第4話 川べりの祠と沈んだ村
中田は、プレハブ小屋でぬるい缶コーヒーをすすりながら、パイプ椅子の背もたれに体重を預けた。
アルミサッシの窓ガラスを、雨粒が絶え間なく叩きつけている。
今日も雨だった。
梅雨時とはいえ、ここ一週間、太陽の光を一度も見ていない。
くすんだ視界の先には、濁った茶色い水が不気味な渦を巻く川が流れている。
ここは川岸の再開発予定地だ。
ぬかるんだ泥の地面には、使い古された錆びたパワーショベルが数台、まるで力尽きた巨大な獣のようにアームを下ろしている。
容赦のない雨風に煽られて、資材を覆う青いブルーシートがバタバタとけたたましい音を立て続けていた。
「所長、午後の作業はどうしますか」
黄色いヘルメットから泥混じりの雨だれを滴らせながら、若い作業員がプレハブのドアを開けた。
湿った冷たい風が、どっと室内に吹き込んでくる。
「この雨じゃ無理だ。足元の地盤が完全に緩んでる。今日はもう全員上がらせろ」
中田は五十代半ば。
現場監督として、これまで数え切れないほどの修羅場やトラブルをくぐり抜けてきた。
会社が無理な工期を急いでいるのは百も承知だが、滑落や重機の横転事故が起きては元も子もない。
いや、正確には「事故が明るみに出ては」まずいのだ。
中田の勤める中堅ゼネコンは、昔から現場のトラブルを組織ぐるみで隠蔽する体質が染み付いていた。
中田自身も、過去に何度か報告書類を改ざんし、小さな労災を「私生活での不注意による怪我」として処理したことがある。
大きな組織で波風を立てずに生き残るためには、そういう泥をすするような立ち回りが重要だった。
「それと所長……あの川べりの祠、どうします? 明後日には基礎工事で掘り返す予定ですけど」
作業員が、窓の外を指さした。
濁流のすぐそば、葦の群生に半ば埋もれるようにして、古びた石の祠が建っている。
しめ縄は千切れかけ、供え物もない。
「予定通り壊せ。お祓いは済んでるって、上の連中が言ってた」
「でも、なんだか気味が悪くて。あそこだけ、重機がエンストしたりするんですよ」
「気のせいだ。雨でプラグが湿ってるだけだろ。さっさと帰れ」
中田は手をシッシッと振って作業員を追い出した。
一人になったプレハブ小屋。
中田はため息をつき、パイプ椅子に深く腰掛けた。
祠のことなど、いちいち気にしていられない。
ただでさえ工期が遅れているのだ。
(早くこの現場を終わらせたい)
なぜだか、この土地には最初から嫌な空気が漂っていた。
カビと泥の混じったような、むせ返るような川の臭い。
それは、いくら雨が降っても洗い流されることなく、常に鼻の奥にへばりついていた。
翌日。
雨は小降りになっていた。
作業を再開した直後、現場の奥から鋭い悲鳴が上がった。
中田は慌ててプレハブを飛び出し、ぬかるみに足を取られながら走った。
パワーショベルの陰で、数人の作業員が人垣を作っている。
「どうした!」
中田が怒鳴りながら人垣を強引にかき分けた。
昨日プレハブに報告に来たあの若い作業員だった。
泥だらけになって仰向けに倒れ、もがいていた。
「わかんないです、いきなりバタッと倒れたんです!」
作業員は、両手で自分の喉を狂ったように激しく掻きむしっている。
爪が皮膚を破り、首筋に幾筋もの赤い引っ掻き傷ができている。
目は限界まで大きく見開かれ、白目が真っ赤に血走っている。
口からは、ゴボッ、ゴボッという、水の中で空気を吐き出すような異様な音が漏れている。
「おい、しっかりしろ! 誰か、救急車を呼べ! こいつ息をしてないぞ!」
中田は泥の冷たさも忘れ、作業員の肩を激しく揺さぶった。
チアノーゼを起こしたように、作業員の唇が急速にどす黒い紫色に変色していく。
雨の降る陸の上にいるというのに、その苦しみ方は、まるで深い水底で完全に溺れている人間のようだった。
ガバッ。
突然、作業員の体が弓なりに大きく跳ね上がった。
そして、カッと見開かれた口から、大量の液体を勢いよく吐き出した。
吐瀉物特有の胃液の酸っぱい臭いでも、血の臭いでもなかった。
それは、ひどく生臭い、真っ黒に濁った川の泥水だった。
泥水と一緒に、千切れた黒い水草のようなものがドロリと吐き出され、中田の長靴にべっとりと張り付いた。
作業員は数回大きく痙攣し、やがて糸が切れたように動かなくなった。
開いたままの濁った瞳が、雨空を虚しく見つめていた。
中田は、泥水にまみれた作業員の顔を見下ろしながら、凍りついたように動けなかった。
川からは十メートル以上離れている。
溺れるはずがない。
なのに、彼の肺の中には大量の泥水が詰まっていた。
「所長……救急車を!」
「待て!」
中田は反射的に叫んだ。
周囲の作業員たちが、ハッとして中田を見る。
「……本社に連絡する。お前らは持ち場に戻れ。いいか、誰にも言うな」
中田の脳裏に浮かんだのは、工期の遅れと、マスコミの報道、そして会社の責任問題だった。
原因不明の死。
しかも、肺から泥水が出たとなれば、警察が入って工事は長期ストップする。
(心筋梗塞だ。持病の心筋梗塞で倒れたことにすればいい)
中田は、長年の習慣で瞬時に「隠蔽」のシナリオを組み立てていた。
その日の夜。
遺体は本社の息のかかった病院へ運ばれ、死因は急性心不全として処理された。
雨は再び本降りになっていた。
誰もいなくなった真っ暗な現場で、中田は一人、プレハブ小屋に残って報告書の偽造を続けていた。
キーボードを叩く音が、雨音に混じって虚しく響く。
(これでいい。俺は会社を守ったんだ)
自分に言い聞かせるが、指先が微かに震えていた。
吐き出されたあの真っ黒な泥水と、喉を掻きむしりながら事切れた青白い顔が、脳裏にべっとりと焼き付いて離れなかった。
ドサッ。
ふいに、プレハブの薄い壁のすぐ外で、鈍い音がした。
中田はキーボードを叩く手を止めた。
風でブルーシートが煽られるバタバタという音ではない。
何か重く湿ったものが、泥のぬかるみにどっしりと落ちたような音。
ズチャ、ズチャ。
足音が聞こえる。
水分をたっぷりと含んだ重い泥を、ゆっくりとした足取りで踏みしめる音のようだった。
足音は一つではなく、少しずつ数を増しながら、プレハブ小屋に向かってゆっくりと近づいてくる。
「誰だ? 警備員の見回りか?」
中田は軋むパイプ椅子から立ち上がり、おそるおそるドアへ向かった。
冷たい鉄のドアノブに手をかけ、外へと押し開けた。
暗闇の中、外には誰も立っていなかった。
あるのは、激しい雨に打たれて波打つ泥の海だけだった。
だが、中田は足元のコンクリートのタタキを見て、鋭く息を呑んだ。
ドアのすぐ外の段差に、べっとりと濡れた泥の足跡が無数に残っていた。
長靴や安全靴のブロックパターンではない。
五本の指がはっきりとわかる、裸足の足跡だった。
しかも、一人や二人のものではない。
小さな子供の足跡。
大人の大きな足跡。
年寄りのような引きずった足跡。
何十人分もの泥の足跡が、プレハブのドアの前に隙間なく密集し、ピタリと止まっていた。
(なんだ、これは……ふざけてるのか)
背筋に、氷を当てられたような冷たい汗が流れ落ちた。
中田は慌ててドアを乱暴に閉め、内側からガチャンと鍵をかけた。
後ずさりして壁に背中をつけ、窓の隙間から外を覗き込む。
雨のカーテンの向こう、遠くの葦の群生に埋もれる川べりの祠が見えた。
その祠の周辺の闇だけが、インクをこぼしたように妙に濃く、黒く澱んでいる気がした。
まるで見えない何かがそこに立ち並び、泥だらけの顔でじっと見つめ返しているような、強烈な視線の圧力を感じた。
中田は、引き出しから現場の古い図面と、土地の歴史を調べた資料を引っ張り出した。
以前、本社の人間がぽろりとこぼしていた言葉が気になっていた。
『あの土地は、曰く付きだからな』
資料のページをめくる。
昭和初期の古い地図。
現在、再開発予定地となっているこの場所には、かつて小さな集落があった。
だが、その集落は昭和十年代の大きな台風による大洪水で、一晩にして川の底に沈んだと記録されている。
死者・行方不明者、数十名。
中田の目が、ある一文に釘付けになった。
『……上流の裕福な町を守るため、当時の県議会議員が独断で下流の水門を閉鎖。行き場を失った濁流が、この集落を飲み込んだ』
その県議会議員の名前。
それは、中田が勤めるゼネコンの初代社長の名前だった。
中田は愕然とした。
会社は、自分たちの利益と保身のために、この土地に住んでいた人々を意図的に見殺しにしたのだ。
そして数十年が経った今、その事実を完全に隠蔽したまま、彼らの墓標とも言えるあの祠を無残に壊し、巨大な商業施設を建てようとしている。
中田自身が今日、あの若い作業員の死を書類上で消し去ろうとしたのと同じように。
ズチャ、ズチャ。
再び、泥を踏む足音が聞こえた。
今度は、壁の外からではない。
施錠されたプレハブ小屋の、内側からだった。
中田は心臓をわしづかみにされたように驚き、弾かれたように背後を振り向いた。
誰もいない。
だが、安っぽいPタイルの床の真ん中に、いつの間にか真っ黒な水溜りができている。
見ると、鉄のドアの下のわずかな隙間から、ドロドロとした真っ黒な濁水が、まるで生き物のようにじわじわと這い出してきていた。
数十年分の腐敗した水草と、川底のドブが混ざったような、強烈な泥の臭いが狭い小屋に一気に充満した。
「う、うわっ! なんだこれ!」
中田はパニックになり、後ずさりして壁に背中を強くぶつけた。
プレハブ小屋の中に流れ込む泥水の水かさは、ありえない速度で見る見るうちに増し、あっという間に中田の長靴を越えて足首まで浸かった。
ズチャ。
中田の目の前の水面に、泥の足跡がペタリとついた。
水だけが凹み、足の形を形作っている。
見えない何かが、すぐそこに立っている。
ゴボッ、ゴボッ。
溺れるような音が、四方八方から聞こえ始めた。
『苦しい』
『息が、できない』
男の声、女の声、子供の声。
無数の怨嗟の声が、雨音に混じって頭の中に直接響いた。
それは、水門を閉ざされ、泥水に飲まれて死んでいった村人たちの声だった。
彼らは、何十年も恨み続けていたのだ。
事実を隠蔽し、自分たちを犠牲にして肥え太った「会社」という怪物を。
今、目の前にいるのは、その会社の末端で、同じように真実を隠蔽しようとした中田だ。
「俺じゃない! 俺のせいじゃない!」
中田はドアノブを掴み、狂ったようにガチャガチャと回した。
だが、鍵を開けてもドアはビクともしない。
外側から、何十人もの力で押さえつけられているようだった。
泥水はすでに中田の膝の高さまで達し、部屋の中のデスクやパイプ椅子がプカプカと浮き始めていた。
ズチャ。
氷のように冷たい、力強い泥の手が、水の中から中田の足首をガシッと掴んだ。
「ひっ!」
強い力で足元をすくわれ、中田は受け身を取る暇もなく、真っ暗な濁水の中にうつ伏せに倒れ込んだ。
鼻と口に、強烈な吐き気を催す生臭い泥水が一気に入ってくる。
肺に入った水を吐き出そうと咳き込むが、口を開けた瞬間に、さらに大量の重い泥水が喉の奥へと強引に流れ込んでくる。
もがく中田の腕に、足に、背中に、底なし沼から伸びてきた無数の泥の手がべったりとまとわりつき、さらに深い水底へと一斉に引きずり込もうとする。
薄れゆく意識の中、肺が破裂しそうな激痛に耐えながら、中田は濁った水面を見た。
水面から顔を半分だけ出した、無数の泥まみれの顔、顔、顔。
老人、女、そして幼い子供たち。
彼らの白く濁った目は、決して消えることのない怨念と憎悪に満ちて中田を見下ろしていた。
(ああ、俺も……あの作業員と同じように……陸の上で溺れて死ぬのか)
それが、隠蔽に加担した自分への、避けられない報いだった。
翌朝。
雨が上がった現場に出勤してきた作業員たちは、プレハブ小屋の中で倒れている中田を発見した。
小屋の鍵は内側からかかっており、床は完全に乾いていた。
だが、中田の顔はチアノーゼで紫色に変色し、その口元には大量の乾いた泥がこびりついていた。
検死の結果、死因は「溺死」。
肺の中には、川の底の泥がぎっしりと詰まっていたという。




