第14話 井戸の底から呼ぶ姉
四谷の静かな住宅街の角地に、その美しい家は建っていた。
眩しいほどの真新しい白壁、最新式のシステムキッチン、そして明るいナチュラルブラウンのフローリング。
築年数はわずか一ヶ月の、誰もが羨む夢のマイホームだった。
大手ハウスメーカーに勤める秋山健一は、リビングの大きな掃き出し窓から差し込む陽光を浴びながら、満足そうに深々と息を吐いた。
「いい家だなあ。都心でこれだけの広さの角地が、あの値段で手に入ったなんて未だに信じられないよ。運が良かった」
「本当ね。相場の七割以下なんて、最初は何か事故物件なんじゃないかって疑っちゃったわ」
妻の恵美が、出来立てのコーヒーカップを手に微笑んだ。
二人には五歳になる一人娘の葵がいる。
日当たりの悪いアパートの狭い暮らしから抜け出し、念願の庭付き一戸建てを手に入れた幸福感に、家族全員が満たされていた。
だが、その穏やかな幸福は、引っ越してわずか二週間目に狂い始めた。
最初に異変を見せたのは、娘の葵だった。
休日の穏やかな午後、リビングの中央、ダイニングテーブルとソファの間にあたるフローリングの上に、葵がペタリと直接正座していた。
葵は片耳をフローリングの床板に強く押し当て、じっと動かない。
「あおい、どうしたの? そんなところで倒れ込んで」
恵美が不思議そうに尋ねると、葵はゆっくりと顔を上げた。
その目はどこか虚ろで、視線は床の下の暗闇をじっと見つめていた。
「ねえママ……お下が呼んでるよ」
「え? お下?」
「穴の中にいるおねえちゃん。『あおいちゃん、あそぼう』って、下からずーっとお話ししてくるの」
恵美はクスッと笑い、「またアニメの真似して」と葵の柔らかい髪を撫でた。
子供特有のごっこ遊びだろうと、その時は誰も気にも留めなかった。
だが、その夜から、家の中に怪奇現象が本格的に起き始めた。
深夜二時過ぎ。就寝中だった健一は、耳元で響く異様な音で目を覚ました。
ゴボゴボ……ゴボゴボゴボ……。
一階のキッチンと浴室の排水溝から、大量の水が逆流して泡立つような重い水音が聞こえてくる。
健一は不審に思い、階段を下りて一階のキッチンへ向かった。
足を踏み入れた瞬間、新調したばかりのステンレスシンクから、ドブと腐敗した泥のような強烈な臭気が部屋中に立ち上っていた。
耐えがたい腐敗臭。
懐中電灯でシンクの排水口を照らすと、黒いヘドロのような泥水がジワジワと溢れ出している。
「うわっ……なんだこれ。配管の詰まりか?」
健一は手袋をして割り箸で排水口の奥を突いた。
引っかかった何かを引き上げると、健一は短い悲鳴を上げてそれを放り投げた。
引き上げられたのは、泥まみれの、湿った長い「人間の髪の毛」の束だった。
排水口の奥から、無数の黒い髪の毛が、まるで生き物のように蠢きながら湧き出していた。
翌日、不審に思った健一は、会社で密かにこの土地の登記簿と過去の土地履歴を調べ上げた。
ハウスメーカーの社員であるコネを使い、古い公図や郷土史の裏資料を掘り返した健一の顔から、すーっと血の気が引いていった。
この土地には、明治時代から昭和初期にかけて、四谷の裕福な資産家の一族が邸宅を構えていた。
だが昭和二十年代、家督と広大な遺産の相続を巡り、凄惨な身内同士の血の惨劇が起きた。
長男夫婦が、正統な相続人であった異母姉(長女)を裏切り、真夜中に首を絞めて殺害。
遺体を中庭にあった深さ十メートルを超える古井戸へ投げ込み、上から大量の土と石を叩き込んで埋め立てたのだという。
事件は警察の買収によって隠蔽され、時効を迎えた。
そして現代になり、安値で買い叩いた不動産開発業者が井戸のお祓いすらまともにせず、薄いコンクリートの基礎板を一枚敷いただけで、その真上にこの新築住宅を建てて売り出したのだった。
健一たちの新居のリビング中央は、まさに三十年前に長女が殺され埋められた「古井戸の真上」だった。
「そんな……そんな話、聞いてないぞ……!」
健一は青ざめて自宅へ引き返した。
すぐに引越しを手配しなければならない。
家に戻ると、外は激しい雷雨が降り始めていた。
真昼だというのに夜のように暗く、大粒の雨が屋根と窓を激しく叩いている。
リビングに入ると、そこには異様な光景が広がっていた。
新品のはずのフローリングの中央が、大量の水を含んで膨れ上がり、ギシ……ギシ……と音を立てて波打っていた。
床板の隙間から、ドブと腐臭の混ざった真っ黒い泥水がジワジワと染み出し、部屋全体を濡らしている。
そしてその泥水が広がる床の上に、葵がポツンと座り、何かで遊んでいた。
葵の手元で転がっていたのは、泥に塗れた古いガラスのビー玉だった。
「あおい! そんなところに居ちゃダメだ! 立ちなさい!」
健一が叫んで駆け寄ろうとした時、妻の恵美が青ざめた顔でリビングの奥からフラフラと歩いてきた。
「健一さん……聞こえるの……下から……お姉さんの声が……」
「えみ、何を言ってるんだ! 早く荷物をまとめて逃げるぞ!」
「違うの……お姉さんの声が……私たちの秘密を全部知ってるの……」
恵美の瞳は焦点を結んでおらず、虚ろだった。
ゴボゴボゴボ……!
床下から、凄まじい水音が響き渡った。
それと同時に、壁や天井から聞こえるかのような、強烈な耳鳴りと共に、くぐもった女の声が直接脳内に響き始めた。
『……健一さん……頭金のために会社の金を横領したでしょう……』
『……恵美さん……旦那に内緒で昔の男と連絡を取っているでしょう……』
『……汚い二人……欲望のために嘘を重ねる身内……あの時の二人と同じ……』
「やめろ……! やめてくれええっ!」
健一は頭を抱えて叫んだ。
自分たちが互いに隠していた暗部、後ろめたい罪が、井戸の底の怨霊によって容赦なく暴かれ、暴露されていく。
バキバキバキッ!
リビングの中央のフローリングが大きく跳ね上がり、爆発するように砕け散った。
木片とコンクリートの破片が飛び散り、床に直径一メートルほどの漆黒の「大穴」が口を開けた。
埋め殺された古井戸の開口部だった。
深遠な底から、湿った泥と冷気が爆発するように吹き上がってきた。
穴の暗闇の中から、ずるり……と何かが這い上がってきた。
それは、泥と血に塗れ、首が異常な角度に折れ曲がった、濡れた着物姿の女の影だった。
女の顔には皮膚がなく、眼球の抜け落ちた黒い穴から、無数の長い髪の毛が滝のように溢れ出ている。
長女の怨霊は、痩せこけた二本の腕を伸ばし、泥の上に座り込んでいた葵の手を優しく握りしめた。
『……あおいちゃん……一緒に行こうね……可愛い私の妹……』
「うん……おねえちゃん」
葵は恍惚とした表情で、自ら穴の縁へと身を乗り出した。
「あおいっ! あおいーっ!」
健一と恵美は悲鳴を上げ、泥滑る床を這って葵の手を掴もうとした。
だが、井戸の底から伸びた無数の黒い髪の毛が、健一と恵美の足首や首筋に強く巻き付いた。
氷のように冷たい髪の毛が、二人の皮膚に深く食い込み、強烈な力で穴の中へと引きずり込んでいく。
『……身内同士で争い……嘘を吐く者は……全員底へいらっしゃい……』
「許してくれ! 助けてくれえええっ!」
健一の絶叫も空しく、三人の体は真っ黒な古井戸の底へと引きずり降ろされた。
ドサッ……ゴボゴボ……。
最後に泥水が跳ねる音が響き、リビングに恐ろしい静寂が戻った。
壊れた床の穴から、泥に塗れた古いガラスのビー玉が、カラン……コロン……と寂しげな音を立てて転がり出た。
数ヶ月後。
四谷の角地に建つ新築住宅の前に、若い夫婦と不動産屋の営業マンが立っていた。
「へえ、築浅でリフォーム済み、しかもこの値段なんて、すごくお買い得ですね!」
「ええ、前の住人の方が急な海外転勤で手放されましてね。非常に状態の良い綺麗な物件ですよ」
営業マンは愛想笑いを浮かべ、リビングのドアを開けた。
ピカピカに張り替えられたフローリングの中央で、若い妻がふと立ち止まった。
「……あら? あなた、何か聞こえない?」
「え? 何も聞こえないけど」
「気のせいかしら。床の下から……ゴボゴボって、水が湧くような音が聞こえた気がして」
妻が足元を見つめると、綺麗なフローリングの上に、泥のついた古いビー玉がポツンと一つ、転がっていた。




