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見ているつもりが、見返されている──四谷路地裏二十夜怪談。日常を侵食する、因果と後悔が蠢く20の底知れぬ恐怖  作者: かーすけ


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第10話 四号室だけ聞こえる呼吸

 築四十年を超えるその学生寮は、外壁のモルタルが至る所で剥がれ落ち、まるで皮膚病を患った巨大な獣のように見えた。


 大輔が案内されたのは、二階のいちばん奥にある「四号室」だった。

 田舎の高校を卒業し、都内の私立大学に進学したばかりの大輔にとって、家賃の安いこの寮は唯一の選択肢だった。

 六畳一間の和室。

 備え付けの古いスチール机と、黄ばんだ畳。

 壁は安っぽいベニヤ板で仕切られているだけで、隣の部屋の生活音が筒抜けになるような劣悪な環境だった。


「ここが君の部屋だ。前に入ってた奴が急に実家に帰っちまってね。掃除は一応してあるが、足りないものは自分で揃えてくれ」

 寮長の中年男は、そう言って鍵を放り投げると、そそくさと一階へ下りていった。

 大輔は重いため息をつき、段ボール箱を畳の上に置いた。

 壁には、前の住人が残していったのか、数年前の古いカレンダーが画鋲で留められたままになっていた。

 角が丸まり、すっかり色褪せている。

 大輔はそれを外そうと手を伸ばしたが、画鋲が錆び付いていて、壁に固く食い込んでいた。

 無理に引っ張るとベニヤ板ごと剥がれそうだったので、そのままにしておくことにした。


 荷解きを終えた夕方、大輔は挨拶のために両隣の部屋のドアをノックした。

「……はい」

 三号室のドアが細く開き、神経質そうな眼鏡をかけた先輩が顔を出した。

「あ、今日から四号室に入った大輔です。よろしくお願いします」

 大輔が愛想笑いを浮かべて頭を下げると、三号室の男は一瞬、ギョッとしたように目を見開いた。

「四号室……。君、あそこに入ったの?」

「ええ、まあ。ここしか空いてなかったみたいで」

 男は何も言わず、ただ哀れむような、あるいは汚いものを見るような目で大輔を一瞥すると、「そう。よろしく」とだけ言って、逃げるようにドアを閉めた。


 五号室の住人は留守のようだった。

 都会の人間は冷たいと聞いていたが、あんな露骨な態度を取られるとは思わなかった。

 田舎では「村八分」にならないよう、常に空気を読んで周囲に同調して生きてきた大輔にとって、誰かに嫌われることは最も恐ろしいことだった。

「気に障るようなこと、何かしたかな……」

 大輔は不安を抱えたまま四号室に戻り、薄いドアを閉めた。

 ドアの隙間からは、どこから入り込むのか、ヒュー、ヒューと冷たい隙間風が吹き込んでくる。

 四月だというのに、部屋の中はやけに底冷えがした。


 その夜からだった。

 奇妙な音が聞こえ始めたのは。

 深夜一時。

 大輔が布団に入り、うとうとし始めた頃だった。


 ――スーッ、ハァーッ……。

 薄いベニヤ壁の向こうから、誰かの寝息が聞こえてきた。

 三号室の男のものだろうか。

 壁が薄いから仕方がない。

 大輔は自分にそう言い聞かせ、耳栓をして寝返りを打った。

 だが、その「呼吸音」は、耳栓を通り抜けて、直接脳内に響いてくるような不気味な質量を持っていた。


 ――スーッ、ハァーッ……。

 深く、重い呼吸。

 それは、健康な人間の寝息というよりも、病人が苦しげに息を吐き出しているような、粘り気を帯びた音だった。

 大輔は自分の口元を布団で覆い、息を潜めた。

 すると、壁の向こうの呼吸音も、ピタリと止まった。

「……え?」

 偶然だろうか。

 大輔が恐る恐る、小さく息を吐き出すと。

 ――ハァーッ……。

 壁の向こうも、それに合わせるように息を吐いたのだ。


 大輔の背筋に、ゾクリと冷たいものが走った。

 隣の住人は、まさか壁に耳を当てて、こちらの呼吸を窺っているのだろうか。

 気持ち悪い。

 大輔は恐怖をごまかすように、布団を頭から被った。

 その夜は、結局朝まで、壁の向こうと自分の呼吸が奇妙に同調し続けるのを感じながら、浅い眠りを繰り返すことになった。


 数日が経つと、壁からの音は呼吸だけではなくなった。

 ボソボソという、複数の人間のくぐもった話し声が聞こえてくるようになった。

『……またあいつ、一人で飯食ってたぞ』

『田舎者だからな。ダサいんだよ』

『早く出ていけばいいのに』

 言葉の端々が、ノイズのように途切れ途切れに聞こえてくる。

 それは紛れもなく、大輔への陰口だった。


 大輔は布団の中で身をすくめた。

 声は、右の三号室からも、左の五号室からも聞こえてくる。

 彼らは壁越しに、まるで大輔を挟み込むようにして悪口を言い合っている。

「……俺が何をしたって言うんだよ……」

 大輔は耳を塞いだが、その声はベニヤ板を伝わり、床を伝わり、部屋全体に反響しているかのように響き続けた。


 大学でも、大輔はうまく周囲に馴染めずにいた。

 真新しい服を着て必死に笑顔を作っても、どこか浮いているような気がしてならなかった。

 そのストレスが、寮での孤立感をさらに増幅させていた。

 耐えきれなくなった大輔は、ある日、寮長を捕まえて抗議した。

「あの、隣の部屋の人たちに注意してもらえませんか。毎晩、壁越しに俺の悪口を言ってて……うるさくて眠れないんです」

 寮長は大輔の顔を見ると、怪訝そうに眉をひそめた。

「隣って、三号室と五号室か?」

「はい。両方からです」

「君、疲れてるんじゃないのか? 三号室の田中は、三日前から実家に帰省していて不在だぞ。五号室は、先月から空室だ。誰も入ってない」

「……え?」


 大輔は絶句した。

「誰も、いない……? じゃあ、俺が毎晩聞いてたあの声は、誰なんですか?」

 寮長は少し言い淀むような素振りを見せた後、面倒くさそうに頭を掻いた。

「……四号室はな、ちょっと壁が薄いから、一階の共有スペースの音が響いてきやすいんだ。あんまり気にしなさんな」

 そう言って足早に去っていく寮長の背中を、大輔はただ見送ることしかできなかった。


 誰もいない。

 では、毎晩自分に悪意を向けてくるあの話し声と、あの重い呼吸音は、一体どこから聞こえてきているというのか。

 大輔は重い足取りで四号室に戻った。

 ドアを開けると、あのヒュー、という隙間風の音が大輔を迎えた。

 ふと、壁に貼られたままの色褪せたカレンダーに目が留まった。

 よく見ると、カレンダーの日付のいくつかには、黒いボールペンで細かく文字が書き込まれていた。


 大輔は顔を近づけ、その文字を読んだ。

『今日は誰も話しかけてくれなかった』

『隣の奴が壁を叩いてくる』

『みんな俺を笑っている』

『息が詰まる』

 そのびっしりと書かれた文字は、カレンダーの後半になるにつれて乱れ、最後の一ヶ月分は、赤いマジックで乱暴に塗りつぶされていた。

 そして、その塗りつぶされた月の隅に、小さな文字でこう書かれていた。

『もう、ここから出られない』


 大輔は背筋が凍るのを感じた。

 この部屋の前の住人は、「実家に帰った」のではなかった。

 孤立し、周囲の幻聴に苛まれ、この部屋の中で完全に心を壊してしまったのか。

 そして、おそらくは……。

 その時。


 ――スーッ……ハァーッ……。

 背後から、あの重い呼吸音が聞こえた。

 壁の向こうからではない。

 部屋の『中』から。

 大輔はゆっくりと首だけを後ろに向けた。

 六畳一間の狭い部屋。

 家具はスチール机と布団だけ。

 身を隠す場所などどこにもない。

 だが、大輔のすぐ後ろ、数センチしか離れていない虚空から、確かに音が聞こえる。

 ――スーッ……ハァーッ……。

 冷たい空気が、大輔の首筋に吹き付けられる。

「だ、誰だ……っ」

 大輔は後ずさりしようとしたが、足が畳に吸い付いたように動かない。

 全身の筋肉が硬直して、声もまともに出せない。

 部屋の空気が急激に重くなり、息苦しさが増していく。

 まるで、部屋中の酸素を『見えないもう一人』が吸い込んでいるかのようだった。


『……苦しいか?』

 耳元で、掠れた男の声がした。

「ヒッ……!」

『俺も、苦しかった。誰にも気づいてもらえず、誰にも必要とされず……この狭い部屋で一人、壁に向かって息をしているだけだった』

 声は、ベニヤ板の壁から、天井から、床から、四方八方から大輔を包み込むように響いた。

 それと同時に、あの陰口の幻聴が、部屋の中で爆音となって渦巻き始めた。

『田舎者』

『消えろ』

『誰もいないのと同じだ』

『お前なんか』

 無数の悪意を持った声が、大輔の鼓膜を殴りつけた。

 これは前の住人が聞いていた幻聴だ。

 いや、彼だけではない。この寮に染み付いた、共同体特有の排他性と悪意が、孤独な者を食い殺すために生み出した呪いそのものだった。


「やめろ……俺は違う! 俺は、お前とは違う!」

 大輔は必死に両耳を塞ぎ、目を閉じて叫んだ。

 だが、その声は虚しくかき消される。

『違わないさ。お前も、俺と同じだ』

 見えない何かが、大輔の背中にべったりと張り付いた。

 氷のように冷たく、ひどく重い感触。

 大輔はそのまま、崩れ落ちるように前のめりに倒れた。

 顔が畳に押し付けられる。

 背中にのしかかった重みは、大輔の体を床に縫い付けるように押さえ込んでいた。

『さあ、息を合わせろ。俺と、お前の、呼吸を』


 ――スーッ。

 大輔は意図せず、深く息を吸い込んでしまった。

 ――ハァーッ。

 そして、吐き出す。

 背中の重みも、全く同じタイミングで息を吸い、吐き出した。

 自分の呼吸と、死者の呼吸が完全にシンクロしていく。

 大輔は恐怖のあまり泣き叫びたかったが、もはや自分の意思で肺を動かすことすらできなくなっていた。


 部屋の電気が、チカッ、チカッと点滅し、やがて完全に消えた。

 真の暗闇の中で、大輔はただ、見えない同居人と一緒に、規則正しく息を続けるマシーンと化していた。

『そうだ。上手だ。これで、俺たちはもう一人じゃない』

 暗闇の中で、ひび割れた顔が笑う気配がした。

 ドアの隙間から吹き込む冷たい風が、二人の重なり合った呼吸音をかき消すように、虚しくヒューヒューと鳴り続けていた。


 翌朝。

 三号室の住人である田中は、数日間の帰省から寮に戻ってきていた。

 彼が自室に入ろうとした時、隣の四号室のドアが少しだけ開いているのに気づいた。

 中からは、強烈な生ゴミの臭いと、カビの臭いが漂ってくる。

「……おい、新入生。大丈夫か?」

 田中が顔をしかめながら声をかけると、四号室の奥から、ガサガサという物音がした。

 覗き込むと、大輔がスチール机の下に丸まり、壁に向かってぶつぶつと何かを呟いていた。

「なんだよ、気持ち悪いな……」

 田中が顔を引きつらせた瞬間、大輔がゆっくりとこちらを振り向いた。

 その顔は、ほんの数日前に挨拶に来た時の初々しい面影など微塵もなかった。

 目は窪み、肌は土気色に変色し、口の周りにはよだれがこびりついている。

 そして大輔は、田中に向かってニタリと笑うと、こう言った。

「……みんな、俺の悪口を言ってるんだ」

「は?」

「知ってるんだぞ。お前も、五号室の奴も、みんなで壁越しに俺を笑ってるだろ。でもいいんだ。俺には、もう『彼』がいるから」

 大輔はそう言うと、再び壁に向き直り、壁に頬を擦り付けるようにして深い深呼吸を始めた。

 ――スーッ……ハァーッ……。

 その呼吸音は、もはや大輔一人のものではなかった。

 壁の奥から、もう一つの重い呼吸音が、完全に重なって響いていた。

 田中は背筋に冷水を浴びせられたような恐怖を感じ、逃げるように自室へと駆け込んだ。


 それから一ヶ月後。

 大輔は一度も大学に通うことなく、完全に四号室に引きこもるようになった。

 昼夜を問わず、彼の部屋からは、ブツブツという壁に向かって話しかける声と、気味の悪い笑い声、そして、二つの重なり合った深い呼吸音が漏れ聞こえてくるようになった。

 三号室の田中は、その不気味な音に耐えきれなくなり、早々にアパートを借りて寮を出ていった。


 そして半年が過ぎた頃。

 四号室から異臭がするという他の寮生からの通報で、ついに警察と寮長がマスターキーを使って部屋に踏み込んだ。

 真冬だというのに、部屋の中にはハエが飛び回っていた。

 大輔は、壁に寄りかかったまま、冷たくなっていた。

 死因は餓死。

 彼の周囲には大量のコンビニ弁当のゴミが散乱していたが、最後の一ヶ月間は、水すら一滴も飲んでいなかったようだった。


 壁に貼られていた色褪せたカレンダーは、彼が引っ越してきた当初からさらに書き込みが増え、隙間がないほど真っ黒に塗りつぶされていた。

 ただ、最後の日付のところにだけ、赤いマジックで大きく、こう書かれていた。

『つぎは、だれがくる?』


 大輔の遺体が運び出された後も、四号室はしばらく空室のまま放置された。

 だが、夜になると、誰もいないはずの四号室から、時折聞こえてくるのだという。

 ――スーッ……ハァーッ……。

 壁の向こうから響く、重く、粘り気を帯びた呼吸音。

 そして、それに呼応するような、若い男の小さな笑い声が。

 この寮がある限り、彼らは永遠にあの薄い壁の中で、次の孤独な獲物がやってくるのを待ち続けているのだろう。

 息を潜め、じっと、その時を。

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