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見ているつもりが、見返されている──四谷路地裏二十夜怪談。日常を侵食する、因果と後悔が蠢く20の底知れぬ恐怖  作者: かーすけ


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第1話 灯り障子の女

 秋山美波は、軋む木造階段を一段ずつ、重い足取りで上っていた。


 築四十年を超える古いアパート。

 湿ったカビと埃、それに少しの錆が混じったような匂いが鼻をつく。

 深夜十一時。

 今日もまた、日付が変わる直前の終電一本前の電車で帰ってきた。

 ささくれだった手すりに触れると、ざらりとした木の冷たい感触が、手のひらから伝わってくる。


「ふぅ……」

 一つ息を吐き出す。

 足元には、薄暗い裸電球の光が落ちている。

 自分の影が、古びたモルタルの壁に長く伸びていた。


 鍵穴に鍵を差し込み、回す。

 ガチャリという無機質な音が、静まり返った廊下に響いた。

 重い鉄製のドアを押し開けると、冷たい空気が頬を撫でる。

 一日中閉め切られていたワンルームの室内はさらに冷え切っていた。

 よどんだ空気が足元にまとわりついてきた。


 靴を脱ぎ、鞄を床に放り投げる。

 どさっという音が、部屋の隅に吸い込まれて消えた。

(今日も、何もできなかったな)

 ため息と一緒に、胃の奥がきりきりと痛む。


 中堅出版社の編集部に配属されて半年。

 上京して手に入れたはずの華やかな世界は、ひたすら地味で神経をすり減らす雑務の連続だった。

 誰かに必要とされている実感もないまま、ただ時間だけが過ぎていく。

 薄い壁の向こうからは、隣人の生活音すら聞こえない。

 東京という巨大な街の底で、自分だけがぽつんと取り残されているような感覚だった。


 美波はネクタイを緩めるように、きつく結んでいた髪をほどいた。

 窓際のカーテンを開ける。

 向かいには、手を伸ばせば届きそうな距離に、別のアパートが建っている。

 同じような、昭和の香りが残る木造二階建て。


 ふと、視線が止まった。

 向かいの二階。

 美波の部屋とちょうど同じ高さにある窓。

 そこだけ、不自然に明るかった。

 薄黄色の、ぼんやりとした光。

 白熱灯の揺れるような明かりが、障子越しに漏れている。

(あれ、向かいって、空き部屋じゃ……)

 入居した時、大家が確かそう言っていたはずだ。

『お向かいさんは夜逃げしちゃってねえ。今、誰もいないから静かだよ』


 誰か越してきたのだろうか。

 障子には、小さな穴がいくつか開いている。

 その穴から、チカチカとした光が漏れ出していた。

 じっと見つめていると、障子の奥で何かが動いた。

 影。

 人の形をした黒い影が、障子に薄く映り込んでいる。

(……女の人?)

 影の輪郭から、長い髪が垂れているのがわかった。

 部屋の中を歩き回るでもなく、ただじっと障子の前に立っている。

 見知らぬ他人の影。

 それだけのことなのに、なぜか目が離せなかった。

 じわじわと、背筋に冷たいものが這い上がった。


 影の『首』のあたりが、妙な角度に曲がっていた。

 普通の人間の骨格ではありえない、くの字の折れ方。

 ゴクリ、と唾を飲み込んだ。

 喉が異常に乾いていた。

 美波は慌ててカーテンを閉めた。

 シャッという音が、やけに大きく聞こえた。

 心臓の鼓動が、耳の奥でドクドクと鳴っていた。


 翌日。

 オフィスの蛍光灯は、無機質で白々しい光を放っていた。

 あちこちで鳴り響く電話のコール音。

 キーボードを乱暴に叩く乾いた音。

 誰かの苛立った舌打ち。

 絶え間なく押し寄せる仕事のノイズが、美波の神経をチクチクと逆撫でする。

 安いインスタントコーヒーの焦げた匂いが、胃のむかつきをさらに悪化させていた。


「秋山さん、このゲラ、今日の午後イチまでに確認お願いね」

「はい、わかりました」

 先輩編集者の高い声に、美波は反射的に頭を下げた。

 手渡された紙の束を受け取ると、PCのモニターへと視線を戻す。

 文字を追う目がひどく霞んでいる。

 まぶたの裏には、目を閉じても昨夜の光景が焼き付いていた。

 あの障子に張り付いていた、くの字に折れた黒い影。

 それが頭から離れず、明け方までほとんど眠れなかった。


「秋山さん、なんか疲れてるみたいね」

 隣のデスクの先輩、佐藤が声をかけてきた。

 手には、コーヒーの入った紙コップを持っている。

「あ、すみません。ちょっと寝不足で」

「もしかして、あのボロアパートのせい? 引っ越せばいいのに」

「家賃が安いので……それに、寝るだけですから」

 愛想笑いを浮かべながら、美波はモニターに視線を戻した。

(寝るだけ、か)

 あの部屋に帰るのが、少しだけ憂鬱になっていた。


「そういえば、向かいの部屋に誰か越してきたみたいなんです」

 ふと、口からそんな言葉が漏れていた。

「へえ。どんな人?」

「姿は見てないんですけど。障子越しに影だけ見えて」

 佐藤はコーヒーを一口飲み、眉を寄せた。

「障子? 今時珍しいね。でも、あんまり覗き見みたいなことしない方がいいよ。トラブルの元だから」

「……覗いてなんかいませんよ。ただ、見えちゃっただけで」

 声が、少し尖ってしまった。

 佐藤は小さく肩をすくめ、自分のデスクに戻っていった。

(覗いていたわけじゃない)

 美波は心の中で反芻した。

 あの首の折れたような影が、どうしても気になっただけ。


 その夜。

 帰り道は、昨夜よりもぐっと冷え込んでいた。

 四谷の駅を離れ、入り組んだ路地裏へと入るにつれて、街の喧騒は遠ざかっていく。

 等間隔に並んだ古い街灯の下を歩く自分の足音が、ペタ、ペタとアスファルトに虚しく響く。

 すれ違う人は誰もいない。

 伸びたり縮んだりする自分の影を見つめているうち、足の感覚が麻痺していくような錯覚を覚えた。


 アパートの前に着いた。

 無意識に顔を上げていた。

 向かいの二階。

 昨日と同じ、薄黄色の光がぼんやりと灯っている。

(点いてる)

 美波は息を止め、逃げるように自分の部屋のドアを開けた。

 真っ暗な室内。

 冷たい空気がドッと押し寄せる。

 電気をつけるより先に、吸い寄せられるように窓辺へと向かっていた。


 カーテンの隙間から、そっと向かいを見る。

 障子には、やはりあの影が映っていた。

 昨日と全く同じ位置、同じ姿勢。

 首が、ありえない角度に折れ曲がっている。

(おかしい)

 一晩中、ずっとあそこに立っているわけがない。

 人形か何かだろうか。

 それにしては、輪郭がリアルすぎる。


 微かに音がした。

 ギシ……ギシ……。

 古い木材が軋むような、乾いた音。

 向かいの部屋から聞こえてくるのか、自分のアパートからなのかわからない。

 ただ、その音に合わせて、障子の影がわずかに揺れていた。

(揺れてる?)

 首を吊っている人間が、空中で揺れているような。

 その想像に行き着いた瞬間、ぞわりと鳥肌が立った。

 息が浅くなる。

 肺に空気が入ってこない。


 美波は後ずさり、壁のスイッチを手探りした。

 パチリと音がして、蛍光灯が部屋を照らす。

 眩しさに目を細めた。

 光の中だと、少しだけ安心できた。


 翌日の日曜日。

 美波は一階に住む大家の部屋を訪ねた。

 小太りで、いつも愛想のいい初老の女性。

「大家さん、ちょっとお聞きしたいんですけど」

「あら、秋山さん。どうしたの?」

 大家は、手に持っていたほうきを傍らに立てかけた。

「向かいのアパート、二階の部屋って、誰か住んでますか?」

「向かい? ああ、田代さんのいた部屋ね。いや、誰も住んでないはずよ」

「でも、夜になると電気が点いてて……」


 大家の顔から、すっと笑顔が消えた。

 しわの刻まれた顔が、急にこわばった。

「……秋山さん、あんまり見ない方がいいわよ」

「え?」

「田代さん、夜逃げしたって言ったでしょ。あれ、嘘なの」

 大家は周囲を気にするように声を落とした。

「あの部屋でね……女の人が亡くなったのよ」

 ドクン、と心臓が跳ねた。

「亡くなった……?」

「そう。首吊ってね」

 大家の言葉が、耳の奥で反響する。

 首を吊って。


「田代さんはね、奥さんがいるのに、別の女の人とあの部屋で会ってたの。でも、別れ話がこじれて……ある夜、女の人が、あそこの鴨居でね」

 大家はしわがれた手で、自分の首のあたりをトントンと叩いた。

「田代さんは、宙に浮いた彼女を見つけて、警察を呼ぶ前に逃げちゃったのよ。だから、あそこは今も借り手がついてないの。お祓いもしたんだけどねえ」


 足元から、這い上がるような強烈な寒気を感じた。

 あの影。

 首が折れ曲がって、微かに揺れていた黒いシルエット。

 あれは、首を吊った女の……。

 ドクン、ドクンと耳の奥で血の巡る音がする。

「だからね、見ちゃダメよ。ああいうのは、こっちが見ていると、向こうからも見られるようになるからね」

 大家の言葉が、呪いのように重くのしかかった。

(見ていると、見られる)

 好奇心で覗いていた自分が、実は最初から見られていたのではないか。


 その日の夜。

 美波は部屋の電気をつけず、ベッドの上にうずくまっていた。

 カーテンはしっかりと閉めておいた。

 見なければいい。

 そう言い聞かせても、意識は窓の外へ向かってしまう。


 ギシ……ギシ……。

 また、あの軋む音が聞こえる。

 今日は、昨日よりも大きく近く聞こえた。

 まるで、窓のすぐ外で鳴っているような。

(気のせいよ。古いアパートだから)

 毛布を頭から被り、目を閉じる。

 しかし、音は止まない。

 ギシ……ギシ……。


 ふと、別の音が混じった。

 カリ、カリカリ……。

 何か硬いもので、ガラスを引っ掻くような音。

 息が止まりそうになる。

 音は、窓から聞こえていた。

 美波の部屋の窓から。


(窓は、二階なのに)

 誰かが外から引っ掻いている?

 ありえない。


 カリカリ……。

 震える手で、毛布を少しだけ下ろす。

 真っ暗な部屋の中で、カーテンの隙間から、薄黄色の光が差し込んでいた。

 向かいの障子の光。

 その光に照らされて、窓ガラスに何かが張り付いているのが見えた。

 黒い影。

 人間の形をした、黒い影。

 首が、ありえない角度に曲がっている。


「ひっ……!」

 喉の奥から、短い悲鳴が漏れた。

 影は、向かいの部屋にいるのではなかった。

 美波の部屋の窓の、すぐ外側に張り付いていた。

(どうして……)

 パニックになり、ベッドから飛び起きる。

 電気をつけようと壁を手探りするが、手が震えてスイッチが見つからない。


 窓ガラスに張り付いた影が、ゆっくりと動いた。

 長い髪が、窓にこすれる音がする。

 そして、影の顔のあたりが、美波の方を向いた。

 暗闇の中で、目だけがギラリと光った気がした。

(見られている)

 大家の言葉が蘇った。

『見ていると向こうからも見られるようになるから』

 覗いていたつもりが、覗かれていたのだ。

 初めからずっと。

 あの障子の穴から、女はこちらを見ていた。


 ギシ……。

 窓が、ゆっくりと横にスライドする音がした。

 鍵はかけていたはずなのに。

「やめ、て……」

 声が震えた。

 隙間から、冷たくて湿った風が吹き込んできた。

 カビと、埃と、そして古い血のような匂い。

 影が、部屋の中に入り込もうとしている。

 くの字に折れ曲がった首が、窓枠をすり抜けてくる。


 美波は後ずさり、背中を冷たい壁にぶつけた。

 逃げ場はない。

 玄関までは遠すぎる。

 ワンルームの狭い部屋の中で、黒い塊が蠢いている。

 影は、ずるり、ずるりと、重い何かを引きずるように床を這って近づいてくる。

 畳をこする音が、耳元で響く。


 その時、美波は暗闇の中であることに気がついた。

 這ってくる影の輪郭。

 髪型。

 きつく結んでいた髪をほどいたあとの少し癖のある長い髪。

 そして、怯えるように肩をすくめるその華奢な肩のライン。

(私に……似てる?)

 誰かに必要とされたくて、でも都会の片隅で一人ぼっちで縮こまっていた、自分自身の姿に。

 影が、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、その顔が美波の目の前に迫る。

 真っ黒な顔の中で、歪んだ口元だけが、三日月のように吊り上がっていた。


「みぃつけた」

 耳元で、囁くような声がした。

 首の骨が鳴る、乾いた音が部屋に響き渡る。

 美波の意識は、そこで暗転した。


 翌朝。

 抜けるような青空が広がる、乾いた朝だった。

 アパートの管理会社から依頼を受けた業者が、美波の部屋の鍵をガチャリと開けた。

 無断欠勤を不審に思い、何度電話をかけても繋がらないことを心配した会社からの安否確認の依頼だった。


 部屋の中に、秋山美波の姿はなかった。

 荷物もそのまま、財布も携帯電話もテーブルの上に置かれたまま。

 ただ、窓際のカーテンが開け放たれ、向かいのアパートの窓が見えていた。


 向かいの部屋の障子には、小さな穴がいくつか開いている。

 そして、その障子には、新しい影が一つ、薄く映り込んでいる。

 首をくの字に折り曲げた、長い髪の女の影。

 その影は、じっとこちらを見つめているようだった。




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