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見ているつもりが、見返されている──四谷路地裏二十夜怪談。日常を侵食する、因果と後悔が蠢く20の底知れぬ恐怖  作者: かーすけ


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第2話 雨夜の踏切に立つ母子

 佐々木は、オフィスビルの重いガラス扉を押し開けた。

 生ぬるい風が、どっと吹き込んでくる。

 深夜零時過ぎ。

 雨が降っていた。

 アスファルトを叩きつける大粒の雨。

 駅までの道のりは、絶望的なほど遠く感じられた。


 舌打ちをして、近くのコンビニへ駆け込む。

 五百円の透明なビニール傘を買った。

 傘を開くと、バチバチとけたたましい雨音が頭上を打つ。

 手首にずっしりと伝わる振動。

 疲労で感覚の鈍った体には、それすらも煩わしかった。


 駅に着く頃には、スーツの肩がすっかり濡れていた。

 改札口の電光掲示板を見上げる。

『終電は発車いたしました』

 赤い文字が、無機質にスクロールしている。

(またか)

 奥歯を強く噛み締めた。

 こめかみの奥が、ドクドクと痛む。

 タクシー乗り場には、すでに長い列ができていた。

 雨の夜の終電逃し。

 最悪のパターンだった。


 列の最後尾に並んだ。

 傘の表面をバチバチと打つ雨音が、周囲の音をすべて掻き消していく。

 ポケットから、湿ったスマホを取り出した。

 暗い画面をタップする。

 妻からのメッセージが一つだけ残っていた。

『夕飯、ラップして冷蔵庫に入れておきます。おやすみなさい』

 三時間前の送信記録。

 返信はしなかった。

 既読をつけたところで、何か言葉が返ってくるわけではない。

 どうせ今頃は、小学生の娘と一緒に深い眠りについているだろう。


 仕事に追われ、疲れ果て、週末も寝てばかりいた。

 家族との会話は極端に減っていた。

 自分を待つ人間は、あの家にはいない。

(帰る意味なんて、あるのか)

 胸の奥に、冷たくて重い、泥のような虚無感が広がっていく。

 ネクタイを少し緩めた。

 それを振り払うように、白く濁ったため息を吐き出した。

 吐き出した息は、すぐに雨に溶けて消えた。


 四十分後。

 ようやく佐々木の順番が回ってきた。

 黒いセダン型のタクシー。

 後部座席に潜り込むと、ひんやりとした冷房の風が首筋を撫でた。

「どちらまで?」

 初老の運転手が、バックミラー越しに聞いてきた。

 感情の読めない、平坦な声だった。

「……高円寺駅の、北口まで」

「かしこまりました」


 車が静かに走り出した。

 深夜の道路は不気味なほど空いていた。

 すれ違う車もない。

 車内は、外の激しい雨音が嘘のように静まり返っていた。

 聞こえるのは、低いエンジン音。

 そして、フロントガラスの雨粒を弾き飛ばすワイパーの単調なリズムだけ。

 キュッ、キュッ。

 一定のテンポで左右に動く黒いゴムの束。

 薄暗い車内でそれを見つめているうちに、強烈な睡魔が襲ってきた。

 まぶたが、鉛のように重くなる。

 張り詰めていた緊張が、冷房の冷気とともに急速に溶けていく。

 首の力が抜け、頭が窓ガラスにコツンとぶつかった。

 ガラスは氷のように冷たかった。

 しかし、窓枠から伝わってくる微かな振動が、揺りかごのようにやけに心地よかった。


 どれくらい眠っていたのだろうか。

 不意に、体が前のめりに揺れた。

 ブレーキの反動。

 佐々木はハッと目を覚ました。

「着きましたか?」

 寝ぼけた声が出た。

「いえ。踏切です」

 運転手が、前を向いたまま短く答えた。


 窓の外を見る。

 カン、カン、カン。

 赤い警告灯が、雨の夜の闇の中で規則正しく点滅していた。

 遮断器が下りている。

 ワイパーが、フロントガラスの雨粒を拭き取る。

 その瞬間だけ、外の景色がクリアに見えた。

 キュッ。

 ワイパーが動く。


 踏切の向こう側。

 遮断器のすぐ横に、人が立っていた。

 赤いワンピースを着た女だった。

 雨の中、傘も差さずにうつむいている。

 長い髪が濡れて、顔にべったりと張り付いていた。

 女の足元には、小さな子供がいる。

 黄色のレインコート。

 女は、子供の手をしっかりと握っていた。


(こんな夜中に?)

 佐々木は目を疑った。

 時計を見る。

 午前一時半。

 雨は相変わらず激しく降っている。

「運転手さん」

 思わず声をかけた。

「はい」

「あそこの親子、傘も差してないですね。乗せてあげられないですか?」

 佐々木は前方を指さした。

 運転手は、ゆっくりと首を傾げた。

「親子?」

「ほら、あそこの遮断器の横ですよ。赤い服の女の人と、子供」

 運転手は、しばらく前をじっと見ていた。

 やがて、バックミラー越しに佐々木を見た。


「お客さん」

 平坦な声が、車内に響く。

「誰もいませんよ」

 佐々木の心臓が、ドクンと跳ねた。

「いや、いるじゃないですか。あそこに」

 身を乗り出し、フロントガラス越しに指をさす。

 ワイパーが動く。

 キュッ。

 やはり、いる。

 赤いワンピースの女。黄色のレインコートの子供。

 微動だにせず、下を向いたまま立っている。


「いませんよ」

 運転手は、一切の感情を交えずに繰り返した。

 声のトーンが、先ほどから一ミリも変わっていない。

「あそこには、誰も」


 背筋に、冷たい汗がツーッと流れ落ちた。

 見えないのか。

 それとも、見えていないふりをしているのか。

 横目で盗み見た運転手の横顔は、不気味なほど無表情だった。

 瞬きすらしていないように見える。

 ただ、まっすぐに前方の踏切だけを見据えていた。


 カン、カン、カン。

 踏切の警報音が、やけに大きく響く。

 赤い警告灯の光が、水滴のついたフロントガラスを透過する。

 暗い車内が、定期的に血のような赤色に染まった。


 遠くから、電車の走る地響きが近づいてきた。

 ガタン、ゴトン。

 深夜の貨物列車だろうか。

 猛スピードで、踏切を通過していく。

 轟音が、雨音を切り裂いた。

 佐々木は、窓ガラスに顔を近づけた。

 通り過ぎる電車の隙間から、赤い服の女が見え隠れする。


 ガタン、ゴトン。

 電車の風圧で、女の長い髪がフワリと揺れた。

 その時だった。

 うつむいていた女が、ゆっくりと顔を上げた。

 そして、佐々木の方を真っ直ぐに見た。

 距離があるはずなのに、女の顔がはっきりと見えた。

 青白い、蝋人形のような肌。

 目は、大きく見開かれていた。

 瞳孔が開いた、漆黒の目。


(見られている)

 佐々木は息を呑んだ。

 女の口元が、わずかに動く。

 雨音と電車の轟音にかき消されて、声は聞こえない。

 だが、その唇の動きは、確かに言葉を紡いでいた。


『み・つ・け・た』


 全身の毛穴が粟立った。

 女の横にいた子供も、顔を上げた。

 レインコートのフードの下から覗く、無機質な黒い瞳。

 子供の顔は、なぜか佐々木の娘に酷似していた。

「うわっ!」

 佐々木はシートに背中を叩きつけた。

 呼吸が荒くなる。

 酸素が足りない。


 カン、カン……。

 踏切の音が鳴り止んだ。

 遮断器が、ゆっくりと上がっていく。

「出ますよ」

 運転手が、ギアを入れた。

 車が前進する。

 踏切を渡る時、佐々木は思わず目を閉じた。

 すぐ横を通り過ぎる感覚。

 カビのような、ひどく古い泥の匂いが、エアコンの風に混じって鼻を突いた。


 車が踏切を抜け、スピードを上げる。

 恐る恐る、後ろを振り返った。

 テールランプの赤い光が、雨のアスファルトを照らしている。

 誰もいなかった。

 赤い服の女も、子供も。


「……運転手さん」

 震える声で呼びかけた。

「はい」

「あそこの踏切……何か、あるんですか」

 運転手は、しばらく黙っていた。

 ワイパーの音だけが響く。

 キュッ、キュッ。


「十数年前ですよ」

 ぽつりと、運転手が口を開いた。

「あそこで、母親と小さな子供が、電車に飛び込んだんです」

 佐々木は息を止めた。

「子供は即死。でも、母親だけが奇跡的に助かった。踏切の端に弾き飛ばされてね」

「……」

「それからですよ。雨の夜になると、あそこに立つようになるんです。赤い服を着た女と、子供が」

 運転手の声には、相変わらず抑揚がない。

 まるで、ただの天気予報を読み上げているようだった。


「なぜ、立ってるんですか」

 佐々木は、極度に乾いた喉から絞り出すように聞いた。

 声がかすれていた。

「さあねえ」

 運転手は、ゆっくりとハンドルを切りながら答えた。

「置いていかれた子供が寂しがっているのか。それとも、母親が一緒に連れて行く『代わり』を探しているのか。誰にもわかりませんよ」


 代わり。

 その言葉が、佐々木の脳裏にべっとりとこびりついた。

 自分のように、家族との繋がりを失いかけている人間。

 帰る場所を見失っている人間。

 そんな隙のある人間を、あの暗い踏切でずっと待っているのだろうか。

『み・つ・け・た』

 女の不気味に歪んだ唇の動きが、脳裏にフラッシュバックした。


 車は、見慣れた住宅街へと入っていく。

「この先の角でいいですよ」

 佐々木は急いで財布を取り出した。

 千円札を数枚渡し、お釣りを受け取らずに車を降りる。

 冷たい雨が、容赦なく体を叩いた。

 ビニール傘を開く手すらもどかしい。


 走り出すタクシーのテールランプを見送る。

 路地裏は、不気味なほど静かだった。

 街灯の光が、水たまりに反射している。

 自宅のマンションまで、歩いて三分。

 足早に歩きながら、佐々木はスマホを取り出した。

 妻へのメッセージ画面を開く。

 指が震えて、うまくフリックできない。


『今帰る』

 それだけ打って、送信ボタンを押した。

 既読はつかない。

 マンションのエントランスに入る。

 オートロックのパネルに暗証番号を打ち込む。

 ピピピ、ガチャ。

 重い自動ドアが開く。

 エレベーターに乗り込み、五階のボタンを押す。

 ウィーンという機械音が、やけに耳障りだった。


 五階の廊下。

 外廊下を叩く雨の音が、再び大きく聞こえ始めた。

 自分の部屋の前に立つ。

 表札には『佐々木』と書かれている。

 濡れた鍵を取り出し、冷たい鍵穴に差し込んで回した。

 ドアを押し開ける。

 真っ暗な玄関。

「……ただいま」

 誰に言うでもなく、小さくつぶやいた。

 返事はない。

 湿った革靴を脱ぎ、リビングへのドアを開ける。

 ここも真っ暗だった。

 かすかに、キッチンの奥で冷蔵庫のモーター音だけがブーンと響いている。


 壁のスイッチを手探りで見つけ、押し込んだ。

 パチリ。

 LEDの白く明るい光が、見慣れた部屋を照らし出した。

 食卓のテーブルの上には、ラップをかけられた夕食のおかずがぽつんと置かれている。

 佐々木は、大きく息を吐き出した。

(気のせいだ。ただの幻覚だ。疲れていただけなんだ)

 自分にそう言い聞かせるように心で繰り返した。


 濡れたジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを緩めた。

 そのまま、リビングのソファに深く腰掛ける。

 緊張の糸が切れた瞬間、全身の疲労がどっと押し寄せてきた。

 頭を背もたれに預け、ゆっくりと目を閉じた。

 すると、暗い視界の裏側に、再びあのワイパーの動きが蘇ってくる。

 キュッ、キュッという音が、耳の奥にこびりついて離れない。


 その時だった。

 ポツ、ポツ。

 微かな音が、背後から聞こえた。

 ベランダに繋がる窓ガラスの方からだ。

 雨音とは違う、何かを叩くような音。


 ゆっくりと、振り返る。

 カーテンの隙間から、窓ガラスが見えた。

 外は真っ暗な夜の闇。

 だが、窓ガラスの向こう側に、何かがいる。

 赤い布のようなもの。

 そして、小さな黄色い影。

 五階の窓の外。あるはずのない足場。


 ポツ、ポツ。

 それは、風で打ち付けられた水滴の音ではなかった。

 小さな、ひどく冷たい手が、外側から窓ガラスを規則正しく叩いている音だった。

 佐々木は立ち上がろうとした。

 逃げなければ……。

 だが、足にまったく力が入らない。

 金縛りに遭ったように、指先ひとつ動かすことができなかった。


 カーテンの細い隙間から、青白い顔がヌルリと覗き込んだ。

 あの、踏切にいた赤い服の女。

 見開かれた、白目のない漆黒の目が、佐々木を真っ直ぐに射抜いている。

 女の歪んだ口が、ゆっくりと動いた。

 厚いガラス越しに、頭の中に直接響くような、かすかな声が聞こえた。


「か・わ・り」


 窓ガラスに、べっとりと濡れた手形がいくつもついた。

 大人の手。

 そして、小さな子供の手。

 佐々木は、喉の奥で声にならない悲鳴を上げながら、ただその絶望的な光景を見つめることしかできなかった。

 部屋の中の空気が、急激に氷のように冷えていく。

 古い井戸の底のようなカビと、生臭い泥の匂いが、逃げ場のない狭いリビングを完全に満たしていった。



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