぐ裏手にある小さな児童公園の砂場がよく見える。
その公園から直接聞こえてくるような、生々しい屋外の音が、女の子の悲鳴とともに微かに、しかし確かな輪郭を持って録音されていた。
カチャッ、という音とともに録音が終わる。
「いたずらよ、こんなの。気持ち悪い」
由美は今度こそ、コンセントのコードを乱暴に引っこ抜いた。
ブツンと音がして、液晶画面の数字も、赤いランプも消えた。
「ほら、これで鳴らないわ。さ、片付けの続き……」
カチャッ。
由美の言葉が途切れた。
コンセントを抜いたはずの電話機の中で、テープが回る音がした。
液晶画面は真っ暗なままだ。
だが、赤いランプだけが、狂ったようにチカチカと高速で点滅を始めた。
「なっ……なんでよ!」
由美が電話機を叩く。
しかし、テープの回転音は止まらない。
ザーッというノイズが、スピーカーから部屋いっぱいに響き渡る。
『……痛いよ……ごめんなさい……』
『……やめて……おばあちゃん……』
『……助けて……』
声が、次々と再生されていく。
メッセージが1件終わるごとに、赤いランプの点滅が早くなる。
香織は耳を塞いでうずくまった。
「お姉ちゃん、やめて! 止めて!」
「抜いてるわよ! コンセント、抜いてるのに!」
由美はパニックになり、電話機を床に叩きつけた。
ガシャンという音を立てて、黒いプラスチックの破片が飛び散った。
中のカセットテープがむき出しになった。
それでも、音は止まらない。
むき出しのテープが、ジリジリと回転を続けている。
そして、メッセージが進むにつれて、女の子の声のトーンが、ゆっくりと、しかし確実に変わっていった。
怯え、謝罪していたはずの声が、地を這うように低く、ねっとりとした、深い恨みに満ちた声へと変貌していく。
『……ねえ……おばあちゃん……どうして……』
『……どうして、毎日毎日、ずっと見てるだけだったの……?』
『……カーテンの隙間から、窓から、ずっと私が見てたの、知ってたよね……』
『……みんなが言ってた、優しいおばあちゃん……どうして、誰も呼ばずに、助けてくれなかったの……』
香織の脳裏に、記憶の中の祖母の笑顔がフラッシュバックした。
いつもニコニコと笑い、誰にでも愛想が良かった祖母。
それは裏を返せば、波風を立てることを極端に嫌い、面倒なトラブルには決して首を突っ込まないという冷酷さでもあったのか。
すぐ裏の公園で、一人の少女が集団から凄惨ないじめを受けているのを、祖母は毎日、この安全な居間の窓から、ただ静観し、見て見ぬふりをし続けていたのだろうか。
それは決して「優しい」のではなかった。
自分に火の粉が降りかかるのを避け、厄介事から目を背けていたのだろう。
それはつまり、自己保身からの沈黙。
その沈黙が、少女を死へと追いやったのだとしたら……。
ザーーーーーッ!
ノイズ音が、部屋の空気を震わせるほどのけたたましい大音量に変わった。
割れたスピーカーから、女の子の絶望的な悲鳴と、バキッという、骨が砕けるような生々しく鈍い音が鳴り響いた。
香織は悲鳴を上げて両耳を強く塞いだ。
そして。
『……おばあちゃんが助けてくれないなら……』
ピッ。
音が、完全に止まった。
むき出しのテープの回転も止まり、赤いランプも消えた。
しんと静まり返る居間。
由美と香織は、荒い息を吐きながら、壊れた電話機を見つめていた。
「……終わった……?」
由美が、震える声で呟いた。
その時だった。
ギィ……。
背後で、音がした。
居間のふすまの奥。
祖母がいつも外を眺めていた、裏の公園に面した縁側のガラス戸。
そのガラス戸が、ゆっくりと横にスライドする音。
冷たい風が、居間に吹き込んできた。
ペタ、ペタ。
裸足で畳を歩く音が、縁側の方から近づいてくる。
『……おばあちゃんの代わりに……』
すぐ耳元で、少女の低い声がした。
香織は、ゆっくりと振り返った。
薄暗い廊下の向こう。
埃だらけの畳の上に、泥まみれの小さな足跡が、こちらに向かって点々と続いているのが見えた。




