第3話 床下から聞こえる返せ
健太は、重い段ボール箱を畳の上に乱暴に放り出した。
ドスッという鈍い音が、木造の古い平屋の室内に響き渡る。
音と一緒に、床から細かい埃が白く舞い上がった。
同時に、ひどくむせ返るような、古いカビと湿った土の臭いが鼻を突いた。
思わず顔をしかめて、手で鼻を覆う。
「とりあえず、これで全部か……」
ひどい湿気だった。
額に滲んだ汗を手の甲で無造作に拭った。
家賃三万円。
都心から電車を乗り継いで一時間半も離れた、山の斜面にへばりつくように建つ築五十年の平屋建て。
風呂はない。
トイレも外にある古い汲み取り式。
日当たりも絶望的に悪く、昼間でも薄暗い。
それでも、敷金礼金ゼロ、保証人不要という条件は、フリーターで消費者金融に借金を抱えている健太にとって、これ以上ないほど魅力的だった。
不動産屋の担当者は、契約の時にペンを回しながら妙に言葉を濁していた。
『まあ、古いですからね。色々と……音とか、気になるかもしれませんよ。そういうのが平気ならいいんですが』
健太は鼻で笑った。
幽霊が出るから安い、なんて都市伝説だ。
仮に出たとしても、今の自分にはどうでもいいことだった。
生きるか死ぬかの瀬戸際で、幽霊の心配などしている余裕はない。
他人の不幸より、明日の飯代の方が重要だ。
薄暗い部屋の中央を歩く。
ミシッ。
足元で、湿った木が悲鳴を上げるような嫌な音がした。
六畳間の、ちょうど真ん中あたりにある一枚の畳。
そこを踏んだ瞬間、足の裏が奇妙なほど深く沈み込んだのだ。
他の畳とは、明らかに足に伝わる感触が違っていた。
まるで、その畳の下だけ何も支えがなく、真っ暗な空洞が広がっているかのような。
健太は眉をひそめ、恐る恐るもう一度その畳の真ん中を踏んでみた。
ミシ、ギシッ。
やはり、数センチほど不自然に沈み込む。
同時に、畳の隙間から、あのひどいカビの臭いがふわりと立ち上ってきた。
(床板が腐ってんのか、これ)
舌打ちをした。
文句を言ったところで、あの不動産屋が直してくれるとは思えなかった。
まあいい。踏まなければいいだけだ。
健太は、その不気味に沈む一枚の畳を避けるようにして、部屋の隅に薄い布団を敷いた。
引っ越して三日が過ぎた。
昼夜逆転のコンビニバイトを終えて帰宅するのは、いつも明け方近くだった。
部屋の空気は、日増しに淀んでいく気がした。
換気をしても、床下から這い上がってくるような湿ったカビの臭いが消えない。
それだけではない。
部屋の隅に、長い髪の毛が落ちていることが増えた。
健太は短髪だ。
誰かを部屋に呼んだわけでもない。
それなのに、掃いても掃いても、黒くて細い髪の毛が、綿埃と一緒に隅の方へ集まっていた。
(なんだこれ、気持ち悪いな)
ほうきで乱暴に掃き出しながら、健太は舌打ちをした。
その夜。
疲労で泥のように眠っていた健太は、ふと目を覚ました。
部屋は真っ暗だった。
外は雨が降っているらしく、屋根を打つ微かな音が聞こえる。
だが、健太を起こしたのは雨音ではなかった。
耳元で、何かが聞こえた。
カサ……。
ネズミだろうか。
健太は目を閉じたまま、布団の中でじっと耳を澄ませた。
古い家だ。
ネズミくらいいるだろう、と思ったそのとき……。
……え……せ……。
声だった。
人間の、それもひどくかすれたような低い声。
全身の産毛が、ゾワリと逆立った。
誰か、この部屋にいるのか。
泥棒か。
健太は呼吸を殺し、布団を被ったまま、目だけを薄く開けた。
雨音だけが響く暗闇の中、部屋には誰も立っていない。
か……え……せ……。
声は、すぐ近くから聞こえていた。
布団のすぐ横。
あの、踏むと不自然に沈み込む、真ん中の畳の下あたりからだ。
(返せ……?)
風の音でも、ネズミの鳴き声でもない。
はっきりと、怨念のこもったような声が耳に届いた。
心臓が、肋骨を内側から叩き割るような勢いで早鐘を打つ。
健太は跳ね起き、震える手で壁をまさぐって部屋の電気をつけた。
パチンという音とともに、黄色い豆電球の光が、六畳間をぼんやりと照らし出す。
誰もいない。
床下からの声も、ピタリと止んだ。
ただ、部屋中をあのむせ返るようなカビと土の臭いだけが、異常に濃く充満していた。
その夜、健太は壁に背中を押し付けたまま、朝まで電気を消すことができなかった。
翌日の午後。
健太は、近くのホームセンターでバールを買ってきた。
大家に言うのも面倒だった。
どうせ取り合ってくれないだろうし、何より、あの声の正体を自分の目で確かめなければ気が済まなかった。
(ただのネズミか、風の通り道で変な音が鳴っただけだろう……)
恐怖を誤魔化すように自分に言い聞かせる。
バールの先を、あの沈む畳の隙間に乱暴に差し込んだ。
力を込めると、畳はあっさりと持ち上がった。
裏返した畳を見て、思わず息を呑んだ。
裏側には、びっしりと毒々しい黒いカビが生え、全体が湿って重くなっていた。
顔を背けたくなるような異臭が、一気に六畳間に広がる。
畳をどけた下には、古い木の床板が見えた。
だが、その床板の一部が、完全に腐ってボロボロに抜け落ちていた。
ぽっかりと開いた、真っ暗で不気味な四角い穴。
冷蔵庫を開けた時のように、冷たくてひどく湿った空気が、穴の奥からゆっくりと這い出してくる。
健太はゴクリと唾を飲み込み、スマホのライトをつけ、穴の中を覗き込んだ。
床下には、大量の建築廃材と、ジメジメとした黒い泥が散乱しているのが見えた。
ライトの丸い光が、泥の中に半ば埋もれた何かを捉えた。
白い、紙切れのようなもの。
健太は躊躇したが、気味の悪さよりも好奇心と苛立ちが勝った。
腕を穴に突っ込み、手を伸ばしてそれを拾い上げた。
和紙で作られた、古いお札のようなものだった。
泥と水垢でひどく黒ずんでいたが、墨で書かれた文字が、かろうじて読めた。
『返せ』
びっしりと、隙間なく『返せ』という文字が書き連ねられている。
そして、その文字の束の隅に、いくつかの名前が書かれていた。
『昭一』
『信子』
『次郎』。
古い名前だった。
手は震えなかった。
恐怖よりも、不気味さへの嫌悪感が勝っていた。
「なんだよ、これ……」
お札の裏側を見る。
裏側には、泥にまみれて、べったりと長い髪の毛の束が張り付いていた。
部屋の隅に落ちていたものと同じ、黒くて細い髪の毛。
健太は弾かれたようにお札を投げ捨てた。
お札は、再び床下の暗闇へと落ちていった。
急いで畳を戻し、その上に重い段ボール箱をいくつか積み上げた。
その日の夕方。
健太は、大家の代理をしている近所の不動産屋に乗り込んだ。
カウンター越しに、人の良さそうな初老の店主を睨みつける。
「あの部屋、何かあるだろ。床下から変なお札が出てきたぞ」
店主は困ったような顔をして、奥の帳簿を取り出した。
「ああ……見つけちゃったのかい。だから言っただろ、音が気になるかもしれないって」
店主が語った過去は、陰惨なものだった。
五十年以上前、あの家には三人の兄弟が住んでいた。
親が死んだ後、長男が遺産のすべてを独り占めにしたのだという。
次男と長女は、生活を苦にしてあの部屋で一家心中を図った。
長女は首を吊り、次男は毒を飲んだ。
「あの『返せ』っていうのは、遺産のことさ。長男はお祓いをして、あの札を床下に埋めた。でも結局、長男も数年後に狂って死んだんだよ」
健太は鼻で笑った。
「なんだよ、金の話か。馬鹿らしい」
幽霊でもなんでもいい。
金への執着で死んだ連中の怨念なら、今の自分と変わらない。
むしろ、親近感すら湧いた。
「俺には関係ないね。金なら、一円も持ってないんだから」
健太は捨て台詞を吐いて、不動産屋を出た。
夜中。
バイトを終えて帰宅すると、部屋の中の臭いがさらに強烈になっていた。
積み上げた段ボール箱の向こう。
あの畳の周辺が、異常に湿っている。
(また雨が漏ってるのか)
健太は気にしないふりをして、布団に潜り込んだ。
疲労が体を重くする。
すぐに意識が遠のき始めた。
ミシッ。
段ボール箱が、わずかに動いた音がした。
健太は目を開けた。
豆電球の薄明かりの中、段ボールの山を見つめる。
ミシッ。
ギシッ。
下の畳が、不自然に沈み込んでいる。
下から何かが、畳を押し上げようとしているのだ。
か……え……せ……。
低い、地鳴りのような声。
一人の声ではない。
男女の混ざり合ったような、複数の重みのある声。
「うるせえな!」
健太は体を起こし、怒鳴った。
「金なんてねえよ! 返せるもんなんて、何一つ持ってねえんだよ!」
自分の不幸と苛立ちを、そのまま床下の声にぶつけた。
(俺には何もない)
幽霊にすら同情してほしいくらいだった。
沈黙が訪れた。
声が止んだ。
健太は荒い息を吐きながら、布団に座り直した。
(勝った)
そう思った瞬間だった。
か……え……せ……。
声の質が変わっていた。
怒りや恨みではなく、ねっとりとした、喜びに満ちた声。
畳の上に乗せていた段ボール箱が、音を立てて崩れ落ちた。
ドサッ。
中身が床に散乱する。
同時に、あの畳が、ボコッと大きく持ち上がった。
健太は息を呑んだ。
畳の隙間から、するすると何かが這い出してきた。
黒くて細い、大量の髪の毛だった。
まるで生き物のように、畳の縁を這い、床を埋め尽くしていく。
「うわっ……!」
健太は後ずさり、壁に背中をぶつけた。
髪の毛の隙間から、白い紙切れがひらひらと舞い上がった。
昼間見た、あのお札だった。
お札は、まるで見えない手に操られるように、健太の足元に落ちた。
墨の文字が見える。
『返せ』
だが、その後ろに書かれていた名前が変わっていた。
『昭一』『信子』『次郎』という文字の上から、新しく濃い墨で書き殴られている。
はっきりと、見覚えのある文字。
『健太』
『健太』
『健太』
隙間なく、自分の名前が書き連ねられていた。
(なんで……俺の名前が)
混乱し、思考が停止する健太の耳に、あの声が直接入り込んでくる。
か……え……せ……。
お前を、よこせ。
お前の、命を。
体を。
この暗闇から抜け出すための、器を。
最初から、金など求めていなかったのだ。
彼らが何十年もずっと床下の暗闇で待っていたのは、すべてを失って、誰にも心配されない『空っぽの器』だったのだ。
自分勝手で、他人の不幸を鼻で笑う、かつての長男と全く同じ匂いのする人間を。
「ふざけんな、俺は関係ないだろ!」
健太は絶叫し、玄関へ向かって走り出そうと身を翻した。
だが、足がピクリとも動かない。
恐る恐る足元を見下ろすと、両足首にびっしりと、蛇のような黒い髪の毛が巻き付いていた。
氷のように冷たく、ひどく湿った感触。
信じられないほど強い力で、跳ね上がった畳の方へと容赦なく引きずり込まれる。
「やめろ! 離せ!」
爪を立てて床を引っ掻いたが、無駄だった。
あの真ん中の畳が、完全に垂直に跳ね上がった。
ぽっかりと開いた床下の真っ暗な大きな穴。
そこから、泥にまみれた無数の青白い手が、ウジ虫のようにうごめきながら伸びていた。
ドブ底のような強烈なカビと腐臭が、健太の顔面を覆い尽くす。
「助け……誰か!」
悲鳴は、泥まみれの冷たい手に口を塞がれて、喉の奥でくぐもった音に変わった。
そのまま、健太の体は、音もなく床下の暗闇へと一気に引きずり込まれていった。
ズンッ。
重い音がして、跳ね上がっていた畳が元通りに閉じた。
部屋の中には、何事もなかったかのように静寂が戻った。
黄ばんだ豆電球の光が、ただカビ臭い六畳間を照らしている。
床下からは、もう何の音も聞こえなかった。
ただ、部屋の隅に、黒くて長い髪の毛が一本だけ落ちていた。




