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見ているつもりが、見返されている──四谷路地裏二十夜怪談。日常を侵食する、因果と後悔が蠢く20の底知れぬ恐怖  作者: かーすけ


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第3話 床下から聞こえる返せ

 健太は、重い段ボール箱を畳の上に乱暴に放り出した。

 ドスッという鈍い音が、木造の古い平屋の室内に響き渡る。

 音と一緒に、床から細かい埃が白く舞い上がった。

 同時に、ひどくむせ返るような、古いカビと湿った土の臭いが鼻を突いた。

 思わず顔をしかめて、手で鼻を覆う。

「とりあえず、これで全部か……」


 ひどい湿気だった。

 額に滲んだ汗を手の甲で無造作に拭った。

 家賃三万円。

 都心から電車を乗り継いで一時間半も離れた、山の斜面にへばりつくように建つ築五十年の平屋建て。

 風呂はない。

 トイレも外にある古い汲み取り式。

 日当たりも絶望的に悪く、昼間でも薄暗い。

 それでも、敷金礼金ゼロ、保証人不要という条件は、フリーターで消費者金融に借金を抱えている健太にとって、これ以上ないほど魅力的だった。


 不動産屋の担当者は、契約の時にペンを回しながら妙に言葉を濁していた。

『まあ、古いですからね。色々と……音とか、気になるかもしれませんよ。そういうのが平気ならいいんですが』

 健太は鼻で笑った。

 幽霊が出るから安い、なんて都市伝説だ。

 仮に出たとしても、今の自分にはどうでもいいことだった。

 生きるか死ぬかの瀬戸際で、幽霊の心配などしている余裕はない。

 他人の不幸より、明日の飯代の方が重要だ。


 薄暗い部屋の中央を歩く。

 ミシッ。

 足元で、湿った木が悲鳴を上げるような嫌な音がした。

 六畳間の、ちょうど真ん中あたりにある一枚の畳。

 そこを踏んだ瞬間、足の裏が奇妙なほど深く沈み込んだのだ。

 他の畳とは、明らかに足に伝わる感触が違っていた。

 まるで、その畳の下だけ何も支えがなく、真っ暗な空洞が広がっているかのような。

 健太は眉をひそめ、恐る恐るもう一度その畳の真ん中を踏んでみた。

 ミシ、ギシッ。

 やはり、数センチほど不自然に沈み込む。

 同時に、畳の隙間から、あのひどいカビの臭いがふわりと立ち上ってきた。


(床板が腐ってんのか、これ)

 舌打ちをした。

 文句を言ったところで、あの不動産屋が直してくれるとは思えなかった。

 まあいい。踏まなければいいだけだ。

 健太は、その不気味に沈む一枚の畳を避けるようにして、部屋の隅に薄い布団を敷いた。


 引っ越して三日が過ぎた。

 昼夜逆転のコンビニバイトを終えて帰宅するのは、いつも明け方近くだった。

 部屋の空気は、日増しに淀んでいく気がした。

 換気をしても、床下から這い上がってくるような湿ったカビの臭いが消えない。


 それだけではない。

 部屋の隅に、長い髪の毛が落ちていることが増えた。

 健太は短髪だ。

 誰かを部屋に呼んだわけでもない。

 それなのに、掃いても掃いても、黒くて細い髪の毛が、綿埃と一緒に隅の方へ集まっていた。

(なんだこれ、気持ち悪いな)

 ほうきで乱暴に掃き出しながら、健太は舌打ちをした。


 その夜。

 疲労で泥のように眠っていた健太は、ふと目を覚ました。

 部屋は真っ暗だった。

 外は雨が降っているらしく、屋根を打つ微かな音が聞こえる。

 だが、健太を起こしたのは雨音ではなかった。

 耳元で、何かが聞こえた。

 カサ……。


 ネズミだろうか。

 健太は目を閉じたまま、布団の中でじっと耳を澄ませた。

 古い家だ。

 ネズミくらいいるだろう、と思ったそのとき……。


 ……え……せ……。

 声だった。

 人間の、それもひどくかすれたような低い声。

 全身の産毛が、ゾワリと逆立った。

 誰か、この部屋にいるのか。

 泥棒か。

 健太は呼吸を殺し、布団を被ったまま、目だけを薄く開けた。

 雨音だけが響く暗闇の中、部屋には誰も立っていない。


 か……え……せ……。


 声は、すぐ近くから聞こえていた。

 布団のすぐ横。

 あの、踏むと不自然に沈み込む、真ん中の畳の下あたりからだ。

(返せ……?)

 風の音でも、ネズミの鳴き声でもない。

 はっきりと、怨念のこもったような声が耳に届いた。


 心臓が、肋骨を内側から叩き割るような勢いで早鐘を打つ。

 健太は跳ね起き、震える手で壁をまさぐって部屋の電気をつけた。

 パチンという音とともに、黄色い豆電球の光が、六畳間をぼんやりと照らし出す。

 誰もいない。

 床下からの声も、ピタリと止んだ。

 ただ、部屋中をあのむせ返るようなカビと土の臭いだけが、異常に濃く充満していた。

 その夜、健太は壁に背中を押し付けたまま、朝まで電気を消すことができなかった。


 翌日の午後。

 健太は、近くのホームセンターでバールを買ってきた。

 大家に言うのも面倒だった。

 どうせ取り合ってくれないだろうし、何より、あの声の正体を自分の目で確かめなければ気が済まなかった。

(ただのネズミか、風の通り道で変な音が鳴っただけだろう……)

 恐怖を誤魔化すように自分に言い聞かせる。


 バールの先を、あの沈む畳の隙間に乱暴に差し込んだ。

 力を込めると、畳はあっさりと持ち上がった。

 裏返した畳を見て、思わず息を呑んだ。

 裏側には、びっしりと毒々しい黒いカビが生え、全体が湿って重くなっていた。

 顔を背けたくなるような異臭が、一気に六畳間に広がる。


 畳をどけた下には、古い木の床板が見えた。

 だが、その床板の一部が、完全に腐ってボロボロに抜け落ちていた。

 ぽっかりと開いた、真っ暗で不気味な四角い穴。

 冷蔵庫を開けた時のように、冷たくてひどく湿った空気が、穴の奥からゆっくりと這い出してくる。

 健太はゴクリと唾を飲み込み、スマホのライトをつけ、穴の中を覗き込んだ。

 床下には、大量の建築廃材と、ジメジメとした黒い泥が散乱しているのが見えた。


 ライトの丸い光が、泥の中に半ば埋もれた何かを捉えた。

 白い、紙切れのようなもの。

 健太は躊躇したが、気味の悪さよりも好奇心と苛立ちが勝った。

 腕を穴に突っ込み、手を伸ばしてそれを拾い上げた。

 和紙で作られた、古いお札のようなものだった。

 泥と水垢でひどく黒ずんでいたが、墨で書かれた文字が、かろうじて読めた。


『返せ』

 びっしりと、隙間なく『返せ』という文字が書き連ねられている。

 そして、その文字の束の隅に、いくつかの名前が書かれていた。

『昭一』

『信子』

『次郎』。

 古い名前だった。

 手は震えなかった。

 恐怖よりも、不気味さへの嫌悪感が勝っていた。


「なんだよ、これ……」

 お札の裏側を見る。

 裏側には、泥にまみれて、べったりと長い髪の毛の束が張り付いていた。

 部屋の隅に落ちていたものと同じ、黒くて細い髪の毛。

 健太は弾かれたようにお札を投げ捨てた。

 お札は、再び床下の暗闇へと落ちていった。

 急いで畳を戻し、その上に重い段ボール箱をいくつか積み上げた。


 その日の夕方。

 健太は、大家の代理をしている近所の不動産屋に乗り込んだ。

 カウンター越しに、人の良さそうな初老の店主を睨みつける。

「あの部屋、何かあるだろ。床下から変なお札が出てきたぞ」

 店主は困ったような顔をして、奥の帳簿を取り出した。

「ああ……見つけちゃったのかい。だから言っただろ、音が気になるかもしれないって」


 店主が語った過去は、陰惨なものだった。

 五十年以上前、あの家には三人の兄弟が住んでいた。

 親が死んだ後、長男が遺産のすべてを独り占めにしたのだという。

 次男と長女は、生活を苦にしてあの部屋で一家心中を図った。

 長女は首を吊り、次男は毒を飲んだ。

「あの『返せ』っていうのは、遺産のことさ。長男はお祓いをして、あの札を床下に埋めた。でも結局、長男も数年後に狂って死んだんだよ」


 健太は鼻で笑った。

「なんだよ、金の話か。馬鹿らしい」

 幽霊でもなんでもいい。

 金への執着で死んだ連中の怨念なら、今の自分と変わらない。

 むしろ、親近感すら湧いた。

「俺には関係ないね。金なら、一円も持ってないんだから」

 健太は捨て台詞を吐いて、不動産屋を出た。


 夜中。

 バイトを終えて帰宅すると、部屋の中の臭いがさらに強烈になっていた。

 積み上げた段ボール箱の向こう。

 あの畳の周辺が、異常に湿っている。

(また雨が漏ってるのか)

 健太は気にしないふりをして、布団に潜り込んだ。

 疲労が体を重くする。

 すぐに意識が遠のき始めた。


 ミシッ。

 段ボール箱が、わずかに動いた音がした。

 健太は目を開けた。

 豆電球の薄明かりの中、段ボールの山を見つめる。

 ミシッ。

 ギシッ。

 下の畳が、不自然に沈み込んでいる。

 下から何かが、畳を押し上げようとしているのだ。


 か……え……せ……。


 低い、地鳴りのような声。

 一人の声ではない。

 男女の混ざり合ったような、複数の重みのある声。

「うるせえな!」

 健太は体を起こし、怒鳴った。

「金なんてねえよ! 返せるもんなんて、何一つ持ってねえんだよ!」

 自分の不幸と苛立ちを、そのまま床下の声にぶつけた。


(俺には何もない)

 幽霊にすら同情してほしいくらいだった。

 沈黙が訪れた。

 声が止んだ。

 健太は荒い息を吐きながら、布団に座り直した。

(勝った)

 そう思った瞬間だった。


 か……え……せ……。


 声の質が変わっていた。

 怒りや恨みではなく、ねっとりとした、喜びに満ちた声。

 畳の上に乗せていた段ボール箱が、音を立てて崩れ落ちた。

 ドサッ。

 中身が床に散乱する。

 同時に、あの畳が、ボコッと大きく持ち上がった。

 健太は息を呑んだ。

 畳の隙間から、するすると何かが這い出してきた。

 黒くて細い、大量の髪の毛だった。

 まるで生き物のように、畳の縁を這い、床を埋め尽くしていく。


「うわっ……!」

 健太は後ずさり、壁に背中をぶつけた。

 髪の毛の隙間から、白い紙切れがひらひらと舞い上がった。

 昼間見た、あのお札だった。

 お札は、まるで見えない手に操られるように、健太の足元に落ちた。

 墨の文字が見える。


『返せ』


 だが、その後ろに書かれていた名前が変わっていた。

『昭一』『信子』『次郎』という文字の上から、新しく濃い墨で書き殴られている。

 はっきりと、見覚えのある文字。


『健太』

『健太』

『健太』


 隙間なく、自分の名前が書き連ねられていた。

(なんで……俺の名前が)

 混乱し、思考が停止する健太の耳に、あの声が直接入り込んでくる。

 か……え……せ……。

 お前を、よこせ。

 お前の、命を。

 体を。

 この暗闇から抜け出すための、器を。


 最初から、金など求めていなかったのだ。

 彼らが何十年もずっと床下の暗闇で待っていたのは、すべてを失って、誰にも心配されない『空っぽの器』だったのだ。

 自分勝手で、他人の不幸を鼻で笑う、かつての長男と全く同じ匂いのする人間を。


「ふざけんな、俺は関係ないだろ!」

 健太は絶叫し、玄関へ向かって走り出そうと身を翻した。

 だが、足がピクリとも動かない。

 恐る恐る足元を見下ろすと、両足首にびっしりと、蛇のような黒い髪の毛が巻き付いていた。

 氷のように冷たく、ひどく湿った感触。

 信じられないほど強い力で、跳ね上がった畳の方へと容赦なく引きずり込まれる。

「やめろ! 離せ!」

 爪を立てて床を引っ掻いたが、無駄だった。


 あの真ん中の畳が、完全に垂直に跳ね上がった。

 ぽっかりと開いた床下の真っ暗な大きな穴。

 そこから、泥にまみれた無数の青白い手が、ウジ虫のようにうごめきながら伸びていた。

 ドブ底のような強烈なカビと腐臭が、健太の顔面を覆い尽くす。


「助け……誰か!」

 悲鳴は、泥まみれの冷たい手に口を塞がれて、喉の奥でくぐもった音に変わった。

 そのまま、健太の体は、音もなく床下の暗闇へと一気に引きずり込まれていった。


 ズンッ。

 重い音がして、跳ね上がっていた畳が元通りに閉じた。

 部屋の中には、何事もなかったかのように静寂が戻った。

 黄ばんだ豆電球の光が、ただカビ臭い六畳間を照らしている。

 床下からは、もう何の音も聞こえなかった。

 ただ、部屋の隅に、黒くて長い髪の毛が一本だけ落ちていた。


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