第13話 空き家の仏壇に座る子
四谷の古い住宅街の最奥、湿った路地がどん詰まりになる場所に、その家は建っていた。
築五十年を超える木造二階建て。
黒ずんだ板塀は各所で歪み、庭の雑草は男の腰の高さまで茫々と伸びきっている。
山田勝己は、革靴の底で伸び放題の雑草を踏みつけながら、嫌そうに眉を寄せた。
山田は中堅不動産仲介会社の営業部長だった。
彼のモットーは「売上こそが正義」であり、物件の背景にあるストーリーや住人の悲惨な事情など、一文の得にもならないと冷酷に切り捨てる男だった。
競売にかかった事故物件や裏のある土地を安値で買い叩き、リフォームして更地にして売り抜くことで、彼は若くして社内での地位を築いていた。
この四谷の古家も、三十年前に「訳あり」で放置された競売物件だった。
当時の住人である一家三人が、悲惨な死を遂げた完全な事故物件。
親族も権利を放棄し、長年野晒しにされていたものを、山田の会社が格安の叩き売り価格で手に入れた。
リフォームして更地にすれば、数千万円の純利益が出る。
「まったく、気味の悪いゴミ屋敷だな。さっさと査定を済ませて解体業者を手配するか」
山田は高級スーツのポケットから錆びた鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで力を込めた。
ガチャリ、と重い金属音が静寂に響いた。
引き戸を押すと、閉め切られていた古い家特有のよどんだ空気がドッと押し寄せてきた。
埃とカビ、腐った木材、そしてどぶろくが腐敗したような酸っぱい匂い。
山田はノーズクリップでもつけたい衝動を抑え、懐中電灯の強烈な光を薄暗い廊下に照射した。
壁紙はベロリと剥がれ落ち、床板は足を踏み出すたびにギィ……ギィ……と深く軋む。
一階の奥、突き当たりにある八畳の仏間へと向かった。
懐中電灯の光が、仏間のドア枠を照らし出した瞬間、山田の鼻腔を奇妙な匂いが掠めた。
「……ん? なにか匂うな」
山田は足を止めた。
カビと埃の不快な臭気の中に、一筋の異質な香りが混ざっていた。
線香の匂いだ。
それも、何十年も前に焚かれた古く焦げくさい匂いではない。
たった今、火をつけられたばかりの、甘く透き通った真新しい高級白檀の香煙の匂いだった。
薄暗い仏間の奥から、青白い一筋の煙がゆらゆらと天井へ向かって立ち上っているのが見えた。
「冗談か……? ホームレスでも勝手に入り込んで居座ってるのか?」
山田は苛立ちを露わにし、革靴の音を荒立てて仏間に踏み込んだ。
だが、部屋の中を一瞥した瞬間、山田の吐き捨てようとした暴言が喉の奥でカチリと凍りついた。
埃と蜘蛛の巣に覆われた仏間の中央。黒ずんだ大きな仏壇の前に、一枚の真新しい紫色の丸座布団が敷かれていた。
そして、その座布団の上に――小さな子供が背を向けて正座していた。
紺色の昭和風のセーラー服のような服を着た、七、八歳ほどの男の子だった。
男の子は仏壇に向かって静かに両手を合わせ、微動だにしない。
その足元には、塗装の剥げた真っ赤な金属製の古びたミニカーがポツンと置かれていた。
そして仏壇の錆びた香炉には、一本の真新しい線香が真っ赤な火種を点し、静かに煙を上げていた。
「おい……僕、ここで何してるんだ? ここは立ち入り禁止だぞ」
山田は声を張った。
不法侵入のガキだろうと自分に言い聞かせたが、声が僅かに震えるのを抑えられなかった。
この家は鍵が固く閉ざされていたはずだ。
一階の窓もすべて内側から雨戸が叩きつけられていた。
どこから入ってきたというのか。
男の子は振り向かなかった。
ただ、小さな背中を僅かに揺らし、掠れた子供の声で静かに囁いた。
『お父さん……今日、帰ってくるの早かったね』
「は……? 何言ってるんだ。俺はお前の父親じゃない。勘違いするな。ほら、警察呼ぶぞ。早く出なさい」
山田はポケットからスマートフォンを取り出そうとした。
『お父さん、今日も会社で嫌なことがあったの?』
子供の声が、やけに鮮明に山田の耳奥に届いた。
『お母さんが作ったお茶、飲んだ? 変な味がしたでしょ。僕も飲んだよ。お腹がすごく痛くなって……頭がクラクラして、息ができなくなったの』
ゾクッと、背筋に強烈な冷気が走った。
三十年前の事故物件の記憶。
山田が会社で事前に閲覧した警察の当時の捜査資料が、脳裏に鮮明に蘇った。
三十年前、事業の破綻で多額の借金を抱えた父親が、妻と幼い息子に殺鼠剤を混ぜた赤飯とお茶を飲ませ、自らも仏壇の前で首を吊った「一家心中事件」。
息子の遺体は、仏壇の前の押し入れの中から、爪を剥がされた状態で発見されたという。
「戯言を……! ガキのくせに気味の悪い真似すんじゃねえ!」
山田は怯えを打ち消すように怒鳴り、スマホの画面をタップした。
警察に電話をかけようとした。
だが、タッチパネルを開いた瞬間、山田の指がピタリと硬直した。
待ち受け画面の写真だった。
そこには、愛車の外車前で誇らしげに笑う山田と、美しい妻、そして私立高校に通う一人娘の三人家族の写真が設定されていたはずだった。
だが、画面の中の娘の顔が、赤黒いノイズのようにぐにゃりと歪んでいた。
娘の顔がボロボロと崩れ、そこに映っていたのは――先ほどから仏壇の前に座っている、あの男の子の顔だった。
「な……なんだこれ!?」
山田はパニックになり、写真フォルダを開いた。
去年行った海外旅行の写真。
娘の入学式の写真。
自慢のマイホームの前で撮った記念写真。
すべての写真の中に映っていたはずの娘の姿が消え去り、代わりにあのセーラー服を着た男の子が、山田の隣で死人のような無表情で並んで写っていた。
ブッ……ブッ……。
手に持ったスマホが震えた。
妻からのLINE通知だった。
『あなた、もうすぐ帰ってくる? 男の子の風邪薬、ちゃんと買ってきた? あの子、仏壇の前でずっとお父さんを待ってるわよ』
「妻……? 何を言ってるんだ……俺の子供は娘の彩花だけだろ……!?」
山田は頭を抱えた。
だが、「彩花」という名前を口に出した瞬間、頭の奥で激しい痛みが走った。
彩花?
彩花って誰だ?
俺に娘なんていたか……?
俺の子供は……最初から、あの男の子一人じゃなかったか?
頭の中に、存在しないはずの恐ろしい記憶が洪水のように流れ込んできた。
事業の失敗。
督促状の山。
暗い部屋で啜る殺鼠剤入りの冷えた茶。
「みんなで楽になろう」と家族に毒を盛った自分の声。
格子戸の奥で、苦しそうに血を吐いて喉を鳴らす妻の死体。
そして、「お父さん痛いよ」と泣き叫び、押し入れに逃げ込んで爪を立てて死んでいった息子の顔。
「違う……俺は山田だ! 不動産会社の営業部長の山田勝己だ!」
山田は悲鳴を上げ、後ずさりした。
玄関へ逃げようと廊下へ飛び出したが、開けておいたはずの引き戸が、バシャーン!と凄まじい音を立てて閉まった。
取っ手を掴んで全力で引っ張るが、びくともしない。
まるで外から分厚い大木でも打ち付けられたかのように固く閉ざされている。
『お父さん』
背後から、声がした。
いつの間の間にか、あの男の子が山田のすぐ後ろに立っていた。
足音もなかった。
男の子は、ゆっくりと顔を上げた。
その顔には、目も、鼻も、口もなかった。
黒い煤と腐敗した皮膚が落ちたような、真っ黒な穴が空いているだけだった。
男の子は、手に持っていた真っ赤なミニカーを、山田へ向かって静かに差し出した。
『お父さん、またミニカー買ってくれるって約束したよね? なんでお茶に毒入れたの? なんで僕を押し入れに閉じ込めて鍵をかけたの?』
「ひっ……ひいいいっ! 助けてくれえっ!」
山田は腰を抜かし、畳の上を死に物狂いで這いずり回った。
記憶が書き換えられていく。
自分が「山田勝己」であった記憶が、デジタル画像の画素が崩れるように消えていく。
代わりに、三十年前に家族を殺して自殺した「あの父親」の記憶と罪悪感が、山田の魂をドス黒く塗り潰していく。
妻の顔も、娘の顔も、自分が働いていた会社の風景も、すべてが嘘の泡のように消えていく。
最初から自分は、この空き家で家族を毒殺した父親だったのだ。
『お父さん、仏壇の前に座って? お線香、消えちゃうよ』
男の子の冷たい手が、山田の首筋に触れた。
氷のように冷たい指先が、山田の身体を強引に引きずっていく。
山田は抵抗することができなかった。
自分が誰なのか、何のためにここにいるのかすら、もう思い出せなかった。
山田は、吸い寄せられるように仏壇の前へと進み、紫色の丸座布団の上に正座した。
男の子が、山田の隣にちょこんと座り、嬉しそうに囁いた。
『ずっと……こうして三人で暮らそうね、お父さん』
仏壇の黒漆の鏡に映る山田の顔が、ぐにゃりと歪んだ。
山田の目の前で、真新しい線香の煙が、二人を包み込むように濃く、濃く立ち上っていった。
一週間後。
四谷の空き家の前に、別の不動産仲介業者の男が立っていた。
「山田部長と連絡が取れなくなったって、どういうことだ……?」
男は不審に思いながら、鍵の開いていた引き戸を押し開けた。
家の中には、誰もいなかった。
ただ、奥の仏間に向かうと、カビ臭い空気の中に、ほんのりと甘い白檀の線香の匂いが漂っていた。
仏壇の前には、二つの古びた位牌と、漆黒に焦げた丸座布団、そして真っ赤なミニカーが置かれていた。
不動産屋の男は首をかしげ、スマホを取り出した。
待ち受け画面に映る自分の家族写真を見つめた男の顔が、急に蒼白になった。
写真の中に写っていた自分の息子の顔が、見覚えのないセーラー服を着た男の子の顔に、すり替わっていた。




