第11話 祖父の遺影が見ている方
線香の匂いは、どれほど風を通しても部屋の隅々にこびりついて離れない。
湿った畳のイグサの匂いと、線香の灰が放つ焦げくさい香煙が混ざり合い、ぬるい空気となって部屋の天井付近に重く淀んでいた。
秋山圭太は、正座していた足の痺れを庇いながら、ゆっくりと膝を崩した。
四谷の細い路地裏、表通りの喧騒から遮断された一角にひっそりと佇む、築六十年を超える木造二階建て。
それが、三日前に八十八歳でこの世を去った祖父・作造の家だった。
葬儀と初七日の法要が無事に終わり、集まっていた親族たちはぞろぞろと潮が引くように帰っていった。
「作造さんは本当に立派な人だった」
「戦後の何もない時代から、一代でこの四谷にこれだけの土地と資産を築いたんだから、大人物だよ」
焼香に訪れた親戚や近所の人々は、口々にそう作造を称えていた。
三十代になった孫の圭太にとっても、祖父は誇りであり、畏怖の対象でもあった。
常に背筋をぴんと伸ばし、無駄口を一切叩かず、誰に対しても毅然とした態度を崩さなかった。
子供の頃、うっかり仏間の床の間に上がっただけで「筋を通せ」と雷を落とされた記憶がある。
不況の時代を鋭い先見の明で生き抜き、四谷の一角に幾つもの貸店舗や賃貸アパートを所有するに至った厳格な人物だった。
だが、誰もいなくなった静まり返る仏間に一人残された圭太は、胸の奥に小さな刺のような違和感を覚えていた。
古い柱時計が、チク……タク……と無機質に刻む音が、静寂の中でやけに大きく響く。
仏壇の脇、欄間のすぐ下に掲げられた新しい遺影。
黒漆塗りの額縁に収められた作造の写真は、生前のシャキッとした紋付袴姿で、正面をまっすぐに見据えている――はずだった。
写真を選んだのは圭太自身だ。
二年前の米寿の祝いの際、老舗の写真館で撮影した遺影用のポートレート。
カメラのレンズを毅然と見つめる祖父の瞳は、力強く澄んでいたはずだった。
しかし、今、薄暗い仏間の下から見上げる遺影の黒目は、ほんのわずかに右斜め下へと逸れているように見えた。
「……気のせいか?」
圭太は両手で目をこすり、もう一度遺影を見つめ直した。
幾ら見直しても、やはり黒目が正面を向いていない。
視線が向けられている先は、仏間の右奥にある「床の間」だった。
そこには、古びた水墨画の掛け軸と、黒ずんだ大きな姿見の鏡が置かれているだけだ。
長時間の正座と緊張で目が疲れているのかな……と自分に言い聞かせ、圭太は立ち上がった。
立ち上がった拍子に、古い床板がギィと嫌な音を立てて軋む。
木造特有の深い軋み音が、静寂を破って耳に障った。
ふと見ると、遺影の入った額縁が、心なしか右側に斜めに傾いているような気がした。
圭太は背伸びをして手を伸ばし、額縁の位置をまっすぐに整えた。
指先に触れた黒漆塗りの木枠は、真冬の氷のように冷たかった。
遺品整理を始めようと、圭太は床の間の隣にある押し入れを開けた。
重い木製の引き戸を引くと、ガタガタと乾いた音が響き、奥から湿気を含んだ綿と古びた防虫剤の樟脳の匂いが強く立ち上ってくる。
押し入れの天袋の奥深くに、黒い革張りの大きな角箱が押し込められていた。
手を伸ばし、埃まみれの重い箱を抱え下ろして畳の上に置く。
パチンと錆びた金輪を外し、蓋を開けると、中には何冊もの古いアルバムと、黄ばんだ書類の束が入っていた。
一番上にあったのは、昭和初期のものと思われる布装丁の白黒アルバムだった。
ページをめくると、白黒写真特有のぼやけたコントラストの中に、若き日の作造の姿があった。
戦後の混迷期、四谷の闇市近くで小さな古道具屋を始めた頃の写真だろう。
だが、三ページ目をめくったとき、圭太の指がピタリと止まった。
それは、古い日本家屋の前で撮られた一族の集合写真だった。
中央には前列に座る厳格そうな老夫婦。
その隣に立つ若き日の作造。
そして――作造のすぐ隣に立っていたはずの、一人の青年の顔が、異常な方法で損なわれていた。
経年劣化による剥げや染みではない。
何かの刃物か、尖った金属の針のようなもので、執拗にガリガリと削り取られた痕だった。
顔の部分だけが削られ、紙の白い下地が剥き出しになった上に、黒い墨汁のようなインクがべったりと塗り潰されている。
まるで、その人間がこの世に存在したこと自体を消し去ろうとするかのような、強い悪意と執念を感じさせる削り跡だった。
「なんだ、これ……」
ぞわりと、背筋の毛羽立つような感覚が走った。
写真の裏を返すと、かすれた筆文字で小さく書き残されていた。
『昭和二十八年 秋 本家離れにて 作造、清次』
清次。
圭太はその名を聞いたことがなかった。
作造は親戚の間でもずっと一人っ子だと通っていた。
親戚の集まりでも、清次という人物の名が上ったことは一度もなかった。
気になった圭太は、箱の底に沈んでいた古い大学ノートや和紙の手帳を引っ張り出した。
手帳に書かれていたのは、作造の生々しい手記だった。
日に焼けて茶色く変色した紙面には、作造の几帳面で硬質な文字で、当時の「隠された事実」が事細かに記されていた。
手記を読み進めるにつれ、圭太の顔から血の気が引いていった。
作造は、一人っ子ではなかった。
作造には、腹違いの兄である「清次」がいた。
本来、四谷の本家の家督と、一等地の広大な土地を全て相続するはずだったのは、正妻の長男である清次だった。
作造は妾の子であり、本来なら家を継げる立場にはなかった。
だが、作造は生まれつき病弱で引きこもりがちだった清次を疎ましく思い、叔父たちと裏で金銭を伴う密約を交わした。
清次を「狂人」として扱い、本家の離れの格子戸付きの暗い小部屋に閉じ込めたのだ。
周囲には「清次は遠くの療養所へ行った」と嘘をついた。
手記には、狂気じみた冷酷な記述が淡々と綴られていた。
『清次、離れにて発狂。夜ごと「家を返せ」「俺の土地だ」と格子戸を叩く。爪を剥がし、障子を血で染める。うるさきことこの上なし』『十一月十四日。大寒波至る。離れの火鉢を取り上げ、炭を入れず。格子戸に外から鍵を掛け、三日間放置。清次、静かになる』
『清次の死を確認。死体は凍りつき、床下に爪を立てたまま倒れていた。医者には肺炎と偽り報告。これで本家の資産はすべて私のものとなる。異論を唱える者は誰もいない』
言葉を失った。
誇りに思っていた祖父。
誠実で立派な実業家だったはずの作造。
その成功は、実の兄を極寒の離れに閉じ込め、餓死・凍死に追いやった上に横取りした血塗られた財産によって築かれたものだった。
最後のページには、激しく震える筆致でこう書かれていた。
『清次の顔が、夢に出る。離れの床下から「返せ」と呼ぶ。顔を削り取らねば、写真から奴が出てくる。目を潰さねば、私を睨み続ける』
「馬鹿な……」
圭太は手帳を落とした。
バサリと音がして、畳の上に落ちた手帳から、カビと湿った土の嫌な匂いが広がった。
その時。
カツン……。
静まり返った仏間に、爪で硬い木を引っ掻くような乾いた音が響いた。
圭太はハッと息を飲み、音のした上方を見上げた。
欄間に掛けられた作造の遺影。
その額縁が、ゆっくりと斜めに傾いていた。
先ほど自分の手でまっすぐに直したはずの額縁が。
まるで誰かが右下から見えない手で引っ張っているかのように、ギギ……と音を立ててぐにゃりと歪んでいく。
――圭太の心臓がドクリと激しく跳ね上がった。
遺影の中の作造の「目」。
黒目が、先ほどよりも明らかに移動していた。
右斜め下の床の間を向いていたはずの白黒写真の瞳が、すーっと滑らかに滑り、今度は仏間の「中央」――つまり、圭太が座り込んでいる場所を凝視していた。
「ひっ……!」
声にならない悲鳴が喉の奥で詰まった。
写真の目が動くなど、あり得ない。
光の錯覚に決まってる。
圭太は恐怖を振り払うように立ち上がり、遺影に近寄って見上げた。
「おじいちゃん……?」
遺影の写真を間近で見つめた瞬間、圭太はさらなる異変に気づき、全身の血が瞬間的に凍りついた。
作造の表情。
生前、凛として勇ましかった作造の顔が、無残に歪んでいた。
眉間には深い皺が刻まれ、口元は固く結ばれ、両目は今にも飛び出しそうなほど見開かれている。
それは、圭太を脅かそうとする怒りの表情ではなかった。
絶望。
底知れぬ恐怖に打ち震え、悲鳴を上げようとして喉を詰まらせている男の顔だった。
作造の黒目は、圭太の「顔」を見ているのではなかった。
作造の遺影は――圭太の『背後』、すぐ真後ろの空間を、狂わんばかりの恐怖で見つめていた。
ヒタ……ヒタ……。
圭太の真後ろから、濡れた重い布を引きずるような音が聞こえた。
それと同時に、部屋の温度が急激に下がった、ように感じた。
吐く息が白くなるほどの強烈な寒気が、首筋を直撃する。
線香の香煙は一瞬でかき消され、代わりに部屋を満たしたのは、何十年も閉ざされていた湿った床下の土の匂いと、腐敗した畳、そして古い血の生臭さだった。
動けない。
足が金縛りに遭ったように畳に貼り付き、指一本動かすことができない。
喉が引き攣り、呼吸が浅くなる。
背後に、誰かが立っている。
背中越しに伝わる、凍てつくような怨念と殺意。
その「何か」は、ゆっくりと圭太の肩越しに顔を覗き込もうとしていた。
耳元で、カサカサと乾燥した髪の毛が肌に触れる感触がした。
氷のように冷たい髪の毛だった。
「い……やだ……」
圭太は、動かない体に鞭打ち、視線だけを正面へ動かした。
床の間に置かれた、黒ずんだ大きな姿見の鏡。
その鏡の面に、暗い仏間の光景が映し出されていた。
鏡の中には、顔を蒼白にして固まっている圭太の姿があった。
そして、圭太のすぐ後ろ。
圭太の両肩に長くて痩せこけた手をかけ、背後から覆いかぶさるように立っている「黒い人影」が映っていた。
その人影には、顔がなかった。
頭部の中心が、まるでアルバムの写真と同じように、尖った刃物でズタズタに削り取られたかのように真っ黒な穴が空いている。
だが、その削れた黒い穴の奥から、幾つもの爛々と光る怨念の目が、こちらをじっと見つめていた。
『……家……を……か……え……せ……』
頭の中に直接響くような、耳鳴りに似たかすれ声が聴こえた。
離れで凍死した兄・清次の声。
清次は、作造が死ぬのをずっと待っていた。
作造が死に、その血を引く孫、作造が遺した資産を継ぐ者がこの家に来るのを、床下で、暗闇の中で、半世紀以上も爪を研ぎながら待ち続けていた。
鏡の中で、削れた黒い顔が、ゆっくりと圭太の顔へと重なっていく。
鏡に映る圭太自身の顔が、ぐにゃりと歪み始めた。
目元が削れ、鼻が潰れ、皮膚がボロボロと剥がれ落ちていくように、清次の黒い穴の中へ吸い込まれていく。
「あ……あああっ!」
圭太は悲鳴を上げようとしたが、声はかすれた音にしかならなかった。
ふと見上げた壁の遺影。
作造のポートレートの顔は、ついに恐怖に耐えかねたように、見開かれた黒目からタールのような黒い液体を流していた。
黒い涙が額縁を伝い、壁紙を伝って滴り落ちる。
作造の口が、写真の中でパクリと開いた。
『……に……げ……ろ……』
それが祖父の最後の警告だったのか。
それとも自らの罪に対する絶望の呻きだったのか。
ミシ……ミシ……とガラスが軋む音がした。
鏡の中の黒い穴が拡大し、圭太の視界全体を漆黒で覆い尽くしていく。
首筋に触れた冷たい指先が、ぎゅっと力を込めて喉を絞め上げてくる。
カツン、カツンと、爪で写真を削り取るような乾いた音が、圭太の意識の奥底でいつまでも、いつまでも響き続けていた。
翌週。
四谷の古い家を訪れた不動産屋の男は、首をひねっていた。
土地の相続手続きのために待ち合わせていた秋山圭太と連絡が突然途絶え、玄関の鍵が開いたままになっていたからだ。
室内には誰もいなかった。
仏間の畳の上には、古い手帳とアルバムが乱雑に散らばっていた。
不動産屋の男は、ふと仏壇の横に飾られた遺影を見上げた。
そこには、二人の男が並んで写っていた。
一人は、どこか怯えたような顔をして縮こまる老人の作造。
そしてもう一人。
作造の隣で黒い和服を着て立ち、顔の部分が真っ黒く削り取られた若い男の姿。
不動産屋の男はゾクリとして、すぐに目を逸らした。
その削られた顔の男の肩のラインや佇まいは、行方不明になった秋山圭太の姿と不気味なほどよく似ていた。




