第15話 御霊祭の夜にだけ現れる家
闇の奥から、遠く低く響くお囃子の音が漂っていた。
ドンドン、カチカチ、ピーヒャラ……。
太鼓の腹に響く重い振動と、篠笛の甲高く掠れた音色が、真夏の蒸し広がる湿った夜気に混ざり合い、ぬるい風に乗って入り組んだ路地の隅々にまでまとわりついてくる。
古びた街灯の下、等間隔に吊り下げられた真っ赤な紙提灯が、湿った夜風にゆらゆらと揺れ、黒ずんだアスファルトの路面の上に血のような赤黒い光と影を落としていた。
沢村ユリは、足元をすくわれるような強い疲労感を抱えながら、四谷の旧市街に広がる迷宮のような路地裏をあてもなく歩いていた。
東京の都心にある大手広告代理店での熾烈な競争、信頼していた上司からの裏切り、手塩にかねて育てた企画の横取り、そして追い出されるように休職へと追い込まれた居場所の喪失。
心身ともに擦り減り、自傷的な孤立感に苛まれたユリは、現実から逃げるように、幼少期を過ごした四谷の実家へと数年ぶりに帰省していた。
「逃げ帰ってきたのに……なんか休まらない」
ユリは自嘲気味に低く呟き、実家のタンスの奥に眠っていた薄桃色の古い綿浴衣の裾を気にしながら、重い溜息を吐き出した。
今夜は、この四谷の旧市街地区に古くから密かに伝わる「御霊祭」の夜だった。
御霊祭とは、かつてこの土地で非業の死を遂げた怨念や無念の魂――いわゆる「御霊」を慰め、鎮めるために行われる一年に一度の特別な夏祭りだ。
表通りは色とりどりの屋台の灯りと、酒を飲んで大声を上げる大勢の参拝客の熱気で賑わっていたが、一本裏の暗い路地に入ると、まるで世界から切り離されたかのような恐ろしいほどの静寂が広がっていた。
赤い提灯の湿った光が、古い木造家屋の黒ずんだ板壁をぼんやりと照らし出している。
ユリは、幼い頃に探検気分で兄や友人たちと駆け回った古い記憶を辿りながら、路地の曲がり角を曲がった。
その曲がり角の先は、本来なら何もない「空き地」のはずだった。
古い木造アパートが取り壊された後、雑草が男の膝の高さまで茫々と生い茂り、錆びた鉄パイプの簡易的な囲いが立てられているだけの、誰も立ち入らない角地。
しかし――ユリの足が、ピタリと固まった。
そこに、家があった。
空き地だったはずの場所に、巨大で重厚な木造の和風の大屋敷が、威容を誇るように佇んでいた。
築数十年、いや百年以上は優に経っているであろう黒漆塗りの立派な建築。
重厚な黒瓦の屋根が夜空の星を遮るように聳え立ち、一階と二階の長い庇の下には、幾つもの真っ赤な紙提灯がずらりと吊り下げられ、揺らゆらと妖しい赤黒い光を撒き散らしていた。
「え……? 何これ……こんな家、あったっけ……?」
ユリは両目を強くこすり、思わず立ち尽くした。
二年前、祖母の三回忌で帰省した時には、間違いなくここはただの雑草だらけの空き地だった。
家が建つような建設工事の気配すら無かった。
だが、眼前にある屋敷は、新築の気配など微塵もない。
長年の激しい風雨に晒され、黒く変色した極太の柱と、青苔がびっしりとこびりついた高い石垣。
まるで最初からそこに百年間変わらず存在し続けていたかのような圧倒的な説得力で佇んでいた。
黒漆塗りの格子の門扉は固く閉ざされていた。
しかし、二階の開け放たれた障子越しに、薄黄色のあたたかな光が漏れ出していた。
お祭りの熱気と深夜の静寂に当てられたのだろうか。
ユリは吸い寄せられるように、フラフラと屋敷の門の前へと一歩踏み出した。
バッグからスマートフォンを取り出し、カメラアプリを起動する。
闇の中に浮かび上がる赤い提灯と古風な大屋敷。
ノスタルジックで幻想的なその光景を、写真に収めておきたくなった。
画面越しに屋敷全体をフレームに収め、画面の中央にある立派な木造の門構えをタップしてピントを合わせた。
オートフォーカスの緑の枠が合焦した瞬間、ユリの全身の毛穴がキュッと収縮した。
スマホの液晶画面越しに、門扉のすぐ内側、暗い前庭の木の陰に「誰か」が立っているのが見えた。
肉眼では暗闇に覆われて何も見えない。
しかし、高解像度のスマホ画面の中にはハッキリと写っていた。
白装束のようなダボついた白い和服を纏った、背の高い男の影。
男の顔には、青白い「狐のお面」が装着されていた。
つり上がった細い目の穴と、三日月のように赤く吊り上がった口元。
表情の全く読めない、不気味で艶やかな狐面だった。
狐面の男は、門の隙間からじっとスマホのレンズを見つめていた。
そして――静かに白い袖から手を取り出すと、ユリに向かって、くいくいと手招きをした。
「ひっ……!」
ユリは短い悲鳴を上げ、スマホを両手で握りしめたまま後ずさった。
肉眼で門の奥の暗闇を見つめ直すが。
そこには深い漆黒が広がっているだけで、人の気配すらない。
気のせいか。
カメラの顔認識機能が光と影の陰影を誤認しただけか。
そう自分に必死に言い聞かせ、逃げ出そうと踵を返そうとした。
その時。
『……ユリちゃん……帰ってきたのかい……』
耳元で、カサカサに乾燥した男の低い声が直接囁いた。
鼓膜を通さず、脳の奥底に直接響くような、冷たい声だった。
同時に、氷を直接押し当てられたかのような強烈な冷気が首筋を襲った。
遠くから聞こえていたお囃子の音が、急におぞましく変化した。
ピーヒャラという篠笛の軽快な音色が、まるで人間が喉を切り裂かれて泣き叫ぶような「痛烈な悲鳴」へ。
ドンドンという太鼓の重い打音が、地面の下から何十人もの人間が素足で土を叩きつける「不気味な地踏みの足音」へと変わった。
逃げなければ。
直感が警鐘を鳴らしていたが、金縛りに遭ったように両足が動かない。
ギィィ……と古い重い木が擦れ合う嫌な音が響いた。
屋敷の黒漆塗りの格子門が、誰も触れていないのにゆっくりと内側へ開いていった。
門の向こう、叩きノミの残る石畳の奥にある大玄関から、薄黄色の光がドッと溢れ出していた。
一階と二階の障子に、無数の黒い影が映し出されていた。
部屋の中で、大勢の人間が円陣を組み、狂ったように手足を振って踊っているかのように揺れている。
だが、その影の形は明らかに人間のそれではなかった。
頭から角が生えた般若の影、面をつけた狐の影、そして――首が不自然なくの字に折れ曲がり、苦しみに身を捩る女の影。
ユリの耳に、お囃子の狂った音色に混ざって、悲惨な怒号とすり泣く女の声が直接流れ込んできた。
『……お前たちのせいで……私が何をしたというの……返して……私の人生を返して……』
『……村のために死ね……御霊になれ……お前が人柱になれば……この土地は永遠に栄える……』
『……許さない……代々……この土地の血を引き継ぐ者を……一人残らず許さない……』
脳裏に、この四谷の土地に隠された凄惨な歴史の光景が、激しい頭痛と共にフラッシュバックした。
昭和二十年代後半の、大寒波と流行病が襲った年。
この地域の一族の長たちが、村の崩壊を防ぎ自らの利権と財産を守るため、外の土地から嫁いできた身寄りのない若い女性に「疫病を持ち込んだ罪」を被せた。
そして、暴行の末、この屋敷の離れの床下に生きたまま「人柱(御霊)」として埋め殺したのだった。
女性は暗い床下で爪を剥がしながら何日も叫び続けた。
作造たちはその悲鳴を消すために、上でお囃子の太鼓と笛を激しく打ち鳴らし続けたのだ。
その凄惨な罪を隠蔽し、狂い狂った怨霊の祟りを恐れた村人たちが始めたのが、表向きは華やかな「御霊祭」だった。
ユリが「温かく誇りある我が故郷」と信じて疑わなかったこの土地は、一人の女性の哀れな血と命を犠牲にして築かれた、狂気とエゴの土地だった。
そして、ユリが子供の頃から敬愛していた亡き祖父こそが、その人柱の惨劇を主導した中心人物の一人だった。
「そんな……おじいちゃんが……そんな恐ろしいことを……!?」
絶望と恐怖で、ユリの膝がガクガクと激しく震えた。
都会の辛さから逃げ帰ってきたはずの故郷。
温かい思い出が詰まっていたはずの故郷。
そここそが、最も醜く、最も恐ろしい血の呪いに満ちた場所だった。
屋敷の玄関から、白装束を着て白い狐面をつけた男がゆっくりと廊下へ出てきた。
その男が、痩せこけた両手で自分の狐面をゆっくりと外した。
面の下から現れたのは、黒い血の涙を両目から流し、恐怖と罪悪感に顔を歪めた、ユリの亡き祖父だった。
『……ユリ……申し訳ない……許してくれ……』
祖父の口が、乾いた木のようにカチカチと音を立てて動いた。
『……御霊の怒りは……五十年に一度……作造の血を引き継ぐ若い女の命を要求する……』
『……今夜が……その五十年の約束の節目なのだ……』
「嫌……嫌ああっ! 助けて! おじいちゃん助けてっ!」
ユリは狂ったように叫び、来た道を振り返って全力で走り出そうとした。
だが、振り返った先の狭い路地は、いつの間にか濃密な赤黒い霧と血の匂いで塞がれていた。
路地の闇の中から、狐のお面や般若のお面、ひょっとこのお面をつけた無数の着物姿の人影が、ゾロゾロと這い出てきていた。
かつて村の惨劇に関わった一族の死者たち、怨霊の奴隷となった哀れな死者たちだ。
無数の冷たく乾いた手が、ユリの浴衣の袖を、髪を、首筋を、ガチガチと骨の音を立てて掴みかかってきた。
「離して! やめて! 私関係ない!」
無数の冷たい手が、暴れて抗うユリの華奢な体を軽々と持ち上げ、ゆっくりとあの黒い大屋敷の門の中へと引きずり込んだ。
お囃子の音が、頭が割れんばかりの最高潮に狂い咲いた。
笛の悲鳴と太鼓の地響きが、ユリの意識をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。
屋敷の重い黒漆の格子門が、バシャーン!と凄まじい地響きを立てて固く閉ざされた。
軒下の赤い提灯が一斉にパチンと消え、屋敷は深い漆黒の闇へと沈んでいった。
翌朝。
抜けるような快晴の真夏の青空の下、四谷の旧市街は昨夜の祭りの余韻を残していた。
ユリの母親が、顔を蒼白にして路地裏を探し回っていた。
「ユリー! ユリ、どこに行ったのー!?」
昨夜、「ちょっと祭りを見てくる」と言って出かけたきり戻らなかった。
母親は、雑草が茫々と生い茂る古い空き地の前で足を止めた。
錆びた鉄パイプの囲いの脇の赤土の上に、ポツンと何かが落ちていた。
ユリのスマートフォンだった。
母親は震える手でスマホを拾い上げた。
画面は割れておらず、カメラに最後の写真が表示されていた。
それは、漆黒の夜の中に浮かび上がる、豪華で巨大な古びた和風大屋敷の写真だった。
屋敷の二階、明るい障子の中に、一人の影が映し出されていた。
薄桃色の浴衣を着て、頭を垂れ、静かに正座している女性の影。
母親がその写真を見つめていると、背景の雑草の奥から、遠く低く、聞こえるはずのないお囃子の音が、かすかに耳元で響いた気がした。




