第12話 山裾の廃寺と白い影
暗い部屋の中に、二十七インチの大型液晶モニターが青白く発光していた。
歪んだ部屋の影が、壁や天井にぼんやりと引き伸ばされて揺れている。
木村ミカは、高級一眼レフカメラからパソコンへ転送した高解像度の画像データを、画像編集ソフトの画面上でじっと見つめていた。
都内の私立大学に通うミカは、SNSのフォロワーが数万人に達する、いわゆる「インフルエンサー」だ。
彼女のアカウントの売りは、ノスタルジックでどこか退廃的な雰囲気を持つ「廃墟フォト」や「ダークアジアン」なロケーション写真。
同世代の女子大生たちが映えカフェやファッションの写真を投稿する中で、ミカは人が見向きもしない朽ちかけた建築物の美しさを独自の構図で切り取ることで、熱狂的なファンを獲得していた。
「……うん、やっぱりここ、最高に良い感じに撮れてる」
ミカは艶やかなリップグロスを塗った薄い唇を歪め、ひとりごちた。
承認欲求が満たされていく快感が、脳の奥を甘く痺れさせる。
先週末、サークルの友人二人を足代わりに使って訪れたのは、都心の四谷から車で一時間半ほど離れた、山裾の鬱蒼とした雑木林に隠された廃寺だった。
名は「寂光寺」。
昭和初期に住職が失踪して以来放置され、今では地元の若者たちの間でも「行くと必ず不幸がある」「絶対に足を踏み入れてはいけない」と噂される有名な心霊スポットだった。
長い参道は雑草と赤土に埋もれ、本堂の屋根は半ば崩落して無残な骨組みを晒していた。
現地に足を踏み入れた瞬間の、あの独特な肌感覚をミカは今でも鮮明に覚えている。
山林特有の湿った赤土の匂いと、腐敗した木材の匂い。
そしてどぶろくが発酵して焦げたような酸っぱい匂いが鼻をついた。
真夏だというのに、雑木林の樹々が日光を完全に遮り、境内全体に氷の張った井戸の底のような冷気が淀んでいた。
鳥の囀りも虫の鳴き声すら聞こえない、恐ろしいほどの静寂だった。
ミカが撮影したのは、本堂の奥にひっそりと佇む「開山堂」と呼ばれる小さな破れ堂の内部だった。
埃まみれの床板、崩れかけた黒漆の仏壇、そして格子戸の奥に放置された古びた位牌の群れ。
強烈なカメラの外付けフラッシュを焚き、何十枚もシャッターを切った。
バシャリ、バシャリという無機質な電子シャッター音が、静寂に沈む廃寺の境内に虚しく響き渡っていた。
その中の最高の一枚が、今、モニターの画面全体に映し出されている。
構図、光の入り方、陰影のコントラスト。
どれをとってもプロ顔負けの申し分ない出来栄えだった。
だが――ミカの細い眉が、ピクリと不機嫌そうに跳ね上がった。
「……何これ。レンズにゴミでも付いてたのかな」
拡大した画面の右端、壊れた仏壇の暗い陰の中に、奇妙なノイズが写り込んでいた。
それは、ぼんやりとした薄い輪郭を持つ「白い影」だった。
最初は、レンズに付着した埃か、カメラの強いフラッシュが空気中のホコリに反射して生じるオーブ現象だと思った。
しかし、マウスホイールを回転させ、拡大率を二〇〇%、四〇〇%、八〇〇%と上げていくにつれ、ミカの首筋にスッと冷たい氷の針を刺されたような恐怖が走った。
ただの光の反射や埃ではなかった。
白い影は、あきらかに人間の形をしていた。
全体的に引き伸ばされたように細長く、関節が不自然な角度に曲がった両腕と両脚。
そして、頭部の位置には、まるで泣き叫んでいるかのように歪んだ二つの黒い穴と、大きく開いた口の形をした「顔」のようなものが浮き上がっていた。
白い影は、暗い仏壇の陰から半身を滑り出させ、レンズを――いや、カメラを構えていたミカ自身をじっと見つめているように見えた。
「うわ……なにこれ、気味悪い……」
ミカは顔を背け、思わず椅子を引き下ろした。
せっかくの完璧なアート写真なのに、こんな不気味なノイズが写り込んでいては、SNSにアップできない。
「心霊写真だ」と騒がれるのはバズる要素かもしれないが、ミカが求めているのは洗練された美意識であり、安っぽいオカルト写真ではなかった。
「消せばいい。簡単だし」
ミカは編集ソフトの左側のツールバーから「修復スタンプツール」のアイコンをクリックした。
写真の中の不要なゴミや通行人を、周囲の背景のテクスチャを自動的にコピーして自然に塗り潰し、消し去るためのデジタルツール。
カーソルを白い影の右腕の上に合わせ、マウスをクリックした。
シュッ、とソフトの控えめな効果音が鳴り、白い影の腕の部分が、周囲の古びた黒い木目へと置き換わって消えた。
その瞬間。
ズキン、とミカの右腕に突き刺さるような激痛が走った。
「痛っ……!? な、なに!?」
ミカは左手で右腕を押さえた。
まるで真冬の氷水に腕を直接叩き込まれたかのような、強烈な麻痺感と冷気が右腕を襲っていた。
見ると、自分の右腕の感覚がすっぽりと抜け落ちている。
指先を動かそうとしても、まるで他人の肉体のようにピクリとも反応しない。
「なにこれ……痺れ? クーラーかけすぎたのかな……」
ミカは困惑しながら右腕を摩り、左手でマウスを握り直した。
気を取り直し、画面上のカーソルを白い影の胴体部分へ移動させ、連打するようにクリックを重ねた。
カチ、カチ、カチ……。
画面上の白い影が、デジタル処理のピクセル単位で少しずつ削られ、消えていく。
カチ。
部屋の中に、ふっと湿った匂いが漂い始めた。
エアコンの送風口からではない。
密閉されたマンションの部屋の中に、あの寂光寺で嗅いだ「山林の湿った赤土と腐敗した木の酸っぱい匂い」が立ち上っていた。
カチ。
耳元で、キーンという甲高い耳鳴りが鳴り響いた。
それと同時に、ミカの頭の中で、何か大切な記憶がすーっと抜け落ちていく感覚があった。
(……あれ? 私、先週末誰の車に乗ってあの寺に行ったんだっけ……?)
一緒に行ったはずのサークルの友人であるルイコとタツヤの顔が思い出せない。
名前も、声も、まるで最初からこの世界に存在しなかったかのように記憶から綺麗に消え去っていた。
「ちょっと……何が起きてるの……? 頭が変になりそう……」
呼吸が浅くなり、鼓動が耳の奥でドクドクと不快に脈打つ。
だが、画面の中の白い影は、まだ頭部と左肩が残っていた。
この不気味な写真を完璧に修正して仕上げなければならないという、理屈を超えた異常な執着がミカの胸を強く支配していた。
逃げ出したいのに、画面から目を逸らすことができない。
ミカは震える左手でマウスを操作し、カーソルを白い影の「顔」へと合わせた。
その時、机の上のスマホがブルブルと激しくバイブレーションした。
画面を見ると、実家の母親からの着信だった。
いつもなら鬱陶しがって無視するのだが、あまりの恐怖にすがるような思いで通話ボタンをスワイプした。
「もしもし!? お母さん!? 助けて、なんか変なの、体が痺れて記憶が――」
『……え? あ、あの……どちら様ですか?』
受話器の奥から聞こえたのは、間違いなく聞き慣れた母親の声だった。
だが、そのトーンは完全な他人に対する困惑と警戒に満ちていた。
「何言ってるのお母さん! ミカだよ! 木村ミカ!」
『……ミカ? すみません、うちには娘はいませんけど……うちは息子が一人だけです。間違い電話じゃないですか?』
プツッ、ツーツー……。
通話が切れた。
全身の毛穴が開き、冷や汗が吹き出した。
「嘘……嘘でしょ……なんで……!?」
慌ててスマホのSNSアプリを開こうとした。
だが、自分のプロフィール画面に表示されていたはずの「木村ミカ」という名前が、文字化けした赤黒いノイズへと崩れていく。
フォロワー数万人のアカウントが、目の前でリアルタイムに消滅していく。
ミカは半狂乱になり、目の前の液晶モニターを見つめた。
画面の中の白い影。
その消えかかった「顔」の部分が、クク……と嘲笑うように口元を歪めた気がした。
その時、ミカの脳裏に、ネットで事前に調べたあの寂光寺の悲惨な由来が蘇っていた。
寂光寺は、単なる修験道の廃寺ではなかった。
大正から昭和初期にかけて、あの村で流行病にかかった者、罪を犯した者、行き場のない貧しい漂流者――村の「穢れ物」として排除された人々を閉じ込め、社会から存在を抹消するための封印所だった。
死んでも墓すら建てられず、名前も戸籍もすべて奪われ、暗いお堂の床下に遺体を投げ捨てられた人々。
写真に写っていた「白い影」は、集落の歴史から消し去られた者たちの、膨大な怨念の集合体だった。
他者の存在を「自分の映えの邪魔だから」「不気味だから」と軽々しく画面上から消し去ろうとしたミカ。
彼女が修復スタンプツールで「消去」していたのは、白い影ではなかった。
白い影を消去する代償として、彼女自身の現実世界における「存在」そのものを、世界から一画ずつ削り取っていたのだ。
「嫌……嫌ああっ! 助けて! 消したくない!」
ミカは悲鳴を上げ、マウスを放り投げようとした。
だが、左手がマウスから離れない。
まるで皮膚がプラスチックの筐体と溶け合って固着したかのように、指が引き攣って接着されている。
マウスが、ミカの意思を完全に無視して勝手に動いた。
カチリ。
修復ツールが、白い影の最後の「顔」の真ん中をクリックした。
画面上の白い影が、完全に消えた。
写真は、何のノイズもない、完璧に美しい寂光寺の廃墟写真へと戻った。
その瞬間。
部屋のシーリングライトがパチンと音を立てて消えた。
漆黒の闇の中、二十七インチの大型液晶モニターだけが、強烈な青白い光を放っていた。
モニターの黒い画面ガラスに、ミカの全身が鏡のように映っていた。
だが、その画面に映るミカの顔は――目と口が真っ黒い穴となって削れ、身体の輪郭がぼやけた、あの「白い影」そのものの姿に変貌していた。
『……お 前 が …… 代 わり に …… な れ ……』
無数のしわがれ声が、部屋の中に満ちていた。
エアコンの吹き出し口から、壁の隙間から、密閉された窓ガラスから一斉に響き渡った。
ミカの身体が、足元からすーっと透明になっていく。
手も、足も、胸も、まるでデジタル画像の画素が荒くなって崩れていくように、空気の中に溶けて消えていく。
悲鳴を上げようとしても、喉からは風が抜けるようなヒシューという擦れ音しか出ない。
記憶が、肉体が、世界から完全に消去されていく。
最後に見えたのは、青白く光るモニター画面の中の、誰もいない寂光寺の開山堂だった。
その崩れた仏壇の陰に、新しい白い影が一つ、ポツンと佇んでいた。
不自然に関節の曲がった、華奢な女子大生の輪郭をした白い影が。
数日後。
大学のサークルの部室で、男子学生たちがパソコンの画面を囲んでいた。
「あれ、この写真、誰が共有フォルダに上げたんだっけ?」
「さあ……? ファイル名は『寂光寺_開山堂』になってるけど。廃墟のすごく綺麗な写真だな」
「なんか、独特の雰囲気があって良いよね。でもさ、よく見ると右端の仏壇のところに、白い影みたいなの写ってない?」
「ほんとだ。レンズのホコリかな? 修復ツールで消しとく?」
「そうだな、消しちゃおうぜ」
カチ、と無機質なマウスのクリック音が、部室内に虚しく響き渡った。




